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きみのこえ  作者: はんどろん
06.ひみつごと
23/63

23.

「眠ったんですか」

 扉を開けたイーノスは、呆れたようにそう言った。卓上に並べられた料理は殆どが手をつけられてないし、その正面に座る少女は椅子に座ったまま頭を垂れて小さな寝息を立てている。厨房の料理人たちが見たら嘆きそうな光景だ。その向かいには、金色の髪を揺らして笑う少年がどこか楽しそうにその様子を眺めていた。

「泣きつかれちゃったみたいだね」

 その言葉に、イーノスは小さく眉を顰める。

 目の前にいる少年の姿をした神様は、優しげな雰囲気や口調なのに、時折その少女に対してだけ嗜虐的な一面を垣間見せるような時があった。 それに時々、一抹の危うさを感じてしまうことがある。

「最近不安定なんだ……僕のせいかな」

 悪びれた様子もなく、やはりどこか楽しそうにそう言う。

 トトには自分の考えや思いが筒抜けなほどに分かってしまうと知っていたイーノスは、小さくため息を吐いて扉を閉め、ぴくりとも動かないスピカの傍へ寄った。跪き触れようとした瞬間、暖炉の木が爆ぜる音がして向かいに座るトトを見る。

「寝台に運んであげるんでしょ?」

 トトがにっこり笑い、イーノスは一瞬背筋に冷たいものが走るのを感じたが、それを無視してスピカを抱き寄せた。だらりとした体は、イーノスが引き寄せると力なくイーノスに凭れ掛かってくる。年齢にそぐわない小さな体は軽くて頼りないが、温かくてしっかり息づいている。

 街で一人暮らす妹と歳の近い少女。イーノスはスピカと会う度に滅多に会うことのなくなってしまった妹を思い出した。スピカより年齢の低い妹の方が、幾分大人びて見えるのだが。

「頬が少し緩んでるよ」

 楽しげな声にそう言われて、考えていたことを打ち消す。

 腕の中で眠るスピカが目を覚まさないようにと、できるだけ揺れないように歩き、寝台に体を横たえた。

 トトはスピカに布団をそっと掛けてやると寝台の近くに置いてあった椅子に座り、彼女の顔に掛かってあった髪を指先で避けた。そのまま手のひらで優しく額を撫でてやっている様子をイーノスは黙って眺める。その姿は、どう見えても普通の少年にしか見えないのに、内に宿すものは途轍もなく大きく、人を惹き付けてやまない。そこには元々の見た目の美しさもひとつの理由としてあるだろうが、そんなものではない何かが、心の中を満たすのだ。それは、小さな子供が親を慕う感情に、ほんの少しだけ似ているような気がする。

「……スピカは、君のことが好きみたいだよ」

「……?」

 言われて不思議そうにするイーノスに、トトは苦笑した。スピカが、イーノスに少なくとも惹かれているのをトトは知っていた。スピカは気付いていないかもしれないが、目は無意識にかイーノスを追っているのだ。

「本当、君たちきょうだいは……」

 トトは苦笑したまま呟いた。村から出てスピカと自分にまとわりつくものを引き剥がしたとしても、スピカはまた見つけてくる。 彼女自身は普通の少女なのだから当たり前だ。

「もう戻っていいよ。置いてある食事も、明日の朝片付けるように言っておいてくれればいい」

 後ろに立っていたイーノスの方を振り向くと、トトは優しく笑ってそう言った。

「はい」

 イーノスは一礼すると部屋を出た。寺院の中では、スピカにスペルカの手がついていると思っている者も少なくないが、スピカの様子を見ている限りはそうではないのだろう。ふたりでいる時、スピカはもとよりトトもまだ幼い子供のような顔をしている。『かみさま』が唯一心を許す少女。それに羨み嫉妬する者もいる。イーノスも、自分の中にその気持ちが生まれることがたまにあることを自覚していた。

 けれど、その少女自身は他人に羨望される程幸せなのかというと、きっとそうでもないのだろう。寧ろ、少しづつ追い詰められているようにも見える。

「……遠い、娘か……」

 いつか誰かが言っていたことを思い出す。

 スピカはトトの幼馴染で、物心つく前から村で歳の近いトトともう一人の少年と一緒にいた。そうであらなくてはならない。そうでないと、それはあまりにも酷い。

 イーノスは胸の中につっかえる蟠りを振り払うようにその身を翻すと、早足でその部屋の前から去った。


 雨が草木や地面を打つ音がした。

 薄暗い部屋の中、時間の感覚もなくスピカはぼんやりと昨日のことを思い出した。あんなに泣いてしまって、トトに変に思われてしまったかもしれない。部屋の中を見渡したが、トトの姿は見当たらなく自室に帰ったのだと気付く。なんとなく不安で、硝子扉の前にある鳥籠に気付き寝台から下りると早足でパドルのもとまで歩いた。鳥籠を開けてその中に手を入れてもパドルは逃げずにじっとスピカを見ている。スピカは一瞬その様子を伺うようにして手を止めてから、そっと小さな体を手で包んだ。そのまま鳥籠から出して両手で優しく包むとほっと息をする。小さいけれど温かい体温は、スピカの心もほんの少しだけあたためてくれた。パドルはぴぃっと高い声で鳴いてじっとまん丸な瞳でスピカを見上げている。

 おばあちゃんはあの時、寂しくないと言っていたけれど、スピカを残して逝ってしまうことを知っていたんだろうか。今更ながらにふとそんなことを思った。

 硝子戸に打ち付ける雨音につられて外に目をやると、思っていたよりも酷い雨風だった。雨音で目を覚ましたというのに、ぼんやりしていて気付かなかった。雨が、僅かに残っていた雪をすっかり溶かしてしまったらしい。手すりの端に残っていた白い塊が跡形もなく無くなっている。

 何故かむしょうにおばあちゃんに会いたくなったスピカは、無意識のうちに手に力を籠めてしまったらしく鳴き声ではっとした。

「ごめんね……」

 手を開くとパドルは気にした様子もなく、スピカの手のひらの上で心地よさそうに体を丸めた。大きな毛玉みたいになったパドルに、スピカは微笑む。

 決めないといけない。今度は、自分だけの意思で。

 イシュは十日間は都に留まっているらしい。イシュにしては長い滞在だ。スピカの考えがまとまるのを待ってくれるつもりだろう。

 十日経っても、まとまる自信はないけれど。

 嘘をつくのが辛くなってきたから、トトから離れる? トトを残して? 村のみんなを見捨てて?

 こんこんと扉を叩く音が聞こえてスピカが振り向くと、見たこともない尼僧が立っていた。一礼すると黙って数人の尼僧を引き連れて部屋に入ってくる。スピカは少し呆気にとられながらもその様子をじっと眺めた。尼僧たちは殆ど物音を立てないまま、卓上に置かれたままになっていた昨日の晩御飯を片付けて行き、その後から新しい朝食を持ってきた。

「……あの」

「なんですか」

 硬質な声色にスピカは体を緊張させた。リュシカニアとは違い、全く感情の篭らないような顔と声。嫌われているのかと錯覚してしまうような冷たい目線。普段からこの尼僧がそうなのか、スピカに対してだけなのか、スピカには知りようもない。

「リュシカは……」

「リュシカニアは、もうここには来ません」

「……え?」

「スペルカ様のお申し付けです」

「寺院にはいるの?」

「それをあなたに答える必要はありません」

 尼僧はそう冷たく言い放つと、いつの間にか朝食の支度が出来上がっていたのか、他の尼僧たちを引き連れてもう一度一礼し扉を閉めた。

 リュシカは、もうここにはこない。

 どうして。

 トトが昨日言っていたことを思い出す。

 ――スピカの世話係りのあの尼僧は、僕からスピカを引き離したいらしい

 スピカも、スピカとトトが二人でいる時にリュシカニアが部屋に故意に入ってきたような気がした時も度々あった。イシュと共に寺院を出ることを許可したのもおそらくリュシカニアだろう。

 けれど、たったそれだけのことでスピカがリュシカニアと会えなくなるなんて。あんまりのことに怒りも湧いてこない。

 スピカはパドルを鳥籠に戻すと、用意された朝食に見向きもせずに部屋を出た。


「どうしたの?スピカ?」

 あっけらかんとしたトトの様子を見て、スピカはようやく怒りがこみ上げてくるのを感じた。

 トトは手に持っていたお茶を静かに円卓の上に置くと、扉を開けたまま止まっているスピカに近づいた。

「なにかあったの?」

「……なにかあったの、じゃないよ」

 スピカは睨みつけるようにトトを見上げた。昨日の不安も、悩んでいることも今だけはどこかへ行ってしまう。

「リュシカは」

 ああ、と今やっと気付いたようにトトは呟く。

「やっと気付いたんだ?」

「……なにそれ」

「僕はスピカがいなくなったらすぐに気付くけど……スピカにとってはその尼僧は大した存在じゃなかったんだね」

 そっか、とどこか安心したように言うトトをスピカは目を見開いて見つめた。

 なにを言っているのか分からない。

「なに、それ」

「スピカ?」

 スピカは近づいてきたトトの胸をどんっと押しのけた。トトは驚いた様子もなく表情のない顔でスピカを見つめる。

 直も手を伸ばしてくるトトから逃れるようにスピカは後ずさった。

「スピカは、やだ」

 トトはその言葉の意味が分からないという風に小首を傾げる。

「スピカは、トトとたったふたりなんてやだよ」

「……」

「リュシカは、どこ?」

「さあ?」

 スピカはトトをもう一度睨むと、部屋を飛び出した。

 一度も振り返らなかったから、トトがどんな顔をしていたのか分からない。

「……潮時だよ……スピカ」

 トトは廊下を走っていくスピカの後ろ姿を眺めながら、小さな声で呟いた。


 寝衣のまま部屋を出たスピカは徐々に体が冷えていくのを感じた。雪が溶けたといっても、外では激しく雨が降って曇っているし、まだまだ寒い。部屋履きの皮で出来た靴も薄く平べったいので、床の冷たさがすぐに伝わってくる。目の前が自らが吐く白い息でぼやけた。

 寺院中、思いつく限りリュシカニアの姿を探し回ったが、結局今もリュシカニアとは会えていない。もしかしたら今日はたまたま寺院にいない日かもしれない。それにリュシカニアは時々街に買出しに行くこともある。そしていつもスピカとイーノスにお菓子を買ってくるのだ。

「……そうだ、イーノス」

 気付くやいなや、スピカは自分の格好も忘れて騎士の休憩所へと走り出した。

 途中で何人かの尼僧とすれ違ったが、尼僧たちは怪訝そうにスピカを見るだけで止めるものはいなかった。

 厨房の前を通って、渡り廊下を行くと少し離れた所に騎士たちが集まる場所がある。集まる、といっても寺院にいる騎士は少ないのか、トトが此処に来てからはその数は増えたとは聞いたが、スピカはイーノスと寺院の門で番をする騎士以外は余りみたことがなかった。リュシカニアに聞いたことだが、数ヶ月ごとに交代で違う騎士が派遣されてくるらしい。

 少しすると、騎士たちが数ヶ月間を過ごす小さな建物がいくつか見えてきた。寺院のほぼ裏手にあるその建物は華やかな騎士のイメージとは程遠い、飾り気がなく質素なものだ。

 騎士用の食堂と、宿舎は全てそこに連なる建物のどれからしい。

 スピカは前も来たことのある大きな扉の前まで、濡れることも気にせず走った。寺院から騎士達の生活の場まで繋がる渡り廊下はない。部屋履きの中まで水が染みて、ぐちゅぐちゅと不快な音を立てる。

「イーノス!」

 どんどんと大きな扉を叩きながら、雨の音でかき消されないようにスピカはイーノスの名を叫んだ。

 暫くして扉が開くと、ひょっこり顔を出したおじさんが怪訝そうにスピカを見た。

 騎士、なのだろうか。見た目だけだと騎士と言うよりは図書館の司書という方がしっくりくる。そういえば、イーノスも細長い体をしていたけれど。

「お譲ちゃん、どうしたんだい?」

 おじさんは身を屈めると、迷子の子に聞くように優しい声でそう尋ねた。

「……イーノスは……」

「ああ、入りな」

 おじさんはスピカの格好を一瞥すると、中へ招き入れた。

 寺院に来てから暫く経つが、騎士の休憩所に入るのは始めてだ。入るとすぐにそこには木でできた簡素な卓や椅子が、雑多と置かれていた。暖房の為か、真ん中の空洞に薪をくべて焚く細長い鍋でお湯を沸かしている。そこに数人の騎士たちの姿もあり、皆急に入ってきた少女を不思議そうに眺めた。スピカは今更寝衣姿であることを思い出して、恥ずかしくなり俯いた。それに先ほど寺院から此処までの間を走っただけで寝衣からむき出しの足は泥だらけになっていて、髪からもぽたぽた水が落ちてくる。

 スピカは冷えた体をぶるりと震わせた。この中はまだ少し暖かいとはいえ、濡れた姿には十分寒い。自覚しだすとそれは一気にスピカを襲った。

 おじさんは自分が着ていた上着を着せてやり、近くにあった椅子にスピカを座らすとそのままスピカを残してどこかへ行ってしまった。 数人いた騎士たちは寒そうに震えるスピカを見かねたのか、先ほどのおじさんにならってスピカの頭の上から、肩から自分たちの着ていた上着をかけてくれた。 一人の騎士は、慌てた様子で奥から大きな布を持ってきてスピカに手渡した。

「大丈夫?」

 訊かれて顔を見ると、スピカもどこかで見た顔だったから記憶を巡らせる。茶色い髪に緑の瞳。どこにでもいるような風貌のお兄さんだ。

「――あ、」

 スピカの見知った表情とは違ったのですぐには思い浮かばなかったが、よく見れば門の前でスピカを捕まえたこともある騎士だった。数人の騎士の中には、その片割れもいる。いつもは無表情で、厳しい顔をしてスピカが出ないように見張っていたのは、やはり仕事だったからだ。心配そうに見てくる騎士を見てスピカはほっと息をついた。

「なんだ、その格好」

 少し低めの声でスピカは勢いよく立ち上がった。その時に掛けてもらった上着が一斉に落ちて、慌てて拾う。その様子が可笑しかったのか周りから堪えたような笑い声が聞こえてきて、スピカは情けない顔でいつの間にか後ろに立っていたイーノスを見上げた。

 よほど情けない顔だったのだろうか。スピカの顔を見たイーノス以外の騎士は、耐え切れなかったのか噴き出したあと体を震わせた。それを見て益々情けない気分になってしまう。

「……どうした?」

 イーノスは一人気にした様子もなく、周りの様子に少し呆れたのか小さくため息をつくと、いつもの、あまり波のない口調で聞いた。

「……あのね、リュシカしらない?」

「リュシカニア……?」

 イーノスがリュシカニアの名前を言うのを始めて聞いたスピカは、少し目をまるくした後、大きく頷いた。

 それさえもなにか面白かったらしい。笑っていた騎士たちはもう一度噴出した。スピカには分からないが、よほど可笑しかったのだろう。スピカにとっては全然面白くない。ちょっと失礼なんじゃないかと思う。

「あいつは町にいる」

「今日だけ?」

「……暫くは」

「どうして? トトが言ったから?」

 スピカの言葉に笑っていた騎士たちからすっと笑いが消えた。一気にぴんっと張り詰めた空気になる。スピカは騎士たちの様子に戸惑った。トトの名前を簡単に出さない方がよかったのかもしれない。

 イーノスはまたため息をつくと、スピカの腕をひっぱってイーノスが入ってきた扉を通った。そこは食堂だったようで、朝食か昼食かの香りが漂っていた。先ほどまでいた休憩所よりは少し広くて卓や椅子も多い。長台があって、そこにはまた数人の騎士が座っていた。門の前にいる騎士と合わせると、確かに思っていたよりは人数が多い。

 どう見ても尼僧には見えないスピカがトトに連れられて来た娘と知っているのか、長台に座る騎士達も先程の騎士達と同じように、イーノスが連れてきたスピカを興味深げに見ている。イーノスはその騎士たちとは出来るだけ離れた席にスピカを座らせると、自分もその向かいの席に着いた。少し古びた木の椅子が、小さくぎしっと鳴る。

「スペルカ様が言ったからというのは、ひとつの理由だがそれだけじゃない」

「……なにかあったの?」

「妹が体を壊したんだ」

「いもうと?」

 そういえば、前にリュシカニアが言っていた気がする。

「悪いの……?」

「さあ」

 また曖昧な態度でイーノスは言った。それもそうだ。リュシカニアの妹のことまで、イーノスが知っているはずもない。

「早くよくなるといいね」

「ああ」

「……?」

 なんとなく違和感を感じてスピカはイーノスを見つめた。なにに違和感を感じてしまったのか分からないが、ただなにかいつもと違う気がする。嫌な予感、とでもいうのだろうか。正体の分からない小さな不安が胸の中で燻る。

「しばらくってことは、妹がよくなったらまた戻ってくる?」

「ああ」

「そっか……」

 スピカは体の力をようやく抜いた。リュシカニアが寺院に戻ってきても、以前のようにスピカの部屋にくることなんてなくなるかもしれないが、それでも同じ寺院にいれば会えるだろう。トトがリュシカニアを寺院から追い出したんだとてっきり思っていたけれど、思い違いだったみたいだ。けれど、トトが言ったことはやはりスピカにとって嫌なことだった。それはトトが決めることではないのに。大した存在ではないなんて、どうしてそんなことが言えるのか。

「落ち着いたかい?」

 少し掠れた低い声でスピカは顔を上げた。先ほどスピカを休憩所に入れてくれて上着を掛けてくれたおじさんだ。おじさんはスピカとイーノスの前に湯気の上がるコップを置いた。お茶のいい香りがする。

「……ありがとう」

 お礼を言ったスピカは出されたお茶を一口飲むと、濡れて気持ち悪くなってきた靴を脱いでその上につま先だけついた。足についた泥が乾いて、それも少し気持ち悪い。頭も服もまだ濡れている。

 こんなに必死になっていたのかと、スピカは今更ながらに気付いた。最近少し気分の上がり下がりが激しいような気がして、眉を顰める。気をつけないといけない。スピカはこんな風になってはいけない。それに、頭に血が上ってしまうと、下手なことを言いかねないのだから。

 おじさんは微笑んで頷くと、またすぐにどこかに行ってしまった。スピカもイーノスも、黙ってお茶を飲んだ。同じ食堂にいる騎士たちは時々スピカたちの方をちらちらと気にしながらも、また自分たちの話しに華を咲かせていた。二人とも無言になると、その騎士たちの声と外で振り続ける雨音が目立ち始める。

「……トトはね、本当はもっと優しいんだよ」

 今は優しくないという訳ではない。けれど、トトは少しずつ変わってきている。けれどもしかするとスピカがその一面を知らなかっただけかもしれない。スピカはトトの孤独を知らない。それはスピカと同じで、それでいて違うのだろう。もっと色んなことに目を向けて見て欲しいと思うけれど、賢いトトはそんなこともうとっくの昔にしていたかもしれない。

 なぜか急に言い訳したい気持ちになって思わず呟いたスピカの言葉に、イーノスは黙って頷いた。

「スピカは、ちゃんとトトのこと好きなのに」

「俺に言ってどうする」

「……そうだね」

「だったら、」

「え?」

「だったら、傍にいればいい」

 そう言ってイーノスは少し優しく笑う。スピカはなぜか恥ずかしくなって俯いた。それと同時にイーノスが笑ってくれたことが嬉しくて、小さく微笑む。

 しかし、それでもスピカは頷かなかった。頭の冷静な部分ではまだ迷いがある。それとも、迷いがある時点で冷静ではないのだろうか。

 あの村で、トトと一緒にいる。それが自然なことだと思っていた。けれどそれは同時に不自然なことでもあるのだ。

 前髪から雫が落ちてきて、スピカは先程騎士が渡してくれた布で髪を拭いた。貸してくれた上着も、ちゃんとお礼を言って帰さないといけない。

 トトは、遮断する。自分の思いと自分を見る人の目が、食い違うから。トトが『かみさま』でいる限りは、それは変わりはしないのだろうか。それは、どうしようもないことのひとつなのか。今まではどうしようもないことだと心のどかかで思っていたけど、都に来てからはそれを受け入れるのが嫌になった。トトが変わってきてから、どうしようもないなんて思いたくなくなった。

「おい」

「なあに」

 顔を上げて、イーノスがいつもの気だるげな様子ではなく、トトの前でいるような真面目な面持ちでいたのでスピカは小さく首を傾げた。

「頼みがある」

 その言葉に、目を丸くする。イーノスがスピカにそういう風なことを言ったのは、初めてだ。

「リュシカニアの妹に会ってやってくれ」

「……え? なんで?」

「お前に会いたがってる」

 その理由が分からないスピカは、益々首を捻った。

「……会ってみれば、分かる」

 スピカは釈然としないながらも、小さく頷いた。




 トトは、特別な少年だ。

 そんなことはきっと誰もが知っている。美しい少年の姿をした神様。奉られるべき現人神(あらひとがみ )

 けれどそうなるまではトトも病弱で、哀れみの混ざった目で見られていた。それを悲しいと思ったことはなかったけれど、惨めに思ったことはある。まだ幼いオスカでさえ、父親の手伝いをしているというのに、トトには殆どなにもできなかった。調子の良い日に、外に少し出れるぐらいだ。スピカとオスカが外で何をして遊んでいたのか見かけたとしても、両親がそれをトトに内緒にしている時、スピカとオスカが二人でやって来て二人で帰ってしまった時には、いつも寂しい気持ちと、理解したくない嫌な気持ちに襲われた。

 みんな、トトを優しくて穏やかな少年だと思っている。

 トトはきっと違うと思っていたが、そうならなくてはならないと思っていた。

 嫌な気持ちは捨てなくてはならない。芽生え始めた感情に蓋をしないと。大きくなってしまわないうちに。肥大した感情は時に醜くて、嫌悪される。だから何度も何度も押し込んだ。

 『かみさま』になってからは人の感情の波が、大体の考えが分かるようになった。それまでもトトは聡い子供だったが、それでもその時の比ではなかった。どうしてかは分からないが、ふとした瞬間になんとなく分かってしまうのだ。

 だけど、スピカだけは分からなかった。大きな口を開けて大声で笑っていても、顔をくしゃくしゃにさせて泣いていても、感情の波さえわからない。ただその様子で分かるだけ。覗いてみようとしても、何も分からない。

 部屋の扉が開く気配がしてトトは閉じていた目を薄っすら開けた。長椅子に凭れた体は動かさない。扉を開けた人物は中に入ると静かに扉を閉めて、じっとしている。トトの位置からは見えないが、見なくても分かる。いつもは扉の向こうからでも伝わってくる感情の波が感じられない。スピカだ。

 めずらしい。

 トトは僅かに微笑んだ。都に来てからは殆どスピカは自分からトトに会いに来ようとしない。それも自分の態度と行動を考えれば仕方のないことだった。本当はとっくに嫌われても仕方ないくらいかもしれない。

 今日も、酷いことを言った。スピカの言葉を思い出す。

 ――スピカは、トトとたったふたりなんてやだ。

「ずっとそこで立ってるの?」

 てっきりトトが眠っているかと思っていたのだろう。急に話しかけられたスピカは、体を小さく震わせた。振り向くトトと、目が合わないように視線を落とす。

 トトはそんなスピカの様子をじっと見た。癖のようにスピカの心の中を探ろうとするが、やはり何も分からない。嫌に勘がよくなってからは、人の心の内とはあまり知らない方がいいものだと思っていたが、スピカが何を考えているのかは知りたくなってしまう。スペルカに最も近い村の人間たちのことは殆どなんでも分かってしまうのに、どうしてスピカのことだけは分からないのか。スピカは、違う。それはなんとなく分かる。村の人間たちとは、何かが。間違いなくスピカも村で生まれ育った、村人の筈なのに。

「こっちに座りなよ」

 いつまでも扉の前から動こうとしないスピカに、トトは座っている長椅子の座面をぽんぽんと軽く叩いた。それでもスピカは動こうとはしない。視線を落としたまま長衣の裾をきゅっと握っている。トトは立ち上がり自らスピカの方へ行った。どうしたの、そう聞こうとして、同時にスピカの腕に伸ばした手を僅かに触れただけで止める。

「……どうしたの?」

 逆にスピカに尋ねられて、トトはできるだけ不自然じゃない笑顔を作ってなんでもないよ、と答えた。それでも訝しげに眉を顰めて見上げてくるスピカに、そんなにおかしな顔をしていたのかと苦笑してしまう。騙すのには慣れている筈なのに、どうやら少し動揺していたらしい。

「スピカこそどうしたの? ……こんな時間に」

 日はとっくの前に落ち、今はもう真夜中だ。

 訊くとスピカは少し深刻な顔をして、探るようにトトの瞳を覗いた。

「……トト、だよね?」

「僕以外に誰がいるっていうの?」

 スピカが少し落胆したように見えて、トトは僅かに眉を顰めた。スピカは落ち着きなく瞳を揺らせながら、そわそわと指先を絡め合わせている。なにか迷っているようだ。トトはスピカが何か言い出すのをじっと待った。

 ようやく口を開いたスピカが言い出したのは、村人とスピカにとっては禁忌を破る言葉だった。








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