20 【男】 彼が見たもの
城下町にある男がいた。
彼はとても自堕落な男であった。
大工をすれば体力的に辛くて辞めてしまい、酒場で働くも高い酒をこそりと飲んで首になった。あざける人々に彼は「俺には他に何か天職があるんだ!」と負け惜しみを返したものだった。
そんな彼にも確かに天職はあった。
盗人である。
というのも、彼は一つだけ魔法が使えた。普通の仕事では使えるものではなかったが、壁という壁を通り抜ける事が出来たのだ。よって道を踏み外した彼は鍵のかかった家の中にこっそりと入り、銀貨や置物を盗んで売りさばくことで生計を立てていた。稼ぎとしてはたいしたものではないが、人を殺す度胸もなく、盗賊団に入る根性もない彼には充分であった。
ある時酒場で盗人仲間とお宝自慢になり、たいした物を盗んでいないと笑われて彼は腹を立てた。酒の勢いもあってこう叫んだ。
「そんなに言うのならば、王城にでも盗みに入ってやろうじゃないか!」と。
当然の如く彼はあっさりと捕まった。王城の警備は並ではなかった。特に現在、逃げ出した王子を探しているためか、王城の全てに魔力に対する網が張ってあったのだ。
盗人の刑罰は断手か、よもや斬首かと酔いも覚めてガタガタ震える男が連れて行かれたのは不思議なことにある豪勢な部屋だった。
そこには大変美しい女性が立っていた。隣には三、四歳ほどの小さな子供が椅子に座っている。
彼女の目を見た瞬間に、男は心を奪われた。意識にぼんやりともやがかかり、深く考えることを忘れてしまったかのようだった。
「この城に入り込んだ目的は?」
美しい唇が紡ぐ言葉を呆然と聞きながら、男の口が勝手に動いた。
「金を手に入れるためです」
「魔法を使うようですね。どのような魔法を使うのですか?」
「どんな壁もすり抜けることが出来ます」
この人に聞かれたのならば全て答えなければならない。そんなつもりで彼は跪いて問われるままに答えた。彼女はそれを聞くと、「それはちょうど良い」と小さく微笑んだ。
「その力を私のために使ってくれますか?」
「もちろんです」
言われるままに頷いた男に、彼女は一枚の符を彼に渡してきた。
「これを持ってお行きなさい。丸めて呑み込めば魔力を増幅することができます。ただし」
その紙はとても強い魔力を込めた呪符のように見えた。両手で受け取った瞬間に小さな火花のような物が散った。不思議と痛みは感じなかった。
「使っている間は声をださないように。声を発すると消えてしまいますからね」
そして彼女は言った。金色の長い髪がふわりと風で揺らぐ。その空色の目は優しく細められていた。女神のようだと男は思った。
「私の力でも入れぬ場所に、アベルがいないか見てきて欲しいのです」
男は当然のように力を込めて言う。
「何でもします、あなたのためなら」
「もしもそこにアベルがいたら」
さらりと彼女は、王妃ソランジュは言った。
「殺してほしいのです」
その言葉を問い返すこともなく深く頭を下げた男と、艶然と微笑むソランジュ。
椅子に座ったまま二人を見上げる小さな男の子、第二王子キリクは幼い瞳を曇らせた。
* * * * * * * * * *
男は意気揚々と王城を出て隣国へ向かった。早馬に乗って三日ほどでその建物があるらしき場所まで来た。だが建物が見えない。
どうしたものかとそのあたりをうろうろしていたが、突然何もない空間から何者かが現れた。慌てて隠れる男には気付かず、彼は空へと飛んで行った。ちらりと赤毛が見えた。アベル王子ではない。
彼が出てきたらしき場所を触ってみると何もないように見えて何かが押し返してくる。壁ではないが、空気の壁みたいなものだろうか。
男は魔法を使うも、その空気の壁はびくともしなかった。おそらく建物の周りに張り巡らされた魔法は、男の魔力と比べて格が違うのだろう。
男はソランジュから貰った呪符を丸めると呑み込んだ。その途端、胸の奥が熱いような変な感覚がする。急激に魔力が増えたのか視界が一瞬ぼやけた。
声を出さないようにしてその壁をこじ開けると空間が少しだけ歪んで、中に小さな小屋が見えた。
男は小屋の周りをぐるりと回って、人がいなさそうな所に手を当てた。
木の壁はゆっくりと穴をあけて、男が入り込むとまた何事もなかったかのように穴を閉じた。
果たしてアベルはいた。金色の髪と深い藍色の瞳を持った青年アベルは部屋から出ると、男が隠れている方向とは反対の部屋へと入っていった。
これはチャンスだ、と男はアベルが出てきた部屋の中に入った。
そこは寝室のようだった。彼は左右を見回してこそりとクローゼットの中に入った。
クローゼットの中には少ししか服が入っておらず、彼が入っても充分余裕はあった。
あとは簡単だ。アベルが寝るまでこの場で身を潜め、眠りについたら刺し殺してしまえばいい。そしてセリド王城に報告に行くのだ。あの人は喜んでくれるに違いない。報奨金も手に入る。そして一生遊んで暮らすのだ。
それを思って彼はにまりと笑みを浮かべた。
しばらく待つと、アベルが部屋に戻った音がした。隙間から覗くと、椅子に座って考え事をしているらしきアベルが見えた。
よしよし、あとは眠るのを待つばかりである。
男はじっと待った。うっかり眠ったり声を出したりしないように注意しながら待った。
その時。
こつりと何かが彼の肩に触れた。服の一部かと思い気にせずにそれを押し返そうとしたが動かない。何だろうと左を向いた瞬間、固まった。
完全に固まった。恐怖が、思考能力を完全に停止させた。
彼の左隣に、皮がはがれたような恐ろしい様相の人間が座っていた。真っ赤な筋肉が見える。
冗談だろう、と思った。
これは何かの冗談で、むしろ夢かもしれない。夢ならばいい。
この世にどんな拷問があったとしても、これほど恐ろしい拷問など無いに違いない。
生皮をはがされたようなその人間は、隣に座ったまま無表情に前を向いている。男は混乱した状態のまま固まった。動いたらいけない、もし動いて「それ」の視線をこちらにむけられたら、殺される。
いや、落ち着け。こんな人間が生きているはずがない。死んでいるのではないか。ならば殺したのは誰だ。
男の脳裏に恐ろしい情景が浮かんだ。笑って生皮をはがすアベル。怖い。すごく怖い。泣いて逃げたくなるくらい怖い。
ぎぎぎと軋むようにゆっくりと腕が動き、ぶるぶると震える腕でクローゼットの隅へと寄ってその恐ろしい物と距離をとったその時。
ぱたりと「それ」がこちらに倒れ込んできた。すると男の膝の上に乗った「それ」の左半面が見えた。筋肉すらなかった。骨だった。綺麗に真ん中で筋肉と骨に分けられていた。
思わず悲鳴をあげそうになって慌てて手で口を塞いだ。いけない、声を出したら多分ここからはじき出される。
彼女の望みを叶えなくてはいけないのだ、こんな恐怖、何てことはない。きっとこれは罠なのだ。
必死で自分に言い聞かすも、膝の重みは恐怖を忘れさせてくれない。何が悲しくてこんな恐ろしい物、死体に膝枕をしなければならないのだ。
怯えるまいとしながらも、男は震える手でその死体をどかそうと「それ」の頭に手をかけた瞬間。
ぐるりと首が回って「それ」のぎょろっとした目がこちらを向いた。
――そうだ。クローゼットを開けたときには絶対にこんなものは中に無かったはずだ。なのにここにあるということは、まさか、生きて――!?
「……ぎゃああああああ!!」
無理だった。耐えられなかった。
生きているのか分からないが、こんなものに襲われる想像をしただけで軽く死ねた。精神が死ねた。彼の喉からは悲鳴が飛び出した。
その瞬間、胸の奥の呪符が焼き切れて魔力を失い、彼は弾かれたように家どころか森の外まで追い出された。
完全に腰が抜けている彼は、呆然と道に座り込んでいた。
ピピピ……サワサワ……。
鳥の声や、風が木々を揺らす音が聞こえる。
外の空気を胸一杯に吸って、吐いて、吸って、そして思った。
……田舎に帰ろう。
憑きものが落ちたかのような、悟りを開いた表情で彼は遠くを見た。
都会は恐ろしい。あんな拷問されるくらいなら、ましてあんな姿で生きるくらいなら、田舎で畑を耕して生きよう。
男は強くそう思った。
今となっては何故彼女のために人を殺そうとまで思っていたのか意味が分からなかった。
そのまま男は逃げ出した。ゴホッと咳き込んだ瞬間に、喉の奥から炭のような紙のかけらが少し出て、空気に溶けていった。




