16.
昼食は、おかしなくらい平和に、静かに終わった。
平和と言っても、四人が交わした言葉は本当に少なく、トトとセスティリアスに限っては全く会話していないし、多分お互いの顔も余り見ていないだろう。
スピカは真ん中に座って一人、トトとセスティリアスの方へ忙しなく首を動かしていた。イーノスに至っては座ることさえしなかった。ただじっと少し離れた所で立っていただけだ。アルカはトトの足元でじっとしたまま動こうともしなかった。安心しきった表情で心地よさそうにうっとりしている。
けしてスピカの思い描いていた、みんな仲良く楽しい食事にはならなかった。逆にひとりで気を使っていたスピカは帰りにはぐったりと、少し疲れた顔をしていた。
「じゃあね、スピカ」
そう言って、歩き出したスピカに手を振ったセスティリアスは元気でにこやかだ。
アルカはセスティリアスの足元にじっとしているものの、名残惜しそうにじっとトトをまんまるな目で見つめていた。
「うん。じゃあね、セス」
そう言うと何故か一気に疲れが押し寄せてくる。瞼が重くなってきた。
「さよなら、セス」
トトもそう言うと、セスティリアスは少し目を大きくしてから笑いを作って会釈した。
「さよなら、きんいろのかみさま」
トトはその言葉にスピカの隣で少し苦笑していた。イーノスは少し眉を顰めて、一瞬だけ叱るようにセスティリアスの方を見た。当の本人は微笑んでスピカの方を向いている。
「イーノスもね……スピカ、また来るでしょ?」
そう聞かれてスピカは曖昧に笑った。
やはり、スピカはトトと一緒に帰りたいと思う。
早く帰らないと、取り返しのつかないことになってしまいそうでスピカは少しずつ焦ってきていた。それは村人のことではなくて、それもあるけれど、スピカ自身がまた都で大切なものを見つけてしまうと離れがたくなってしまうからだ。別れは、とてもつらい。
「セスは寺院には来ないの?」
「私は禁止されてるの」
「だれに?」
「家族に」
「ふうん?」
スピカはそう相槌を打ったあと、意思とは無関係に湧き上がってきたあくびをかみ殺した。セスティリアスがくすくす笑って、隣でトトも小さく笑う気配がする。
日はまだ高くスピカの頭上で燦々と輝いている。小さな子供が昼ごはんを食べ終えて一眠りするくらいの時間帯だ。
「じゃあ、またね」
「うん。ばいばい」
スピカはそう言いながらトトに手を引かれて歩き出した。トトと手を繋いでいる方とは逆の手で手を振る。
パドルの鳥かごはトトの手の先でぶら下がっている。
「パドルもね!」
セスティリアスがそう言うと、パドルがタイミングよく高い声で鳴いた。
イーノスはスピカとトトを部屋の前まで送り届けると、行ってしまった。トトの部屋の前には意外なことに警備などは全くなく、部屋の前の廊下を行き交う尼僧もごく僅かだ。
スピカは部屋の扉を開けるとふらふらとしながらなんとかベットまで歩き、ぼふっと手前から倒れこんだ。一瞬小さく体が跳ねて、少しずつふわふわの寝台に体は沈んでいく。
「スピカ、大丈夫?」
「ん、ちょっと寝る」
あまりにもスピカがふらふらしていたためか、トトは部屋まで来てくれたらしい。寝台の端が少し沈んでいく気配がしてなんとか重い瞼を開けると、トトが寝台の端に腰掛けてスピカを見下ろしていた。
甘く細められた湖の色した瞳は、外から差し込む少しの光で透き通っている。
眠気でなにも考えられない状態で、スピカはただぼんやりとそんなトトの顔を見上げていた。
トトは優しく微笑んで小さい子供にするようにスピカの髪と額を撫でた。
心地よさにうっとりしてスピカが目を閉じると、トトは大きくもないのにスピカの頭に響く声で言った。
「――スピカは、すぐに見つけてしまうんだね」
なにが。と聞こうとしてあまりに眠いので止めておいた。
優しくトトが髪や額を撫でるたびにスピカの眠気は増していった。
「ねえ、トト? 村にかえろう?」
スピカが寝台の上で少しまるくなってまどろみながらそう言うと、トトは優しい調子のまま言う。
「帰らない。僕はずっと、あそこが嫌いだった」
「どうして……?」
そう聞いたスピカはもう殆ど無意識だ。目は肝心に閉じている。
トトはその状態に気づいているのだろう、小さく笑うとそれに答えることもなくスピカの頭を撫でながら言った。
「どこへ行ってもすぐに見つけるのなら、どうせなら……」
そこから先は、眠りについてしまったスピカには聞くことができなかった。
スピカが目を覚ますと、トトが目の前でスピカを見下ろしてにっこりと笑った。その笑い方でわかる。スペルカだ。当たり前だけれど、顔は全く一緒なのに笑い方の違いで印象も随分違う。柔和に笑うトトとは違ってスペルカは隙のない綺麗な顔をくしゃっとさせて笑うのだ。
「スペルカ」
スピカがまだ完全に目覚めないままぼんやりとそう言うと、スペルカはますます顔をくしゃっとして笑った。トトの優しい手つきとは違って、親戚のおじさんが久しぶりの再開の時にするみたいに、少し乱暴にスピカの頭をくしゃくしゃと撫でた。それで少し目が覚めたスピカは憮然としながら髪を手櫛で整えた。
「どこでおぼえたの、それ」
「トトがしてた」
「トトはそんなじゃないよ……」
スピカはため息まじりにそう言うと上半身を起こした。布団の上に寝てしまったからか、トトが掛けていてくれていたらしいトトの外套がずり落ちた。
少し寒い気がして、スピカにしては大きいその外套を胸元へ寄せた。
「ひさしぶりだね」
「ひさしぶり? ひさしぶり」
スペルカはなにが楽しいのか、目をきらきらさせてにんまり笑い、ずいっとスピカに顔を寄せた。
普段のトトの穏やかな雰囲気とは違って、無邪気で少し子供っぽく見えるが瞳の色はやはりどこまでも深い。スピカは無意識の内にじっと魅入っていた。
「スピカは、どうしてここにいる?」
「トトに連れてこられたんだよ」
スピカは「そんなの知ってるでしょ」と言うと、口をへの字に折り曲げた。
「おまえはやっぱり虚ろなのか」
「なにが」
虚ろ、とはおそらくスペルカが一番最初に言った言葉だ。スピカは眉を顰めた。一体なんのことなのだろうか。分かりそうで分からない。
スペルカはトトの顔でした、にこにこ笑いを止めずにじっとスピカの目を覗き込んだ。
「ここにいたい訳ではないのに、他人の意思でここにいる」
にこにこ笑いながら言うスペルカに、スピカは一瞬口を噤んだ。じっとスペルカの、トトの顔を見つめる。
始めて会った時は、あんまりにも綺麗だったから吸い込まれそうな気がした。透き通るような金色の髪も、澄んだ湖みたいな瞳も、整った優しそうな顔も。けれど、今は大分慣れた。始めて会った時から殆ど毎日顔を合わせてきたのだから、無理もない。今では別の色んな感情でトトを見る。それでも、たまにじっと魅入ってしまうけれど。
「ここにいるのは、スピカの意思だよ。スピカはトトがいるからここにいる……できれば村に、トトと一緒に帰りたいけど」
「トトがいるからここにいるのは、スピカの意思じゃなくて村人の意思だろう」
スペルカがまだ笑いながらはっきりとそう言ったので、スピカは少しの間目をまるくした。次の瞬間には、小さく笑ってスペルカを見上げた。スペルカは寝台の上で身を乗り出すようにして、スピカの目の前で手をついている。
「かみさまでも、心が読めるわけじゃあないんだね」
スピカが苦笑しながらそう言うと、スペルカは不服そうに眉ねを少しだけ寄せた。
「スピカのはわからない」
「スピカだけ違うから?」
「そう」
「ふうん」
スピカはそう呟くと同時に少しだけほっとしていた。いくら違うとは言っても、スペルカの姿はトトだ。トトの姿をしたスペルカにスピカの心の内を知られるのは落ち着かないし、嫌だった。
「そういえば、セスのこと知ってる?」
スピカは多分知っているだろうなあ、と思いつつも尋ねてみた。スペルカは、トトの目を通して今日の外での昼食の様子も見ていたはずだ。
案の定、スペルカは「うん」と言って頷いた。
「トトのこと、かみさまだって」
「あの娘は、ピノばあと同じだ。見えないものを見て、聞いて、感じて、嗅ぐ」
「おばあちゃんと、いっしょ」
「そう。スペルカがトトの体の中にいる時と近い感覚を、あの娘は持っている」
「そうなんだ」
スピカはその感覚がどんなものなのか全然分からないので、首を少し傾げながら相槌を打った。小さなさえずりが聞こえてきて横目で見ると、パドルがじっとスピカたちの方を見ていた。
「スペルカも、感じた。同じにおいがみっつ」
「同じにおい?」
「そう。同じにおい」
スペルカはまた頷くと、楽しそうに無邪気に笑った。
スペルカの言うことはいつも大抵分からないので、スピカは意味を理解することを諦めて窓の方へ目を向けた。外は薄っすらと橙色に染まりつつある。
小さな卓上には、茶器が二人分置かれていた。多分リュシカニアが、スピカの寝ている内に淹れにきてくれたのだろう。まだ温かそうだ。
「――リュシカに会ったの?」
「トトが会った」
「そうなんだ……」
ふたつあるコップのうちの一つにはお茶がたっぷり入っていて、まだ薄っすらと白い湯気をあげている。リュシカニアがトトの為に淹れたのだろうが、トトは一度も口をつけなかったようだ。
「あれも、同じにおい」
スペルカがまた意味のわからないことを呟いたので、スピカは聞き流した。
「そういえば、どうしてスペルカが急に出てきたりするの? いつもなんだけど」
「さあ。いつも目が覚める時みたいに、突然変わる」
「ふうん? その間、トトは?」
「夢をみてる。いろんな夢」
ということは、寝ているようなものなのか。
スピカは納得すると頷いた。スペルカは飽きてきたらしく、視線をきょろきょろさせている。まるで小さな子供だ。トトの姿でされると違和感があって仕方ない。トトの見た目は少し幼いかもしれないが、トトはそれ以上にいつも落ち着いていて穏やかで、優しいのだ。
たとえどんなに酷いことをしていても、それは変わらない。
「帰りたいか、ことこ」
スピカはぽつりと言われたその言葉にぎょっとしてスペルカを凝視した。
スペルカはきょろきょろするのは止めて、じっと外の方に視線を注いでいる。あかくあかく、外は染まっていく。
スピカは苦笑すると少しだけ肩を竦めた。
「……そりゃあ、帰りたいよ。だけどそれには、トトも一緒じゃないと駄目なの」
スペルカの底知れない瞳を見据えて言う。スペルカは表情を殆ど消してスピカをじっと見返した。なにかを探るように。そして「まあ、いい」と呟くとまた窓の方に視線を戻した。
村にいても、ここにいても、夕暮れに橙に景色が染まるのは変わらない。それはたとえ、物凄く遠い場所だって。
だから、何度でも思い出してしまって苦しんでいたけれど、今ではその感情も少ない。随分と長い時間が経ってしまったのだ。
スピカが、ここにきてから。
帰りたい?
多分、それはもう無理だ。現実問題ではなくて、スピカの心の中は殆どこの場所や人たちで埋まってしまっている。
それでも、たまにどうしようもなく恋しくなってしまう時があるけれど。
もしかしたらスペルカは、スピカが帰るすべを持っているかもしれない。
『――すごく遠くから、やってきたんだね』
セスは、どこまで知っているのだろう。なにをみたのだろうか。
スピカは窓の外の橙の景色をぼんやりと眺めながら、そう思った。