19.
寺院を抜け出して人ごみの中オスカの後ろを付いて行くと、彼はふと立ち止まって道の脇にある、高い建物を指差した。一階はパン屋だが、その上の階には人が住んでいるらしい。窓からは洗濯物が掛けられている。
「ここが、オスカの親戚のお家?」
スピカは、まるで自分の家のように建物の脇にあった、木の古びた階段を上っていくオスカに付いて行きながら尋ねた。オスカは一旦振り返ると「そう」とにやにやした顔で言った。先ほど寺院を抜け出した時の楽しさがまだ少し残っているらしい。
「パン屋さんも、オスカの親戚のお店?」
オスカは食いしん坊だが、パン屋のイメージとはかけ離れている。別にオスカが営んでいるわけではないけれど。
スピカは煙突から漂う甘い香りを嗅いでオスカを見上げた。オスカは肩越しにスピカを見るとわざとげんなりした顔をしてみせた。
「腹減ったのか?」
「……空いてないよ」
「パン屋は、親戚が一階を貸して違う人がやってるらしい。安心しろ、家にはお裾わけでくれたパンがいっぱいあるから」
スピカがむっとした顔をするとオスカはまたにやっとして、前を向き階段を上り続けた。
スピカはまたむっとしながらも、それ以上に安心していた。村の人たちがどうなっているのかは気になるけれど、オスカは何も変わってはいない。
階段を上りきると木製のドアがあって、オスカはなんの遠慮もなしにがちゃっとそれを開けた。スピカはそれに少し驚きながらも中に入っていくオスカに続く。
古びた木の板が何枚も敷き詰められた床に、少し雑な白塗りの壁のはスピカに村にあるスピカとおばあちゃんの家を思い出させた。
「ただいま!」
オスカが大きな声でそう言って、スピカが「お邪魔します」と言うと、同時に奥から声若い女の人の声で「はーい」と聞こえてきた。その声が聞き覚えのあるものだったので、スピカは耳を疑った。オスカはそんなスピカの様子に気づいてか気づかずか、苦笑しながら床に散らばっていた木で出来た色とりどりの子供の玩具を足で横に避けた。
「ヨルカが付いてきたんだ」
「そうなの!?」
スピカが驚きながらも嬉しさで顔を綻ばせると、オスカは些か疲れた様子で肩を竦めた。
「……俺一人で来ればもっと早く着いた筈だし、道中あんな苦労をする必要もなかった……帰りが思いやられるよ」
あんな苦労とはどんな苦労かと少し気になったスピカだったが、聞かないことにしておいた。ヨルカはスピカを可愛がってくれるが、オスカがヨルカからどんな仕打ちを受けてきたかも知っているし、小さい頃から見てきた。ヨルカはスピカが驚いたりオスカを心配したりするといつも「姉弟はどこでもこうなのよ。別に嫌いあってるわけじゃないわ。愛情表現なの」と言ってきた。スピカはその度に納得したふりをしてみせたが、オスカを哀れにも思っていた。スピカが実際見たわけではないけれど、昔オスカが置き忘れた玩具でヨルカが転んで階段を落ちそうになった時、ヨルカは幼いオスカを引きずって階段の上まで連れて行きつき落とそうとしたが、幸い事態に気づいたテアタが止めに入ったらしい。村の人たちの大半がその話しを知っていて、青年たちはヨルカの美しさに目を奪われつつも近づく者は少なかった。
ヨルカの今の恋人は、オスカ曰く『聖人』らしい。
「まあ! スピカ!」
ヨルカは台所に入ってきたオスカとスピカを見ると叫び声に近い大きな声でそう言い、スピカのもとへ駆け寄った。自分よりも小さなスピカの体をぎゅっと抱きしめる。
スピカはそんなヨルカの様子に驚いて体を硬直させると、肩に顔を埋めているヨルカの頭を凝視した。
「スピカ……急に都に連れてこられて、心細くなかった?」
ヨルカはそう申し訳無さそうに眉を下げてそう言うと、スピカの頬を両手で包み撫でた。
その口調からしてヨルカはオスカとは違い、スピカが自分でも知らないうちに攫われるようにして都に連れてこられたのを知っているのかもしれない。スピカは微笑むと頷いた。するとヨルカは一瞬泣きそうに顔を歪めてまたぎゅっとスピカを強く抱きしめると、小さな、スピカにしか聞こえないような声で何度もごめんなさい、と謝った。
「……ヨルカ、大丈夫だから」
「おい、ヨルカ。いい加減離してやれよ。スピカが潰れちまうだろ」
そんなわけないじゃない、とスピカは思ったが、ヨルカはそうね、と呟くとあっさりとスピカから離れた。
「オスカ、お茶淹れて」
「……はいはい。今淹れてますよ」
ヨルカに命じられてオスカはうんざりした様子ながらも、今ではヨルカの行動や言動がすっかり読めるようになっているらしく、すでに三人分のカップにお茶を注いでいた。
ヨルカはスピカを円い卓の方に誘い座らせると、自分はスピカの隣に座った。あとからお茶を運んできたオスカも、二人にお茶をさし出すとスピカの隣に座った。
「どうして、ヨルカまで来たの?」
スピカはオスカに出してもらったお茶を一口飲んでから遠慮がちに尋ねた。
ヨルカは若い村の娘にしてはめずらしく、都に来ることを嫌っている。ヨルカはこの人の多い都でも目立ってしまうので、それが嫌らしい。昔は人並みに都に興味のあったヨルカも、父親の仕事に付いて来た時に男達に付き纏われて以来、すっかり都に興味がなくなってしまったのだとオスカに聞いたことがある。ヨルカはスピカにそう聞かれて少し意外そうに目を大きく見開いた。
「いやだわ、スピカに会いに来たに決まってるじゃない」
「……ありがとう」
スピカは小さく笑い顔を作ってそう言った。心の中はオスカと会った時とは違って、後ろめたい気持ちでいっぱいだ。トトのことを話題に出したらいいのか、出さない方がいいのか少し悩む。
「村のみんなは、元気?」
オスカにも聞いたことだったが、スピカはもう一度試すように聞いた。どんな表情も逃がさないようにと、じっとヨルカの顔を見つめてしまう。
「少し怒ってるけど、まあ元気よ」
「ヨルカ」
オスカが少し苛立ちの混ざった声でヨルカを止めようとしたが、それを遮るようにしてスピカは聞く。
「……怒ってる?」
「ええ……みんな、都の役人に対して腹を立ててるわ。自分たちのものをとられて腹を立ててる子供みたいにね」
「ヨルカ!」
オスカが珍しく怒鳴ると、ヨルカは怯んだのか一瞬黙りこんだが、オスカを睨んだあとまた直ぐに口を開いた。
「だってそうじゃない。スペルカ様は自分の意思で都を選んだんでしょう? それなのに、都の役人に腹を立てるなんて、馬鹿みたい。もっと怒ることはいっぱいあるはずなのに」
ヨルカがそう言うと、オスカはぎゅっと口を噤んだ。スピカは小さな罪悪感に苛まれながらも、自分の内に湧いてくる思いを必死に消し去ろうとした。
黙り込んでじっとしている二人を見かねたのか、ヨルカはため息をついてテーブルの上に置いてあった小さな焼き菓子をスピカに勧めた。
「おいしいのよ、これ。下にパン屋があったでしょう? そこで作ってるお菓子ですって」
「パン屋の息子からのヨルカへの貢物なんて、食うんじゃねーぞ。スピカ」
オスカはすっかりいつも通りの調子の明るい声でそう言ったが、スピカの気持ちが晴れることはなかった。
「ヨルカはああ言ってたけど、村の思い込みの激しいおっさんの一部だけだからな。他は意外と大したことはないんだ」
帰りの階段を下りていると、オスカは振り返らずにそう言った。スピカはオスカの言うことが素直に信じられずに、黙ったまま階段を下りた。下からはパンの温かな甘いにおいに、行き交う人たちの喧騒。
都の人たちにとっては、もしかしたらかみさまであるトトの存在なんて大したことじゃないのかもしれない。村よりも何倍も大きくて何倍もの人がいる都では、トトの存在もちっぽけなものなのかもしれない。だから、トトは、村よりも都を選んだのかもしれない。
寺院に連なる巡礼者達の列を忘れたわけではなかったが、街にでるとどうしてもそんな風に思ってしまう。
――スペルカ様は自分の意思で都を選んだんでしょう?
都に来ることを決めたのは確かにトトのはずなのだから、スピカがトトを村に帰そうと思うのは、よくないことなのかもしれない。
たとえ、村にトトの大切なものがあるとしても、トトがそれを知らない限りは。
「ねえ、オスカ」
「ん?」
「トトは、村に帰りたくないのかな?」
スピカがそう尋ねると、オスカは立ち止まってスピカを見上げた。じっと、何かを探るようにしてスピカを見つめる。
「……俺には、スペルカ様が考えてることなんてわからねーけど、お前はどうなんだ?」
「え?」
「お前は、村に戻りたくないのか?」
「スピカは……」
オスカはいつもそうだ。スピカが必死で抑えようとするものを掘り起こそうとする。
きっと、スピカがここで『帰りたい』と言ったらオスカはなんとしても、スピカ一人でも村に連れて帰るだろう。
スピカは小さく息を吐くとはっきりとした声で言った。
「スピカは、トトと一緒にいたい」
スピカが寺院に帰ってくる頃には、昨晩のうちに積もった雪は照りつける太陽の暖かさで所々溶け、地面が顔を覗かせていた。それでも、やはりスピカからしてみたら寒い。吐く息も白く、泥だらけになった長靴の中で指先はかじかんでいた。きっと真っ赤になっていることだろう。
スピカは感覚の無くなりつつある指先に力を込めた。
門番たちは出て行った時と同じように、スピカに気づかずに厳しい目線で正面にある町を睨んでいた。そのお蔭で、誰にも気づかれずにあっさりと部屋まで帰ってくることができた。リュシカニアはこの時間だと仕事中だろう。彼女は大体決まった時間にしかスピカの部屋にやってくることはない。それでもスピカにとって知り合いのいない寺院内で、今一番長く一緒にいるのは村から一緒にやってきたトトではなくてリュシカニアだ。リュシカニアの「仕事」の内容を余り知らないスピカだったが、あのゆったりとしているように見える尼僧が忙しいことだけはなんとなく分かった。きっとそれでも殆ど一人でいるスピカの為に時間を割いて来てくれているのだろう。そう思うと自分のした「イタズラ」に少し胸が痛んだが、ばれなかったことにもほっとした。
暖炉に火を点して泥だらけの長靴を脱ぎ、布貼りの椅子に座りこんだスピカは、ほんわりとした独特の染め粉の香りにばっと立ち上がった。
くつろいでいる場合ではないことを思い出す。目の端に映る髪の色は茶色で、黒ではない。染めたのを落とすのを忘れていたのだ。このままにしておくとリュシカニアにきっと怪しまれるだろう。
どうしよう、と慌てたスピカは厨房でお湯を貰うことに思い至った。厨房のおじさんならば、なんとかごまかせそうだ。ちょっと興味が湧いて、勝手に遊んだの。ごめんなさい。そういえば、信じてくれそうだと思った。厨房のおじさんまで、まさかスピカが寺院から出られないように見張ることはないだろう。
そう考えるとスピカは急いで部屋を飛び出した。
急いでいたせいで、隣の部屋にいるトトの存在にまで気が回らなかったスピカは、名前を呼ばれて飛び上がるような思いをした。
振り返ると、トトが丁度部屋に戻ってきたところだったのだだろう。数歩後ろにイーノスを付き従えて自身の部屋の扉の前に立っていた。銀糸の服に、青い刺繍の入った正装をしていて、もしかすると礼拝堂にいたのかもしれない。イーノスも、スピカやリュシカニアと会う時とは違って正装で、始めてあった時と同じようにマントまでつけている。
トトはスピカと目が会うといつものように微笑んだが、そこには少し疲れが混じっていた。
「――トト、どうしたの? しんどいの?」
トトの久しぶりに見る表情に、スピカは髪のことなど忘れて思わず尋ねていた。
「ううん。大丈夫だよ……それより、スピカの方がどうしたの? 髪」
「……トトが、前に染めてたでしょ……? おもしろそうだなあ……って思って」
聞かれてはっとしたスピカは、厨房のおじさんに言うはずだった言い訳をしどろもどろに口にした。別に問題ないと思っていた言い訳も、口にした途端に自信のないものに変わってしまって、ばつが悪そうに視線を傾ける。そんなしぐさをするものだから、トトに怪しまれても仕方がないのにスピカは気づかない。
「ふうん。服が汚れるよ。お湯を持ってきてもらうから、早く落とした方がいい」
トトは気づいているのかいないのか、いつもの穏やかな調子でそういうとにっこりと笑った。
「……いいよ。自分でもらってくるから」
「どこに?」
「……厨房」
「持ってきてもらうから、部屋で洗った方がいいよ。なかなか自分ではうまくとれないと思うから、手伝ってあげる」
「持ってきてもらうのって、リュシカ?」
「誰でもいいけど、どうして? 喧嘩でもしてるの?」
「……リュシカに馬鹿な真似したって思われなくないの」
「『叱られたくない』の間違いじゃない?」
トトはくすくす笑いながらそう言った。
一瞬顔を顰めたスピカは、トトの後ろに控えていたイーノスがお辞儀してからすたすたと黙って歩いて行くのを呆けた様子で眺めた。
「どこ行くの? イーノス」
イーノスの背中にではなくて、隣にいるトトに聞く。
「お湯のこと言いに言ってくれたんだと思うよ。気になる?」
「な、にが?」
思わず噛んでしまったスピカのことを笑うこともなく、トトは小さく微笑みながら聞いた。
「イーノスのこと」
「別に」
嘘だ。実は先ほどトトに部屋の前で呼び止められて、二人に気づいた時も何故か気になって仕方がなかった。何故気になるのかは聞かれると、自分でも分からないからできるだけ見ないようにしていたけれど。
スピカは観察するように見つめてくる、トトから逸らした目を泳がせた。
トトがふっと笑うように息を吹いた気配を感じて、再びトトに視線を戻す。
「よかった、スピカがまだ子供で」
「……スピカはたしかにトトより二つも下だけど、もうそろそろ子供じゃないと思うよ」
言われ慣れつつあるが、トトに子供といわれたのは始めてだ。スピカはふくれっつらでトトを少し睨むようにして見た。
「そうだね」
「そう」
「お湯持ってきてくれるまで、部屋で待っとこうか?」
そう言って、自分の部屋の方の扉を開けてスピカに入ることを促す。
スピカは何を考えるでもなく自然に部屋の中に入った。
後ろ手に扉を閉める気配がして、トトがくすくす笑い声を上げたので不思議に思い振り返る。
「どうしたの?」
そう聞くと、トトは耐え切れなかったのか愉快そうに笑い声をあげた。
「あはは! スピカも騙せるようになるなんて、うまくなっただろう?」
一瞬言葉の意味に気づけなかったスピカはぽかんと笑うトトを見つめた。トトがそんな風に大きな声を上げて笑うのなんて見るのは多分、数年ぶりだ。けれど、これは違うとスピカは眉を顰めた。
「もしかして……」
「やっと気づいた?」
笑いを含んだままそう言われて、スピカはつぶさに扉の前に立つトトの姿を見つめた。
今だって、どう違うのか前ほどわからない。最近のトトの瞳は殆どずっとスペルカのそれと同じだ。
「……久しぶり……」
スピカはがなんと言っていいか分からずにとりあえずそう言うと、トトみたいなスペルカはまた大きな声を上げて笑った。大きな声、と言ってもトトの笑い声にしては大きな声、で多分普通の声だ。
スピカは衝撃で呆けたままその様子を見ていたが、自分自身なにが衝撃だったのかわからない。トトとスペルカを見分けられなかったことにか、それとも。
「……イーノスは知ってるの?」
ふと気になって尋ねた。いつからスペルカなのかは知らないけれど、先ほど一緒だったイーノスは知っているのだろうか。よく考えたらこの寺院の人たちは、スペルカであるトトのことと、一緒に村からやってきたスピカのことをどこまで知っているのだろう。
スペルカはスピカの肩を押して長椅子のところまで連れて行き座らせると、自分もその隣に座りこんだ。
「知ってる」
「……スピカのことも?」
「イーノスが気になる?」
「そういうの、聞いてるんじゃなくて」
「スピカのことは、スピカが自分で聞けばいい」
「……そうだけど」
もし聞いて知らなければ墓穴を掘るような気がする。知っているなら、教えてくれればいいのに、と思ってしまう。
ふいにスペルカが顔を近づけてきて、スピカはぎょっとして騙されたことで湧いていた警戒心を強めた。
「なに?」
「村の土のにおいがする」
むらの、土のにおい。
スピカは思わずくすりと笑ってしまう。
「オスカと会ったからかな。鼻いいね」
「スペルカだから」
「スペルカでも村が懐かしくなる?」
「懐かしくなるほど、時間は経っていない」
言われてスピカは苦笑した。確かに時間的に言うとそんなに経っていないのだろう。かみさまであるスペルカからすればなお更ほんの少しの時間でしかないのかもしれない。
「そうだね」
「スピカはその内慣れるだろう」
「トトは村に帰りたくないみたい。だったら、スピカもここにいるべきなのかな……」
「それはスピカが決めること」
確かにそうなのだけれど、スピカは誰かになにか聞きたかっただけだ。スペルカはいつもなんの答えもくれない。もしくれたとしても、その答えがスピカの答えになるとは限らないけれど。
「……本当はなにも慣れてないのかも。たまに忘れるけど、ずっとどこか寂しいんだよ」
椅子の上で膝をかかえると、スピカはそこに顔を埋めた。都に来てから気分が落ち込みやすい。体も重くなった気がする。
その言葉のあとに横から慰めるように抱きしめられて、一瞬懐かしい思いに駆られた。懐かしいなんて思うのは、少しは慣れているからだろう。それとも長い時間が経ったからそう感じるだけかもしれない。九年、だ。十四歳のスピカにしてみるとそれは只管長い時間だった。
「トトにはスピカが必要だけど、今ならまだスピカは場所を選べる」
選べるけど、スピカには選べない。スペルカはそのことをわかってて言っているのだろうか。トトと一緒にいたいと言うことだけは、きっと本当のことだから。オスカも、イシュも、村の人たちも、スピカがトトに縛られていると思っているかもしれないけれど。
「きっと、どこへ行ったって寂しいよ」
村にいる時はスピカが元いた場所のことを想った。今は村のことを想っている。きっといるべき場所に戻っても、村と都のことを想うのだろう。
「トトがいる」
「……最近はトトと一緒にいると、一番寂しい。一番一緒にいたはずなのに、トトはスピカのことなんにも知らない。今トトが本当のことを知ったら、どうなるんだろう。スピカのこと憎むのかな」
「……」
スペルカに言っているのに温かさはトトのものなので、スピカは少し緊張して聞いた。けれど、スペルカは黙っている。スピカは少し居心地が悪くなって体を捩じらせた。それでもスペルカの退こうとする気配がしないので、顔をあげるとトトの顔でスペルカは悲しそうにしていた。
「スピカはトトのことを憎んでる?」
「……ト、」
スピカが目を見開くと同時に部屋の扉が開けられた。
見るとそこには大きな器と、お湯を入れた大きめの水差しを抱えたイーノスが立っていたのでスピカは体を強張らせた。スペルカに抱きしめられたままの格好だ。
けれどスペルカもイーノスも気にしていないのか、スペルカはまだ退こうとはしないし、イーノスも立ち去るどころか失礼します、と言うとずかずかと部屋に入ってきた。
「扉を叩いても返事がなかったので……」
と、一応言い訳をつける。
スピカは今度は必死で離れようと体に力を込めたが、それでもスペルカがどくことはない。
スピカは顔を上げることができずにスペルカの膝を眺めた。
「ありがとう。そこに置いといて」
穏やかな調子で言う声はトトそのものだ。
イーノスが知ってるのなら、トトの真似などする必要はないのに。
「……スペルカ、退いて」
絞り出すような声で言うと、やっとスペルカは退いてくれたが、それでもスピカは顔を上げることができずに自分の膝を見つめた。
必要もないのに言い訳したい気分に駆られたが、なんの為の言い訳なのか自分でも分からずに結局口を閉ざしたままでいた。
「洗い落とさないの?」
そう言われて反射的に顔をあげてトトの顔を見た。確かにトトだ。いつから。もしかしたら、まだスペルカがトトの真似をしているのかもしれない。
そう思いなおして重たい体を立たせた。
「洗ってあげるよ」
「え、いいよ……自分で洗えるよ」
心なしか少し楽しそうに言われてスピカは身を引いた。イーノスが来て思いだしたけれど、スペルカはかみさまだ。かみさまに髪を洗ってもるなんて聞いたことない。しかもそのかみさまがイタズラ好きとなったら、洗ってもらうなんてちょっと恐い気がする。
「お湯冷めないようにできるから」
「……」
「椅子に寝転んで」
スピカはなんだか否定するのも面倒になり、スペルカの言葉に従った。イーノスはやらんとしていることを瞬時に理解したらしく、スペルカになにも言われなくてもてきぱきと動いている。
小さな台を持ってくるとその上に器を置きその中にお湯を注ぎ込んだ。台は高い物をとる時用の踏み台だ。
「頭もうちょっと出して」
そう言われて長椅子の端から頭を飛び出させる。
「あんまり眠れてない?」
朝、鏡を見た時に気づいたクマを思い出して、スピカは手で軽く目の下を押さえた。
寝転んでじわじわとやってきていた眠気が、スペルカに頭を触られてどんどん大きくなっていく。温かいお湯と優しいスペルカの手が心地いい。
「眠っていいよ」
「うん……」
すでにスペルカの声もぼんやりと少し遠いものになっている。こんなに眠くなったのは久しぶりだ。スピカは耐え切れずに目を閉じた。
「ねえ」
「ん?」
「どうして、トトのまねするの?」
「……」
スペルカはスピカの問いに答えようとはしなかったが、スピカはそんなことも気にならないほど夢うつつで、もう目も開けれそうになかった。耳元でする水音も、時々浮かんでくるように聞こえるだけだ。
「……」
最後にスペルカがなにか言ったような気がしたが、それがなにかは分からなかった。