03.
チリンチリンと音が響く。
スピカは懐かしいベルの音にはっとして顔をあげた。
あれからオスカは一度家に帰り、暗くなってからまたスピカの家まで迎えにきてくれた。今は月祭りの、一日目の夜の儀式中だ。月祭りの間は、毎晩これが行われる。
人ごみの間から音のする方をなんとか覗いてみると、頭の上から真っ青な装束で身を包んだ司祭や尼僧達が、祭壇の前でトトに向かって時々ベルを鳴らしながら、何かを唱えている。それを見たスピカは、あるわけのない自分の勘違いに苦笑した。
隣に佇むオスカは祭壇での様子にじっと見入っている。オスカだけじゃない。この場にいる誰もが祭壇の方へと目を惹かれていた。中には祈っている人もいる。
スピカも、祭壇の上で真っ白な服に包まれて艶やかな藍色の椅子に座るトトに目を向けた。月を背にしたトトの姿は幻想的で、瞬きした瞬間にでも消えてしまそうでスピカは不安になる。
閉じられた瞼を縁取る長い睫毛も、整った眉も、さらさらの髪も金色で、どこか儚げだ。けれど、かみさまと言われればそれをあっさり信じてしまいそうになる程の何かがあることは、トトをかみさまと思えないスピカにも分かった。
ゆっくりと開かれたトトの目に、スピカは昼間と同じ底知れないものを感じた。その目腺はゆっくりと、けれど確実にスピカの方に向けられる。
昼間とは違って外は真っ暗で角灯がいくつもかけられているけれど、人ごみに埋まる背の低いスピカをトトが真っ先に見つけられるとは到底思えなかった。それに今は昼間いた時よりも、祭壇からは遠い位置にいる。けれど、トトの視線は真っ直ぐにスピカを捕らえていた。
スピカは掴んでいたオスカの服の袖を無意識にぎゅっと握る。
何かがおかしいとはぼんやり思うけれど、目が離せない。
――ことこ
「え?」
スピカはトトが呟いた言葉に目を見開いた。
どうして、トトがそれを知ってるのだろうか。
「スピカ? どうした?」
こんなにたくさんの人がいるのにしんっと静まりかえっているために、オスカはスピカの耳に手をあてて小さな声で聞いてきた。
スピカはまだ少し呆然としたまま、トトから目が離せないでいる。
「……トトが今何か言ってたの、聞こえなかった?」
オスカは眉を潜めてトトの方を見た。
「この距離で聞こえるわけないだろ」
呆れた様子で言ってくるオスカの言葉はもっともである。
「……ねぇ、トトも三日三晩寝ないであの祭壇の上にいるの?」
唐突に尋ねてきたスピカに、オスカはおかしそうににやりと笑った。
「んな訳ねえだろ? そんなことしたら、いくらスペルカ様でもぶっ倒れるぞ。この儀式が終わったら、後ろに建てられた……ほら、あの白いの。あの天蓋で休むらしいぜ」
オスカがそう言って指指すと、先ほどからこそこそと喋るスピカとオスカに気が触ったのか、前に立つ壮年の男が睨みつけてきた。
スピカは黙り込むと、祭壇の後ろに建てられた白い布に金刺繍の入ったテントに目を向けた。
焦燥感と、色んな気持ちが渦巻いて、胸がどきどきしていた。頭の中で、先ほどの言葉が繰り返される。
ことこ。
こんなに離れているのに、まるで近くでトトの言葉を聞いたようだった。村人全てが知っていて、トトだけが知らない筈の事実。トトだけが忘れてしまっていること。
スピカはゆっくりと目を閉じた。
もし、本当に『かみさま』ならば、聞きたいことがたくさんある。もう遅すぎるかもしれないけれど、それでも聞きたいこと。
スピカは目を開けると、祭壇の上に鎮座するトトをじっと見つめた。
懐かしいベルの音が、スピカの頭の中に響いた。
こうする、と決めたスピカの行動はいつも早い。
オスカに家まで送り届けてもらったあと、おばあちゃんにおやすみの挨拶をして一度は部屋に入って眠る振りをしたスピカは、真夜中になるとそっとベッドを抜け出した。
おばあちゃんも自室のベッドに入り、もう眠っているのだろう。家の中は真っ暗で静まりかえっていた。
おばあちゃんは敏感だ。物音一つでも立てれば目覚めてしまうから、気をつけなければいけない。
スピカはベッドを出ても靴を履かずに行動した。服を着替えて帽子を被り、カンテラと靴を持つと、できる限り気配を殺して壁に手をつけながらゆっくりゆっくりと狭い階段を下り、玄関の方へと急いだ。
昔から住んでいる家なので、大体の軋む場所は覚えている。
玄関口の取っ手に手を掛けてゆっくりと開いてまた静かに閉めると、スピカは靴を履いて一気に駆け出した。
大丈夫、気付かれていない。
スピカは家が見えなくなる所まで来ると、持っていた角灯に火を灯した。まだ、胸がどきどきしている。
夜中に家を抜け出そうと試みたことは昔は何度もあったが、その度におばあちゃんがスピカを止めていたので、今まで成功したことはなかった。もしかしたら、見逃してくれたのかもしれない、とも思う。
おばあちゃんは昔から目は見えなくても虚ろな瞳で、他の人には見えない何かを視ることができた。誰かが危険な目にあう時には注意や助言をくれるので、村人たちはおばあちゃんに頼っている。
それに今では、スピカは抜け出しても帰ってこなくなる可能性はないだろう、とおばあちゃんは知っている。
スピカはそんなことを考えながら、遠くに見える色鮮やかな灯りの集まる方へと走った。
トトは夢を見ていた。
トトとスピカとオスカの、三人がまだほんの小さな子供だった頃の夢。今でもまだまだ三人は子供かもしれないが、それでもあの頃からは随分と変わってしまった。
あの頃のトトは本当に体が弱くて、滅多に家を出れない代わりに、スピカとオスカがいつも遊びに来てくれていた。いつも、三人は一緒だった。
『かみさま』になってからのトトは、体が弱かったことなんてまるで嘘だったように丈夫で、外に出ても全然平気だ。けれど、その代わりに失ったものは大きい。
スピカが、スピカだけがあの頃から何も変わらない。
他の人からは今では余り向けられることもなくなった笑顔も、怒った顔も、スピカだけは、昔と同じ様にくれる。だからこそ、トトもスピカに対してだけは昔と同じ様に振舞えた。
けれど、最近は少し嫌な感じがする。
昔から体の内側にあったけれど、打ち消そうとずっと必死だった静かに潜んだ嫌な部分。それが『かみさま』になってしまってからはどんどんと大きくなってきた気がするのだ。
家に遊びに来てくれていたスピカとオスカを窓の内から見送っていたトトは、一瞬二人が消えそうに薄らいだ気がして、届く筈もないのに必死で手を伸ばした。
その瞬間、部屋の隅で影のようななにかが大きく揺らめいた。
「トト……?」
スピカは天蓋の垂れ幕をゆっくりと押しあげた。
もう真夜中で、村では人が流石に疎らになっていたが、やはり月祭りの日だけあってまだ店は結構開いていて、大人達が広場やあちらこちらで酒を交し合ったりして楽しんでいた。あちらこちらにある角灯の灯も絶やされることはない。
村人たちも、都から来た人たちも、異国の人たちも、みんな初対面でも身分も関係なく大きな声で笑いあっている。その中にはスピカの見知った顔もちらほらとある。
こんな夜中に来たのは初めてだったからこんな光景を見たのも初めてで、スピカは何故か嬉しくなって微笑んだ。
テントの前には自警団の若い青年二人がいたが、少し驚いた顔でしげしげとスピカを見ると「こんな夜中に、危ないよ」と囁いて、けれどあっさりと中へ通してくれた。
テントの中は薄暗かった。灯りといえば上から吊るされ色んな色の硝子が嵌められた、大きな角灯がゆらりと内に小さな火を灯している程度だった。地面には毛足の長い動物の毛皮が敷かれている。
スピカは中に入るとそっと入り口の布を下ろした。もう寝ているのかもしれない。
奥には寝台が一つ置かれていて、トトの金色の髪が見えた。返事はない。規則正しい、静かな寝息だけが聞こえてくる。
スピカはなんだか体から力が抜けるような気がした。
此処へくると『かみさま』と会えるような気がしていたのだ。今までにこんなことはなかったけれど、何故かそう思った。けれど、此処にいるのは間違いなくトトだ。
起こすのも悪いと思い、引き返そうと入り口の方へ体を向けた時だった。
「スピカ?」
囁くような、けれどよく通るトトの声が聞こえて、スピカは慌てて振り返った。瞼の間から覗く青い瞳と目が合う。するとトトは体を起して、少し驚いたような顔をした。
「ごめんね。起こしちゃった?」
「ううん。ぼんやりしてたから、夢かと思った。どうしたの? こんな夜中に一人で……危ないだろう?」
「……ごめん」
珍しく、少し怒ったような声だ。
スピカは素直に謝ると少し俯いた。
「……どうしたの?」
優しい声色に戻ったトトの方へと顔を向ける。
トトには、言えない。
「なんだか、どうしても会いたくなっちゃったんだ」
スピカがそう言うと、トトは困った様に笑った。
「……スピカ、君はもう少し色んなことに警戒心を持った方がいい」
スピカはそれを聞いて、夜中に勝手に出歩いたのは確かに無用心だったなあ、と反省した。
寝台から起き上がり上着を羽織ったトトは、近くにあった色んな色の硝子玉の付いた大きなクッションを立ち尽くしたままのスピカの前に置き、座るように促した。
「水、飲む?」
スピカは頷くとトトの置いてくれたクッションの上に腰を下ろした。
小卓に置いてある硝子瓶に入った水をグラスに注ぐと、スピカに手渡してトト自身もスピカの正面に座った。
角灯から漏れる六色の光が、水面で揺らめいている。
スピカはぼんやりとそれを眺めながら、ぼんやりとした調子で喋った。
「……今日、オスカのお姉ちゃんが踊っていたの、見た?」
「うん」
トトも寝起きの為か、どこかぼんやりと返す。
「綺麗だったね」
「うん。けど、スピカはきっともっと綺麗になるよ」
トトは微笑みながらそう言った。
スピカはそうかなあ、と呟いた。オスカのお姉ちゃんは今だけじゃなくて昔からの美人だ。スピカは可愛いとは言われるが、美人とは一度も言われたことはないし、自分でもそうではないと判っている。それに可愛いというのでも、小さいから、という意味も含まれているのだ。
渋い顔をされてトトはひっそりと苦笑した。
「トトの方が、綺麗だと思うよ」
トトは手に持つだけで、まだ全然口をつけていないグラスをうっかり落としそうになった。
「あまり、それは嬉しくないな……」
「なんで。嬉しくない? 綺麗なの。お祭りの衣装を着たトトのこと、綺麗って言ったら笑ってたのに?」
「……うーん。あれは、衣装のことを言ってるのかと思ったんだ」
不思議そうに尋ねるスピカに対して、トトは苦笑いだ。
「男は、そう言うこと言われてもあんまり嬉しくないと思うよ」
「なんで?」
言って、不思議そうに小首を傾げる。
スピカは年齢の割に子供っぽいが、こういう時は益々幼い。
トトは少し困ると呟いた。
「なんでかなぁ……」
スピカは何も応えずに、じっと手の中にあるグラスを眺めている。
なにか、別のことを考えているのだと気づいたトトは、じっとスピカが言葉を発するのを待った。
「ねえ、トト」
「ん?」
「今日のお祭りで、スピカとオスカがいたの見た?」
「うん?」
トトは質問の意味を測りかねて、首を少し傾げた。
どうしてそんなことを聞くのだろうか。スピカがオスカと共に祭りに行くことは毎年のことだから、たとえ言われなくてもトトは知っていた。
「……舞の時と、儀式の時」
スピカはそう言うと、グラスから目を離してじっとトトを見つめた。
「舞と、儀式の時……?」
どこか真剣そうに頷くスピカにトトは苦笑した。
「ううん、ごめん、人が多すぎて見つけられなかった」
心の中で、スピカは小さいから。とこっそり付け足す。
「そう」
そう言うとスピカは、再びグラスへと視線を戻した。
遠くで、酔っ払った大人たちが大きな声で、この村に昔からある古い歌を合唱している。 それに合わせるようにして、この村に伝わるセラントと呼ばれる弦楽器の不思議な音色が聞こえた。
トトはぼんやりとそれを聞きながら、思い出したように言う。
「そういえば、スピカ、帰りは一人で帰っちゃ駄目だよ」
「うん。帰りは入り口に立ってた自警団の人が家まで送ってくれるって言ってくれた」
「そう」
「うん。トト、ここに泊まっちゃ駄目かなあ」
「うん。駄目」
トトははっきりと答えた。
「どうして?」
「……大人たちが心配するから」
「?」
スピカはトトの言葉を不思議に思い、首を傾げた。トトのそばにいるのは、凄く安全なことなのではないのだろうか?
少し不貞腐れたような顔が、どうして? とトトに問い掛けている。
トトはため息をつくと付け足した。
「……ピノばあとか。スピカ、おばあちゃんに内緒で此処へきただろう?」
「どうして分かるの?」
「ピノばあが、真夜中にスピカが一人で出歩くのを許す筈がないだろう? 特に祭りの日には」
トトがそう言うとスピカはやっと納得したように頷いて、手に持っていた水を一口飲んだ。ひんやりと冷たい水は、いつの間にか渇いていた喉を潤してくれる。
一晩居ればもしかしたら『かみさま』に会えるかもしれないと思っていたのだが、それはトトが許してくれそうになかった。
今日の所は諦めようと緊張が解けた頭で思い、そのまま水を飲み干した。