01.
遠く近くで子供達の声が聞こえる。
聞きなれたベルの音が響く。
流れる音楽は夕日の色に染まっている。
森を駆けても、家は見つからない。
御山のほうからやってくる冷たく澄んだ風が、村を駆け抜ける季節だった。
その日森に囲まれた小さな村は、多くの客人や村人たちで賑わっていた。木々の間に張り巡らされた紐には角灯と色とりどりの布切れが吊るされ、家々の前や路地裏には露店が立ち並んでいる。いつもと違って幻想的な光景に見えてもいいはずなのに、がやがやと人が多すぎて情緒もない有様が少し残念なところだった。
村の外からやってきた人たちは昼食をとる為に、早くも開き始めた露店を見回り、村人の多くは祭りの準備に追われている。
その中を一人の小さな少女が駆け抜けていた。村の男たちと天蓋を張る作業をしていた少年は、その少女に気づくと大きく手を振る。少女もそれで少年の存在に気づいたのか、それとも本当は最初から気付いていたのか、足を止めるかどうか迷ったらしく顔を顰めたけれど、結局は少年の前で立ち止まった。
よほど急いで走っていたのか、立ち止まると同時に膝に手をつき、俯いて肩で息をしている。おそらく一度も立ち止まらずに森から村の中心部まで走ってきたのだろう。慌てていて森の中で枝にぶつかったのか、帽子から覗く真っ黒な髪や服には、木の葉が何枚も絡みついていた。
「やあ、スピカ。えらく急いでるな」
少年がそう言うと、少女はなんとか顔を上げてじとりと少年を睨んだ。その目は、それが分かってるのなら呼び止めるな、と訴えている。
そんな目線を気にもせずに少年は少女の頭を帽子の上からぽんぽんと軽く叩き、彼女の気分を逆撫でした。帽子は目元にまでずれてきて、スピカと呼ばれた少女はそれを慌てて元に戻した。
「もおっ頭たたくのはやめてって、いつも言ってるでしょ! なんにも用がないんなら、もう行くよ、オスカ! 間に合わないよ」
息も絶え絶えに言うスピカを見て、オスカはははっと声を上げて笑った。それと同時に、いつもの二人のやり取りを見た、近くにいた村人たちも笑う。
オスカはスピカと同じ歳だけれど、歳の割に体の大きな彼は、まだまだ子供っぽくて小さなスピカよりも随分年上に見える。周囲の人たちから見れば二人は兄妹のように見えた。
「ああっもう! スピカは急いでるの! 本当に行くからね!」
そうは言いつつも、スピカはオスカが返事をするのをそわそわとしながらも律儀に待っている。オスカは苦笑すると肩を竦めてみせた。
「ああ。スペルカ様ならもう下りてくる頃だと思うぞ」
忙しない様子で頷くと、スピカはたちまちオスカの前を走り去った。まだ喉の辺りが辛いけれど、そんなことは言っていられない。
すぺるかさま。
走りながらも、オスカが口にした名前のことを考える。今でも聞きなれない、トトの名前。スピカはトトのことをトトと呼ぶけれど、今では村のみんな、トトのことをそう呼ぶ。昔はオスカもトトのことをトト、と呼んでいた。けれど今はけしてそう呼ぶことはない。
――『トト』は神様になったんだよ。
村のみんなが言った言葉。スペルカさま、はかみさまの名前。けれどスピカは、みんなが呼ぶ神様の名前が寂しい響きに聞こえた。
スピカは、トトの名前が好きだった。
白で統一された塗り壁の家々がある小さな村は、祭りの日にだけ様々な色で彩られる。村じゅう華やかで、人々の服装もいつもよりも飾り気も多く色とりどりだ。
けれど、トトはそんな様子には目もくれなかった。昔はこの祭りに対しても、部屋から見える全ての景色にも憧れていたのに。その憧れは最近まであったのに、今では随分色褪せて見える。
「トトーっ」
トト。
最近ではこの名前を呼ぶのは一人しかいない。
トトは硬かった表情を和らげて、声のする方へと振り返った。
「よかったあ! 間に合った!」
スピカは服に付いた真鍮と石の装飾をシャラシャラと音を鳴らせながら、トトに駆け寄って勢いよく抱きついた。その勢いにトトも流石に少しよろめいてしまったけれど、怒ることもなく寧ろ笑顔でそれに応える。スピカも抱きついたままぱっと顔を上げると、嬉しそうににっこり笑った。
「――スピカ!」
トトに付き添っていた寺院の若い尼僧が、スピカの行為に驚いていたのか、少し遅れて叱った。それでも無理に引き剥がそうとはしない。数歩離れたところで二人の様子をはらはらとした面持ちで見守るだけだ。
トトの周りには人がたくさんいたが、誰もトトには近づかない。近づいてはいけない。
トト、とも今では誰も呼ばない。
「いいんですよ、ココセさん」
穏やかな様子でトトが言うと尼僧は少しほっとしたように、けれど表情は硬いまま、ただ頭を下げた。
誰もトトには逆らわないし、逆らおうとも思えないのだ。なのでトトの言葉はこの村で誰よりも絶対的なものと言ってもよかった。その事実を最初は凄く嫌がっていたトトも、最近では気にしてはいないようだ。
「スピカ、久しぶり。綺麗な服だね。よく似合ってる。可愛いよ」
「本当? おばあちゃんが作ってくれたんだ。トトも今日は真っ白な服なんだね。すっごく綺麗!」
にっこり微笑んだトトは本当に綺麗だった。金色の髪がよく晴れた空に透き通って、きらきらと輝く。見慣れた筈の姿なのにスピカは思わず見惚れてしまう。
「おじさんの家はどうだった?」
「楽しかったよ、昨日夕方に見た空が、上から青と桃色と水色と橙色が順番に混ざりあってて、凄く綺麗だった」
へえ、と相槌を打つトトは、まるでその風景を今見ている様に一瞬目が遠くなった。森の中にある湖の不思議な青色と似た瞳の色が、透明な宝石のように光を透かす。スピカはその綺麗な色が光りに揺らめくのが大好きで、じっと見つめた。
「だから、スピカ一人で見るのは勿体なかったよ。トトと一緒に見たかった」
屈託なく笑うスピカにトトは頬を緩めた。
「うん、見たかったなあ」
スピカが見る景色を見たかった。
それはスピカだから美しく感じたのかも知れないけれど、スピカと一緒に見たのなら、きっとトトも美しく感じただろう。
「スペルカ様、そろそろ……」
後ろに控えていた尼僧に呼ばれ、トトはまたすぐに表情を硬くした。ほんの僅かな差だったが、スピカにはすぐに分かってしまう。
「わかりました……ごめんねスピカ、せっかく来てくれたのに」
「ううん。会えてよかった」
少し寂しげに笑うと、トトは尼僧達をぞろぞろ従えて歩き始めた。近くに停まっていた、普段村では目にすることのない様な立派な馬車に乗り込む。
「あっトト、これ!」
スピカはゆっくりと進み始めた馬車に駆け寄ると、紐で縛った小さな巾着袋をトトに渡した。手に持ってみるとそれは意外と重く、固くてころころした感触がして、トトは首を傾げる。
「お土産。凄く綺麗だったから」
トトは袋を受け取るとありがとう、と嬉しそうに笑った。
「じゃあ、またね。また、遊びに行くね。あと、今日のお祭り楽しみにしてるよ」
そう言うとスピカは悪戯っぽく、にやりと笑った。
「うん」
トトがそう答えるとスピカは立ち止まって、馬車を見送った。
トトはスピカが見えなくなるとだんだんと心が冷えていくのを感じた。誰にも言ってはいないけれど、『スペルカさま』になってからはこんなことが殆どだった。今までは感動していたことにも心が動かないし、他人に対して情もあまり湧かないのだ。まるで感情が死んでしまったかの様に。
トトはふと手の平にある小さな袋の存在を思い出し、袋を縛ってある麻の紐をしゅっと解いた。中には、きらきらと輝く色とりどりの、透明で小さな石がたくさん入っていた。スピカの今日の服と帽子に付いていた石と同じだ。
そういえば、スピカのおじさんは鉱夫だった。
おじさんの家に遊びに行った時に、好奇心旺盛なスピカは、女の子ながらにおじさんと一緒に、鉱山に入って石を採ったのかもしれない。
それを見てトトは、手のひらから温かくなっていくように感じた。
先ほど冷えた心もほんのり温かくなって、少しだけ微笑んだ。