2話 帝国の企み
世界を鳥瞰図的にみると、主要な大陸が三つあることがわかる。それらの大陸には―あくまである観点から―それぞれに名が与えられていた。
赤道より北、「滅すべき大地《シー・ハスバル》」
赤道より南、「下賤の大地《カリバルフ》」
それらの大陸より西、大海ローレライを挟んで世界の陸地50%を占める巨大な大陸、
「祝福された大地《アレイスタ》」
それらの大陸にはそれぞれに治世者が君臨しているが、大陸を征した統一国家は存在していない。例えばアレイスタでは、同じ文化圏に属する西側列強だけでも数十の国家に別れているし、大陸の東にいけばまた違う文化共同体が複数の国家によって成されている。そのなかでも「大国」と呼ばれる有力国家は存在しているが、大陸の覇権を握っているとは言い難い。それは他の大陸でも同じで、下賤の大地カリバルフには国すら存在せず、未開発の土地に多様な部族が住み着いているだけだ。
三つの大陸に交流はほとんどなく、貿易による経済連携が唯一の接点と言っていい。よってそれぞれの大陸にはある程度まとまった文化が広がっており、それから生まれる連帯感は各大陸の秩序を安定させていた。あくまで表面的に、であるが。
ガレオス暦827年。アレイスタ西側列強の筆頭、ガレオス帝国のとある田舎町で、ある殺人事件が起こった。被害者は男性、使われた凶器はナイフ。町人からすれば大事件だが、帝国全体からみればいたって平凡な事件―そのはずだった。
殺された男の名はフセフ・ライアン。職業は商人、しかしその正体は、ガレオス帝国の諜報員だったのだ。
アレイスタの先進国家群、西側の列強に分類される国々は、この日より一気に緊張状態にはいる。巨大な帝国の諜報員が殺されたのだ。どこかの国がやったのかもしれないし、もしかしたら秘密結社の仕業かもしれない。なんにせよ、絶妙なバランスで保たれてきた列強諸国の関係は、これから大きく変動するだろう。
表面上穏やかに見える対外政策のその裏で、全ての国が己の利益を求めて腹を探りあい、水面下での激しい情報戦を繰り広げた。それは日頃抱いている「大陸の覇権」への渇望の念ではなく、半ば恐怖に近い危機感からくる動きだった。
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ガレオス帝国首都、メディチ・メディナ。始まりの要塞《焔城》を中心に建物がひしめき合い、怒濤のように人と物が流れ込むアレイスタきっての巨大魔法都市である。盛んな魔法教育が行われている教育区、教育区の開発技術を金にする商業区、総勢1000万人が住む居住区の大きな三区画に分けられ、焔城周辺のみその三区画に分類されずただ「中央区」と呼ばれている。そこには政府の公的機関が集約され、ふつう一般市民は入場できない。(無論、正式な許可が降りれば職員でなくとも入ることはできる)
そんな中央区にある大きな建物の最上階。窓から帝都を見下ろし、憂いに満ちた顔を浮かべる男がいた。
「長官、そんな辛気臭い顔して外を眺めないでください。仕事が溜まっています」
「…うん、いやそうなんだけどね。まああれだよね、あれ。何だったかな。確か例の件があれなことになってたよね」
「長官、諜報部だからといって伏字で会話しようとしないでください。しかもあんた今何にも考えてないでしょう?考えるのがめんどくさいとか貴方の立場的に終わってますよ」
「君は相変わらず辛辣だね。そもそもだよ?僕上司にごちゃごちゃ言われるのが嫌だったから必死に出世したんだよ。なのに君はくどくどくどくど…よく飽きないな君は!」
「私は秘書ですから、貴方の職務をサポートする義務があるんです。言っときますけどこの仕事給料以外になんのやりがいもないんですよ?シュバルツ長官、あなたはもっと部下に信頼されるような言動を心がけてください」
「オルビナちゃんマジ辛辣っす」
オルビナの精神攻撃に屈したシュバルツは、遂に椅子に腰を下ろした。そして机の上に散乱した書類を掻き分け、その中から目当ての内容のものを探す。最後に手に取ったのはある殺人事件に関する報告書だ。被害者男性、フセフ・ライアンの写真が大きく掲載されている。
「フセフ・ライアン、優秀な男だった……と言いたいところだけど、僕、彼と面識がないんだよね」
その言葉に、オルビナは首を傾げた。
「長官と面識がない…はずないですよね。諜報員の任命権はあなたにあるし、長官が会ったことのない人間を任命するとは思えませんし」
「確かに、僕は職員…特に諜報員は自分の手の届く範囲で動かしたいから、必ず会って話すことにしている。でもこの男だけは別だ。僕はこいつを知らない。」
「それは結局、どういうことなんですか?」
オルビナの問いに、シュバルツは少しの間沈黙する。話すべき内容かどうか吟味しているのかもしれない。
「えっとね…彼はね、上から推薦が来たんだよ。問答無用で任命させられちゃって、そんで極秘に動かれて、そんでいつの間にか殺されちゃったんだ。謎だらけでほんと参っちゃうよね」
「それは嘘ですね。貴方が不安因子を放置するはずがない。…殺された理由もわかっているんでしょう?」
オルビナのつっこみに、シュバルツは思わずその優秀な秘書の顔を見る。そして数秒そのまま、遂にはなぜか笑い出した。
「ハハハ、オルビナちゃんにはかなわないな。確かにフセフのことは調べたし、彼の行動も追っていたさ。だけど、彼が殺される理由は僕もさっぱりだよ!」
ひとしきり笑った後、シュバルツは改めて報告書を眺める。急に真剣な眼差しになると、誰へともなくつぶやいた。
「ガレオス内部でガレオスの諜報員が殺される。この事件は氷山の一角だ…。大陸戦争から1000年、そろそろ時代が動き出す」
その言葉の意味は、オルビナにもはっきりと分かった。
「《器》の出現、ですか」
シュバルツは悲しそうに微笑むと、立ち上がり、再び窓から帝都を見下ろす。
「これから忙しくなるだろう。…オルビナちゃん」
ガレオス帝国諜報部長官、シュバルツ・ユーリッヒ。普段おちゃらけているが、彼は間違いなく、世界に代表する大国を裏から支える存在なのだ。そんな彼の真剣な眼差しに、オルビナも気を引き締めて返事をする。
「なんでしょう、長官」
「…僕はこれから、帝国の利益のために奔走することになる。もしかしたら、一か八かの状況も生まれるかもしれない。無論、生命の危険も高まることになる…」
オルビナは心して、彼の言葉を待った。
「だからさ、オルビナちゃん。今日のところは仕事を切り上げない?」
「絶対言うと思いました。マジで死んでください」
オルビナちゃ~んと情けなく駄々をこねる長官と、それを冷ややかに見つめる秘書オルビナ。彼らのやり取りはまだ、日常のままを演じている。