29.
スピカとトトとオスカは、海を見たことがなかった。みんなでいつか行こう、と言ったのは、確かスピカだった。
だけど、スピカはその約束のことを知らない。
トトの部屋で三人で過ごした日々の思い出は、今となってはトトとオスカだけのものになっていた。
風に混じって独特の潮のにおいがして、スピカは目を見開いた。
どうやら、海は近いらしい。
懐かしいにおいを肺いっぱいに吸い込む。少し湿った風が肌を通り過ぎる。強い風が耳の中でぼーぼーと鳴る。
「あんまり乗り出すと危ないよ」
イシュに言われて、スピカは幌の中から突き出していた体を引っ込めたけれど、また無意識にも身を乗り出してしまう。
丘や木々の間から、真っ白な反射の光が見えては隠れ見えては隠れする。今日は天気がいいから、きっと海も綺麗に見えることだろう。
石を踏んだのか、がくんと揺れて危うく馬車から落ちてしまいそうになったスピカの首根っこをイシュが犬や猫にするように捕まえた。
「着いたら、好きなだけ見れるし遊べるよ」
「……ありがとう」
苦笑混じりに言われてスピカはようやく大人しくイシュの隣に落ち着いた。でも、目線は幌の外へとどうしてもいってしまう。
殆どを村の中で過ごしてきたのだ。そのため海を見たのも、潮のにおいを嗅いだのも殆ど十年ぶり位だから仕方がない。
この寒空の下で、海は少し痛そうに見えるけれどスピカは冬の荒々しい海も好きだ。
イシュの滞在期間はスピカが思っていたよりも随分と短く、都を出てから十日も経たないうちに四つの村と町に行った。
イシュがスピカたちの村に滞在していた時間は長い方だったらしい。小さなスピカを連れている為、イシュは比較的安全な場所を選びつつ旅をしているようだった。
最初の数日間は慣れない揺れに酔って、一度は吐いてしまったが、もう随分と慣れた。慣れる程度には、馬車に乗った。
おそらく都からは、もう大分離れてしまったことだろう。
都の『かみさま』の話しはどこにいても誰かが話しの種にしていた。その殆どが、外見を褒め称えたり不思議な力の話しをしたり、トト自身のことに触れたものではなかったけれど、スピカはいやでもそれらの話しを聞き取ってしまう。
「嬢ちゃん、海を見るのは初めてかい?」
一緒に乗っていた強面の男が、可笑しそうに笑いながらスピカに訊いた。瞼の下に深い傷の痕があって、腕や足にはくっきりとした筋肉のかたちがある。けれどその笑顔は人懐っこいものだ。
今乗っている馬車は旅芸人一座のもので、みんな少し疲れたような顔をしていて、この男だけがいやに明るい。
スピカはその笑いにつられて小さく笑うと、首を横に振った。
「小さい頃は、毎年来てたけど最近はずっと見てなかった。……住んでた村から余り出てなかったから」
「へえ、……次にこの馬車が停まるのは、ほら、あそこに見える小さな町。あそこだから、存分に遊ぶといい」
スピカはにんまり微笑むと大きく頷いた。その様子に男もにんまりと笑ってスピカの頭を豪快に撫でた。
少し伸びた艶やかな黒髪があっち向きこっち向きする。どうやら此処でもスピカは小さな子供に見られているらしい。
先日、スピカも十四歳になった。スピカにもそれははっきりと分からないけど、多分。
がたがたと揺れて、パドルが足元で綺麗な声で鳴く。
もうすぐ、次の目的地に着く。
オスカは先程小さな少年配達人に届けられた手紙を開けて、小さく微笑んだ。
薄紫色の便箋に書かれているのは、相変わらず汚い字だし、ところどころ間違えている。
これでは、本当に小さな子供の様だ。村人たちは、もっと真剣にスピカに文字を教えた方がよかったのかもしれない。
尼僧のココセさんに一緒に勉強を教えてもらっていたのはもう随分と前のことだ。
オスカへ
スピカは、今、たびげいにん一ざといっしょにいます。
もちろう、イシュもいっしょです。
たびげいにんいちざで、なかよくなった人は、すこしこあいかおをしてるけど、やさしいグリムルさんと、すぴかより四つしたの、レナンです。
グリムルさんはちからもちで、むぎでももてるの!
レナンは、おんなのこみたいにきれいな顔をしてるけど、けんぎ、というのをしているときはかっこういいです。
オスカにも、みせてあげたい。
スピカ
麦ってなんだ、牛の間違いだろ、とオスカは呆れる。それに、『もちろう』ではなくて『もちろん』だ。
一文字違うだけで、随分と違う意味になってしまう。
短い文だったけれど、オスカはゆっくりと読んだ。
同じ封筒に入れられていた便箋には、大人らしい美しい文字で言葉が綴られている。こちらはイシュの手紙だ。
たまに便が遅れて二日分一緒に送られてくる時もあるけれど、殆ど毎日送られてくるスピカの手紙に、イシュの手紙が同封されてくるのは初めてのことだった。そもそも、イシュの文字を見たのも初めてかもしれない。吟遊詩人のイシュはいくら仲良くしていても一箇所に固執することもなければ、手紙を送ってくることもない。
その手紙には、スピカの旅での様子が書かれていた。どうやら、スピカは元気にやっているらしい。
けれど、と書かれている。
けれど、どこかふとした時に寂しそうな顔をするから、やっぱりまだ無理をしているのかもしれない。
スペルカ様の噂を所々で耳にするけれど、スピカは気にしているようだ。
噂。
オスカはまだ都にいる。あれからまだ村には帰っていない。村に対しての反発心かもしれないが、まだ帰る気にはなれなかった。
活気のあった、毎日祭りのような都も、最近沈んでる。道行く人々もどこか寂しそうな暗い顔をしている。
『スペルカさま』の影響は大きい。
その感情は、都中に伝染してしまっている。オスカにも、不安とも寂しさともつかない感情が、終始胸のどこかで渦巻いていた。
これがトトの感情の少しなら、トトはどれだけ大きな寂しさや不安を持っているのか計り知れない。けれど噂で聞く『スペルカさま』の話しは、以前となんら変わらないものだった。スピカが都を出てからの一時は、少しおかしな噂も聞いたが、それもすぐになくなった。
『スペルカさま』は以前となんら変わりなく、穏やかな物腰で、美しい姿で、あの寺院の中の蒼い椅子に座っているらしい。
けれど、オスカにはスピカが行ってしまってからのトトの感情の動きが分かった。自分の中に急に表れた不安や寂しい感情が、みんなは自分のものだと思っているけれど、それがトトのものだとオスカは気付いていた。
本当に気付いていないんだな、とオスカは思う。
嘘に塗れたスピカの存在に、トトは気付こうとしない。本当は知っている筈なのに、その偽りを信じようとする。自分のしてしまったことから逃れる為か、計り知れない寂しさからかは、オスカには分からない。けれど、嘘が本当にならないことは知っている。だから、スピカは苦しんだのに。
オスカはスピカの手紙の一番下の行を見た。
スピカ。
スピカはまだ自分のことをスピカと名乗っているらしい。
嘘が嫌でトトから離れたはずなのに、まだその名前を捨てきれないのか。
オスカは手紙を大事に封筒にしまうと、パン屋の手伝いをする為に階段を駆け下りた。
昨日降った雨が地面をどろどろにしていた。森の中ではまだ木々に残った雨がぽつぽつとたまに降っている。
人気のない森の中で散歩をするのがオスカは好きだった。賑やかなのも好きだけれど、雨のあとの澄んだ空気をした森の中は気持ちがいい。
ぬかるんだ地面を踏みしめながら森の中を進んでいると、草木の間でうずくまっている青い服を着た少女を見つけた。
どうやら豪快に転んだようで、服も顔も見事なくらいにどろどろに汚れてしまっている。
オスカはその少女は誰か気付いて、顔を顰めた。
少し前、父親と一緒にこの森の中で見つけた子供だ。あれ以来その女の子の周りは慌ただしく、オスカはたまに見かける程度だった。
今はピノばあの家で住んでいるらしい。
オスカが近づくと、女の子は気付いたのか顔を上げてオスカを見た。その顔に、オスカは少なからず動揺してしまう。少し前、目の前で起こってしまった出来事を思い出してしまう。
オスカはそれを振り払うように少し首を振ると、睨むように少女を見下ろした。
「お前の名前は?」
オスカは泥に塗れて、目に涙を溜めている小さな女の子に聞いた。
女の子は今にも涙を零しそうになりながらも、顔を歪めて呟く。
「……スピカ」
言葉が通じていたことにも少し驚いたけれど、女の子がそう答えたことにもオスカは少し驚いた。
よほど必死だったのか、教え方が上手かったのか、少女の記憶力がよかったのか、オスカには分からないけれど、オスカが出会ったばかりの時には、全く通じていなかったはずだ。
けれど、いやいや言われたようなその声に、オスカは苛立ちを感じた。
嫌だったら、そう答えなければいいのに。村人たちに何度もそう教え込まれたからって、言いなりになるなんて馬鹿みたいだ。
お前は、違うのに。
オスカは足元に広がる泥を蹴り上げた。それが、女の子にかかったけれど、謝る気にはなれない。
少女はびっくりした顔をして、オスカを見上げた。
その顔が、余りに見知ったものに似ていたので、思わず怯んでしまう。
少女は泥で汚れた服の袖で顔を拭った。
「……本当の名前を訊いてるんだよ」
今度は優しい声で、まだ勉強途中の言葉がちゃんと伝わるようにゆっくりと言って、泥の上で座りこんだままの少女の前にしゃがみ込んだ。
少し目を見開いて、オスカの顔を見た女の子は、また直ぐに顔を歪めた。
ぽろぽろと、大きな目から透明な涙が零れだす。泥で汚れた顔に透明の筋ができる。転んでも必死になって泣かないようにしていたのに、「本当の名前は?」と訊かれてこの子は泣いた。
「……ことこ」
小さな声で、だけどよく聞こえる澄んだ声でその子は呟いた。
オスカは、この小さな女の子が可哀想になって頭を撫でた。
「コトコ」
オスカは確かめるように呟いた。
この子の名前は、コトコ。村人達にその名前を無理やり捨てるように言われているけれど、本当は捨てなくてもいいはずの名前。
ことこは、オスカがそう呟くとますます顔を歪めてたくさんの涙を流した。ひくひくと咽を鳴らし体を震わせながら小さな声で泣く姿は、本当にいつか見たあの子姿にそっくりだ。
全部、あいつのせいだ。この子が泣くのも、あの子がいないのも。
一番の友達だと思っていたのに、今はこんなにも憎い。悔しい。
スピカが、トトを「スペルカさま」と言った。本当はそんなことは些細なことだった筈なのに。三人で仲良く過ごした日々はずっと続くものだった筈なのに、そんな些細なことで全ては変わってしまった。
トトが『かみさま』になってしまっただけで。
もう元通りになる筈もない。
だって、スピカはもういないのだから。




