28.
トトは、寝台の上から、壁と同じように白く塗られた天井を見上げていた。
外では雨音が強くなってきている。時々風が吹いては、硝子窓に雨を強く打ち付けていた。
――今日は、来ないだろうな。
これだけの大雨だと、隣に住むオスカはともかく、森の中に家があるスピカは、トトの家に着く頃にはきっとびしょ濡れだ。
自分から会いにいけたらどんなにいいだろうと思い、気分が少し下がるのを感じながら、雨水が流れてどろどろと外の世界を溶かすように見える窓の方に、トトは顔を向けた。
こんな大雨でなく、小雨の日でもトトは外に出たことがない。雨に濡れて風邪をひくだけでも、体の弱いトトには命にかかわることらしい。それは今まで何度も、普通の子供ならあっさり治るような熱病などで苦しんできたトトには十分すぎる程わかっていた。
けれど、一度でいいから、雨に打たれてみたいと思う気持ちもある。
雨の日に、大きな声を上げながら外で遊ぶ子供を窓から何度か見かけたことがあって、その度に羨ましい気持ちになった。
もし体が丈夫だったなら、というのは今まで何度も思ってきたことだった。
ふと、目の前が薄暗くなり、トトはまた天井の方へ顔を向けた。
「!」
目の前に自分を見下ろしてくる子供の顔があって、トトはぎょっとした。
見下ろしてきていたスピカは、トトが驚くと嬉しそうに大きな目を細めてにんまり笑う。
「スピカ!」
「トト、びっくりした? びっくりした?」
まだ十にも満たない幼いスピカは、ころころと笑いながらも、トトの上から見下ろしたままどこうとしない。
トトが驚きの余韻でまだ胸をどきどきさせていると、部屋の扉が開いて、オスカもにやにやとしながら入ってきた。
「トトのびっくりした顔、初めて見たかもな?」
そう言って、オスカもスピカと同じ風に見下ろしてくる。
ふたりが余りに嬉しそうに笑うものだから、トトも寝台の上で横たわったまま思わず微笑んでしまった。
「きのう、おばあちゃんの家に行ってもらってきたの」
そう言ってスピカが出した果物は、スピカの小さな顔がすっかり隠れてしまうくらいの大きさだった。
シュトゥに切ってもらって、それを三人で食べた。
よく見てみると、スピカもオスカも雨具を羽織って来ていたらしいが濡れている。膝辺りが特にびちゃびちゃにでずっしりと重くなっていたので、ふたり共それだけ脱ぐと、トトの部屋に紐を張りそこに掛けて乾かした。オスカはトトのズボンを借りたが、スピカはトトのズボンは大きくてぶかぶかだったので長衣だけになっていたら、風邪を引いてしまっては大変だと、シュトゥに腰下から大きな布を巻かれて変な格好になりオスカに大笑いされた。トトにも笑われたスピカは不貞腐れてしまったが、みずみずしくて甘い果物を食べるとすぐに機嫌がよくなった。
それにはトトもオスカも毎度のことながら少し呆れてしまう。小さなスピカは機嫌が悪くなってもちょっとしたことですぐ機嫌が直って笑う。オスカもスピカと同じ歳だが、スピカと比べると随分落ち着いて見えた。
「凄い雨だね」
「うん。森がぬかるんで沼みたいになってた」
オスカは口をもぐもぐさせながら言った。スピカは食べるのに必死で多分、ふたりの話しを聞いていない。
「でも、来てくれたんだ。ありがとう」
トトが笑うと、オスカは照れくさそうに口を尖らせる。それを見たスピカも、面白かったのかオスカの真似をして口を尖らせた。
「だって、トトがいねーとおもしろくねえもん」
そう言われてトトもほっとして嬉しいと思うと同時に、少し照れながらスピカの持ってきてくれた甘い果実を口に入れた。
トトが、同じ年に村で生まれたスピカとオスカと初めて会ったのは、ふたりがまだ小さな赤ん坊の時だった。村では子供が生まれると、村中で祝福する。トトもその時調子が良かったので祝宴に参加した。元々トトとオスカとスピカのそれぞれの両親は、年が近いためか友人同士で、スピカとオスカもトトの家に来ることが多くいつの間にか仲良くなっていた。
恐らく年の近いオスカとスピカが、中々家を出ることのできないトトと友達になってくれればいいという両親たちの取り計らいだっが、まだ小さな子供たちがそれに気付くはずもなかった。トトは最近そうだったんじゃないかと気付いたけれど、そのお蔭でスピカとオスカと仲良くなれたんだから嬉しく思う。
ふたりといると、トトも外で元気いっぱいに遊ぶ子供と同じように笑えていた。
「月祭りの日、雨にならないといいけどなあ」
「いっつも晴れてるから、今年も晴れるよ!」
オスカが窓の外を見ながらぼんやりと言ったので、スピカは眉を顰めてへ理屈で返した。スピカは月祭りだけじゃなく、人が多く集まる宴や祭りが大好きだ。
「お前、月祭りの意味知ってんのか?」
「知ってるよ。かみさまの、お祭りでしょ」
曖昧な答えにトトは小さく笑う。
「毎年月祭りの三日間は、村から見える月が余りに綺麗だからスペルカ様がこっそり人間のふりをしてやってきて、月を見て楽しむんだって。かみさまが紛れやすいように、お祭りを開いてあげるんだよ」
本当は豊穣を感謝して、また次も実り豊かな季節になりますようにと祈る祭りでもある。けれど村ではトトが言う風にも伝えられてきた。
トトが毎年三日間を通して催される祭りに出れたことは、ほんの少しの時間、それも一回だけだったけれど、色々な人たちが集まる中もしかしたらこの中にスペルカ様がいるのかな、と思った。
それからは部屋の窓の中から、外にいるたくさんの人を眺めて、見たこともないかみさまの姿を探した。
もしかみさまがいたら、自分の体を強くして下さい、とお願いしたかった。そうしたら、いつでも会いたい時に少し家の離れたスピカにも会いにいけるし、オスカとも外で元気いっぱいに駆け回れる。
けれど、やはり見たことのないスペルカ様の姿が分かるはずもなく、遠いところからやってきた見たこともないような色彩の人を人ごみから見つけては、「あの人がもしかみさまだったなら」と空想するだけだった。
まさか、自分自身がそのかみさまである『スペルカ』になるなんて思いもしないで。
スピカが寺院を出て行ったことをトトは知っていた。気付いた、のではなくて少し前から分かっていたことだった。
スピカはいずれ、自分の傍から離れていく。それはトトも望んでいたことだ。
醜い感情をスピカに晒しだしてしまうのは嫌だったし、日々大きくなっていくそれはスピカが近くにいる限り縮まらないと思った。スピカが悲しそうにしていたり寂しそうにしていると、嬉しいと感じてしまう。スピカが孤独になることを望んでしまう。スピカも『トトだけ』になればいいのに、スピカは他の人とも心を通わす。そんなスピカに憎しみを感じたりもした。
トトにはスピカだけなのに、スピカはトトだけではないのだ。
だからトトは、スピカを傷つけてでもスピカの周りを取り囲む人間からスピカを引き剥がしたかった。
けれど、そんなことは間違っていると思う自分もいる。スピカを傷つけたいわけではないのに。本当に嬉しそうに笑う顔が好きだったはずなのに。
スピカを醜く歪んでいく自分から逃がしてあげないと、と思った。まるで『かみさま』ではなくて『怪物』にでもなった気分だ。本当に『かみさま』だったら、スピカを傷つけなんかしない。
その時が来たことは、何も知らされていないトトにも分かった。
スピカの雰囲気と、周りの人の感情の波。イーノスにそのことを言うと、隠しても無駄だと解っていたらしく否定もしなかった。
スピカはトトを置いて寺院を出ていく。何も言わずに。
だったら、トトはスピカを逃がしてあげようと思った。自分の傍にいるのはスピカにとってはよくないことだと解っていた。だから、スピカの姿を見ると逃がしてあげられる自信がなかったので、会わないようにしていたのに、イーノスがスピカを礼拝堂に連れてきた時はうんざりした。
最後にスピカがぎゅっと抱きついてきて、離したくないと思い、それを必死で打ち消そうとした。
これが、最後のぬくもりだった。スピカが行ってしまうと、トトは益々冷えていく心を感じながら巡礼者たちが並ぶ前、『スペルカ』の椅子へと戻った。
ぞろぞろと巡礼者の列は途絶えない。
トトは、巡礼者たちのなかで湧きあがる感情を不可解に感じながらそれらを眺める。
恐らく、今初めて会う人たちばかりなのに、その人たちはトトに愛情のような感情を抱いている。
その過剰な感情は不気味だ。その感情を抱いてしまうのはしょうがないことだと分かっているけれど、馬鹿げてる、と思ってしまう。
本来なら少しずつ関係を築きあげた者同士で抱くはずの感情なのに、それは『スペルカ』の前では一瞬の内に出来てしまう。もしかしたら元々それぞれのなかにあった、『スペルカ』への感情が出てくるだけかもしれないけれど、それはかみさまに宿られただけのトトからしてみれば異常なことだった。
スピカ。スピカだけがこの異常な状態の中で、まともな関係を築ける唯一の子だった筈なのに、トトは手放してしまった。
スピカがいないのなら、別に他に欲しいものなんてない。
トトは、冷えた心を閉ざした。もう、何にも意味がないように感じてしまう。ただ、苦しい。スピカがいなくなってしまっただけで。
全てを手放してしまいたいのに、内に宿るスペルカが、それを許さない。
『かみさま』はどうやらまだ遊び足りないらしい。
「どんな大人に、なんて」
どうでもいい。スピカと一緒にいられたらよかった。どうして自分はこんなにも醜く歪んでしまったのだろう。
巡礼者たちはこの静かな礼拝堂の中へ次から次へとやってくる。
都から、近くの村から、遠い海の向こうから。
トトの名前も知らないで、『スペルカさま』に会いにやってくる。
その日から、トトの名前を呼ぶ人は誰一人としていなくなった。