17.
守らないといけないものはたくさん。
絶対破ってはいけないこと。
小さい頃はそれが嫌で、何度も村から逃げ出そうとしていたけれど、結局は村に帰るしかなかった。
なにも持たない小さなスピカが、この世界で生きていく方法。
それを、小さいながらにスピカは知っていた。
「スピカ、いい加減起きなさい」
優しい声に呼びかけられて、スピカは少し唸ってから薄っすら目を開けた。
リュシカニアは寝台の横に置かれた小卓の上で、お茶を淹れている。花のお茶だ。ふんわりと花のいい香りがするが、お茶そのものに味は余りない。
スピカは半開きの目をしたまま、まだ重い上半身を無理やり起こした。
リュシカニアが手渡してくれたお茶を飲んで、少しだけ眠気がましになる。
もう一度布団に潜り込みたい気分だけれど、リュシカニアの顔を見て我慢しておいた。リュシカニアは優しいけれど、意外と厳しいのだ。
「まだ眠そうね。夜更かしでもしていたの?」
リュシカニアは、子供はよく食べ、よく眠り、よく遊ばないといけないと思っているらしい。たしかにそうかもしれないけれど、スピカは微妙な年頃だ。子供と言われるのはそんなに好きではない。
「ちゃんとねてるよ」
まだ眠くてむすっとした顔と、いつもより低めの声でスピカは言った。目が、凄く腫れていて、目を閉じた蛙のような目をしているかもしれない。そう思い、小さな小卓の上に置かれた鏡を覗き見たが、蛙ほどではなかった。
本当は、都にきてから寝つきが悪い。
シーツは毎日取り替えられていて、布団も雨と雪と曇りの日以外は毎日干されているから、ふかふかで心地いいし、いい香りがする。それでも、スピカは中々いつも寝付けないのだ。考えることがたくさんあるからかもしれない。
都に来てから、もう七日も経ってしまっている。
「目の下、少しくまができてるわよ……朝食、食べれる?」
「うん」
スピカは頷くと、重い体を引きずるようにして寝台からおろした。
卓上には、白い湯気を立てているミルク粥と、目玉焼き、小さくきざまれた色鮮やかな野菜と干し肉のサラダが置かれていた。
「食べやすそうなものにしてもらったの」
「ありがとう」
スピカは微笑むと席についた。前は朝から食欲があったのに、最近は寝不足のせいか、朝はあんまり食べれない。
ずっしりと胃が重い感じがする。
「……今日、また街に行ってきてもいい?」
スピカが食事中、思い出したように言うとリュシカニアは少し悲しそうな顔をしてスピカを見た。
首を小さく横に振られて、スピカは首を傾げる。
「だめなの? なんで?」
「街は危険だからよ。スピカ」
スピカはその言葉に更に首を傾げた。
今更そんなこと言うなんて、おかしい。
「じゃあ、明日は?」
「明日も、明後日も駄目なのよ。スピカは、この寺院から出ては駄目なの」
スピカはミルク粥を食べていた手を完全に止めて、重たい瞼を押し上げてリュシカニアを凝視した。リュシカニアは苦しそうにしていて、スピカと目を合わせようとはしない。
中途半端に止めた手にあるスプーンさえも重いような気がして、スピカは力なく小卓の上に手を下ろした。
「トトが、言ったの?」
リュシカニアは苦しそうな顔をしたままだったが、その言葉に反応はしなかった。
村でも何度もした思いが湧いてきて、スピカは下唇を噛むと視線を落とした。
「トトに、そんなこと命令されても、スピカは従わない」
「困らせないで」
「トトは、今部屋にいる?」
「スピカ、」
リュシカニアが窘めるようにそう言ったが、スピカはぱっと立ち上がるとリュシカニアの脇をすり抜けて扉まで駆けた。
寝間着の膝丈のワンピース姿のままでも、気にしている余裕はなかった。
「いってくる!」
後ろ手にリュシカニアが止める声が聞こえたが、スピカは聞き流してすぐ隣のトトの部屋の扉を了承もなしに勢いよく開けた。トトの名前を呼ぼうとしたが、扉を開けたままぴたりとそのまま止まった。
振り向いたトトは、いつもの優しく笑っている顔とは違って、どこまでも冷たく隙のない、感情の読めない無表情な顔をしていた。
けれど固まってトトを見ていたスピカと目を合わすと、いつもの通りに穏やかな顔をして微笑んだ。
「どうしたの? スピカ、こんな朝から」
スピカは何も言えないまま、トトをじっと見つめた。先程の勢いもすっかりどこかへ行ってしまった。頭の中は真っ白だ。指先と、頭のてっぺんが少し冷たい気がする。
「とりあえず、入っておいで」
トトは苦笑してそう言うと、扉を開けた格好のままじっと立ち止まっているスピカの腕を引いた。引かれるままに、スピカはトトの部屋に入った。
「これ、上に着て」
そう言われて、手渡された少し大きめの上着を羽織った。よく考えたら凄い薄着だ。リュシカニアは今頃部屋でおろおろしているに違いない。トトは、ちゃんと着替えていて、黒に近い藍色に銀糸で刺繍の入った服を着ていた。
トトはスピカを長椅子に座らすと、横に座って穏やかに笑った。
「スピカから来るなんて、めずらしいね」
村にいた時は、スピカからトトの家へ行くのが普通だったが、都にきてからスピカの方からトトに会いに行ったことはなかった。
スピカはトトの顔をじっと見上げた。
今は穏やかな顔をしているけれど、先ほど見たトトの表情が忘れられない。
正直、少し恐いと思った。
「……どうして、スピカは街に出ちゃだめなの?」
スピカはなんとか掠れた声でそう言った。さっきもっとリュシカニアが淹れてくれたお茶を飲んでおけばよかったかもしれない、と後悔する。
トトはふっと笑うと、スピカの目元に指を這わせた。
「腫れてる……寝てないの?」
「……寝てるよ」
スピカは力なく言うと「ちゃんと答えて」と言った。
トトはやはり微笑むと、少し首を傾げた。腹が立ったりしても、トトに対しての怒りはいつも長くは続かない。だから、トトが村に帰らないと言った時もずっと怒っていたふりをしていただけだ。ずっと悲しくはあったけれど。
「スピカは、すぐになにかを見つけてしまうからだよ」
トトは少し低い声でそう言った。
スピカは意味が分からなくて、訝しげにトトを見た。トトは微笑んだままで、なにを考えているか分からない。深い瞳の色も、たまに光が差し込んで揺らめくが、どこまでも深く底知れない。
トトはスピカが不思議そうに自分を見てくるので、苦笑した。「スピカにはきっと分からないし、理解できないことだ」と苦笑したまま言うので、スピカはむっとする。
「スピカは、トトの言うことを聞かない。自分の好きな時に外に出る」
「さすがはスピカだ。閉じ込めておいた方がいいかな?」
トトは笑いながら冗談めかしてそう言った。
「どうして、そんないじわる言うの?」
「ごめん。けど、スピカは寺院にいて」
トトは力強い、よく通る声でそう言った。その声はスピカの頭の中に響く。スピカは一瞬頭の中がくらりとした気がして、体に力を入れてますます眉ねに皺を寄せると、トトを見た。
トトはそんなスピカを見て少し悲しそうに笑っている。
「……トト、」
思ったよりも弱い声でスピカは言った。
「なに?」
「トトは、スピカが嫌いなの?」
そう聞くと、トトは少し驚いたように目をまるくして、次の瞬間には苦笑していた。
「そんなわけないよ」
「だったら、どうしてこんな酷いことばかり」
「村に帰りたい?」
「うん」
「スピカが強くそう願うほど、僕はスピカを村に帰したくなくなるんだよ」
「なんで」
「それも、多分スピカには分からない」
トトは柔和な笑みを浮かべてそう言った。スピカは、さっきのくらくらがまだ頭に残っているような気がして、小さく首を振る。すると、トトは微笑んだまま眉を少し顰めた。
「……くらくらする?」
「別に」
「僕の声を聞くとみんなそんなふうになるらしいよ。スピカはならないと思ってたけど、少しはなるみたいだね」
「ほんの少しだよ。こんなの始めてだし、多分ただのめまいだよ」
トトが少し悲しそうに言ったので、スピカは首を振る。
「ねえ、トト。村に帰ろう?」
「帰るつもりはない」
堂々巡りだ、と思いスピカはため息をつくと立ち上がった。
もっといい方法を考えないと。トトが村に帰る気になるような、いい方法。
「スピカは、トトの言うこと聞かないから」
「うん」
「絶対、トトを連れて村に帰るから」
「ずっと聞きたかったんだけどね、スピカ。君がそんなに村のことで固執する理由はなんなの?」
「……トトには、分からない理由だよ」
「ふうん」
トトが表情を全く崩さずにそう言ったので、スピカはまたむっとした。
顎を少し引いて、睨むようにトトを見ても、トトの表情は変わらない。楽しそうに、長椅子に座ったままスピカを見ている。
「トトは、スピカがトトに対してなにも変わらないと思ってるの?」
「どうして?」
「このままじゃ、トトのこと嫌いになりそうだよ……」
そう言ったスピカの方が自分の言葉に傷ついたのか、眉を顰めて急に浮かんできた涙を耐えていた。トトは苦笑して肩を竦める。
「……だろうね」
少し細められた目の中が、一瞬前と同じ澄んだ色になった気がして、スピカはじっと見ていたが、本当にほんの一瞬のことだった。窓から差し込む日差しで奥の方まで透かされただけかもしれない。北の方に灰色の雲が見える以外は、空は晴れ晴れとしている。けれどそのうちあの北の雲は、上空の冷たく強い風でスピカたちがいる場所にもやってくるだろう。
トトはぽつりと「きっと、その方がいい」と呟いたけれど、スピカには聞こえなかった。
朝ぼんやり目覚めて顔が冷たい、と思ったスピカは布団の中に顔を隠したが、リュシカニアに引き剥がされた。「うあぁ」と力ない声呻くと、急に冷たい空気に晒された体を丸めたが、スピカを冷たい空気の中に放り出した本人は、にこやかに笑っている。
スピカは眉を顰めて、寝起きの目つきの悪い目で睨むようにしてリュシカニアを見上げた。
「本当にお寝坊さんね。スピカは。もったいないわよ!」
「……リュシカは、どうしてそんな楽しそうなの」
スピカはできる限り体を丸めて、手足の指先を擦り合わせながら掠れた声で言った。
リュシカニアはやはり楽しそうに笑って、スピカの暖かい布団を両手で持ったまま、スピカを見下ろしている。目の端で暖炉の火がぱちぱちと音を立てて燃えているのが見えたが、寝起きの体には寒すぎるくらいの寒さだ。
けれど、寒さに晒されても眠気は逃げない。夜眠れないのもあるけれど、寒い日はますます朝、往生際が悪くなる。スピカはかろうじて残っていた毛布を手繰り寄せると体に掛けたが、それも容赦なしに引き剥がされた。
「寒い」
そう呟いたスピカは、自分の言葉にはっとして飛び起きた。
「パドルは!」
掠れた声でそう叫ぶスピカに、リュシカニアは苦笑した。
スピカは鳥かご掛けの方を見たが、パドルの鳥かごはなかったのできょろきょろと視線を素早く彷徨わせた。
「安心して。ここは少し寒かったから、暖まるまでは別の部屋にいるわ」
「どこ?」
スピカはほっとしながらもそう聞いた。
「すぐ近くの部屋よ。それよりスピカ、あなた慌ててたから、外の様子に気づいていないのかしら?」
リュシカニアがいたずらっぽくそう言ったので、スピカは訝しげに露台のある硝子扉の方に視線を向けた。窓は水滴で少し曇っていたが、それでも分かった。スピカは寝起きで開かないはずの目を見開く。
「すごい!」
「でしょう? 暖かい格好をして、中庭に遊びに行くといいわ」
リュシカニアは楽しそうにそう言ったが、スピカはリュシカニアの見えないところで少し眉を顰めた。
「……街に行っちゃだめ?」
「それはだめよ。スピカ」
「……」
リュシカニアが悲しそうに言うので、スピカはそれ以上言えなくなった。リュシカニアにとっても、トトの言葉は絶対なのだ。それに、トトに寺院から出てはいけないと言われたのは昨日の朝のことで、宣言通りこっそり寺院を抜け出そうとしたスピカは、門番に見つかってしまい、あっさり部屋に連れ戻されていた。何度もそんなことをすると本当に部屋に閉じ込められてしまうかもしれない。
「わかった! 中庭で遊んでくるね。イーノスも誘っていいでしょう?」
「今日はきっと大丈夫よ。さあ、温かいお湯を持ってきたから、顔を洗って、朝ごはんを食べて、行ってらっしゃい」
「うん!」
スピカはできる限り元気よくそう言って頷くと、冷えていく手足の感覚を無視して寝台から下りた。
元々ここよりも随分と暖かい場所で生きていたスピカにとっては、冬は辛い季節だった。
「……また、お前か」
扉を開けて一番にそう言ったイーノスは、同時にうんざりした顔をしていた。また、と言っても昼食に出た日から全然会っていない。日数は経っていないかもしれないけれど、そんなにうんざりされる程ではない筈だ。
「一緒に遊ぼう」
「お守りして下さい、の間違いだろ?」
イーノスはそう言うと右手で髪をくしゃっとした。
「ちがうよ、一緒に遊ぶんだよ」
スピカがそう言うと、イーノスは馬鹿にしたように笑ってスピカを見下げると「なにして?」と聞いた。スピカはそれを了承の言葉としてとったらしい、ぱぁっと笑顔になると嬉しそうに言った。
「雪だるま作るの!」
「……はっ」
イーノスが扉を閉めようとしたので、スピカは体重を掛けて扉を押した。
「遊んでくれるんでしょー!」
「誰が言った」
「リュシカもイーノスを誘ったらいいって言ってたよ!」
スピカが多少事実を折り曲げてそう言うと、イーノスの押す力は一気に弱まったので、スピカは前につんのめりそうになってぎりぎりのところでイーノスに抱き起こされた。
「こんな寒い日に……」
「イーノスは、北の方で生まれたんでしょ? こんなのへっちゃらだよ!」
「勝手に決めるな」
「雪の日に外に出ないなんて勿体無いよ!」
スピカは目を見開いて叫ぶようにそう言った。イーノスは諦めたようにため息をつくと「わかった」と呟いた。
壁の無い中庭に面した長い廊下に出ると、スピカは「わあっ」と感嘆の声を上げた。
外は真っ白に染まっていて、見慣れつつあった景色とは全然違う。鼻を通る空気はつんっと冷たくて、スピカは手袋を嵌めた手を口元に当てると、ふふ、と笑って白い息を吐いた。
雪が積もった時独特のわくわくするような、少し不思議な気分は、都にいてもなんら変わらないらしい。
「しかし、凄い格好だな」
イーノスが呆れたような声で言ったので、スピカは自分の体を見下ろした。
首元とフードの淵と、袖と、裾の部分に動物の毛皮がある、膝より少し上位までの外套に、その下から少し覗くぶ厚めのワンピース。ぶ厚いタイツに、膝下からある長い長靴の淵にも、ふわふわと細く動物の毛がある。手袋は中が羊の毛で表面が皮のもので、指先が分かれていない。
それからもふもふした大きなマフラーに、耳当ての付いた暖かな帽子を被っていた。
スピカがすると少し子供っぽくも見えるが、スピカにとっては別に普通の格好だ。特に雪の日には。
スピカはイーノスを見たが、イーノスは普段と余り変わらないような格好に、かろうじて手袋とマフラーをつけているだけだった。
「イーノス、寒くないの?」
「お前みたいな重装備なのも、珍しい」
イーノスは答える代わりに面倒くさそうにそう言った。スピカは少し下唇を突き出した。
寒いものは寒いのだから、仕方ない。ここの人たちは皆慣れているかもしれないけれど、スピカにとっては凍ってしまうんじゃないかと思うほど、寒いのだ。本当は、顔も布で覆って冷気から隠したいくらいだ。
「女の子は、冷やしちゃだめなんだもん…」
スピカは、おばあちゃんが冬になる度言っていた言葉を呟いた。スピカが寒そうな格好をしているとおばちゃんは叱って、それ以上ない程スピカに厚着をさせていたものだった。
「たしかにな」
イーノスはどうでもいいように言うと、スピカの腕を引いた。
「行くんだろ?」
まるで、引き受けた仕事を一刻も早く終わらせたいような感じだ。
スピカは頷くと逆にイーノスの腕を引いて駆けた。
廊下の低い塀の間の小道から、まだ誰も踏んでいない真っ白な地面へ足を踏み出すと、随分と積もっていたみたいで、足はざくっと深く沈んだ。
スピカは頬を紅潮させてにんまり笑うと、そっともう一歩足を踏み出す。
もう一歩、もう一歩。
そうしているうちにスピカに腕を引かれていたイーノスが、呆れた声を掛けてきた。
「聞いてもいいか?」
「なあに?」
「年齢詐称していないか?」
「さしょう……」
スピカがぽかんとした顔をしたので、イーノスは髪をくしゃっとして「なんでもない」と言った。
スピカは次の瞬間には、塀のすぐ傍に植えられてある、背の低い木に咲いている大きな花を突いていた。
「イーノス!」
「なんだよ」
「花が硬い!」
「……」
薄い水色のその花の色合いは、少しトトの瞳と似ている。
綺麗に並べて植えられているその木々にも雪が積もっていて、真っ白な木々にぽつぽつと水色の花が咲いているのは、幻想的な風景だった。
イーノスは呆れてものも言えないのか、黙り込んでしまった。スピカは片方の手でイーノスの腕を掴んだまま、時折なにかを見つけてはぶんぶんと腕を振ってくる。
こんな寒い雪の日でも、巡礼者の列は長く門の方まで連なっていて、はしゃぐスピカとそれに連れまわされるイーノスを珍しそうに見ては、訝しげに眉を顰める者がいたが、微笑ましそうにくすくす笑う者もいた。スピカたちの方に見向きもしない者もいる。
「イーノス!」
「……」
「ひかり反射して、きらきらしてるね!」
イーノスはもう相当面倒くさいのか、返事をしなくなっていた。スピカはそれも気にならない程興奮していて、寒さのせいも手伝って、鼻と頬と耳がほんのりと桃色に染まっている。
イーノスはスピカに引かれる腕をそのままに、ため息をつきながらもスピカについていってやっていた。
「イーノスの髪みたい! まっしろで、きらきらしてる!」
スピカは急に思いついたように振り向いて、嬉しそうに大口を開けてそう言った。後ろに立っていたイーノスが、少し驚いたような顔をしていたので、めずらしい思いでスピカはじっと眺める。
「……白髪じゃなくて、銀髪だけどな」
ふっと笑って、イーノスはそう言った。
スピカは目を見開いて、口もぽかんと開けて、それを凝視した。
笑う、と言ってもいつものいじわるな笑い方ではない。凄く、優しい笑い方だった。
次の日、スピカが中庭に面した廊下からぼんやりと巡礼者の列を眺めていた時、ふと名前を呼ばれた気がして視線を彷徨わせた。
昨日積もった雪は、まだ溶ける気配もなく白くきらめいている。
巡礼者が進む列の辺りだけが、どろどろとしたこげ茶色と、雪の白がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「スピカ! どこ見てんだよ! こっちだよ!」
スピカにとってよく聞きなれた声だ。スピカはまさか、と思い目を見開いて声のした方へ視線を向けた。ここからでは最後尾が見えない巡礼者の列は、叫ぶ一人の人物のせいで少し乱れていた。皆その人を迷惑そうに避けるようにして進んでいる。
「オスカ……!」
スピカは思わず叫ぶと、巡礼者の列の方へ一目散に駆けた。
オスカもたくさんいる巡礼者の列をかき分けるようにして、スピカの方に向かいながら高いところでぶんぶんと手を振っている。
巡礼者の近くまできて、ばしゃばしゃと泥が跳ねても気がつかなかった。
オスカも巡礼者の列を抜けると、二人ともどんっとぶつかるようにして抱きついた。地面が滑って止まらなかったらしいスピカは、オスカの肩に鼻をぶつけて片手で抑えた。
そんなスピカの頭をオスカは今まで何度もしたように、わざわざ被っていた帽子を取ってくしゃくしゃっと撫でた。撫でた、というよりもかき混ぜた感じだったが、スピカは今回ばかりは気にならなかった。驚きと嬉しさの余り、目を見開いて大きな笑顔をつくっている。
オスカもにんまりと笑ってスピカの頭をかき混ぜ続けた。
「オスカ! 久しぶり! なんでこんなとこにいるの?」
「服、持っていってやるって言ってただろ?」
スピカは一瞬口をぎゅっと閉じたあと、また口を開いた。
「オスカは、知ってたの?」
なにを知っていたのか、聞くまでもなくオスカは理解したようだ。眉を顰めて少し怒ったような顔になると肩を竦めた。
「俺はしらされてなかった。どうして言ってくれなかったんだよ……驚いたぞ。都の寺院に行ったって聞いた時は」
「……うん、ごめんね。なんとなく言いそびれちゃった」
スピカは力なく笑って視線を少し逸らすと、後ろを通って行く巡礼者の列に目を向けた。通り過ぎて行く人たちみんな、ちらちらとスピカとオスカを見ていく。スピカはオスカの手を引くと「こっち」と行って廊下の方まで走った。
「オスカ、またすぐに村に帰るの?」
「いや。都には親戚の家があるから、暫くそこに泊めてもらうよ」
「へぇ、」
そういえばオスカは大きな袋以外は、何も持っていない。多分その大きな袋にはスピカの服が入っているのだろう。
オスカはきょろきょろと辺りを見渡している。
「村の寺院とは、全然違うよね」
「ああ。小さい頃に一度来た時も凄いと思ったけど、やっぱ今見ても凄いなー。前はあの列に並んで大礼拝所で祈ったんだ」
「オスカも祈るの?」
スピカが意外そうに言ったので、オスカは嫌そうに眉を顰めた。
「母さんに連れてこられて、訳も解らずな。あの時は、まだ、スペルカさまも……」
オスカは中途半端に言葉を止めて、礼拝所の方へ目を向けた。巡礼者達は、ゆったりと吸い込まれるように礼拝所の中へ入っていっては、また違う列で外へと帰って行く。
「やっぱ、あそこにいるのか?」
「え?」
「スペルカさまだよ」
そういえば、トトがスピカの部屋に来る時以外に何をしているのか、スピカは知らない。一度聞こうかとも思ったが、なんだか癪な気がして結局聞かずじまいだった。
「しらない」
スピカが少しむすっとした声でそう言うと、オスカは意外そうな顔をしてスピカに視線を戻した。
「いつも一緒じゃないのか?」
「いつも一緒だったら、今もここにいるはずでしょ。ご飯を一緒に食べるくらいで、他はあんまり一緒にいないよ。隣の部屋だけど」
スピカはそう言うと眉を顰めた。トトのことを考えると、最近は悲しくなったりむっとなるばかりだ。「それより、みんなどうしてるの?」と気になっていたことを聞いてトトの話しを終わらせた。聞くと同時に、きゅうっと胸が痛む。結局はこれもトトと繋がった話しだ。
オスカは苦笑してスピカの頭にようやく帽子を戻し、その上からぽんぽんと叩いた。
スピカはオスカの表情を見るのが恐くて、視線を下げて両手で帽子をささえた。
「大したことないよ。そういえば、この前イシュが村に来たぞ」
「ほんとう!?」
「こんなことで嘘つくかよ」
「あーっ会えなかった!」
スピカはそう言って項垂れた。
オスカはスピカの肩をぽんぽんっと軽く叩くとはは、と笑った。
スピカはぎっと睨むようにオスカを見上げる。
「……なにがおかしいの」
「大丈夫だよ。イシュ、スピカに近々会いに来るってさ」
「ほんとう!?」
「だから、こんなことで嘘つくかよ」
オスカは苦笑しながらそう言った。