31.
ことこ がトトの家に行く時に、あの森の中で会ったオスカと云う男の子が ことこを呼び止めた。
呼ばれて立ち止まったけれど、オスカが呼んだのは「スピカ」と云う名前の方だ。ことこ は少し悲しかった。
ことこ の両側で並んで歩いていた尼僧二人は、訝しげにオスカを見た。
「どうしたの、オスカ。……スピカは今からスペルカ様のところへ行くのよ」
ココセさんと初老の尼僧が ことこ とオスカを隔てるように ことこ の前へ出た。
どうしてかは分からないけれど、オスカと ことこ を会わせたくないようだ。村の人たちは先日オスカと ことこ が森の中で出会っていたことを多分知らない。
「ちょっと、スピカと話ししたいんだ。どうせ『友達』になる予定なんだからいいだろ?」
「……あなたと、スピカが友達に? 誰が決めたの?」
「できるだけ、物事は変わってない方がいいって、司祭様が言ってたよ」
オスカが言うと、二人の尼僧は黙り込みお互い目を合わせた。何か迷っている様な雰囲気だ。ことこ は二人の横から顔を出してオスカを見た。意外と近くにいたオスカと目が合って少し驚いたが、オスカが存外穏やかそうな顔をして ことこ を見たので目を離さなかった。
「なんにしろ、今は駄目よ。スペルカ様がお待ちだわ」
「少し位待たせりゃいいだろ。スピカにばっかり来させて、会いたいなら自分から会いにくればいいのに」
「滅多なこと言うんじゃないわよ、オスカ。……今まで通りじゃないと駄目なの。少なくとも今は」
ココセさんとオスカがなにやら二人で話しをしているけれど、早口で殆ど ことこ には聞き取れなかった。分かったのは今は、とか、駄目、とかそんな断片的な単語だけだ。
ことこ が不思議そうにその様子を見ていると、初老の尼僧が ことこ を見下ろしてきた。殆ど無表情で厳しそうな顔をしているから、ことこはこのおばあさんが苦手だ。
「この男の子が、あなたと喋りたいと言っているのだけど」
そんなことを抑揚のない声で言われて、聞き取れはしたけれど何を言われているのか分からない ことこ はきょとんとその尼僧を見上げた。近くでよく見ると、恐そうだと思っていた顔は、目が少し垂れ下がっていて優しげだ。
hもしかして、訊いてくれてるのかな。
ことこ は意外に感じながらもそう思った。此処で ことこ に ことこ の意思を聞いてくる人なんてピノおばあさんくらいだ。
「……はなし、だいじょうぶ?」
尼僧は ことこ が言いたかったことが伝わったようで、厳しげな表情のまま深く頷いた。ココセさんは少し驚いた顔をしたが、その初老の尼僧に反論するつもりもないらしい。オスカの方を見ると「少しだけよ……おかしなことはけして言ってはいけないわよ」と言った。
言ってはいけない。ココセさんの言葉はオスカに向けられたものだけれど、何を言ってはいけないのか、ことこ は微かに首を傾げた。ここでは、たくさんのことを『言ってはいけない』と言われる。ことこ の名前もその『言ってはいけない』ことのひとつだ。
トトの前では特に、絶対に。
ことこ にはまだ完璧に喋ることができないが、それでも制限された言葉や話しは多い。慣れない言葉に、制限された言動。そんなことを考えると ことこ はますます憂鬱になった。
「コトコ」
オスカは ことこ の直ぐ近くまで来ると、小声で言った。
また名前で呼んでくれたことをほんの少しだけ嬉しく思いながら、ことこは尼僧ふたりを見た。数歩先でココセさんは少し不安げな様子で ことこ とオスカの方を見ている。もうひとりの尼僧はやっぱり余り表情のない顔でふたりを眺めていた。
居心地悪く感じた ことこ は尼僧たちに背を向けると、オスカにつられて小声で言った。
「はなし、なあに?」
「うん。あのさ、お前、どこまで知ってるの?」
「しってる? なに?」
「……スペルカさまのこととか」
「すっぽるか? トト?」
「スペルカさま、な。そう……なにか知ってるか?」
ことこ は答えるかわりに首をぶんぶん横へ振った。トトのことをおばあちゃんに訊いても、スペルカさまだよ、と言うだけだ。あとはもっと ことこ が言葉をちゃんと話すことができるようになったら、話してくれるつもりらしい。
ことこ はみんなが言う『スペルカさま』はトトのもうひとつの名前か何かだと思っていた。それか、もしかしたら『トト』があだ名のようなものかもしれない。
「……じゃあ、スピカのことは?」
スピカ。
それは、ことこのここでの名前だ。
けれど、なんとなく ことこ は知っていた。それは ことこ につけられた新しい、まっさら名前じゃなくて、もっと此処の人たちが慣れ親しんだ名前。
トトが、心が張り裂けそうな悲痛な声で呼んだ名前。その意味。
きっと、ことこ が此処に来る前にその子は此処に、ことこ の今の位置にいたのかもしれない。
だけど、もしそうだったのなら、ことこがスピカと呼ばれるのはあんまりだ。ことこ は、ことこ でしかないのに。そして、それはきっとその子も。
ことこ が呆然と立っていると、少し心配そうな顔のオスカが覗き込んできた。
「知ってる、のか?」
首を弱弱しく横に振った ことこ を見て、オスカは曖昧な顔をした。
「……なあ、お前家は? もし自分の家があるのなら、村のやつらなんかほっといて帰れ」
帰れなんて言われても、ことこ にはその帰る場所がどこにあるのか分からない。なんとか言えるようになった拙い言葉で此処の人たちに言っても、『言ってはいけない』と言うだけだった。
『帰りたい……』
ことこ が呟いた言葉にオスカは微かに首を傾げたが、次の瞬間涙を流しだした ことこ を見てぎょっとした。そのことに気付いたココセさんの慌てる様子が目の端に映ったけれど、ことこの涙は止まらない。
オスカとココセさんが何かを言っても、簡単な言葉でさえ集中しなければ ことこ には聞きとれない。つま先から頭のてっぺんまで、どろりとしたものが駆け巡って落ち着かなくなる。ぐらぐらと頭が揺れているような気がして、気持ち悪い。
「スピカ?」
言われて、ココセさんに肩をつかまれると ことこ はそれを振り払った。
どろどろと体の中を流れるものにまかせて、違う、と叫びたい気持ちになったけれど、声は出なかった。ことこ がもしスピカであることを否定し続ければ、目の前にいる優しい人たちはどんな風に変わるのだろうか。此処の人たちがいるのは、スピカだ。もしかしたら村を追い出されてしまうかもしれない。何度か衝動的に村から逃げ出したことがあったが、本当はこの村を抜け出してもまだ小さな子供である ことこ が、ひとりで家にたどり着けるとも思っていないし、見知らぬこの土地で村から追い出されたらどうしようもないことも分かっている。
けれどそれと同時に、少しの期待も残っていた。夕日に染まる景色が余りにも鮮明に残っていたから。もしかしたら明日になったら、明後日になったら、ことこ は ことこ の家にいるかもしれない。村から駆け出て、森をずっとずっと真っ直ぐ走っていたら気付いたら、無機質に佇む電柱や空に張り巡らされている電線、学校帰りに白線渡りして歩いたアスファルトの道路が見えるかもしれない。そうしたら、此処での不思議な出来事をママとパパと妹に話すのだ。
けれど、そう思ってもう何日過ぎたのだろう。
ことこ は此処の言葉を少しは理解できるようになったし、生活の習慣にも少しだけ慣れてきていた。
その内、此処の生活にも完璧に慣れてしまって、ことこ はスピカになってしまうのかもしれない。
「スピカ。今日はなんだか元気がないね」
言われて、ことこは顔を上げた。小さなテーブルを挟んだ向かい側で、少し心配そうな顔が見えたので首を横に振ると、トトは心配そうな感じを残したまま優しい顔で微笑んだ。
あれからふたりの尼僧は ことこ をトトに会わせるのを迷っているようだったけれど、ことこ からすすんでトトに会いに来た。どうしてかは ことこ 自身分からないけれど、なんとなくトトに会いたい、と思ったから。
スピカ、だって。
その言葉に苛立ちを感じたけれど、そんなトトの顔を見るとその苛立ちもどこか遠くのものになってしまい、変わりに少し悲しくなった。村の人たちに言われるよりも、トトに『スピカ』と呼ばれるのはいつもなんだか寂しくもある。それはトトが優しそうに、余りにも綺麗に笑ってその名前を呼ぶからかもしれない。
「トト」
スピカがなんとなく呼んでみると、トトは少し嬉しそうな顔をして、なに、と言う。
「どうして、そと、で、あそばない?」
訊いた後になって、考える。これは『訊いてはいけない』ことだったっけ。こんな普通の質問、多分違う。本当は、ことこ のことをスピカと呼ぶこと事態普通ではないのだけれど。
窓辺りでコツッコツッと小さな音が聞こえて目を向けて見ると、小鳥が二羽窓枠で興味深そうにトトの方を見ていた。
トトは、ほんの少しだけ寂しそうな顔をする。
「遊べないんだ。スピカ。……折角病気は治ったけど、外では遊べない」
どうして、と訊く代わりに ことこ は首を傾げたが、トトは何も言わずに窓の外に目を向けた。
「これだったら、病気の時の方がまだましだったかもしれない。感覚は凄く澄んでいるけど、その分人の感情も視線も分かり過ぎる」
トトが言った『びょうき』の意味が分からなくて、ことこ はココセさんから教えてもらった単語を頭の中で広げた。
歩く。走る。飛ぶ。水。木。森。お菓子。湖……。そういえば、トトの不思議な瞳の色は森の中で見た湖の色に似ている。
『びょうき』の意味はやっぱり思い出せない。もしかしたらまだ習っていないのかもしれない。
ことこ がじっと黙ってトトを見ていると、ことこ の顔を見てトトはまた穏やかに微笑んだ。外から差し込んでくる陽光で、金色の綺麗な髪は艶やかに光って、瞳の色はすっと透き通っている。その顔があんまり綺麗だったので、ことこ は思わず見惚れてしまう。
「スピカは、前から変わらない」
そう言いながら、トトは腕を伸ばして ことこ の顔の横にある髪を撫でた。
前から。前から。
そんなこと、ことこ は知らない。ことこ が顔を少し歪めたから、トトは少し不思議そうな顔をした。少しして何かに気付いたようにトトも顔を小さく歪めた。今度は、ことこ が不思議そうな顔をしてどうしたの、と尋ねる代わりに小さく首を傾げる。
「――ごめんね」
そう言われた意味が分からなくて、ことこ は真意をさぐるようにじっとトトを見たけれど、どうして、ごめんね、と呟いたのか訊く気にはなれなかった。苦しそうに、本当に心の底から、ごめんね、と呟いているのが分かる。
そんなに悲しそうにしないで、と言いたかったけれど、どうやってそれを言ったらいいのか分からずに口を噤んだ。
外で、子供の楽しそうな高い声が聞こえる。窓際にいた鳥たちが羽ばたく音が聞こえる。
どこにでもある平坦で穏やかな空気なのに、トトの周りだけが不自然だ。みんなトトの周りにはたくさんの人がいるのに、トトは一人ぼっちに見える。それは ことこ も同じだった。どこまでも不自然。
少し前までは ことこ の周りにも穏やかな空気が流れていて、ことこ もそれに自然に溶け込んでいた筈なのに、いつの間にかその緩やかな波から外れてしまった。
殆ど無意識にトトの服の肩下を掴むと、トトと目が合って ことこ は困ったように笑った。
トトも、笑う。本当に優しい顔で。
だけどそれをどうしようもなく哀しく感じて、ことこ は目を逸らせた。
トトが『かみさま』ということを ことこ が知ったのは、ことこ がまだ完璧とはいえなくても、普通に会話できる程度に村人たちが使う言葉を理解できてからだった。
オスカが ことこ にこっそりそれを教えてくれた。『かみさま』の単語の意味を理解できなかった ことこ は、オスカやピノおばあちゃんから聞いた話しの内容で『かみさま』はきっと神様のことだと思った。神様なんて嘘みたいな話し、前の ことこ だったらきっと信じられなかったかもしれないが、嘘みたいに綺麗な景色に、御伽話に出てきそうな人々に囲まれているとあっさり信じてしまえる。それに、トトは ことこ が見たことのない位綺麗な男の子だったから、トトだったらそれはありえるかもしれない、と思った。けれど見た目の美しさ以外は、ことこにはトトは少し落ち着いていてうんと優しい、普通の子に見えた。
それなのに、村の人たちはトトに対してどこかおかしい。どこか恐れているような感じなのに、だけど近づきたい、姿を見たいと思っている。
一度そのことをオスカに聞くと、オスカは苦いものを食べた時みたいな顔で「みんな、スペルカさまの姿を見ると涙を浮かべて、声を聞くと夢をみているみたいな心地で頭の中で響かせる。 ……スペルカさまは特別な存在だってことだよ」と言った。
「なにそれ。意味、分からないよ」
ことこ は流暢にその言葉を口にのせた。たまに言いにくい言葉の時や、どうしても思い出せない単語があると詰まってしまうが、もう殆ど普通に喋れる。慌てたりするとうっかり元々 ことこ が使っていた言葉とごちゃ混ぜで喋ってしまうこともあるけれど。
今も尼僧のココセさんに、オスカと一緒に勉強や言葉を教えて貰っている最中だ。元々は別々に教えてもらっていたが、ことこ がココセさんと初老の尼僧に連れられてトトの家に行く時にオスカに話しかけられて、暫くしてからオスカと一緒に勉強することになった。
「自然と、湧くんだよそういう気持ちが。スペルカさまに対して、みんな……お前は違うみたいだけど」
それって、どんな気持ち。そう聞こうとして ことこ が口を開くとココセさんに頭を叩かれた。隣でも同じ音が聞こえたから、オスカも叩かれたのだろう。オスカに対しては随分と力が強かったのか、痛そうに頭を両手で押さえて項垂れている。
「ふたり共、お勉強する気がないのなら、もうやめる?」
そう言われてオスカが嬉しそうににんまり笑ったものだから、ココセさんはオスカの耳たぶをつねった。
「お馬鹿はモテないわよ、オスカ」
「勉強するくらいなら、モテない方がましだよ!」
「――そんなんだからあんたはいつまでたってもお馬鹿なんだわ」
馬鹿にしたような口調にオスカはむっとした顔をして、寝台の方を見た。スピカも同じ方を見る。
今日はオスカの家での勉強だから、オスカのお姉ちゃんのヨルカが見物すると言ってオスカの寝台の上で寝転がってずっと本を読んだり、たまに茶々を淹れてきたりしている。ヨルカは凄く美人だが、どこか迫力があってオスカも反抗的な態度をとっても実際にそこまで反抗はしない。
「それに比べて、スピカはえらいえらい」
そう言って寝台から下りたヨルカは ことこ の頭をよしよしと撫でた。
オスカが益々むっとした顔になったので、ヨルカは ことこ の頭の上でくすくすと笑った。やきもちやいてるの。と前に訊いて酷く怒られたことがあるから、訊かない。
ヨルカは ことこ の頭から手を離すと、ぽんぽんっと優しくオスカの頭を叩いた。オスカは不貞腐れたままのふりをして、顔を背けた。
その光景に、ことこは胸のぽかんと穴が開いた気持ちに襲われる。オスカとヨルカは姉弟で、オスカには家族がいる。それが当たり前。その当たり前が、ことこ には凄く羨ましい。こんな時はいつも世界中でたった一人ぼっちになってしまったような気分になる。
ふとココセさんに背中を撫でられて顔を上げると、ココセさんは ことこ を見ていなかったが ことこ の穴はそれでも少し狭くなった。
今度はヨルカとオスカに頭を撫で回されて、目をぎゅっと瞑った。
みんな、温かい人たち。最近になってようやくそんな風に感じることができるようになった。前は、この村も、村の人たちも、スピカという名前も、綺麗な景色さえも凄く嫌で仕方なかったけれど、少しずつ好きになっていった。スピカと呼ばれることにも余り違和感を感じることはなくなった。それでも家のことや家族のことを考えると、どうしようもない不安と寂しさに襲われるし、帰りたいとも思うけれど、それも以前よりは少なくなった。それがいいことなのか ことこ には分からない。ただ、ことこ はもう ことこではないのかもしれない。
半分スピカで、半分ことこ。
半分とまではいかないかもしれないけれど、今の ことこ はスピカでもある。
最近になってようやく教えてもらえたスピカの秘密。トトが実は元々は体は弱いけれど普通の子供だったこと。本当だったら今も此処にいた筈の『スピカ』が、ある日突然遠くへいってしまったこと。
ことこが、スピカの身代わりであること。
最初は全部嫌だったけれど、慣れてしまった。
トトが神様なら、もしかしたらトトがスピカにそっくりな ことこ を此処へ呼び寄せてしまったのかもしれない。測だけれど、ことこ はきっとそうだと思っていた。あの時、帰り道の公園でトトの悲痛な『スピカ』と呼ぶ声に応えてしまったのは、他ならない ことこ だ。
トトはずるい。家族も、自分の居場所もなくしていないのに、ことこ ひとりを呼んだ。本当はスピカを呼んでいたのだけれど、呼ばれて、トトの傍にいるのは ことこ だ。そのことさえトトは知らない。 ことこ は、スピカとしてトトの傍に。
ことこ から全てを奪ったトトをこんなにも憎いと思うのに、だけど多分、それと同じくらい ことこ はトトを好きになりかけていた。もっと一緒にいたいと思ってしまう。それはオスカや、おばあちゃんや、村の人たちに対してもそうだった。
そうやって ことこ は、少しずつ少しずつ、嘘に塗れた、けれど穏やかで優しい村の空気に溶けこんでいった。




