26.
次の日、言っていた通り寺院にやって来たオスカに頼んで、スピカはイシュを連れてきてもらった。
イシュと一緒に行くことを告げると、彼は自分からスピカに一緒に行かないか、と誘っておいた癖に、少し驚いているようだった。
昨日オスカと一緒に座った長椅子に、三人一緒に座る。
スピカが村に住んでいた時に使っていた寝台くらいの大きさだから、大きなイシュが座っても平気だ。
「本当に、いいのかい?」
「うん。決めたの」
本当は心の中では、まだ迷いが大きくうねっている。けれど、スピカはそれに気付かれないように神妙に頷いてみせた。
前にセスティリアスの家を出る直前に言われた言葉を思い出す。それは、スピカの行く先を示す言葉だった。
その言葉で、決めたのはスピカだ。
「……そう」
ふと見ると、オスカはスピカの隣でじっと黙ったまま、礼拝堂と巡礼者達の列を見ていた。
スピカもそれに目を向ける。
長い長い列。今日はまた少し空気が冷えているのに、みんな寒くないのだろうか。
雪がひとひらひとひら、ゆっくりと舞いながら降っている。多分積もらない雪だろうが、晴れる気配もないしきっとまた今晩は冷え込む。
「スピカは、いつ出たい?」
「できれば、今日にでも」
スピカの決心が揺らがない内に。
スピカが言うと、イシュは苦笑した。
「分った。じゃあ、準備しておいで。夕方、時計塔の鐘が鳴る頃に迎えに来るよ」
「……うん」
スピカが返事をすると、じっと黙り込んでいたオスカが真剣な顔でスピカを見ながら口を開いた。
「スピカ、スペルカ様には、ばれないように気をつけろ」
オスカに言われて、スピカは黙って頷いた。
スピカは二人と別れると、部屋に戻って荷造りを始めた。荷造りといっても、ここに移ってきた時と荷物はあまり変わらない。オスカが持って来てくれた服が増えただけだ。けれど、この服が結構な量だったので、スピカは少し悩んだ。
パドルの鳥かごと、元々ここにもってきていた荷物、オスカが持ってきてくれた服。
なんとか、持てるかもしれないけれど、こんなに大荷物を持っていたらすぐに怪しまれるだろうし、廊下でトトとばったり会ったりでもしたら大変だ。いいごまかし方も思いつかない。やはり、服はよっぽど気に入ったものだけを持っていくしかないのだろう。旅を続けるイシュだって、大きな荷物を持ってはいるが、何かを増やしては他の物を減らしているのだろう。あれ以上の量を持っているところをスピカは見たことがない。
本当はすぐに村に帰るからと思って、鞄に詰め込んだままにしていた衣類も、リュシカニアに言われて衣装棚の中にしまってしまったから、全部出して鞄にまた詰め込む。
どの服を持っていこうかと悩んでいるちょうどその時、扉を叩く音が聞こえた。間もなく開いた扉の向こうにいた人物を見て、スピカはぎょっとした。
イーノスだ。
イーノスがいるということは、トトもいるのではと思ったスピカは、扉の向こう側を見たが、どうやらイーノス一人のようだった。けれど、イーノスがスピカの部屋に一人で訪ねてくるなんて始めてのことだったので、スピカは彼を訝しげに見た。
「……出て行くのか?」
訊かれて言おうか一瞬迷ったスピカだったが、この状態の言い訳の仕方も思いつかず、首を縦に振った。
イーノスは「そうか」とでもいう風に何度か小さく頷いた。
「いつだ?」
「今日の夕方……トトには言わないでね」
言って、手に持っていた服をぎゅっと握る。
「ああ、けどあの方はすぐに気付くだろう」
「分かってる。けど多分、都もそのまま出て行くから……」
「そうか。……門番のやつには、お前が出れるように言っておく」
「ありがとう」
「会っていかないのか?」
誰の、とは言わない。イーノスは最後にトトに会っていかないのか聞いているのだ。
スピカは表情を曇らすと、膝の上で皺を作っている服を見つめた。
「会ったら……」
きっと決心が鈍る。けれど、これが最後だと思うと、勝手だけれどもう一度会っておきたい。
昨日、なぜかトトは夕食の時にやってこなかったので、最後にトトに会ったのは、セスティリアスのところに行った時になる。
「……会う」
スピカが小さな声で言うと、イーノスは苦笑してスピカの頭をぐしゃっと撫でた。
その後スピカが荷造りを終えるまで、イーノスはスピカの部屋でじっと待っていた。スピカはそわそわと落ち着かなくなりながらもなんとか荷造りを終えると、イーノスについて部屋を出た。
天井近くまである硝子窓が連なる長い廊下をずっと真っ直ぐ進んで、階段を下りて、何度か廊下を曲がって細長い廊下に入ると、また真っ直ぐに進んだ。
スピカが通ったことのない廊下だ。方向からすると、先にあるのが礼拝堂だとスピカにも分かった。
「トトは、礼拝堂にいるの?」
「ああ。礼拝所の、裏から入る」
「いいの?」
「本当は駄目だ」
そう言われてスピカは不安になりながらも、イーノスの後に続いた。
小さな、トトの部屋の扉と同じ色の分厚い扉があって、イーノスがそれを開けて身を屈めながら入ったので、スピカもおそるおそる入る。スピカの頭ぎりぎりの高さの入り口だった為、頭を打たないか心配になり、少し身を屈めた。イシュだったら、きっと通れないだろう。
入った礼拝堂の美しさに、スピカは驚き入った。
見たことがないくらい高くて円い天井に、ぽつぽつと浮かぶ蝋燭の灯り。壁も床も天井も、一面つるっとした青い色彩に彩られていて、蝋燭の灯りをゆらゆら反射している。壁際には溝が掘られていて、灯りをちらちらと映しながら流れる綺麗な水があった。スピカのいる位置からは見えないが大勢の人が動く音と、月祭りの時にも聞いたチリン、と高いベルの音色が少し薄暗いこの礼拝堂の中に響いていた。
イーノスが目線でスピカを進むように促した。少し歩いてイーノスのところまで行くと、手で制されて立ち止まる。
少しすると、銀色の衣装を纏ったトトが、少し疲れた様子で歩いてきた。
その目はスピカとイーノスを捉えていたけれど、いつもの優しい笑みを浮かべることはなかった。
表情の薄い、いつもの優しい表情ばかりを見ているスピカには、少し冷たい表情にも見えた。
「どうしたの? ……こんなところに来て」
こんなところ。
トトは少し低い声で言う。いつもの穏やかな声ではなくて、冷たい響き。
やはり勝手に入ってはいけなかったのだ。もしかしたらトトは怒っているのかもしれない。そう思うとスピカは視線を少し下げた。
「申し訳ありません、スペルカ様。彼女を此処へ連れて来たのは私です」
イーノスはそう言うと、跪いた。
その様子にスピカは驚いたが、トトは表情を変えないままそれを見ていた。
「……スピカ、なにかあったの?」
いくらか柔和な声色で、トトは訊く。
「……どうしても、今トトに会いたかったの」
罪悪感で心痛をおぼえながら、スピカは正直に答えた。スピカがこれからトトの傍を離れると知らないトトからすれば、きっと馬鹿みたいな答えだ。
トトは小さなため息を漏らすと、苦笑した。優しい顔。
「なにそれ。……いつでも会えるだろう?」
その言葉に、ますます胸が痛む。
これが、最後。だけどそうとは言えない。
スピカはばれないように、必死に笑い顔を作った。
「……うん、そうだね。ごめん」
後ろで、小さく扉が閉められる音がした。いつの間にか下がっていたイーノスが、出て行ってしまったのだろう。恐らく、扉の前でスピカが出てくるのを待っていてくれている。
スピカは悲しい気持ちを押さえ込むように、小さく深呼吸をした。
本当は、恐いけれど全てを話してしまいたい。けど、それもできないから、スピカは最後まで嘘をつく。
「ねえ、トトは今でも村には帰りたくない?」
「うん」
「……そう。トト」
「なに?」
いちいち声を返してくれるトトに、スピカは笑った。
チリンッチリンッと澄んだ音色が響いている。蝋燭の灯りが、スピカの姿もトトの姿も橙に染める。あの綺麗な音色は、スピカも小さな頃から聞きなれている音と似ている。
スピカの中の、おかしな矛盾。
スピカはその理由を今でも探すけれど、やっぱり見つからない。反対の感情が混ざり合う、矛盾。色んなことが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざりあうけれど、スピカはもう決めた。
「前に、イシュにね、『きみたちはどんな大人になるんだろうね』って言われたの。……どうなると思う?」
「……どうだろう。今と、変わらないんじゃないかな」
トトは、優しく微笑みながら言った。
それは、スピカもつい最近まで望んでいたこと。
寂しい。
急にそんな感情が溢れてきて、スピカは急いで離れないと、と思った。
何か、酷いことを言って嫌われてからどこかへ行った方がいいのかもしれない。そんなことが一瞬頭を掠めたけれど、スピカには到底そんな器用なことはできそうになかった。それに勝手だけど、やはり目の前にいるトトに嫌われるのは恐い。
ここに来て、一番身近だったもの。
トトの穏やかなまなざしに、少し冷たい手、優しい声。
スピカが手を伸ばしてぎゅうっと抱きつくと、トトはことの外驚いた様子もなく、いつもより強く抱きしめ返してきた。
どうしたの、とも何も訊いてこない。ひょっとしたら、スピカの様子になにかを悟ったのかもしれない。
それでもスピカは内に溢れる惜別の思いで押しつぶされそうになって、抱きついた腕に力を込めた。服越しに伝わってくるぬくもりを感じながら、ぎゅっと目を閉じる。
ごめんね。ごめんね、トト。さようなら。
心の中で呟きながら。