22.
「行くって、どこに……?」
イシュに言われた言葉をすぐには理解できなくて、理解した途端にスピカは喉に何か詰まるような感覚に襲われた。
どこか、此処ではない、トトと村の人たちの干渉が及ばないところ。
「色んな所だよ。楽しいよ?」
イシュは小さな子供にお菓子をあげるように、おどけた仕草で言った。
確かに、楽しいだろう。スピカは都にくるまでは殆ど村を出れたことがなかったけれど、小さい頃から違う場所への興味と淡い期待はあった。村を抜け出して、ずっとずっと走って行ったら、もしかしたらママとパパに会えるかもしれない。気が付いたら家に帰れているかもしれない。そう思って駆けたのは、どこまでも暗い夜の森だった。ずっと走って、夢の中で走っているような感覚になって、でも結局冷えていく体に身を震わせて目を覚ますと、やはり深い森の中。少しして村から大人達やオスカが明かりを持って探しに来てくれた時には、安堵すると同時に絶望した。
ママとパパはいない。家なんてどこにも見当たらない。一緒に遊んでいたはずの友達の声も聞こえない。
車輪の音も、帰りの時間を知らせるあの音楽も、トトが奪った。
「スペルカ様が君を強く呼んだから、君がここにいるんだろう?」
唐突な言葉に、体を硬くしていたスピカは僅かに体を揺らした。
「スペルカ様が望んで、君がその為にここにいるのなら……離れてみたら?」
「……どうして?」
「スペルカ様が、スピカのことを少し忘れる位になると、君はお家に帰れるかもしれない」
今更そんなこと誰かから言われるなんて思ってもみなかったスピカは、それを言ったイシュを凝視した。
「ママとパパは、覚えてないかもしれない」
「そうかな? ずっと悲しんでいるかも」
「……イシュは、帰ってほしいの?」
イシュはそう聞かれてただ微笑んだだけだった。
「もし本当にそうなれば、君との別れは辛いけど……故郷の歌を歌う時の君は、いつも酷く寂しそうだよ」
「……」
「まあ、帰れるにしても、帰れないにしても……」
一度、神様から逃げてみない? 今度はピクニックにでも誘うような気軽な調子でそう言った。
夕食の時間になると、トトがいつもと変わらない様子でスピカの部屋にやってきた。トトが何を知っているのか分からないスピカは、あれからトトと一緒にいると不安になる。いつもみたいに優しい顔で、声で笑うトトは当然の様にスピカの前の席で座っている。トトをまともに見ることができない。
今までもふいに湧き上がっては消えていた罪悪感から逃れられない。トトのせいでスピカは此処にいるけれど、嘘をついたのは村人とスピカだ。トトはスピカを望んだけれど、嘘を望んだわけではないのだ。
嘘がばれたかもしれないと思った途端に後ろめたくなるなんて。
それに、トトがスピカの真実を知ると、此処にいるスピカのことなんてどうでもよくなってしまうかもしれない。
「食べないの?」
訊かれてスピカははっと顔を上げた。そう訊いたトトも卓上に並べられた食事には全く手をつけていない。水の入ったグラスの縁に指を滑らせては、耳の奥に響くような不思議な音を立てて遊んでいる。反対の右手の方は、顔に添えられて肘は卓上につき、食べる気もなさそうだ。
リュシカニアが見たら怒り出しそうだ、とスピカはぼんやり思った。
「トトは食べないの?」
「食べるよ」
「そう……」
スピカは息を吐くとフォークを手に取った。いい匂いがするけれど、食欲は余り湧かない。野菜をぷすりと刺して齧って、無理やり飲み込む。
「おいしい?」
「……うん」
「元気ないね」
「……そうかな」
「そうだよ。昼に食べ過ぎたんじゃないかな?」
「お昼は……」
「イシュ、が来たんだろう?」
「……」
その名前をトトの口から聞いてスピカは身を硬くした。
一緒に、行かないか。
「誰が、勝手に出ていいなんて言ったのかな?」
トトはいつも通り柔らかくそう言ったが、その口調からは想像もつかないような横暴な言葉だった。 グラスからゆっくりと上げられた視線に捕まって、動けなくなる。
怒っているのだろうか。けれど、トトの表情にはどこにも怒りは見当たらなかった。いつも通り優しく微笑んでいる。
その口調からしてやはりトトが、スピカが外に出ることを許可したわけじゃないらしい。だったら、リュシカニアがトトの言いつけを破って、スピカが外に出ることを許してくれたのだろうか。
「トト?」
「スピカは、馬鹿だね。やっぱり信じてなかったんだ」
「なにを」
「僕が、君を傷つけることができるってことだよ」
何を言っているのか分からずに、スピカはただトトを呆然と見つめた。トトは先程とは違っておもしろそうに笑っていて、その様子は少しスペルカに似ている。
「スピカの世話係りのあの尼僧は、僕からスピカを引き離したいらしい」
「え?」
酷いよね。そう言いながらもトトはおかしそうにくすくす笑った。
すっとグラスの縁に指を滑らせて、なんともいえない音色でスピカの鼓膜を震わせる。
「僕らの周りは変化していってるんだよ」
「トトが、なにを言いたいのか、さっぱりわかんない」
「君と僕だけが何も変わってないんだよ」
「変わったよ……トトは」
「そうかな。じゃあ、スピカだけなにも変わってない」
「……」
「オスカがどうして都に来たか知ってる?」
「服を届けに来てくれたんだよ」
「たったそれだけの為にわざわざ山を越えて?」
本当に、何が言いたいんだろう。探ろうと薄蒼い瞳をじっと覗き込んでみたが、スピカを見るその目は僅かに暖炉の炎を反射しているだけで、奥の方までは見えず、何を考えているかなんてやはりスピカには何も分からない。
「……約束してたから。オスカはああ見えても、約束は破らないんだよ」
「知ってる」
そう呟くように言ったトトの瞳が、懐かしいものを思い出すように細められたので、スピカは目をまるくした。少し早くなった鼓動を抑えるようにして、服の胸元をぎゅっと掴む。
「ねえ、トト……今でも、オスカと友達?」
「少なくともむこうはそうは思ってないよ。それに、オスカは僕を村のものにしようとする村人の一人だ」
僅かに湧いた淡い期待は簡単に打ち砕かれてしまった。昔は凄く仲のいい親友だったのに、今はお互い係わり合おうとしないなんて、スピカは経験したことがなかったし、想像もつかない。
「トト、スピカも村の人間だよ」
「村の人たちにいいように利用されても、スピカは村の人間でいたいと思うんだ?」
「……どういうこと?」
「君は僕を村に繋ぎとめるいい餌みたいなものなんだよ。村の人たちにとっては」
君は、神様に捧げられた生贄なんだよ。
この前もトトはそんなことを言っていた気がして、スピカは手に持っていたフォークをぎゅっと握った。どうして最近のトトは、こうも酷いことを言うようになってしまったんだろう。スピカが聞きたくなかったことを、優しい口調で残酷に突きつける。
「オスカも、本当は君と僕を迎えに来たんだよ」
「だったら、オスカと一緒に帰ればいい」
「どうしてスピカがそんなに帰りたがるかやっぱり分からないよ」
「生まれ育ったところだもん。ずっと、あの村にいたい」
何度ついた嘘だろうか。
スピカはトトの瞳から目を逸らすことなく言った。トトはすっと目を細めると何かを探るようにじっとスピカの瞳を見つめる。
「本当に、トトにはぜんぶ分かるの?」
「うん。知ろうとすれば……スピカのこと以外は」
ああ、そっか。スピカは違うから、たとえ近くにいてもスペルカは関知しない。
ほっとしながらも、どうして他のことが分かるのに、スピカのことには気付かないのかと思う。もしかしたら、自分でも知らないうちに、気付かないようにしているのだろうか。
「ねえ、トト。優しい人、いっぱいいるよ。みんなトトを大好きだって思ってる」
今のトトは村人と大して変わらないことに気付いているのだろうか。スピカを閉じ込めようとする。自分の元から、他の何処へもいかないように。
「それは君が普通の女の子だからだよ。みんな僕に対してそういう感情が湧くようになったのは、僕が『かみさま』になってからだ。そこには畏怖の念も混ざってる」
それは、トトだけが知ること。スピカには想像もつかない。それは、そんなに嫌なことなのだろうか。
みんなが、トトをトトとして見ないこと。
「――ああ、そっか」
スピカは無意識のうちに呟いていた。
トトと、スピカは一緒だった。トトにとっては皮肉なことかもしれないけれど。
トトがかみさまになってしまったことひとつで、一人の人が死んで、他のことが大きく変わってしまった。長い間つかれた嘘は、もう暴いてはいけない。
スピカは、突然空虚な気持ちに包まれて脱力した。
「スピカ?」
「トト……どうしてトトは、スピカと一緒にいようとするの?」
スピカの様子を不思議に思ったのか、スピカの今更な質問を疑問に思ったのか、トトは不思議そうな顔をしてスピカを見つめた。無意識に傾けた首筋を、少し伸びた金色の襟足が撫でる。卓上についた右腕はそのままに、グラスから離した手を円卓越しにスピカへと伸ばす。本来は一人で使うための円卓は小さくて、スピカとトトの距離はそんなにない。スピカの頬に手を沿わせたトトは、薄い笑いを浮かべた。
「スピカと、一緒にいたいからだよ」
当然のように囁かれた言葉に、スピカの胸は痛んだ。
最初のうちは、知らないうちに、騙されるように。だけど今は、スピカの意志で。過去の出来事の一部を忘れてしまっているトトを騙している。
ようやくおばあちゃんとの暮らしも慣れ始めた頃、おばあちゃんはまるで物語を聞かせるようにスピカの枕元で囁いた。トトに知られてはいけない、秘密のこと。トトと、スピカの秘密。トトがかみさまになってしまった日のこと。
かわいそうな、かみさま。
――だけど。
おばあちゃんは言う。スピカにも伝わるように、ゆっくりと。
――だけど、もしかしたら、スペルカ様はそれを望んでいたのかもしれない。嘘でもいいから、スピカを呼んだのかもしれないね。
スピカは小さく震える手を頬に触れる手に添えた。冷たくて、スピカの手とは違って少し骨ばった手。
するとトトは、一瞬驚いた顔をしたあと、嬉しそうに頬を綻ばせた。細められた目の瞳も、昔のように澄んで見える。
「スピカが、いてくれればいい」
それは、狂気にも似ている。
スピカは、そんなものを知らない。本当にかわいそうなのは、だれだろうか。忘れられてしまったあの子か、それとも。
トト、スピカは違うんだよ。本当は。トトが一番望んでたのは。
「……スピカ?」
少し戸惑ったよな声色に、スピカはようやく自分が涙を流していたのに気付いた。色んな感情や考えが、ぐちゃぐちゃに交じり合って、自分でもよく解らなくなっている。
ただ、少し悲しい。
八年前からのひとつの嘘が、今はこんなにもスピカを苦しめる。過去の出来事に『もしも』なんて有り得ないけれど、こんな風になってしまうのならば嘘をつかなければよかった。嘘をつかずに、ちゃんとトトと話しをして、時間は掛かったかもしれないけれど、そこからでも始められたはずなのに。
「トト」
なに、スピカ。と、トトは優しく笑って答える。指で、スピカの涙を拭いとる。
スピカはトトの名前を呼ぶけど、トトはスピカの本当の名前さえ知らない。トトにとっては多分、いらないその名前。
スピカはそれ以上何も言えずにただぽろぽろと涙をこぼし続けた。