12.
「――スピカ、起きて。もう着くよ」
頭の上から囁くような声が聞こえて、スピカはゆっくりと目を開いた。
優しく髪を梳かれる心地よさに再び目を閉じそうになったが、その途端ガタンッと大きく揺れて、驚きで凭れていたトトの腕にしがみ付き大きく目を見開いた。同じく驚いたのだろう、パドルの鳴き声と羽をバタつかせる音が聞こえてきた。そして、今自分のいる場所を思い出す。馬車の中だ。ガタガタと居心地の悪い揺れは相変わらず続いているのに、どうして一度も目を覚ますこともなく眠り込めたのだろうかと不思議に思った。
目を見開いたまま固まった状態で徐々に頭を覚醒させたスピカは、トトが微かに体を震わせて笑いを堪えているのに気づき、むっとして体を離した。
「……やっぱり、着くの早いね」
「そりゃスピカは寝ていたからね。一瞬だっただろう?」
声に笑いを滲ませてトトは言った。
「村のすぐ近くまで行くのに馬車なんか乗ったら、あっと言う間に着くに決まってるよ」
不貞腐れて言うスピカに、トトは「いや、結構な長旅だったよ」と微笑みながら言った。
そういえば、雨の音が聞こえない。代わりに、外からは何故かざわざわとした気配がした。
もう止んだのかな、と思い、スピカは閉められていた幕の隙間から外を覗いて、息を呑んだ。そして次の瞬間には、何かを確かめるように視線を彷徨わせた。
動揺を隠そうともしないスピカの様子を、トトはどこか面白そうに眺めていた。
「どうしたの?」
「……ここ、どこ?」
「寺院に行く道の途中だよ。もう直ぐ着く」
そう言うトトの穏やかな声を聞きながら、スピカはもう一度窓の外を見た。寺院は森に囲まれている。まだ寺院に行く道の途中なら、森に森の中にいる筈だ。なのに今スピカたちが乗っている馬車が走っている場所は違った。
まさか、と思いスピカはトトをじっと見た。責めるような口調で聞く。
「ここは、どこ?」
「都」
今度は誤魔化すことなく、しらっとした口調でトトはそう告げた。
スピカはまさかとは思っていたが、驚きで目を見開いた。瞬時に、スピカにとっては先程の、村人達の顔や視線を思い出し、さっと血の気が引いていくのを感じる。村から都までは、早くても一日近くかかる筈だ。その間、ずっと眠っていたのだろうか。どうして気がつかなかったのだろう。
隣に座るトトの服の袖を両手で掴むと、必死に訴えかけるように揺らした。いつの間にかトトの膝の上に移動していた鳥かごの中のパドルが、怒ったようにちちっと鳴く。
「どうして! 寺院って……!」
「村の、とは言っていないよ。スピカ」
「けど……! 帰ろう、トト! 村に帰ろうよ!」
悲鳴に近い声を出すスピカに、トトは深い湖の瞳で、優しく諭すように言う。
「スピカ、君は僕と都の寺院に行くんだよ」
優しい声なのに、その声には力がある。
スピカは混乱しながらも、もう一度外を見た。見たこともないような煉瓦造りの高い建物や店が並ぶ路地には、たくさんの人だかりができていて、みんなスピカたちが乗る馬車を一心に見つめていた。そのどれもが求めているものは、きっとトトであることがスピカには分かった。
スピカは隣に座るトトを見上げた。 殆ど声にならない声で、どうして、と呟いたら、トトには聞こえていたらしい。
「どうもしていないよ。ただ、住む場所が変わるだけだ。そうだろう? スピカ。……それに君はいつまでも村の人たちに縛られているつもり?」
スピカは愕然とトトの顔を眺めた。トトは、分かっているのだろうか。自分がどんな残酷なことを言っているのか。トトだって、あの村人達の表情や視線の意味を知っている筈だ。けれど、優しげで穏やかな口調と顔は、変わらず微笑んでいる。
村人たちを見捨てないでやっておくれ。 そう言ったおばあちゃんの声が、血の気の引いた頭の中で響く。
スピカは、自分の犯してしまった間違いの大きさに身を震わせた。
都の寺院は村の寺院とは違って、敬虔な雰囲気というよりも豪華絢爛さを誇っていた。
大きさなんて、こじんまりとして質素な村の寺院の四倍はきっとある。天井近くに連なる繊細な透かし彫りには、色とりどりの硝子がはめ込まれていて、外から差し込む光で床や壁を彩っていた。長く続く回廊を尼僧に案内されながら歩いたが、中央には大きな庭があり、植木の間から巡礼者が中心の建物に並ぶのが見えた。
「ここがあなたの部屋ですよ」
そう案内されて通された部屋も、村のスピカの部屋よりも何倍もあるような広さだった。調度品も新しいのか綺麗で、生活感のない部屋だった。
スピカは扉の前で、ぼんやりとその様子を眺めた。この部屋に案内してくれた尼僧は、案内が終わると呆然とするスピカをおいて何も言わずにさっさと行ってしまった。
狭くても、小さくても、住み慣れたスピカとおばあちゃんの、あの小さな家の方が全然いい。あの家に帰りたいと思った。それに、村と都はスピカには簡単に行き来できる距離ではない。村人やあの家のことを思い出して、心細さと不安が増す。スピカは村の寺院だと思っていたから、オスカやその家族、シュトゥやアラントにもいつでも会えると思っていたが、これだと次はいつ会えるか分からない。そして何より、スピカはトトを村に繋ぎとめておかないといけないのに。
ぼんやりと物思いに耽っていると、手に持った鳥かごの中から、励ますような高い鳴き声が聞こえてきた。その小さな存在に、ようやく少しだけ安堵すると、もう一度部屋の中を見渡す。スピカの荷物は、誰かが先に運んでくれていたらしい。寝台の前の長椅子の上に置かれていた。
露台の硝子扉の前には、用意してくれていたのか鳥かご掛けがあった。そこにとりあえずパドルの鳥かごを掛けると、露台に続く硝子扉を開いた。
三階にある、庭に面したスピカの部屋からは、庭全面と都を少し見渡すことができる。大きな塀に囲まれて、門の前に門番が立つこの寺院は、寺院というよりはどこかのお城のようだ。
右隣の露台に目をやって、嫌なことを打ち消すかのように首を振った。
隣はトトの部屋だ。
此処についてからすぐにスピカは尼僧に連れられてこの部屋に来たが、トトは今何処にいるのか分からない。
なぜトトは、スピカを騙すようにして都に連れてきたのだろうか。言っていたとしてもスピカは反対しただろうが、それでも騙すように連れてくるなんて酷い。村に帰るとしても、スピカ一人で帰るのでは意味がないのだ。
スピカは項垂れるとその場にしゃがみ込んだ。途方もないような不安に襲われて身動きができなくなる。スピカもトトも、けして村を出てはいけなかったのに。
暫くして、こんこんと扉を叩く音が聞こえて振り返ると、若い尼僧が手にコップとお皿の乗った盆を持って立っていた。
露台でしゃがみ込んでいるスピカを、開いた扉の向こうで訝しげに眺めている。
同じ服を着ているし余り顔を見ていなかったからはっきりとは分からないが、先ほどこの部屋に案内してくれた尼僧とは違うだろう。
その尼僧は、スピカと目が合うと表情を正し、微笑んで言った。
「あなたが、スピカですね。私はリュシカニアと云います。昼食を持ってきたのと、あなたを案内する為に来たのだけど……大丈夫かしら?」
「……あんない?」
「あなたはこれから此処で生活するのでしょう? 私が案内するのは、寺院の中だけになるけれど、必要だと思うわ。此処は広いし、入り組んでいるから……」
スピカは、ずっと此処に住むつもりなどなかったが、リュシカニアの言う通り、案内がないと迷ってしまいそうな広さだった。
のろのろと立ち上がると、頭を下げた。
「じゃあ、よろしくおねがいします。リュシか二あ……」
上手く発音できずに顔を顰めると、リュシカニアは優しい笑みで言った。
「リュシカでいいですよ。スピカ。じゃあ行きましょうか」
「……あの、リュシカ。パドルも連れて行っていい?」
少し上目遣いに言うスピカの言葉に、リュシカニアは少し目を円くさせてパドルの入っている鳥かごを一瞥したが、直ぐに微笑んで頷いた。
リュシカニアはトトの話しを一切出さなかった。
この若い尼僧はスピカの昼食が終わると、乱れのない綺麗な仕草でスピカの部屋の近くから順番に、案内の必要そうな所だけを丁寧に案内してくれた。
寺院の中も外観に負けないくらい繊細な彫刻が多く、リュシカニアが言った通り広いだけではなく、中は迷路のように入り組んでいた。広さのわりに人の数が少ないのか、数人の尼僧とすれ違う以外は人を見かけることもなく、長い廊下にはリュシカニアとスピカの足音だけが響いた。
同じ大きさと色の扉は、そこに彫られている模様で何の部屋なのか見分けるという。スピカはその繊細に彫られた、たくさんの部屋の模様を殆ど覚えれらなかった。折角説明してくれているのだが、とても一回で覚えられるような感じではなかったし、元々長居するつもりのないスピカは、殆どの説明を忘れてしまった。
ヨルカと同じ歳位かな。
ふと、斜め前をゆったりと歩くリュシカニアの横顔を見て、オスカの姉のヨルカを思い出す。
優しげに細められた目の中の瞳は、綺麗な濃緑色をしている。髪は、全て纏められて面紗の下に隠されて色も長さも分からないが、スピカは美しい長髪を想像した。
「あなたは、私の妹と同じ位の歳かしらね」
中庭の巡礼者の列に戻した視線をリュシカニアにまた向けると、スピカは首を傾げた。
「妹がいるの? なん歳?」
「十歳よ。この街に住んでいるの」
その言葉を聞いて、スピカは固まった。
それに気付いたリュシカニアは、急に歩みを止めたスピカを振り返ると、不思議そうに眺めた。リュシカニアの全身を包む白い服も顔も、色硝子を通した外からの明かりで、鮮やかに染められている。
「……じゅっさい?」
「そう。十歳」
「スピカ、十三歳だよ……もうすぐ、十四歳になる」
そうスピカが言うと、リュシカニアは明らかにぎょっとした様子だった。無意識にか、口元に指先を当てて驚きの格好を作っている。
「そうだったの…! ごめんなさい。口調も少し幼い気がしたから、私てっきり十歳位かと……」
「はあ……」
スピカは、ため息ともつかない声で返事をすると軽く項垂れた。
スピカは同年代の子と比べると顔も幼くて体も小さいし、リュシカニアの言った通り、口調も幼い。発音も少しおかしい時があると、オスカに言われたこともある。慌てていたり緊張していたり、頭が働いていない時などは特にだ。年齢を間違えられるのはよくあることだけれど、それでもやはり落ち込みそうになってしまう。三歳の間違いだが、育ち盛りのスピカの年頃だと大きな違いだ。
「そう、だから……ね」
「なに?」
「……いいえ。そういえばあなた、一日中馬車に乗ってやってきたのよね。疲れているでしょう? ごめんなさい、つい連れ出しちゃって……後はゆっくり休んでね」
お尻が少し痛い気もするが、ずっと寝ていた為か大して体は疲れてはいない。けれど、これ以上案内してもらっても、とても覚えれそうではなく、そんな状態で案内を続けてもらうのは悪いと思い、リュシカニアの言う通り部屋で休むことにした。
リュシカニアは親切に、スピカの部屋の前までまた案内してくれた。
「ありがとう、リュシカ」
「いいえ。明日は私じゃないけれど、違う人が街を案内してくれるわ。もしあなたが疲れていければね。疲れてたらまた別の日にすればいいし」
「うん。……ねえ、トトは?」
スピカは出来るだけ普通の顔で聞こうと努めたが、結局苦い顔でそう聞いてしまった。
トトとは馬車を降りてから、顔を合わせていないし、部屋にいる気配もない。今は出来るだけ顔を合わせたくない気分だったが、そうもいかない。スピカはトトを説得して村に一緒に帰る気でいた。それに、トトがいなくて心許無いのも確かだ。
スピカの言葉に、リュシカニアは苦笑いした。
「『トト』とは、スペルカさまのこと?」
「……うん」
スピカはなんとなく、手に提げていた鳥かごを抱きかかえて頷いた。愛らしい声でパドルが鳴いて、カツカツッと中で小さく跳ねる気配がした。
リュシカニアは先ほどとは違って、殆ど無表情に近い顔でその様子を眺めていた。眉を少し顰めると、申し訳無さそうに言う。
「ごめんなさい。聞いていないわ。だけど、もうすぐ部屋に戻られるんじゃないかしら。……それじゃあ、また夜に」
「夜に?」
「夕食を持ってくるわ」
「さっきの食堂は?」
「あそこはここに仕える、尼僧たち専用よ。堅苦しくていいのなら、スピカもあちらで食事をとればいいけれど……お祈りをしてから、一斉に食べ初めて、その間誰も一言も喋らず、一斉に食べ終わるの」
その言葉にぞっとしたスピカは、ぶんぶん首を振った。
「やっぱり、部屋で食べる……けど、自分で取りに行くよ」
「そうね。だけどそれは、迷わない位この中を大体覚えてからね。まだ、全然わからないでしょう?」
そう言って、いたずらっぽく笑うと、リュシカニアは行ってしまった。
また一人になった部屋で、スピカは鳥かごを抱えたまま暫くぼんやりと佇んでいた。
くよくよと悩んでいても仕方がない。トトが村に帰るつもりがないのであれば、スピカが動くしかないのだ。トトを村に連れ帰らなければいけない。一度は得た大きな存在を失ってしまうことが村にどんな影響を及ぼすのか、スピカには想像もつかなかったが、ただそれだけを強く思った。
それがスピカの役目で、スピカがスピカと呼ばれる理由だからだ。
澄んだ夜のにおいがする、静かな時間帯だった。
ふと、名前を呼ばれた気がしてスピカが目を開けると、部屋の中でトトが立っていた。露台に続く硝子戸から差し込む、月明かりに照らされた薄暗い部屋の中、トトは少し離れた扉の前で、じっとスピカを見下ろしていた。
薄暗闇の中その表情はぼんやりとしていたが、スピカはその様子からそれはスペルカだと勘付き、小さな声でその名前を呼んでみた。トトとは結局、馬車を降りてからは、その日一度も会わなかった。暫く耳澄ませて待っていたが、夕食を食べたあとも、寝台に入り眠りにつくまでも、どういう訳かトトが部屋に戻った気配はなかったのだ。
スピカの声を聞いたスペルカは、泣きそうに顔を歪めると、さっと身を翻して部屋を出て行った。
スピカは、その様子を寝惚けた状態でぼんやりと見ていたが、またすぐに眠りに落ちた。
朝、リュシカニアが朝食を運んで来てくれる前に、一度トトの部屋に行ってみたが、やはりトトは居なかったようで返事はなかった。
リュシカニアが運んでくれた朝食の、野菜とチーズを挟んだパンと、根菜の入ったスープを食べながら、トトの部屋の方を睨むように見た。
勝手にスピカをここまで連れてきたくせに、そのことで何も言わずに、顔も見せないなんてあんまりだと思う。
「朝はあんまり食べないのかしら? そうじゃなかったら、食べる時は食べることに集中して」
コップに赤い果実の飲み物を注ぎながらリュシカニアがそう言ったので、スピカは視線を逸らして彼女を見た。リュシカニアは別にスピカに目を合わすことなく、大きなコップに注がれた、スピカにしては多すぎる量のジュースを朝食の斜め前に置く。
スピカは無意識の内に止めていた手を、再び動かした。
周りの皮が硬いパンを噛むと、間に挟まれていた野菜がシャクッとなった。チーズの香りが口の中に広がる。味わいながら、よく噛んで飲み下す。
「……おいしい」
「でしょう? 作ってくれた人に感謝しなくちゃね。スープも栄養たっぷりでおいしいから、飲んでね」
そう言うと、リュシカニアはスピカの顔を見てにっこり笑った。
スピカは黙って頷くと、大きな木のスプーンで深い器に入った温かいスープを飲んだ。あっさりとしたスープに入っている根菜は、柔らかすぎず、硬すぎず、丁度いい硬さだった。それは、おばあちゃんのスープに少し味が似ていた。
もぐもぐと一心に食べていると、あっという間に食べつくしてしまい、酸味のきいた甘いジュースも、ごくごくと飲み干してしまった。
スピカと少し距離をとって立っていたリュシカニアは、ぽかんとしてその様子を見ていた。
「ごちそうさま!」
「……小さい体をしてるのに、よく食べるのねえ。昨日は残してたから、今日も……特に朝なんか全然食べてくれないんじゃないかと心配してたの。食べっぷりがいいから見惚れちゃったわ」
「……ごめんなさい」
「いいえ。元気が出た?」
元気が出た訳ではないが、一日経つと不思議なことに、絶望的な気持ちは怒りに入れ替わっていたのだ。それに、悩んでばかりいられないと昨日気合をいれたばかりだった。
スピカはばつが悪そうに少し眉を顰め、小さく「うん」と返事した。
リュシカニアは満足げに、笑顔でうんうんと頷く。
「それはよかったわ。だったら、街は行けそう?」
「うん」
「だったら、食堂に食器を返すのに付いて来て。そのまま案内してくれる人の所に行くから」
「パドルも連れて行くね」
「ええ。勿論よ」
食堂の前についた時、パドルを食堂の中に連れて入る訳にはいかないので、リュシカニアにパドルの鳥かごを持ってもらって、食器を返しに行った。厨房の中から顔を出したおじさんにごちそうさまを言うと、食堂の前でまたパドルの鳥かごを返してもらう。パドルは、リュシカニアのことが気に入ったのか、ちちっと高らかな声で鳴いて、リュシカニアをじっと見つめ首を傾げている。
リュシカニアは歩きながら、思い出したように「ああ、そうだわ」と呟いた。
「今から、違う人があなたを街に案内してくれるのだけど、あなたがこの寺院で暮らしていることは、街の人にはけして誰にも言わないで」
「どうして?」
「あなたは、平和な村で育ったから分からないかもしれないけれど、人の多い都は、色んな人がいるからね。少し危険なのよ」
そう言って苦笑すると、リュシカニアは大きな扉を叩いた。
暫く待つと、ゆっくりと細く開けられた扉の間から、銀色の髪をした青年が気だるそうに顔を覗かせた。
半眼に細められた厳しい目つきで、リュシカニアをじとりと見る。
リュシカニアは、そんな青年に怯むことなくにっこりと笑った。
「では、よろしくお願いします」
「……」
そう言われて青年は眉を顰めると、ようやくリュシカニアの後ろに立っていた、小さなスピカにも目を向けた。不機嫌そうにする青年に、どういう表情を向けていいのか分からずに、スピカはとりあえず笑おうとしたが、顔が引きつってしまった。その様子が見苦しかったのか、イーノスはスピカの顔を訝しげに見たあと、またリュシカニアに視線を戻した。
「分かっていらっしゃると思いますが、この子がスピカです。……スピカ、此処に来る前にお会いしたでしょうけど、こちらは騎士のイーノス様よ。都を案内して下さるわ」
甲冑をつけていないので気がつかなかったが、そういえばスピカの荷物を馬車に運んでくれ、トトの後ろに立っていた騎士だ。あの時は銀色の甲冑をつけていて髪も殆ど見えなかったし、顔もちゃんと見ていなかったから分からなかったが、スピカが思っていたよりもずっと若い。それに、あの時は無表情に見えたが、今は明らかに不機嫌そうだ。
「リュシカは……」
変わらず不機嫌そうなイーノスをちらりと見て、思わず聞いてしまったスピカにリュシカニアは苦笑した。
「できれば私も行きたかったけれど、これからお仕事があるし、余り寺院を出ては駄目なの……それにイーノス様はお強いし、頼りになるわよ」
そう言われて、まだ扉の向こうにいるイーノスを見ると、鋭い目と目が合って、スピカは小さく体を飛び上がらせた。
街は、スピカの暮らしていた人口の少ない村とは比べ物にならない程人が多く、音やにおいが溢れていた。
路を行く人の多さに、無意識に前を歩くイーノスの服の袖を掴みそうになったが、同時に肩越しに振り返った不機嫌そうな瞳と目が合い、その手をぴたりと止めた。
「逸れるなよ」
そう素っ気無く言うと、またすたすたと歩き出したイーノスの後を、スピカは必死で追いかける。背の高いイーノスと、低いスピカでは歩幅が全然違うし、イーノスはスピカの歩幅にあわせる気もないらしい。スピカが少しでも気を抜けば、引き離されてしまうだろう。
いかにも『めんどくさいことを押し付けられた』という様子で、丁寧に案内なんかしてくれるつもりもないらしく、スピカが気になるものを見つけて、あ、と声を上げても無視する。それとも聞こえていないのか、どちらにせよ、歩調を緩めることはなかった。
あちら此方の屋台から、客引きの声や陽気な音楽が聞こえて、活気付いている。人も、村の月祭りの時にしか見たことがないような、異国風の顔立ちをした人たちがちらほらいた。香りも様々だ。おいしそうな香りから、甘ったるい花の香り、不思議なお香の香り、時には鼻をつんっとつく不思議な香りもあった。
こんな人が多いなんて祭りでもあるのだろうかと、辺りをちらちらと見たが、スピカにはこの華やかな街が元からこんなに賑やかなのか、本当に祭りがあるのかわからない。
好奇心を抑えきれなくて、恐々と前を歩く仏頂面の男に聞いてみた。
「もしかして、お祭りでもあるの?」
「ない」
「だったらどうして、こんななの?」
「……こんな?」
「人が多くて、お祭りみたい」
「……いつもと対して変わらない」
イーノスは、めんどくさそうに小さくため息をついて、そう言った。
スピカはその様子を見て口を噤む。
もしかしたら、嫌われているのかもしれない。騎士の仕事がどんな風になってるのかはスピカは知らないが、今日は折角の休日だったのかもしれない。
そう思うとスピカは視線を落とした。
それが、悪かった。
スピカが目を離した隙にも、イーノスとスピカの間に人たちは入り込み、イーノスはその先をすたすたと歩き続けていた。