10.
しとしとと聞こえてくる雨の音を聞きながら、スピカは食卓に寝そべった。
もともと今日もトトに会いに行くつもりだったけれど、昨日のトトの言葉を思い出して行く気にもなれなかった。ましてや今日は雨だ。雨が嫌いなわけではないが、どんよりと曇った空は、更にスピカの心を暗くさせた。
スピカの目線の先にある、鳥かごの中のパドルは、そんなスピカに構うでもなく、小さな黄色いくちばしで毛づくろいしている。
「はい、どうぞ」
そんなスピカとパドルの間に、声と共にゆらゆらと湯気のあがるコップが置かれた。
赤くて透明な、甘酸っぱいテヌーの実のジュースだ。スピカはそれを手で包むと、顔を上げた。
「ありがとう、イシュ」
「どういたしまして……それにしても君ってば猫みたいだね。雨で体がだるくなっちゃったかな?」
「そうなの。だから今日は家でいるの」
スピカがそう言うと、イシュは苦笑した。
昨日、トトの家から帰ってきたスピカの表情が暗かったのは、知っている。今まで、そんな話しは聞いたことはなかったが、喧嘩でもしたのだろうか。だとしたらスピカの方が、勝手に怒ったのかもしれない。
あのかみさまの少年は余程でない限り、自分の感情を露にはしなさそうにイシュには見えた。
「今日は雨だし、広場に行く訳にもいかないから……俺も一緒にいてもいいかな?」
「うん。いっぱいお話ししよう」
パドルもそれに参加するように、ちちっと愛らしい声で鳴いた。
イシュが目の前にいるのにもう慣れたのか、興味深げに首と目をきょろきょろと動かして二人を見ている。
「イシュは体は大きくても、全然怖くないって気づいたみたいだね」
そう言ってスピカはイシュの入れてくれた、温かなテヌーのジュースを飲んだ。
おばあちゃんが砂糖漬けにしておいたテヌーの実を磨り潰して、お湯で薄めた飲み物は、じんわりと甘くて少し酸味がある。そんなに一気に飲むつもりもなかったのに、思わずごくごくと飲んでしまう。
両手で大きめのコップを持つスピカを、じっと見ながらイシュは呟いた。
「……そういえば、今回はまだ墓を参ってないな」
「そういえば、そうだね……じゃあ、雨が止んだら行こう」
スピカはそう言うと、口の周りについたテヌーの果実を、小さな舌で舐め取った。
もう飲み干してしまったらしい。それに気づいてイシュはまた苦笑した。
「もう一杯、飲む?」
「ううん。いい。……ねえイシュ」
「うん?」
「イシュ、もしかして……あのお墓の子と、会ったことあるの?」
スピカは、自分がその人の名前を呼ぶのに違和感を感じたのか、少し迷った風に視線を彷徨わせたあと、そう訊いた。
「あるよ。覚えてるのも奇跡と言ってもいいくらい、ちらりとだけ」
「……そうなんだ」
イシュの言葉を聞いたスピカは、寂しそうに視線を食卓の上に向けた。
それでも、スピカはかたちはなんであれ、望まれた子だ。
イシュはそう思った。けれどそれと同時に、少しの同情心も湧いてくる。スピカが失ったものは、量りしれないのだ。
「スピカの友達のかみさま」
「トト?」
「うん。そのかみさまに対して……この村人でもない、そのどころか、遠く離れた国の出身の俺でさえも、スピカから聞いた、村人が持つような感情が芽生えた…ただ会っただけで」
「そうなんだ」
「スピカ、君はやっぱり違う人間なんだね」
「……信じてなかった?」
「そういう訳じゃないけど、改めて確認させられた。……この村の薄気味悪さも」
「え? 薄気味悪い?」
イシュの言葉の意味が理解できずに、スピカは目をまるくさせてイシュを見上げた。イシュは苦笑いを浮かべてはいるが、殆ど表情がない。何かを押し込めているようにも見える。
「穏やかで、みんな温かい平和な村だからこそ、その『秘密』を俺は薄気味悪く感じるんだよ。その『秘密』を持つ村人達も。……スピカ、君も含めてね」
「イシュは、この村が嫌いだったの……?」
イシュがそんなことを思っているなんて、初耳だった。薄気味が悪いなんて、けしていい意味ではないだろう。意外なその言葉にスピカは驚いて目を見開いたが、次の瞬間には泣きそうになってそれを堪えた。眉根を歪めながらスピカが聞くと、今度こそイシュは本当に笑った。けれど、そこには少しの哀しみも混ざっているようにスピカには見えた。
「好きだよ。けど、やっぱりこの村の抱えるものを思い出すと、薄気味悪く感じてしまうんだ」
「……そうなんだ」
よく分からないスピカは顔を顰めた。
村人であるスピカは、よく分からないのかもしれない。この小さな村から余り出ずに、狭い世界で生きている。特にスピカと、『かみさま』である筈のあの少年は。スピカも、それは自覚していた。けれど、村の外に住む人たちと、今となっては村の中でしか生きていないスピカとトトとの違いは何も分からない。朝起きてご飯を食べて、遊んで、会話をして、笑いあって、仕事をして、夜になれば眠る。一体どこが違うのだろうか。きっと営み自体はどこで生きてもあまり変わらないものなのに。
「きみたちは、どんな大人になるんだろうね」
イシュはそう呟いた。
村人達が作りあげた小さな世界は、いつか壊れるのだろうか。壊れた時、あの『かみさま』はどうなるのだろう。そして、この小さな女の子は。
この村が抱えるものは、生まれたての卵の殻のように、壊れやすくて脆いものだ。村人たちがどれだけ望もうとも、スピカもトトもすぐに大人になってしまうだろう。
「スピカは、きっとこれからも変わらないよ」
真っ直ぐな目で、スピカはイシュを見て言った。
「……そうだね」
そうイシュは苦笑すると、自分よりも随分と小さなスピカの頭を撫でた。スピカが変わらないことは、部外者のイシュからしてみれば悲しいことだ。それは小さな世界が壊れて、一時の深い深い悲しみにスピカが襲われることよりも。それでも、村人たちは不変を望んでいる。スピカの真意は分からないけれど。
イシュは心の中でそれを恐れながらも、いつかその『秘密』が壊れることを願った。
*
次の日も雨は止まなかった。
日に日に空気は冷たくなる。冷たい空気とともにやってきた雨雲が空を覆いつくし、村も森の中もどんよりと薄暗い。
まだ憂鬱な気分を引きずったままだったスピカがトトの家にやってくると、トトはスペルカだった。スペルカの久しぶりの出現に、感動するわけでもなく、けれどトトと直接トトと顔を合わせなかったことで、スピカの鬱鬱とした気分は少しはましになった。今はトトとなんとなく会いたくなかったのだ。
「スピカ」
そう言ってにこりと笑う姿は、トトそのものだ。綺麗なきんいろの髪に、深い湖の瞳。トトの体なのだから当たり前だけれど、スペルカの時は瞳が底知れない色に変化する。最近のトトの瞳は、そんなスペルカと余り変わりない。
「トトは?」
「トトはここに」
どこにいるのか尋ねるようなスピカの口調に、スペルカは楽しそうにそう言った。
「知ってるよ。どうしてスペルカなの?」
「トトは、夢を見たから」
「……?」
まるで要領を得ないスペルカの言葉に疑問を抱きつつも、スピカはうんざりとした。スペルカは、喋りだしたらいつもこの調子なのだ。
スピカが扉の前で立ち尽くしたままでいると、トトと似たようににこりと笑った。
「とりあえず、お座り。スピカ」
「それは、誰の口真似?」
「ピノばあ」
「……どうしてスペルカがおばあちゃんのこと知ってるの」
「『かみさま』だからかな。座ったら?」
今度は、トトの口真似だ。
スピカは口をへの字に曲げると、促されるままに座った。ふと、昔おばあちゃんに聞いた、自分の名前の由来を思い出す。
――スピカの名前は、この村のかみさまである、スペルカさまの名前からもらったんだよ。
あの時は、神秘的でありがたい名前だと思ったけれど、好奇心旺盛で悪戯好きなかみさまを目の前にしてみると、ありがたみもなにもない。不可思議な存在ではあるけれど、まるで子供なのだから。
スペルカはスピカを寝台の端に座らせ、自分も自然とその隣に座ると口元をほころばせた。スピカがトトに対して最近感じるような違和感は、スペルカに対しては全くない。
「スペルカは、トトのことどこまで知ってるの?」
急に疑問に思って聞いた。
「全てを」
スペルカは、深い湖をきらりと光らせてそう言う。
「スペルカはトトの目を通して見て、感じて、知る」
その言葉にスピカはぎょっとした。
「もしかして……トトも今見てるの?」
「トトは知らない。なあにも知らない」
スペルカの言葉にスピカは二重の意味を感じ取った。
スペルカは、トトの記憶も自分のもののように知っているらしい。それとも、『かみさま』だから知っているのだろうか。昔、スピカの名前を何度も呼んで、抱きついてきたトトを思い出す。後ろでいた村人達の顔は見えなかったが、きっとほっとしたような顔をしていただろう。『かみさま』をこの地に縛り付けることのできるものを取り戻したのだから。
「トトは、寺院に行くつもりなの」
「うん」
「スペルカも、それを望んでるの?」
「別にどこにいようとスペルカはスペルカだ」
「そうだね……だけどトトには、ずっと一緒だった家族がいる」
「シュトゥとアラント」
「そう」
呟くように言って視線を落とした。
お父さんとお母さんと離れるのは、寂しくないの。
そう聞こうとして、返ってくる言葉が恐くて聞けなかった。十六にもなろうというトトに、聞くのはおかしいかもしれないが、トトはかみさまになるまでずっと献身的な、シュトゥとアラントに育てられてきた。今だってそうだ。『スペルカさま』と呼んでも息子としてのトトの為に心を動かす。感情が呑まれても、けして息子であった頃のトトを忘れようとはしない。
けれど、トトは。トトは、感情に呑まれトトを『スペルカさま』と呼ぶシュトゥとアラントのことをどう思うのだろうか。
「トトの心は冷える一方だ」
「どういうこと?」
「トトはそれを自覚している。スピカ、どうしてずっと雨が降っていると思う?」
「……」
「スピカが来るまで、ずっと雨が降っていた」
あの時、森の中でスピカは雨に濡れていた。雨は、何日も振り続けていたという。
「今は、スピカがいるから雨が降る」
「……どうして?」
「どうして?」
同じ風に聞き返されて、スピカは口を噤む。
雨が降り続ける薄暗い外に、目をやってから呟いた。
「……だけど、もう引き返せないよ」
「引き返せなくても、止めることはできる」
にんまり、と含みのない顔で笑うのに、その瞳にはなんの感情の色も見出せない。スペルカはずいっとスピカの瞳を覗き込んだ。今日のスペルカは気分がいいのか、たくさん喋るつもりらしい。
「どこへ行っても、逃げられる訳じゃない。吐いた嘘の代償は大きいぞ」
そんなことはスピカも知っている。だから、引き返せないと言ったのだ。スピカが思わずむっとすると、スペルカはそれさえも楽しいことのようにくすくすと笑った。笑いに震えると同時に、綺麗な金色の髪が揺れる。湖の底のような瞳は、笑みのかたちに歪められている。そう笑う姿は普通の少年のようにも見えて、スピカは思わず目を逸らしそうになった。
どんな大人に、なんて考えたくない。今でさえ、少しずつやってくる変化に震えそうになるのだ。スペルカがかみさまなら、何も変わらない様にしてくれればいいのに、と思う。引き返せないのなら、せめてここから動かずに。
「今変わらずに、これとスピカが一緒にいるのは」
スペルカは、スピカの心の中を読んだかのように言った。
「スピカが、嘘を吐いたから。村中みんなで嘘を吐いたから」
「……うん」
その嘘が向かう先は、トトだ。スピカは、夕暮れのなかスピカの名前を呼んだ声を思い出した。今では一番慣れ親しんだ声だ。
『スピカ』
そう呼ばれて振り返った途端、世界は暗転した。どうして振り返ったのか、自分でも分からなかった。ただ、聞いている方まで悲しい気持ちにさせられるような悲痛な声に、思わず振り向いてしまったのだ。それは聞き覚えのある声だったけれど、ずっと空耳だと思っていた声だった。けれど、どんどんと近くなるそれを、いつの間にか空耳とは思えなくなっていたのだ。
次の日の朝、森の中でスピカを見つけたのは、オスカとその父親のカムシカだった。
スピカは真っ暗な、雨に濡れたこの森で、たった一人で一晩を過ごしたのだ。二人は驚きで少しの間立ち竦んでいたが、ぼんやりとした目のスピカを、すぐに村に連れ帰った。村人たちも、森の中にいたというスピカの姿を見ると、驚きでみんな目を見開いたが、その顔には少しの安堵もあった。
これで、失わないですむかもしれない。
そんな期待が村人たちの心に宿った。親に見捨てられそうになった子供が、振り返った親の顔を見たのと同じような顔を、みんなしていた。
村人たちは、スピカを誰かの家まで連れて行くと、まず背中まで伸びた艶やかな黒髪をスピカの了承無しに、じょきじょきと切り始めた。わけの分からないスピカは、ただぼんやりと、足元に散らばり広がる暗闇を眺めた。みんな口々に何かを言っていたが、その時のスピカにはそれも解らなかった。
髪を切られた後は、すぐに服を着替えさせられた。
みんな忙しなく、一連のことがあっという間に過ぎるのを、スピカは他人事のようにぼんやりと眺めた。
準備が整ったのか、満足そうな顔で、だけどやはりどこか不安げに村人たちは、スピカをある部屋へ連れて行った。
スピカが最初に目にしたのは、きんいろと湖の底のような色。その湖の底は悲しみにしんっと静まっていたが、スピカの姿を見た途端に大きく揺れた。
後ろで真っ白な服を着た人が、何か言っている。
きんいろの少年は戸惑うように少しずつ、棒のように立っている虚ろな目のスピカに近づいてきた。ひんやりとした手で、スピカの頬に指を這わすと、確かめるように何度も撫でた。なにか、呟くように言っていたが、スピカにはやはり解らなかった。
そして少年はゆっくりとスピカを抱き寄せると「スピカ」と何度も名前を呼んだ。
指先とは違って、服越しに伝わってくるあたたかな体温に、懐かしさと心細さを感じたスピカは、縋り付くようにぎゅっとトトに抱きついたのだった。