24.
トトは、スピカが先日勝手に寺院を出たことを知っていたにも関わらず、前に言っていたようにスピカを部屋に閉じ込めることも、警備を強めさせることもなかった。だからイーノスに、リュシカニアの妹に会うように言われたその日、スピカはあっさり寺院を出れた。恐らくイーノスが門番をする騎士に何か言ったのだろう。
寺院を出て広い階段を下りると、スピカに向かって手を振る女の人がいて、スピカは近くまで行ってようやくその人がリュシカニアであることに気付いた。髪を全て中に入れる尼僧姿以外の彼女の姿を見たことがなかったスピカは目を丸くした。
太陽に透ける髪は、美しい銀色だ。
「セスと、同じだ」
セスティリアだけじゃない。イーノスとも。
スピカが呟くと、リュシカニアはにっこりと微笑んだ。
リュシカニアに連れられてスピカも見覚えのあるような路地を歩いていくと、あの噴水のところまでやってきた。リュシカニアに聞きたいことはたくさんあったが、リュシカニアが黙っていたのでなんとなくスピカも黙って歩いた。古い噴水跡の横を通り過ぎる時、セスティリアの姿を探すようについ周囲を見渡したが、いないことはスピカにももう分かっていた。
噴水の広場に面した縦に細長い建物の中でリュシカニアは一度立ち止まると、振り返ってスピカを見下ろしてきた。
いつものにこやかな顔ではない。どこか影のある顔だ。あった時には気付かなかったが、元々白い顔は少し顔色が悪いくらいで、目の下には薄っすらとクマができている。
「リュシカ……?」
スピカはリュシカニアの様子に少し不安を感じると、殆ど無意識にリュシカニアの名前を呼んだ。
嫌な、予感。
予感というよりは、スピカは多分なんとなく分かっている。
「……なにか、変わるかしら……」
リュシカニアは無表情のまま、スピカを見下ろしたままそう独り言のように呟くと、また前を向いて歩き始めた。細長い建物の中にあった古びた階段をゆっくりと上っていく。時たまギィッと軋む鈍い音がした。狭い廊下の壁には扉が連なっていて、時々植木鉢や子供のおもちゃが転がっていた。その様子から、色んな人が生活していることが分かる。村ではそれぞれ一軒一軒の家がぽつぽつ建っているだけだったため、こんな集合住宅があることにスピカは少し驚いた。
建物の中は、独特のその場所のにおいがする。いくつもの扉の前を通る度にその匂いは変わっていった。おいしそうな匂いや、鳥の匂い。香の香り。猫のにおい。それぞれの生活のにおい。
リュシカニアがまた立ち止まった扉の前では、甘い花の香りと、それに混ざって少し不思議な匂いがした。
「ここ?」
スピカが聞くと、リュシカニアは黙って頷いた。
何か迷っている顔。
「どうしたの? ……なにか、迷ってる?」
「いやだわ。そんな顔してる?」
スピカが聞くと、リュシカニアは少し目を大きくして振り返った。
扉の横にある、窓の外から差し込むどんよりとした光が、リュシカニアの髪を鈍く照らす。髪についた水滴が、きらりと光って落ちる。
外では少し緩まったものの、まだ雨が降っていた。時たま強く吹く風は、窓枠をがたがた揺らしながらも、隙間を通って少し不気味な音を立てた。
「……わかんない」
スピカは少し肌寒い気がして身を小さく震わせた。
騎士の休憩所から一度部屋に戻って、外に出る為に着替えたものの、またここに来るまでに少し濡れた。
立ち止まったまま開かれない古びた木の扉の向こう側が気になって、スピカがリュシカニアの向こう側を見ると、リュシカニアは気付いたようで苦笑した。
「此処よ。私達の家は」
キィッとリュシカニアが扉を開けると、ふわっと花の香りとあの不思議な匂いが強くなる。この不思議な匂いは、スピカも知っている匂いと似ている。おばあちゃんの作ったにがい薬の匂い。
リュシカニアに続いて中に入ると、扉と開けた時と同じような音で床が軋んだ。
「……久しぶり、スピカ」
やっぱり。どうして今まで気付かなかったんだろう、とスピカは思った。
前に会った時と同じように微笑まれて、微笑み返す。
「久しぶり、セス……髪短くなったね」
「うん。邪魔になったから」
セスはそう言うと寝台の上から上半身を起こしたまま、スピカを手招きした。前スピカが会った時は腰の辺りまであった銀色の美しい髪は、今は肩につくかつかないかの長さになっている。その手招きする為に上げられた腕は小さく震えていたし、指と手はだらんとしていて腕を揺らした振動で、ぶらぶらと揺らして手招きしている状態だ。スピカはその様子に内心驚いてリュシカニアを見上げたが、リュシカニアは苦笑して小さく頷くと奥へと入っていった。
「……リュシカはセスのお姉ちゃんだったんだね」
セスティリアのいる寝台の脇には、少し大きめの植木鉢にスピカの背よりも低い木が植えてあった。葉が無いかわりに、スピカの握りこぶし位の大きさの真っ白な花がぽつぽつと咲いている。恐らく甘い花の香りはこれからだろう。
スピカはセスの座る寝台まで近づくと、その脇にアルカが寝そべっていたことにようやく気付いた。
セスティリアに促されるままに、アルカの前にある背もたれのない木の椅子に座った。セスティリアが背にしている壁側には大きな窓があって、そこからはあの噴水の広場が見えた。
「アルカも、久しぶり」
スピカがそう言うと、アルカは目を開けて尻尾を振りはしたが、眠そうにスピカを見上げただけだった。イーノスの言った通り、少し舐められているのかもしれない。
「そう。リュシカは私のお姉ちゃん……スピカってやっぱりちょっと鈍いね」
「だって、まさかふたりがそうだなんて思わないよ。セスと会ったのは寺院じゃなくて、広場でだったし」
「ふうん。じゃあ、イーノスとも兄妹だってことも、気付いてないんだね」
「え……?」
そう間抜けな声を出して間抜けな顔をしたままスピカが固まると、セスティリアは体を震わせて笑った。
ちょうどその時、奥へ入って行ったリュシカニアがお盆に茶器と甘い香りのするお菓子を乗せてやってきて、すまなそうな顔をしてスピカにお茶の入ったコップを手渡した。
「ごめんなさいね。騙してるつもりじゃなかったんだけど……寺院ではイーノスと私が姉弟だってことは秘密だったから。それにまさか友達になったのがセスティリアだったなんて、知らなかったのよ」
「今日の朝、私がスピカに会いたくなってお姉ちゃんに言ったんだよ……イーノスは言わなかったみたいだね。別に言う必要ないって判断したのかな。それか、おもしろかったから黙ってたのかも」
「……おもしろ、かったから?」
「私はスピカの反応が楽しみで黙ってたんだ」
「まあ、意地の悪いことするのね」
リュシカニアが呆気にとられているスピカの代わりにそう言うと、セスティリアはにんまり笑った。
スピカは頭を整理しきれずに肩を落とすと、少し疲れたようにセスティリアとリュシカニアを交互に見た。
確かに鼻の形や唇の形が似ている。セスティリアの目元はリュシカニアというよりもイーノスに似ていた。
「きょうだいだったんだあ……」
ため息と同時にスピカが言うと、足元にいたアルカが顔を上げて濡れた鼻先をスピカの手に当てた。慰められてるみたいな気分になって、少し情けなくなる。
「うん。ごめんね」
悪びれもなく言うセスティリアを少し恨めしげに見ると、セスティリアはリュシカニアに目配せをして、リュシカニアはすっと立ち上がった。
ちょっと買い物に行ってくるわね、と言うと二人の返事も待たずにさっさと行ってしまった。
「あのね、スピカ。スピカともっといっぱい話しがしたくてここに連れてきてもらったんだ」
「スピカも、セスといっぱい話したかった」
スピカが言うと、セスティリアはにっこり微笑む。リュシカニアと同じように、セスティリアスの顔は前に会った時よりももっと白くなっていて薄っすらと目の下は黒ずんでいるし、ふっくらとして柔らかそうだった唇は少しくすんでいてかさついている。それに先程手招きした時のセスティリアを思えば、何かよくないことはスピカにも分かった。
寝台からも恐らく立ち上がれないのだろう。寝台脇に置かれた小卓には、水差しと少し水の入ったグラスと、ねっとりと緑色した薬の入った瓶と、小さな団子状にされた赤い粒薬が瓶に入って置かれている。
おばあちゃんの時にも感じた、死の気配に気付かないふりをして、スピカも微笑む。
「イーノスが、セスのお兄ちゃんなんて」
リュシカニアとセスティリアが姉妹というのはなんとなく分かるが、イーノスはお兄ちゃんという感じがしない。スピカには兄姉がいないのでそれがどんなものかは知らなかったが、リュシカニアは『お姉ちゃん』という感じだ。確かに三人共どこかしら似ているし、セスティリアはリュシカニアよりもイーノスに似ているけれど、この家の裏にある噴水で二人はお互い知らんふりを決め込んでいた。セスティリアは少しのヒントをくれたが、あんな言い方でまさか兄妹だなんて思わない。
「似てるって言われるよ。特にイーノスには」
「うん。似てるけど……さんにんで、此処で住んでるの?」
スピカは部屋を見渡しながら聞いた。天井近くまである窓には上から籠が吊るされていて、そこから小さな花をつけた蔓がどっさりぶら下がっているし、寝台横にある植木以外にもたくさんの植物が育てられている。それに天井には天窓があって、今はその窓の硝子の上で雨水が踊っている。
今は薄暗いため、ところどころで蝋燭を点しているが、天気のいい日にはぽかぽか光が差し込んで、きっと気持ちのいい部屋だろう。
「イーノスもリュシカも最近は寺院暮らしだよ。リュシカは暫くずっといてくれるみたい」
「うん、聞いた……」
「かみさまが言ったからじゃないからね。私が動けなくなったから。情けないけど、歩けもしない」
「……良くなる?」
「ならない。多分、奇跡が起こらない限りは、どんどん悪くなってく。けど、人一人の身に起こる奇跡なんて一生のうちで高がしれてる…… リュシカは、だから私にスピカを会わせることを悩んだ」
スピカは何も言うことができずに黙り込んだ。だらんと体の横に垂らされたセスティリアの腕は白くて細い。手のかたちにはまだ幼さが残されている。
「悲しい? スピカ」
スピカは返事をせずに俯いた。足の間で手の平を合わせる。
会って間もないし、そんなにたくさん会った訳でもないけれど、セスティリアの死の気配に確かに苦しんでいる。
知っている人が死ぬのは悲しい。もっともっといてほしいと願ってしまう。元々そんなに会っていなくても、急に惜しくなるようにもっと会いたいと思う。
「私のことでスピカが思い悩んだり、悲しんでくれるのは少し辛いけど、嬉しい。ほっとする」
セスティリアは笑顔で言う。
「ねえ、スピカ。スピカはかみさまを選ぶの? 迷ってる?」
「……セスはどこまでスピカのこと知ってるの?」
「細かくは知らないけれど、スピカが遠くから来たってことは分かる。ずっとずっと遠くから……お菓子食べなよ。リュシカの手作りだよ。」
甘い香りも気にならない程に驚いたスピカは、今はいい、とうわ言みたいに呟くと、じっとセスティリアスを見た。セスティリアスは、あの白く濁ったエメラルドの瞳をじっと見るようにスピカに向けている。
「……前までは、光くらいはわかったんだけど、今はそれさえも分からなくなっちゃったんだ。手も足も、自分のじゃないみたいに殆ど感覚がなくなっちゃった」
「……」
「目がこんな風になった時から分かってたことだよ。大分と前に、もう十分悲しんだ……ねえ、スピカ。スピカは選べるのに、自分では選ばないつもり?」
「……選ぶよ」
「スピカが本当に帰りたいと願うなら、きっと帰れる。迷いは断ち切って。きっと難しいことだけど」
断ち切れるものなのだろうか。帰ってみたいと思う気持ちは確かにあるけれど、はっきりとしたものではない。それに、帰ってしまったらもう二度と此処には戻ってこれないかもしれない。それは、イシュについていくのも同じことだった。村人を見捨てると、トトを見捨てると、きっと二度と村に戻ることはできない。恐くて戻れない。
想いを、断ち切る。
「どうしてだろう。ここにいた時間の方が長いのに、帰ってみたいって思う」
「みたい、か……まあ、仕方ないことか。スピカはかみさまと一緒にいすぎたみたい。そんなんじゃあ決断するのは難しいね。というより、本当はかみさまと一緒にいたいけど、最近になって立ち位置が不安定になってきたから余計迷ってる?」
セスティリアの言葉に胸をどきどきさせながらも、スピカは小さく頷く。
「分からないけど、多分それもある……セスは、なんでも知ってるんだね」
「なんでもじゃないよ。知らないことはたくさん。スピカのことが分かるのは、近くにかみさまがいるから」
「トト?」
「うん。かみさまの強い想いは、ここにいても分かる……スピカ、これが最後の好機だよ」
「最後の?」
「そう、かみさまから逃れるね。これを逃しちゃ駄目。出来るだけ早く決断して。スピカが近くにいればいる程、壊れてく」
「……セス? こわれるって、なにが?」
何かを読み上げるように言うセスの様子を、スピカは訝しげに見つめた。
「スピカの選ぶ道によって、誰がどんな気持ちになるのか私には分からないけど、スピカはもっと苦しむことになる。 一度決めたら、なにがあっても振り返らないで。それは元々あんたには関係のないことだったんだから」
セスティリアスはそう言ったあとに優しく笑うと、「ねえ、聞かせて」と言って小さく首を傾げた。
薄く膜が張っているような緑の瞳はスピカを捉えている。
「あなたの、名前は?」
重い足取りでわざとゆっくり扉を開ける。真っ青に塗られた木の扉は、冷えた空気を吸い込んだ様に冷たく重い。
緊張した体をひたりと開けたままの扉にくっつけると部屋の中を見渡した。
あるのはまだ薄い雲に覆われた月のどんよりした光と、ひとつだけ点けられた明かりだけで部屋の中は殆ど真っ暗だ。
パドルは宿り木の上で身動き一つせずに眠っている。大きな天蓋付きの寝台の横には、荷物の入った少し大きめの鞄がひとつ。
セスティリアはスピカに、トトに何も言わずに消えるようにトトの下から去るようにと言った。そして早く、殆ど道が決められた選択の決断を早めるようにと。
「どうしてだろう……」
セスティリアスの言った言葉に対してではなく、今までの出来事全てと、自分自身の感情に対してスピカは無意識に呟いていた。
決心したはずなのに、トトを目の前にしてスピカはそわそわとしてしまった。
今目の前にいるのが、スペルカだったらよかったのに。けれど最近スペルカを余り見ていない。次にいつ表れるか分からないスペルカを待つこともできないので、スピカは心の中で必死になってスペルカに呼びかけたが、スペルカは気付いているのかいないのか、出てくる様子もなかった。
トトはじっとスピカが何か言うのを待っている。
セスティリアに会いに行った帰り、階段を下りた所でリュシカニアはスピカを呼び止めて言った。
あの子はもう長くない、と。
こんなこと、あなたに言うのは間違っているかもしれないけど、あなたの頼みだったら。
そう言ったリュシカニアは苦しそうな顔をしていた。ごめんなさい、と何度も呟いていた。
「ねえ、トト……お願いがあるの」
「――なに?」
スピカはトトに対して普通に接しなければいけない。トトが『かみさま』になる前と同じように。
トトをトトと呼ぶ。
トトに『かみさま』を見てはいけない。
「セスを助けて」
なんとか絞り出した声でそうスピカが言うと、トトはすっと目を細めた。薄く笑っているけれど、その表情はどこか無機質だ。
「どういうこと?」
「リュシカの妹のセスは、病気なの」
「僕がそれを治せるとでも?」
「……できないの?」
毎日の様に怪我人や病人を治していると直接目にしたことはないけれどリュシカニア聞いている。けれど、なくなりかけた命は取り戻せないことも。あくまで病気を取り除き、怪我を治すだけ。
「まさか君に、そんなことお願いされるなんて思ってもみなかったよ」
「……ごめんなさい」
「謝らないで。別に怒ってないよ……明日その子に会いに行こう」
スピカが顔を上げるとトトはいつも通り優しく笑った。
スピカが部屋を出て自分の部屋に戻った気配がしても、トトはぼんやりとスピカが去った後の青い扉を眺めていた。
寺院にきてから、幾人もの病気の人間に会っては懇願された。他の色々なことも願われた。その願った人たちの顔はとても必死で、同時に安心していた。神様は、きっと願いを叶えてくれるはず、と。
スピカだけは唯一無二だと思っていたのに、先程のスピカの顔は、少しだけそれらの顔に重なった。