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森に溶ける

作者: 黄色信号機

 頭上から無数の光が降りてくる。

 森の中、このひときわ大きい樹の下で、わたしは人であることを忘れようとしている。もう長らくここにいるために、真昼の太陽がどんなものだったか分からなくなった。見上げても、幾枚もの葉に遮られた薄暗い木漏れ日しか入らない。それでも、その光はわたしの身体を透過しそうなほどではあるが。

風が良く見える。風がわたしについた水を払う度に、周りの樹はその末端を揺らし、通り道を指し示す。座り込んだ私の横を、見えない馬たちが颯爽と駆けてゆく。

 この場は幸福だ。耳を澄ませても人間の言葉が聞こえてこない。ただ、鳥の鳴き声と、木々の擦れあう音と、わたしの心音とが聞こえるばかりだ。そして残念なことに、わたしの拍動はこの森で響き渡る音とは調和しない。わたしの身体はこの場には似つかわしくないようだ。呼吸も合わない。彼らはわたしよりもずっと雄大なリズムで息を吸い、わたしのよりもずっと清い息をはき出す。

 樹は生命のそのものを象徴する。春に隆盛であり、冬に衰微する。生命は時の移り変わりとともに力をもつものが入れ替わる。あるものが栄華を極め、そのうちに衰退する、またあるものが頂点に立ち、蹴落とされる。幾度も巡り続けているそのサイクルは、永遠には続かず、いつか生命自体の死がやってくる。その繰り返しと終わりを樹は体現し、彼ら自身の記憶に刻みつける。

 樹は全てを知っている。彼らほど長い間地上を支配し続けている生命があるだろうか。太古の昔から脈々と受け継がれた彼らの智は、雄弁に、ありとあらゆる命を――この星の命でさえも――語っているに違いない。

 わたしは樹になりたい。悠久の記憶をその身に宿す大樹にだ。人間なぞに生まれ、知識の欲求を持ってしまったがために、わたしはこんなにも苦しまなければならないのだ。嗚呼、わたしが人でなかったら、自我と思考を持ち、自然を支配しようとする傲慢な人間なんて種族でなかったのなら、どんなにか幸福な生を謳っていただろう。


 わたしが人としての生を完全に諦め、捨てきった時、この森はぴたりと動きを止め、わたしのほうを見ていた。

 彼らは、わたしの呼吸に生命の律動を合わせてくれた。わたしは、彼らと一つになれる気がした。だから、わたしもこの森の息に合わせ、身体を委ねた。

 これから私は樹になる。そして、全知となる。

 以前、何故自分が人間なのかを考えたことがあった。その答えが今なら分かる。それはただの偶然だ。わたしが人でならなければならない道理など、存在しないのだから。わたしが何なのか、なんてことはどう認識されるかで無限に変化する。今までは偶然に人間として知覚されていたにすぎない。わたしは漂う空気にも、空に浮かぶ雲にも、この樹にだってなれる。神様になった人間だってたくさんいるじゃないか。わたしだって変われる。そのはずだ。

 もう彼らとリズムを共有し始めている。自分の身体が樹になっていくのが何となくわかる。意識がだんだんと抜けていって、空間に満ちた情報の全てを受領するようになる。世界が、樹の時間で流れている。

 樹に比べれば、人間であったわたしの時間はずっと短い。ほんの少し経つと、わたしの身体は森の中へ溶けていった。


お読みいただきありがとうございます。今回は「自分で間違っていると思うことに説得力を持たせる」という目標を据えて書きました。もっと早筆になりたいです。

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