13.
スピカが顔を上げた時には、前にいたはずのイーノスの姿はなかった。
驚いて一瞬立ち止まってしまったスピカを、行き交う人たちは邪魔そうにちらちらと眺め見る。
必死で歩いていた方向に進んだが、イーノスの姿は中々見当たらない。名前を呼ぼうとして口を小さく開いたが、瞬時に不機嫌そうな顔を思い出して、勝手に馴れ馴れしく名前を呼んでもいいのか迷い口を噤んだ。
目を離したのは一瞬のことだから、すぐに見つかる筈だと思う。もし見つからなかったとしても、スピカはそこまで小さな子供ではないのだ。寺院と同じく、ごちゃごちゃとした道を余り覚えてはなかったが、人に道を聞けば帰れるだろう。
そう思うとこの人ごみの中、仏頂面でスピカのほうを振り返ろうともしないイーノスを探す気も失せていった。すると先程まで必死で歩いてばかりでじっくり見れなかったものがまた気になりだして、きょろきょろと視線を彷徨わせてしまう。村の寒色の色彩とは違って、街は色に溢れていた。よく見てみると、けばけばしい顔をした女の人が宝石の露店を開いていて見たこともないような石を売っていたり、中太りのおじさんが曲芸をやっていたりする。他にも、見れば見るほど気になるものがたくさんあった。
人ごみに紛れた大きな犬とすれ違うと、犬はスピカが気になったのか、すれ違いざまじっと見上げてきて、スピカが通り過ぎた後で付いてきた。しっぽはぴんっと立っていて、犬が歩く度に小さく横に揺れている。毛が少し長くて、その間から覗く目は小さな子供のように愛らしかった。スピカは多分、おじいちゃん犬だと勝手に思う。
スピカは最初、犬の大きさに驚いたが、犬が付いてくると少し楽しい気分になった。
抱き抱えた鳥かごの中で、スピカの後をついてくる大きな犬を、パドルは不審そうに犬を見下ろしている。
暫く人ごみに流されるままに歩いていると、近くで何かがぶつかる音と叫び声がしてスピカは反射的に振り向いた。
パドルは鳥かごの中で、宿り木の上から落ちないよう、バランスをとりながらあわただしく羽をバタつかせている。
見ると、宝石商の屋台の台の上で、屈強な男二人が物凄い形相をして掴み合いをしていた。大きな声を出して、汚い言葉でお互いを罵り合っている。
台の上に載っていた宝石は、屋台の近場のそこ彼処に散らばっていた。ところどころで少年達がそれを拾っていくのと、男達の喧嘩をスピカは呆気にとられて見た。
村でも喧嘩はあって、村の男達はそれを取り囲んで、楽しんではやし立てたり応援したりしていたが、スピカ自身がこんなに近場で見たのは始めてだ。街の人たちは、興味をしめして野次馬に加わり、はやし立てる者もいたが、殆どが道で喧嘩を始めた男達と野次馬を邪魔そうに見やると、慣れた様子ですたすたと通りすぎて行った。
屋台の中で、宝石商の男は、おろおろと口に手を当てて慌てていて、小さな可哀想な声で「頼むから、お願いだからやめてくれ……」と言っているが、男達は気にした様子もなく、罵りあいから殴り合いに移った。
大きな怒鳴り声と鈍い音で、スピカはびくっと肩を竦ませる。
男達を囲む輪の内側では、いつの間にかスピカが最前列になっていた。
近くでの喧嘩に唖然としていたスピカは、ようやく恐怖を感じ始めて離れようと振り向いたが、すでにスピカの後ろには大きな男たちが立っていて、前に立つ小さなスピカの様子に気づくこともなく、楽しそうに、屈強な男二人の喧嘩をはやし立てた。
殴りあう男達は、お互いの体や顔を殴って相手の体を飛ばしては、近くの屋台の商品の上の商品を飛び散らした。
スピカはどうしようもなく、鳥かごをぎゅっと抱きしめてその様子を見守ったが、雲行きが怪しくなってきたことをすぐに感じた。喧嘩をしていた男の一人が、投げ飛ばされて輪の最前列の男達にぶつかったのだ。
すぐ横で起こったその出来事に、スピカはぎょっとして体を強張らせた。
ぶつかられた方の男達は、殺気立った顔をしていて、今すぐにでも喧嘩に混ざっていきそうな雰囲気だ。
「――おいで、」
そう高い声に呼ばれた途端、スピカのそばにまだ居た、大きな犬にワンピースの裾を噛まれて引かれた。バランスを崩しそうになったが、なんとか立ちなおして、人ごみを掻き分けながら前を行く犬の後に続く。無理矢理とはいえ、殺気立った輪の中心から抜け出せたことにほっとする。
スピカは声の主が誰なのか、辺りを見渡しながら歩いたが、誰だかさっぱりだった。まさか、と思って大きな犬の揺れるおしりを見たが、おじいちゃん犬が少女の声を出す訳がないと思った。それにそもそも犬が喋る訳もない。
暫くしたら、また普通の人の流れに戻った。少し離れた所で野太い男達の声がたくさん聞こえたが、もう安全だろう。
スピカはそれでもなんとなく、大きな犬の後を付いていった。犬が時々振り返っては、スピカがいるのを確かめるみたいに、じっとスピカのことを見たからだ。まるで付いて来い、と言っているようだった。
また暫くすると、人が疎らになってきて、使われていない噴水の前に出た。
スピカはそこで立ち止まったが、大きな犬は嬉しそうに大きく尻尾を振りながら、噴水まで小走りに行った。
犬は古い噴水の前に着くと、そこに腰掛けていた少女に擦り寄った。
少女は、犬の頭と目と目の間を優しく撫でてやりながら、顔はスピカの方へと向けていた。
「あんたも、こっちにおいでよ」
先ほどの声だ。
スピカはそう思うと少女の近くに寄った。
「さっきの喧嘩はね、元々はいつもの嘘だよ。途中から本気になっちゃったみたいだけど。あいつらは、宝石屋の商品を盗む為にあんなことしたの。あんたも見たでしょ、男の子達があいつらが飛び散らした宝石を拾ってるのを。あいつらもグル。 ……まあ、何人かは関係なく拾ってる奴もいたけど」
少女の言葉に驚きつつも、スピカは少女をじっと見た。近くで見ると、少女の瞳は、白く濁っていて焦点が合っていない。
スピカはぼんやりとおばあちゃんを思い出す。おばあちゃんもこんな瞳をしていた。
けれどそれよりも、スピカの目を惹いたのは、少女の美しさだった。
腰近くまである長い髪に、長い睫、桜色のくちびるに小さな鼻に、大きな目。真っ白ですらっとした手足。少しスピカより大人びた顔立ちをしているが、歳はスピカと同じくらいだろうか。
「……なにじろじろ見てんの?」
「見えてるの?」
スピカが普通にそう聞くと、少女はくすくす笑って犬から手を離すと、すくっと立ち上がった。犬が名残惜しそうに、少女の太ももに顔を擦り付けている。鳥かごの中で、パドルが移動する気配がした。
「みんな私は何も見えてないと思うみたいだけど、とんだ勘違いだよ。私は色んなものが見えてる。 ……例え目に映っていなくても」
そう言うと少女は、足元に転がっていた小さな石を蹴った。
石はレンガ造りの家の、一部の崩れた部分にカツンと当たって、そのまま地面に転る。
「ところで、あんた何歳?」
「十四歳。もうすぐ十五歳だよ」
「なんだ。てっきり、私の方が年上だと思っていた。私は十二歳」
スピカの見た目に合わない年齢に、少女は少し驚いたように、少し声を高めてそう言った。
その様子にスピカは言いかえそうとしたが、少女の姿を見て止めた。少女はスピカと同じ位の身長で、十二歳にしては顔も大人びていて美しい。 さらりと伸びた銀色の髪だって年頃の娘っぽい。
スピカは子供っぽい自分の髪の長さを見て、それからついでに、幼い自分の顔と身体を思い出して、力なく項垂れた。
「大丈夫。もうすぐしたらあんただって娘らしくなるよ。多分」
二歳も年下の娘にこんな風に元気付けられて益々力が抜ける。
少女はくすくすと笑いながら、ふわりとした、猫のような身のこなしで噴水の淵に跳び乗り、後ろで手を結んでスピカを見下ろした。
実際には見えていない筈なのに、開け放たれた瞼の下の瞳に、見つめられているような気がして、スピカはじっと見返す。
曇った空の下でも少女の髪は銀色に輝いている。
ふと、細められた少女の白く濁った瞳に、色が増した。
「――とおい、遠い娘……」
「え?」
「ううん。そういやあんたの名前聞いてなかったし、自己紹介もまだだった」
少女は楽しそうにそう言うと、ひらりと噴水の淵から音もなく跳び降りた。
同じ視線の高さで、スピカの方にしっかりと顔を合わす。
白い膜の張ったような瞳の色は、薄っすらと緑柱石のような色をしていた。
「私はセスティリアス・ヴィエッタだよ。よろしくね」
少女は悪戯っぽく微笑んでそう言った。
「また会おうね」
そう言うと、少女は行ってしまった。
少女と少し喋りながら歩いている内に、寺院の近くまで来ていて、スピカはほっと息をついた。
また会おうと言っても、スピカは少女の家も知らないし、少女もスピカが寺院にいることなんて知らない。スピカが寺院に住んでいることを言うのは、リュシカニアに禁じられている。それにスピカは、できるだけ早くトトを連れて村に帰りたかった。
スピカは、大きな犬と一緒に走り去った少女の後姿を見送った後、唇をきゅっと結んで寺院に戻った。
慌てたように長い廊下を小走りに進んでいた尼僧を見つけて、スピカが名前を呼ぶと、リュシカニアは少し驚いた後、ほっとしたように情けない顔で微笑んで、ぎゅっとスピカを抱きしめた。
「はぐれたって聞いて、私も街に探しに出ようかと思っていたところなのよ」
「ごめんなさい」
「いいえ。無事でよかったわ……心配してると思うから、イーノスさまにも顔を見せてあげてね。今街を探し回ってると思うけど、連絡を寄越して帰ってきてもらうから」
その言葉を聞いて、スピカは申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「いいえ。きっとイーノスさまが、後ろを振り向きもせずに、すたすた歩いていたんでしょう?」
スピカが何も言えずに黙っていると、リュシカニアは微笑んでスピカの頭を撫でた。「想像つくわ。だけど悪い人じゃないから、許してあげてね」と付け足した。
スピカが頷くとリュシカニアはほっとしたように笑った。
「――スピカ?」
暫く聞いていなかったように感じる声に、スピカははっとした。
リュシカニアは驚いて目を見開くと、頭を下げて、スピカの後ろに数歩さがった。
スピカが恨めしげに、後ろに数人の尼僧を従えたトトを見ると、トトはいつも通りににっこりと笑った。
「どこかに行ってたのかな? 今、スピカの部屋に行ったんだけど」
「……街に行ってたの」
「そうなんだ。どうだった?」
「別に」
普段となんら変わらないトトの様子に、スピカは苛立って素っ気無く答えた。
これ以上、にこやかなトトの顔を見るのがいやで目を背けると、トトがふっと笑う気配がして、眉を顰める。
ふと、村の皆の顔を思い出して村に帰らないとと思ったが、お腹の中からじわじわこみ上げるような苛立ちで、今はトトとは喋りたくなかった。
「お昼、まだだろう? 一緒に食べよう」
「……いや」
「あとでスピカの部屋に行くから」
スピカの意見などまるでどうでもいいようにトトが穏やかな声でそう言うと、スピカはトトを睨みつけたが、それさえも全く気にしていないようにトトは微笑んだままだった。スピカは沸点に達しそうになるのをぎゅっと堪えて、後ろで黙って頭を下げていたリュシカニアの腕を引いて「行こう」と言うと、すたすたと歩き始めた。
苛々としながらも、少し前のトトを思い出して、どうしたの、と思う。
何も変わっていないように見えるのに、少し前のトトとは、随分と変わってしまったようにスピカは感じた。それに、トトを説得して村に連れ帰るつもりだったのに、自分は何をしているんだろう、と思う。
長い廊下の突き当たりでようやく左に曲がると、トトの視線から開放されたような気がして立ち止まった。
「……スピカ?」
「……」
リュシカニアが心配そうに声を掛けてきたので、返事をしようとしたが、どうしようもない悔しさと苛立ちのあまり、急に湧き上がってきた涙を堪えるために声を出せなかった。
俯く視線の先で、鳥かごの中のパドルが首を傾げて見上げてきていた。
力なくリュシカニアの腕から手を離す。
「……イーノスさまと会ったあと、私と一緒に食堂でお昼ご飯食べる?」
今、トトと一緒に食べるよりは、その方が随分とましな気がしてスピカは小さく頷いた。
中庭に面した壁のない廊下で、イーノスはスピカを見ると、厳しい表情をほっとしたように少しだけ和らげた。
リュシカニアが言っていた通り、責任感のためかもしれないが、少しはスピカのことを心配していたらしい。
が、次の瞬間にはまた同じ不機嫌そうな顔に戻っていた。
先程の余韻を引きずったままのスピカが、元気のない声で「ごめんなさい……」と言うとイーノスは更に機嫌悪そうに眉を顰めた。
「どうして謝る」
「スピカが、逸れたから……」
そう言うと、イーノスはまた、あのめんどくさそうなため息を漏らした。
「……お前が悪いわけじゃない」
「あら、分かっていらっしゃったの」
リュシカニアがそう口を挟むと、イーノスは眉間に皺を寄せてリュシカニアを睨んだ。
リュシカニアはにこやかに微笑むと、言葉を続ける。
「どうせ、『どうして俺が子守りなんて』と思って仕事を放棄したんじゃありません? 与えられた役目を果たすのは、騎士だけじゃなくて、大人の勤めでは? ……それとも、やっぱりあなたはまだ小さな子供なのかしら? それにしても、子供だって立派に役目を果たすと思うのだけれど」
リュシカニアの次から次へと出てくる鋭い言葉に、スピカはぎょっとしてリュシカニアの顔を見た。厳しい、というより嫌みったらしい言葉とは裏腹に、リュシカニアは至ってにこやかだ。『イーノスさま』と呼ぶからには、イーノスの方が目上の人間だと、スピカは思っていたのだが、違うのだろうか。
イーノスはますます眉間に皺を寄せたが、リュシカニアの言葉に反論するでもなく、視線をそのままスピカへと移した。
「……悪かった」
素っ気無い言葉使いだったが、心が篭っているようだった。
スピカがますます目をまるくして固まると、リュシカニアはくすくすと笑った。
「やっぱり、お昼は食堂ではなくて、裏庭で頂きましょうか。イーノスさまも、勿論いらっしゃいますよね?」
リュシカニアがそう言ったので、スピカは苦笑いした。
スピカの予想に反してイーノスは、不機嫌そうな顔をしながらも、リュシカニアが昼食の準備で慌しい食堂でバスケットいっぱいに昼食を詰めてくるのを、黙ってスピカと廊下の壁にもたれて待っていた。スピカの右隣にある大きな扉からは、絶え間なくいい香りが漂ってくる。
献立の予想をしながらも、沈黙に耐えられなくなりスピカが言葉を探していると、イーノスの方から喋りかけてきた。
「スペルカ様とは、この寺院に来てから会ったのか?」
そう言われて隣を見上げたが、イーノスは別にスピカに目を向けてなかったので、スピカも前を見た。
巡礼者たちの列が見える。スピカはここへ来てから巡礼者たちの列が絶えたのを見たことがなかった。
「……さっき会った」
「そうか」
そこで短い会話は終わった。二人の間に再び沈黙が流れると、遠くの喧騒とパドルの鳴き声が、少し大きく聞こえた。
トトは、スピカとお昼ご飯を食べようと、今頃スピカの部屋に行っているのかな。そう思うと、苛立ちの納まった心の中で少し罪悪感が湧いたけれど、それでも部屋に帰ってトトと一緒にご飯を食べる気にはなれなかった。胸の中はもやもやとしていて、気分は全然晴れていない。きっと、トトを見るとまた苛々が湧いてくるだろう。
お待たせ、と元気な声で、リュシカニアがいいにおいと共に扉から出てきて沈黙を破ると、待っていた二人は少し目を大きくして、リュシカニアの持っているバスケットを見た。大きなバスケットの蓋は、中に入ったたくさんの食べ物で、半開きの状態だった。
「……いくらなんでも、多すぎだろ」
イーノスが呆れ声でそう言ったので、スピカも賛同して頷いた。
「あら、イーノスさまはお肉とかも必要かと思って、これから騎士用の食堂にも寄ろうかと思っていたのに…… 子供はいっぱい食べて大きくならないと駄目よ」
『子供』という言葉の括りには、明らかにイーノスも含まれていたので、イーノスはリュシカニアを睨んだ。
いくらなんでもそんなにたくさん食べていたら、横に大きくなってしまう。
そう思ったスピカはもう一度バスケットを見た。
飲み物は入りきらなかったのか、もう片方の手の上で盆に載せられている。
イーノスが癖みたいにまたため息をつき、指を髪に絡ませてくしゃっとすると「肉はいい」と言って、リュシカニアのバスケットと盆を奪い、すたすたと歩き始めたので、スピカとリュシカニアもその後に続いた。
「悪い人じゃないでしょ」
歩きながら小さな声でリュシカニアが言ったので、スピカは前を歩くイーノスの背中を見ながら、小さな声で「うん」と返事をした。