30.
「スピカ、起きなさい」
最初、誰のことを言っているのか分からなくて、スピカは身じろぎだけして起きようとはしなかった。もう一度同じ風に言われて、ようやくスピカは目を開けるときょとんとした。
今だに見慣れない天井はやはり現実味がないし、寝台の横で立っている老人はおとぎ噺から出てきたような格好をしている。
なんとか頭を覚醒させながら寝台の上で体を起こして、優しそうな皺が刻まれた顔を見た。
名前、なんだったっけ。
寝惚けた頭の中でまだ聞きなれない単語と名前を並べる。
「……おはう、ピノ、おば、あちゃん」
「おはう、じゃなくて、おはよう、だよ。スピカ」
おばあさんはスピカにも解る様にゆっくりと言いながら、スピカの頭を優しく撫でた。スピカは気持ちよさそうに目を閉じて、また眠りそうになったところでおばあさんは手を離した。
少し残念に思いながら無理やり目をこじ開けるようにして開くと、のろのろと寝台から体を下ろす。裸足のままおばあちゃんに付いて行きそうになって靴を履くことを思い出し、寝台の脇に置いてあった部屋履きの、柔らかな革で出来た平べったい靴に足を突っ込んだ。
部屋を出ると右隣と斜め前に扉があって、目の前に狭い木の階段がある。この家は全体的に小さい造りになっていた。まだまだ小さいスピカからしてみれば広い位だけれど、以前住んでいた家と比べると随分と狭くこじんまりとしている。多分、あのおばあさんが一人で住んでいたからだ、とスピカは勝手に思っていた。本当にひとりで住んでいたかはスピカには分からないけれど、少し前からここで一緒に暮らしているが、毎日誰かが訪ねてきても、この家に帰ってくるのはおばあさんとスピカだけだった。
スピカは前をゆっくりと歩くおばあさんの少し丸まった背中を見ながら、このおばあさんはちょっと好き、と思った。ほんのちょっとだけど、柔らかな物腰にふんわりとした喋り方は優しくて、まだ落ち着かないスピカもおばあさんとふたりの時は少しは安心できた。村の人たちはなんだか恐い。寄ってたかってスピカに早口で喋りかけてきたかと思えば、今度はスピカをほっぽって村人たちだけで話し始める。かと思えば、急にスピカを高く抱き上げたり頭を撫でたりもする。
「きょお、トト、のとこお、行く?」
「ところ、だね。そうだよ。昼過ぎに尼僧がふたり迎えにくるから、スペルカ様に会いに行くんだよ」
「にそ、?」
聞きなれない単語にスピカは首を傾げながらも、おばあさんの言っていることの意味は大体理解できた。今日も女の人たちがスピカを迎えにやってくるらしい。あの、綺麗な男の子のところに行く。金色の綺麗な髪と、青と水色と灰色を混ぜたみたいな不思議な目をした男の子。
会いに行って、なにをするでもなく男の子の部屋でただ一緒にいる。たまに男の子が喋って、スピカはそれを聞いて返せるようなら言葉を返す。どうしてそんなことをするのかまだスピカには分からないけれど、その男の子に会うことは嫌じゃない。
「どして、トト、あうの?」
スピカがそう訊くと、おばあちゃんは優しい笑顔の中に少し寂しいような表情を見せた。
「スピカがスペルカ様の友達だったからだよ」
速めの口調で言われて聞き取れなかったスピカは、また今度訊こう、と思った。
スピカを迎えに来たのはスピカに勉強を教えているココセという若い尼僧と、目の下や口元に薄っすらと皺のある初老の尼僧だった。二人共、スピカをトトの家に送り届ける間は終始無言で、殆ど無表情に近い。スピカはそんなふたりに両脇を固められて、いつも連行されているような変な気分でトトの家までの道のりを歩いた。道も覚えたし、いくらなんでももう一人で行けるのに二人が迎えにくるのは、やはりスピカが逃げないように見張るつもりなのだろう。
木々に囲まれた、おばあさんの家の近くにある小道を道なりに行くと、白と青で彩られた家々や小さな店が密集した村の中心に出る。そこにトトの家はあった。おばあちゃんの家の何倍もある大きさの家に入ると、いつも最初に出迎えてくれるのはトトのおかあさんのシュトゥだ。お母さんというよりはお姉さんという感じで可愛らしい女の人だった。トトと同じ綺麗な金色の髪に優しそうな青い目をしていたけれど、スピカがやってくるといつも優しく笑いながらもその表情には困惑が混じっていた。
トトの広い家には、スピカをいつも迎えにやってくる女の人二人と同じ格好をした人たちが数人いた。みんな無口で無表情だけど、スピカを見ると少しだけ顔を歪めた。スピカはそれが少しだけ嫌だと感じた。好きで来ているわけじゃないのに、なんだか歓迎されていないみたいだ。
シュトゥに案内されて階段を上がると、藍色に塗られた扉があってシュトゥはその扉を叩く。
「どうぞ」
中から声が聞こえてきて、シュトゥは静かに扉を開けると、スピカだけがその中へ入れられた。
トトは大体いつも、正面に見える寝台か椅子に座っていた。スピカを見ると立ち上がって、嬉しそうに笑う。その嬉しそうな顔が、スピカも少しだけ嬉しい。ここの人たちはスピカを見るとなんだか変な顔をするけれど、トトはスピカを見て本当に嬉しそうな顔をする。
初めて会った時に抱きしめられた時はびっくりしたけれど、ぎゅうっと苦しいくらいに抱きしめられたから、不安でどうしようもなかったスピカは縋りついた。今になってみれば少し恥ずかしい。あとになってそれはここの人たちの挨拶かもしれないと思ったけれど、トト以外はスピカにそんなことをしなかった。
暫くして初めてこの家にやってきた時も抱きしめられたけれど、その時少しは冷静になっていたスピカが固まってしまったので、トトはそれから抱きしめてこない。
「トト、」
呼びなれてきた名前をスピカが呼ぶと、トトはそれだけで優しく笑ってくれる。
だからスピカも少し嬉しくなって、笑うことができた。
「スピカ、来てくれた」
トトは確かめるようにそう言うと、扉の前で立ち止まったままのスピカの手を引いた。スピカはそれに従う。
スピカじゃないよ、と思ったけれどそう言ったら急に手を離されそうな気がしてやめておいた。それに村の人たちにそれは言ってはいけないこと、と言われている。言ったらどうなるのか分からないスピカは、恐くて言えない。
スピカ。ここでの新しい名前。ことこ は此処でその名前をつけられた。
ことこ の名前を呼ぶ人は此処では誰もいない。
トトの家から帰る時、スピカはトトの家の斜め前で立っている男の子がスピカのことをじっと見ていることに気付いた。見ている、というより睨んでいる、と言った方があっているような強い視線だ。
黒に近い茶色の髪の男の子で、森の中でスピカを見つけた子だった。村の中で何度かすれ違ったり見かけたことはあったけれど、その度にその男の子は鋭い視線を向けてくるから、居心地が悪い。理由は分からないけれど、多分嫌われているのだろう。好きでこんなところにいる訳じゃないのに、嫌われるようなこともしていない筈なのに、そんな風に見られるのは悲しいのと同時に少し苛々した。スピカもじっと見つめ返すと、その子は顔を背けてさっさと隣の家に入った。
訳が分からないままスピカは尼僧たちと村のはずれにある、おばあさんの家に帰る。本当は、本当の自分の家に帰りたいのに、この尼僧たちは連れて行ってはくれない。
ママ、パパ、それに妹にどうしようもなく会いたい。ここは嘘みたいに綺麗なところだけれど、ことこ にはそれを楽しむこともできなかった。こんなとこ、としか思えない。最近言葉を教えてもらって、少しずつ此処の人たちが何を言っているのか解るようになってきたけれど、それでも心もとない。ことこの知らない人たちに、ことこの知らない場所。
スピカなんて名前ではないのに、みんな ことこ をスピカと呼ぶ。その度に ことこ は ことこ だよ、と思ったけれど、見放されるのが恐くて、みんなが望むまま自分のことをスピカと名乗るようになった。
最初は夢かと思ったけれど、夢だったら長すぎだ。嘘みたいに綺麗でも、木々のにおいや夕食のにおいや花のにおい、おばあさんの皺の刻まれた手の感触に、あたたかなトトの体温は嘘ではなくて、本当のことみたいだ。それに長く伸ばされていたスピカの髪は切られて、頭は少し軽い。転んでできた膝の傷も瘡蓋になるまでひりひり痛んだし、おばあさんの薬は酷く染みた。
本当はたまらなく恐いけれど、その感情に蓋をして見ないふりをする。そうしないときっとどうしようもなくなる。けれど蓋の下からたまにその感情は溢れて、ことこはその度に村から抜け出した。
数日後、森の中で会ったのは黒に近い茶色の髪をしたあの男の子だった。
おばあさんの隙を見て家を抜け出し必死で走ったスピカは、森の中で思いっきり転んでしまい、どろどろになった地面の上で、惨めな気分でうずくまっていたらその子がやってきた。しかめっ面で、憎憎しげに見下ろしてくるので、スピカは泣きそうになりながらも必死で涙を引っ込めようとした。
「お前の名前は?」
早口だったけれど、村の人たちから何度も聞いた言葉だったからなんとかその言葉は聞き取れた。
また、試されているのだろうか。
本当は自分の名前は ことこ なんだから違う名前を言うなんておかしい、と思ったけれど、村の人たちは「ことこ」と言うと少し恐い雰囲気になったから、最近は自分のことを「スピカ」と言うようになった。そうすると村の人たちは少しほっとした顔になる。本当は当たり前のことである筈なのに、まるで ことこ が ことこ の名前を言うのがとんでもない過ちみたいに。
「……スピカ」
そうなんとか搾り出すように言うと、男の子は怒った顔をして地面を蹴り上げて泥を飛ばしてきた。
なにか間違ってしまったのだろうか。ことこ はびっくりして男の子を見上げた。怒った目と目が合って、少し俯く。
転んだ時に顔についた泥が乾いてきて気持ち悪くて、無意識に服の袖で拭ったけれど、服の袖も泥で濡れていた。
どうして、こんな目にあうんだろう。ただ、呼ばれた気がして振り向いただけなのに。
「……本当の名前を訊いてるんだよ」
思いがけない優しい声にスピカは驚いて目を見開いた。男の子は ことこ の前にしゃがみ込んで恐い顔ではなく、少し困ったような顔でいる。
本当の、名前。
この男の子は、ことこ がスピカと言ったから怒ったのだろうか。
ことこ の名前なんて誰も訊いてはこなかったのに。まるでそれが必要ないものみたいに。
鼻の奥がつんっとなって、我慢していた涙が溢れだした。
「……ことこ」
小さな声で自分の名前を呟いた。誰も呼んでくれない本当の自分の名前。
ママとパパが呼んだ名前。
男の子は、スピカの頭を撫でた。おばあちゃんみたいに優しくではなくて、少し乱暴に。
「コトコ」
少し言いにくそうに、男の子はそう言った。呼んだのではなくて、なにかを確かめるように。
久しぶりに他の人に言われたその名前に、ことこ はなぜか悲しくなって肩を震わせてしゃくりあげた。
ことこ が泣き止むまで、その男の子は黙って ことこ の前でしゃがみ込んだままじっとしていた。
次の日、いつものように ことこ がトトの家を訪れると、家の前で男の子がまた ことこ を見ていた。けれどその目は睨むような目ではなかったので少しだけほっとした。昨日も少し優しかった気がするし、もしかしたら嫌われてるのではなくて、他の理由があったのかもしれない。
そういえば、あの子は ことこ の名前を知っているけれど、ことこ はあの男の子の名前を知らない。
ことこ がトトの家に入る時、男の子はお父さんみたいな人に名前を呼ばれて ことこ に背を向けて走って行った。
多分、男の人は、男の子のことをオスカ、と呼んだ。
「おすか……」
ことこ はなんとなく呟いた。
唯一 ことこ の名前を呼んで、多分 ことこ として認めてくれた子。
此処にいる人たちがみんな ことこ のことをスピカと呼ぶ理由を説明してくれなくても ことこ はなんとなく気付いていた。
此処の人たちは『スピカ』が必要ということ。
トトに毎日会いに行く理由は分からない。けれどあの日、帰り道でスピカ、と呼んだ声は確かにトトのものだった。ことこ はその声に呼ばれた気がして振り向いてしまった。自分の名前ではなかったのに、あんまりにも悲しそうな、苦しそうな声だったから。
最後の風景を今でもはっきりと思い出せるから、現実なんだと分かっていてもたまにこれは夢なのではかと疑ってしまう。
夕日で染まった赤と橙の空に黒く陰を落とす雲。夕日の光を反射する家々の窓。児童公園のブランコに鉄棒に、スピーカーから流れるゆうやけこやけの音楽。友達の乗る自転車のベルの音。雨上がりのアスファルトのにおいに混じる、甘い花の香り。
だけど、その風景は遠い。
ことこ はいつものようにトトの家に入って、トトに会う。当たり前のようにトトにスピカと呼ばれる。
違和感や少し嫌な気持ちは残っていたけれど、ことこ は少しずつその名前に慣れてきていた。