20.
真っ暗な部屋の中でスピカは目覚めた。
真っ暗と言っても、硝子扉からは真っ白な月明かりが差し込んできている。その光りをきらきら反射する金色は、トトの髪の毛だ。長椅子に座っているトトは背を向けていて、スピカの位置からでは起きているのか眠ってしまっているのかも分らない。
スピカはその様子をぼんやり眺めながら、月祭りの夜のことを思い出した。祭壇の上にいる、トトの姿をしたスペルカ。あの頃にはおばあちゃんもいた。そんなに経っていないのに、やはり村にいた日々は遠い。
「目が覚めた?」
言われてスピカは体を起こした。随分眠ってしまったのか、少しだるい。
はっきりとは覚えていないが、多分長椅子で寝転んでからずっと眠り続けていたのだろう。
けれどスピカが今いるのは大きな寝台だ。誰が運んでくれたのかふと疑問に思ったが、訊くのは止めておいた。
「……どの位寝ちゃった?」
「ん、一日とちょっとかな」
「……え? いちにちと、ちょっと?」
あんまりの答えに思わず聞き返してしまう。トトはなんでもないことのようにうん、と頷いた。
「ぐっすり眠ってたから、起こしちゃ悪いかなと思って……最近眠れてなかったみたいだったし」
確かに眠れていない。最近は中々寝付けないし、やっと寝付けたと思ってもあっという間に朝になってリュシカニアに起こされていたから。それにしても寝すぎだ。
スピカは小さく唸りながら寝台から起き出して、裸足のまま床に足をついた。暗くて靴がどこにあるのか分らないのでそのまま立ち上がる。
少し肌寒い。喉も涸れているし少しお手洗いにも行きたい。けれど、冷たい空気に触れて少し目が覚めて、体は眠る前よりも随分軽くなっているような気がした。
「トト、灯りちょうだい。暗くてなにも見えないよ」
「部屋に戻るの?」
今が何時ごろかは分らないが、部屋はきっと寒いし、布団も冷たい。それに真っ暗な廊下は不気味なのだ。それを想像すると部屋に戻る気にはなれずに首を横に振った。
暗くても、トトには見えたらしい。微笑むとおいでおいでをする。スピカのいる真っ暗な天蓋付きの寝台のところからは、硝子扉の近くに腰掛けるトトがよく見える。スピカはそうすることが当たり前のように、導かれるままトトの近くまで寄った。
「……スピカ、月祭りの時に僕が言ったこと覚えてる?」
「なに?」
「スピカは警戒心が無さ過ぎる」
「トトに警戒心なんて…」
最近は何を言われるか分らないから少し警戒していたけれど。
口を噤んだスピカの素直な反応にトトは苦笑した。長椅子に座るトトの前に立ったスピカはトトをじっと見下ろす。トトもスピカに目を合わせて彼女の手に指を絡めた。
「僕にだってスピカを傷つけることができるんだよ」
村にいた時だったらスピカは間違いなく否定しただろうが、今はそれもできなかった。
「知ってる」
「スピカはなにも知らない」
「……」
知らないのは、トトの方でしょ。そういい返したくなったが、なんとか耐える。
「……だったら、トトはなにを知ってるっていうの」
「全てを」
「全部知ってるんだよ、僕は……スピカ」
鋭い視線に付き抜かれるような錯覚に陥り、スピカは反射的にトトの手を振り払った。頭からさあっと血の気が引いていく。
全てを。
そんな筈はない。
スピカが凝視する中、トトは鋭い視線をふっと和らげた。
「例えばスピカが、一昨日の朝ご飯に何を食べたかとかね」
少しおどけた調子で言うトトにスピカも微笑もうとしたが、笑うことなんてできなかった。引いた血の気はそのままで、背筋に冷たいものが走っている。
振り払った手をもう一度近づけられて、スピカは体をびくりと震わせた。
「どうして怯えてるの?」
「……怯えてなんかない、よ」
震える声でなんとか答える。目を逸らしたいのに、トトの視線に捕らえられたように逸らせない。トトの方から逸らしてくれればいいのに。
スピカはふいに大声を出して泣きたい衝動に駆られた。不安で不安で堪らない。まるで足元がぐらぐらと揺れているようだ。トトが言っていることがスピカの思っていることとは別のことかも知れないのに、こわい。
トトは、知ってるのだろうか。あの丘の上にあるお墓のこと。誰の名前も刻まれていないあのお墓の下で眠る子のこと。
スピカの、こと。
「トトは……」
知ってるの?
訊いてはいけない。聞いたら、壊れてしまう。村の人達が作ってきたトトとスピカの世界。トトはきっと知らない。きっと。そう信じるしかない。
スピカは唇を痛くなるくらい噛んだ。じんわりと血の味が染みる。
「……なに?」
「……なんでもない」
スピカは不安を無理に押さえ込んだ。
トトが急に立ち上がったので思わず身を竦ませてしまう。トトは気にした様子もなく、小さな卓上に置かれていた水差しの水をコップに注いでスピカに差し出す。スピカがなかなか受け取ろうとしないから、トトは苦笑した。
「喉、渇いてるだろう?」
そう言われて受け取ったコップはひんやり冷たかった。
トトの柔らかい表情からはなにを考えているのか分からない。ただ、暗くても何故かトトの瞳が冷たく澄んでいることは判った。月明かりは湖の底をも鈍い光で照らす。
何かが詰まったような息苦しい喉に無理やりに水を流し込むと、もう一度トトを見た。トトは変わらず薄く微笑んでスピカを見ている。
「トト、村に戻ろうよ」
スピカは無意識の内にそう口にした。トトは何も答えずに黙ったままだ。懲りずに言うスピカに呆れているのかもしれない。スピカも、もうトトの返事には期待しない。
「スピカは、トトが『かみさま』だから一緒にいるんじゃないよ」
「……」
「スピカは、スピカだから一緒にいるの」
全てを知っているなら、トトはそのことを知っている筈だ。スピカが、スピカでいる為には村もいるし、村の人たちもいた方がいい。トトがスピカと過ごした村でいた方がいい。
スピカが此処にいるのは、スピカがスピカであるからだ。だから今も生きている。生かされている。
「……今日、寺院を出ただろう? オスカと一緒に。だから余計に里心がついちゃったのかな」
スピカは顔を歪めるとふらりと後ずさった。
「村の様子を聞いた?」
スピカの反応がないのでトトは言葉を続けた。
「僕がいなくても本当は大丈夫なのに、駄目なのだと思い込んでいる。そして僕を閉じ込めようとする」
『かみさま』になる前はそうじゃなかったのにね。と、トトは小さな声で付け足し、すっと立ち上がるとスピカに腕を伸ばした。
ぎゅっと抱きしめられてスピカはびくりと体を震わせたが、トトは気にした様子もない。スピカもトトの温かさを感じて無意識の内に体の力を抜く。最初もそうだった。あの時にスピカはこの場所で初めて泣いた。
トトは唇をスピカの耳につけるようにして囁く。
「スピカは、なにも変わらないよね」
変わらない。八年前から何も。変わったのは手足が伸びたこと位だ。スピカもトトも小さな子供ではないけれど、まだ大人でもない。
「スピカだけは……」
その声に悲しげな響きが混じっていたのでスピカは抱きしめ返そうかとしたが、できなかった。
スピカは、ずっとトトの傍にいるよ。スピカがトトの名前を呼んで、トトもスピカの名前を呼ぶ。そうでしょ?
そう言ってあげたいのに、言えない。
スピカ自身が嘘だから。嘘の存在だから。トトが気づかない限りスピカはトトの傍にいれるけれど、気付かれたら最後だ。もうトトの傍にいることはできない。トトはきっと傍にいることを拒絶するだろう。
もしかしたら、その日は近いのかもしれない。
スピカは目を伏せるとトトの肩に顔を埋めた。
それは、トトがまだスペルカになる前のことだった。
「トト、今日はお花を持ってきたよ!」
スピカは扉を開けると同時に、元気な声で叫ぶようにそう言った。
トトは慣れているのか、どたどた階段を駆け上がってくる音が聞こえていたから予想できていたのか、驚いた様子もなく嬉しそうに微笑んだ。
スピカの方はこぼれるような満面の笑みだ。その満面の笑みの後ろからオスカがしかめっ面をひょいと覗かせる。
「お前、階段は走るなって言ったの忘れたのか? 前に上から下まで木の実みたいに転げ落ちたの忘れたのか?」
そう言って軽くスピカの頭を小突いた。オスカは最近ぐんぐん背が伸びて同じ歳のスピカをすっかり追い抜いてしまった。あとちょっとで頭一つ分位の差ができそうだ。そうしている二人の姿はまるで歳の近い兄妹みたいで、トトはくすくす笑った。
「……トトもなんか言ってやれよ。俺の言うことなんかちっとも聞きゃしないんだ」
「うん。スピカ、階段は走らない方がいいよ。危ないから」
「はーい」
「……なんでトトの言うことは聞くんだよ」
「だって、オスカってば怒ってばっかりなんだもん」
スピカはそう言ってオスカに舌を突き出すと、オスカが反論してくるのを避けるようにトトのいるベッドの方へ駆け寄った。手に持っていた水色と青の小ぶりな花が、たくさんついた茎を勢いよくトトの前に差し出すと、余りに顔の近くだったからトトは一瞬目を丸くしたが、すぐにまた微笑んだ。
「ありがとう。スピカ、オスカ」
スピカとオスカは余り家を出ることが出来ないトトにいつもお土産を持って二人してやって来るのだ。それは花だったり、道に転がっている石だったりするけれど、それでもトトは十分嬉しかった。なにより二人が毎日のように来てくれるのが嬉しい。二人が会う時は、必ず三人で会う時だ。
「今日は森に行ったの。聞いて、トト。オスカったらね、もう使われていないキキロトの巣の穴から出てきた犬にびくってしたんだよ」
キキロトとは犬と同じ位の大きさの毛足が長くて尻尾のない肉食獣だ。肉食獣と言っても気が弱く大人しい為、人間に対して害はない。キキロトが喰べるのは、小さな野うさぎやねずみだ。人間に害はない、と言ってもその牙は鋭い。オスカは昔イタズラでキキロトを驚かせて噛み付かれたことがあり、その怪我で熱が出て寝込んだ上に父親に猟師の子供として恥ずかしいことをした、と怒られて散々だったことがあるのだ。
その時は本気で心配したスピカとトトだったが、今となっては笑い話しでスピカがオスカをからかう時のネタだ。
「……いつかキキロトを根絶やしにしてやるんだ」
オスカは自分が元々の原因だったことを棚に上げて言った。
「俺と、トトがいたら簡単にできる筈だ」
「スピカは?」
「お前は足手まといだ」
スピカはそう言われて唇とつきだした。
「そんなことないもん。今度三人で行ったらわかる筈だよ。オスカが一番足手まといだって」
スピカはそう言うとトトの方に顔を突き出してやっぱり笑顔で言った。
「ね、トト。今度元気な時に一緒に行こうよ!」
トトが笑顔で頷いたから、スピカは更に笑った。トトと目があって、オスカも笑う。
パドルの鳴き声が聞こえてスピカは体を起こした。外から差し込む光が眩しくて思わず目を細める。結局うたたね程度にしか寝ていない体に力は湧かない。先日トトの部屋で眠り込んでしまったのが嘘のように、あれからまた眠れない日が続いている。
スピカは膝を立てたところの布団に顔を埋めた。
昔の、夢を見た。
オスカがまだトトをトトと呼んでいた頃の夢。スピカとオスカは本当に小さい頃から二人してトトの家に通っていたのだという。
男の子同士の会話にスピカが入れないこともあったけれど、三人とも凄く仲が良かった。
トトがかみさまになってしまっただけでそれが壊れるなんて、誰が思っただろう。
スピカは苦笑した。
スピカがその頃の夢を見るなんて、おかしなことなのだ。
こんこん、と扉を叩く音がしてスピカは顔を上げた。多分、リュシカニアだ。
先日スピカがトトの部屋で眠ってしまった日から、リュシカニアは朝スピカを無理に起こしにこなくなった。もしかしたらトトがそうするように言ったのかもしれない。外は日が完璧に昇っているので、おそらく今は昼前だろう。
スピカが搾り出すような声で返事をすると、扉は遠慮がちに開けられた。今までの様子とは違うリュシカニアの様子にスピカは少し悲しくなる。力なくリュシカニアの顔を見ると、リュシカニアは一瞬顔を顰めて少し暗い面持ちで言った。
「おはよう、スピカ……急なんだけど、すぐ出られるかしら」
「どうしたの?」
「……お客様がいらしてるのよ」
スピカは微かに首を傾げた。都の寺院で、スピカにくる客といえばオスカ位しかいない。都にはスピカの両親も住んでいるが、スピカがここにいることを知ってもスピカに会いに来ることはないだろう。
「わかった。すぐに着替えて出るから、ちょっと待ってね」
スピカはそう言うと、前よりも一層重くなったような気がする体を寝台から下ろした。