02.
冷えた心にも血は通う。
とくん、とくん、と心地よい音。
この子供は気付いてる。この存在に。
自然にある時に個の意思はなく、人にある時にだけ生まれてくる。
意思と感情と、生々しい記憶。
トトは知っている。
もうこの体はスピカといることと引き換えに、自分のものではなくなったのだと。
普段は穏やかな空気の流れる村は、月祭りの間は活気盛んな空気を纏う。
たくさんの人でごった返した村の周囲には、宿が取れなかった人々が野営を張り宴会を開き、そしてその宴会の風景はそこかしこで見受けられた。村の周囲に停められた馬車の数も多く、その様と言ったらまるで村が肥大したようだった。
色とりどりの布や角灯で飾られた村の中は、村人だけでなく他所からやって来た様々な色彩の客人たちが、更に彩る。
スピカは毎年この賑やかなお祭りが楽しみだったけれど、少し寂しくもあった。隣にいつも居たはずのトトは、今は遠い祭壇の上だ。そこは『かみさま』の鎮座するところ。
「あいかわらず、スペルカ様は綺麗だなあ。だから、かみさまになれたのかも」
スピカの隣に立って、同じく祭壇を眺めていたオスカはぼんやりと呟く。
スピカは自分より頭ふたつ分も大きいオスカを見上げた。
昔はよく三人で遊んだのに、オスカはトトに対して親しみの感情を見せることはない。それどころか、一切近づこうとはしないのだ。
村のみんなと同じように、オスカももうトトのことをトトとして見れないのかもしれないけれど、今のは皮肉った言い方だった。尼僧や大人達が聞いていたらオスカを叱りつけただろう。それに、スピカだっていい気がしない。
「トトはきっと、心が綺麗だったからだよ」
「どうだろうなあ……」
そう呟くとオスカはおもしろくなさげに頭を掻いた。
「な、それよりあっちの屋台見に行こうぜ! こんなとこからいつまでも眺めてなくても、どうせ祭りが終わったらいつでも会えるだろ」
そう言うとオスカはスピカの腕を引いて、人ごみを掻き分けて走りだした。スピカは反動で落ちそうになった帽子を慌てて押さえた。
「ちょっと待って!」
強い力で腕を引かれたスピカは、転げそうになりながらもなんとかオスカについて行く。たくさんの人の中を駆け抜けるのだから、当然目立ってしまう。
スピカがちらりとトトの方を見るとトトもスピカ達の方を見ていたのか、目が合い少し寂しげに微笑んだ。
「どうしたんだ? スピカ、元気ないなあ。美味くないのか?」
目当ての屋台の前でオスカは硬貨を払いながら、急に暗くなったスピカを見て顔を顰めた。
「多分、おいしい」
「なんだそりゃ」
オスカは呆れたように言うと、串に刺さった鶏の肉にがぶりと齧り付いた。肉汁が串に刺さった肉の上をしたり落ちる。スピカが言うように、多分おいしい、ではなくて凄くおいしい。それなのにそんな食べられ方をされると、肉も可哀想だ。
けれどオスカはぞんざいな口調ながらも、目では心配そうにスピカのことを見ていた。
「……味、ちゃんとわかんない」
「またか……」
オスカはスピカが元気がない原因を理解し、呆れたようにはあーっと長いため息をついた。
「あのなあ、スピカ。四六時中一緒にいれる訳じゃないし、お前もスペルカ様も楽しい時も苦しい時もいつも同じ時に訪れる訳じゃねえだろ? お前が楽しむ時は楽しんどけよ……スペルカさまも多分、それを望んでるだろうよ」
そう言うとオスカはいつもの様に、スピカの頭をぽんぽんっと軽く叩いた。帽子についた鈴がスピカを慰めるかのようにチリチリッと綺麗な音色で鳴る。
胸の中には、スピカたちだけ普通の子供として祭りを楽しむということへの罪悪感がある。
けれど、スピカはこくりと頷いた。
「……どうして、一緒じゃないんだろう……」
そう呟いたスピカの声は、奏でられた弦の音でオスカには届かなかった。
「あ、始まった」
オスカはそう呟くと、人ごみに紛れてしまいそうな小さなスピカの肩を押して、自分の前にできた人の隙間に入れてやる。そこからようやくスピカは、音楽隊と美しい踊りを披露する女の人達の姿を眺めることができた。
神秘的な音色に合わせて舞を踊る、しなやかな四肢の女の人達はこの世のものじゃないみたいで、スピカだけでなく広場にいる観客の殆どが息を呑んでそれを眺めた。透き通る布を幾重にも重ねて作られた衣装には、雨の雫のように透明な石が散りばめられている。娘達が動くたびにそれらはきらめき、布はふわりと舞う。
空気に溶けてしまいそうなほど儚げで幻想的なその様に、毎年観ている村人たちでさえいつも、皆始めて見るかのようにその様子に釘付けになる。
「……きれい」
「だな、やっぱ凄いな」
そう呟くオスカの近しい人物も、あの女の人達の中にいることを思い出して、スピカは目で探した。たしか、今年はオスカのお姉ちゃんも踊っている筈だ。
舞娘は毎年、美しい年頃の娘たちが選ばれるのだ。
「あっ」
いた! そう言い掛けてスピカは声を飲み込んだ。
神秘的な踊りと音楽の向こう、祭壇の上からトトもその踊りを眺めていた。けれど、踊りを観るトトはまるでいつものトトじゃない、スピカの知らない人みたいだ。
かみさまに、捧げる舞。
スピカはそんなことを思い出して、ぼんやりと遠くのトトを見つめた。先程まで釘付けになっていた踊りも、神秘的な音楽も、一切スピカの中に入ってこなくなる。急激に周囲のことが遠のく。それは狭くて何もない部屋に入った感覚と似ていた。
トトは踊りに飽きたように目を閉じたかと思うと、またゆっくりと目を開いて、スピカの方を見た。
いつもの優しげなトトの視線とは全く違う視線。好奇心があるような、けれどどこか冷たい目。澄んだ湖のようなトトの目はいつもより深く、人ではない何か別の生き物のようだった。
――おまえは
トトの口が言う。
その距離で聞こえる訳がないのに、どうしてかスピカにはトトが何を言っているのかはっきりと分かった。
――おまえは、ひとでありながらうつろだな
「――おいっスピカ!」
いつの間にかスピカの斜め前に立っていたオスカに肩を揺さぶられて、スピカの視線はトトから逸れた。
それと同時に一気に音が戻ってきて、顔を顰める。
「どうした? 大丈夫か?」
「うん……ごめん。ぼうっとしてた」
「だったらいいけど……もう踊りも終わったぞ。そろそろ帰るか?」
スピカはもう一度トトの方を見た。
先程のことが嘘だったかのように、トトはもうスピカの方をちらりとも見ない。
「……うん、そうする」
スピカはそう言うとオスカに手を引かれて、人ごみの中を歩いた。
お前は、人でありながら虚ろだな。
確かにそう言われた。けれど、どういうことなのだろう。スピカには意味が解らなかった。先程のことは夢なのだろうか。それとも、トトかかみさまが呟いた言葉なのだろうか。
スピカはなぜか息苦しくなるのを感じて、考えるのを止めた。
祭りの帰り道、スピカはオスカの少し後ろをとぼとぼと歩いていた。
夕日に染まった視界の先に、小さな家がある。木々に囲まれたそれは、スピカとおばあちゃんの家だ。
「あ、ピノばあだ」
そう呟いたオスカの視線の先をたどると、スピカのおばあちゃんが人形が座るような小さな木の椅子に座って、桶に汲んだ水の中で野菜を洗っていた。
「ピノばあは、祭りの日でもなんら変わりないなあ」
オスカの言葉にスピカは苦笑した。
おばあちゃんは、今ではもう目が殆ど見えていないというのに、まるで見えているかの様に次々と野菜を手にとって綺麗に泥を落としている。
おばあちゃんとスピカは村の外れで二人で暮らしているが、家事はスピカよりもおばあちゃんの方が上手くこなしていた。薬草や森や、そこに住む動物たちのことも良く知っている。
村のみんなは、親しみを篭めておばあちゃんのことを『白い魔女』と呼んでいた。おばあちゃんを頼る人は村にはたくさんいるのだ。
「おや、スピカおかえり。オスカも一緒だね?」
おばあちゃんはやはりまるで見えているかのように、家の前まで帰ってきたスピカとオスカに顔を向けた。白く濁り薄灰色になった瞳は、焦点があっていない。
「流石、ピノばあ。……もしかして見えてたり、する?」
そう呟いたオスカは目の前で手をひらひらとさせた。
「見えてはないけど、気配でわかるもんだよ。あぁ、家に昼間焼いたお菓子があるからふたりでおあがり」
そう言うとおばあちゃんは、腰につけた前掛けで濡れた手を拭ったあと、少し曲がった腰に手をあててゆっくりと立ち上がった。
おばあちゃんの言葉を聞くなり、やった! とオスカは叫び真っ先に家の中へと駆け出した。
オスカは小さい頃からいっぱい食べてるのにどうして少しも太らないんだろう、とスピカはオスカの背を眺めながらぼんやりと思う。
ゆっくりと歩くおばあちゃんの歩調に合わせてスピカも、おばあちゃんの隣をゆっくりと歩いた。
「なにか、あったかい?」
おばあちゃんはきっと、祭りのことを聞いてるのだろう。けれど、スピカは祭壇上でのトトのことを思いだして、どきとした。
「……うん。オスカのお姉ちゃんが舞いを踊ってて、すごく綺麗だったよ。あと、音楽もすごかった。人も露店もいっぱいで、オスカはすごくいっぱい食べてた」
おばあちゃんは柔和な笑みを浮かべながら、黙ってスピカの話しを聞いていた。
虚ろな目で心の内まで見透かされている様な気がして、スピカは居心地が悪くなりながらも言葉を紡ぐ。
一番強く印象に残るのは、まるでこの世のものではない様に美しく舞う踊り子たちでも、幻想的な弦の響きでもない。
「トトは祭壇の上で……本当のかみさまみたいだった」
「……スピカ。あの方は、本当のかみさまなんだよ」
おばあちゃんは優しい声で言った。けれどそこには少しの哀れみが混じっている。それがスピカに対してなのか、トトに対してなのか、スピカには分からない。
「そう、だね」
この村の人たちはかみさまである『スペルカさま』に対して、決して言葉では言い表せないような感情を抱くのだと言う。それはきっとおばあちゃんも、そんなそぶりを見せないオスカでさえもそうなのだろう。けれど、スピカだけはそれがどのようなものか知らなかった。スピカは、みんなとは違うからだろうか。
「スピカー。この菓子全部食べていいか?」
スピカが開けっ放しにされていた玄関の戸をくぐると同時に、真っ先にお菓子を求めて家の中に入って行った、オスカの声が響いた。
お菓子を頬張りながら聞いたオスカは、スピカの返事も待たずに次から次へとお菓子を口の中へと入れていく。皿の上には半分も残っていない。
今日の焼き菓子はおばあちゃんが作ってくれるお菓子の中でも、特にスピカの大好物だ。一口サイズの真っ白なふわふわのお菓子は、口の中に入れると蕩けるように程よい甘さがじんわりと広がり、真ん中には甘酸っぱいテヌーの実が入っている。
おやまあ、と呟くおばあちゃんの声を耳の片隅に入れながらも、スピカはオスカの方へと駆け出した。
「だめー! なんでオスカはそんな大食らいなの? お祭りでも肉とかお菓子とかいっぱい食べてたでしょ!」
「あんなん俺にとっちゃ、軽いおやつみたいなもんなんだよ」
なぜか誇らしげに笑うオスカに呆れながらも、スピカは尚もお菓子に手を伸ばすオスカを必死で引き止めた。
その様子を微笑ましく思い、笑いながらおばあちゃんは二人にお茶を淹れる為にゆっくりと台所へ向かった。
「そういやスピカ、夜の祭りは行くのか?」
オスカは、おばあちゃんが淹れてくれたばかりの熱いお茶を啜りながら聞いた。
お菓子争奪戦のあと、二人はおばあちゃんが淹れてくれたお茶を飲んでようやく落ち着いていた。結局スピカは少ししか食べれなかったけれど、お祭りでも少し食べていたし、もとよりオスカみたいに大食らいじゃない。オスカからしてみたら小鳥の餌ほどのものだろう、とスピカは思う。
夜の祭り。三日三晩とはよく言ったもので、月祭りは一日目の朝から三日目の晩まで休みなく行われる。
この三日間は近隣の村以外にも都や、遠くは海を渡った異国の人達までもがやってきて幻想的な祭りを楽しむのだ。幻想的、とは言っても三日三晩休みなく続く祭りは、村人からしてみれば最早体力勝負のようなものだなのだけれど。
七年前から、それまでからっぽだった『スペルカ』さまの席にトトが座るようになった。それ以降この祭りは年々人が増え、益々活気付いてきている。みんな、噂で聞いた見目麗しい『かみさま』を一目見たいと願ってやってくるのだ。村のみんなも、お祭りの主役であるスペルカさまがいれば益々やりがいを感じるのだろう。トトがかみさまの席についてからは以前よりももっと張り切っていた。
月祭りは夜こそ人が多く、長旅で疲れていた異国の人たちもこれには必ず顔を出す。普段は平和なこの村だが、この祭りの間は少女一人で夜に出歩くのは流石に危険だ。
スピカは直ぐには答えずに、おばあちゃんの方に伺うように視線を寄越した。
「オスカがスピカにちゃんと付いて離れないのなら、いいと思うよ」
そうおばあちゃんが言うと、スピカは嬉しそうにオスカに行く! と告げた。