命の灯
小暮は一気に距離を詰めてきていた。右手に握ったナイフを神奈に向かって突き立てる。神奈はとっさに右手でそのナイフをいなして、小暮の背後へとかわした。小暮の服の襟を左手でつかみ、力を込めて押し倒す。小暮はうつ伏せの状態で地面にたたきつけられた。落ち葉が強くこすれ合う音がする。
「いって……」
ナイフを持った右手は神奈の脇に挟まれて極められていた。背中を膝で押さえつけられ、右肩が軋むほど強引に反り返された。あまりの痛みに小暮はナイフを落とした。神奈は右膝を曲げ、ナイフを器用に、木々の彼方に蹴り飛ばした。
「ぐ、くそ。何だよ、僕に自首でもさせるつもりか。それがあんたの言う仕事か」
小暮の叫びは耳に入らなかったとばかりに無視し、神奈は訊ねた
「もう一つ話してほしい。父親を殺した動機は何? やっぱり、自分と母を置いて消えたことへの復讐?」
自由になろうともがいていた小暮だったが、その質問を聞いて徐々に抵抗をやめた。そしてフッと息を吐き出し、答えた。
「復讐、ではないな」
その声にはやる気がなかった。神奈の質問に対して「そんなことを訊くのかよ」と、半ば呆れるようであり、期待外れな内容と言わんばかりに投げやりな返答をした。
「母のことなど関係ない。母は死んだ。もうそれは過去のことだ。過去に囚われて生きるなんて、僕はごめんだ。」
「じゃあ、あなたの本当の動機は何?」
「考えても見ろよ。過去を捨て去って、未来に希望を持って生きていくであろう僕の前に、情けない面をした父が現れて弁解だなんて、ナンセンスだ」
音にならない声で嘲笑いながら話す小暮を見て、神奈は目を丸くした。
「僕はさ、耐えられなかったんだよ。息子の前で土下座なんて、羞恥極まりないと思わないか。僕はこんな父親から生まれたのかって考えたら、我慢できなかった。父の存在を消して、過去として捨て去りたかったんだよ」
首を持ち上げて神奈を見上げるその目には、かすかな後悔も見て取れなかった。悪気のない鈍い光を放っていた。神奈は歯を食いしばり、怒りに震える空気を吐いて言葉を発した。
「あなた、本当に人間なの」
小暮は不気味に笑い、自信に満ちた顔で答えた。
「当然だ。僕は将来に希望を持つ一人の人間なんだよ。幸福になりたいがために足掻く、人だ」
その乱暴な言葉を聞いて神奈はうつむき、わずかに沈黙が落ちる。
そして顔をあげ、小暮の目をまっすぐに見据えた。
「そう。だったら私が証明してあげるわ。あなたが人間だっていうことを」
神奈は左手を持ち上げ、小暮の背中をなでるように優しく触れた。小暮は場違いながらも、そのぬくもりを持った手を少しくすぐったく感じた。しかし、その感覚はどんどんと違うものへと変化していく。何だか、熱くなっていく。
「お、おい。あんた、何をしている」
神奈は目を伏せたまま口を真一文字に結び、黙っていた。小暮は、今まで生気が全く感じられなかった神奈から、ある感情がにじみ出ていることに気がついた。「悲しい」雰囲気を醸しだしていた。
呆然としていた小暮が声をかけようとしたそのとき、身体中に違和感を覚えた。体温が奪われて、指先が徐々に凍えるように機能を失っていく感覚だ。奪われつつある体温の行き先。それは、神奈の左手が置いてある背中だった。体中の末端が重くなっていく、五臓六腑が引っ張られる、吸い込まれる。わけのわからぬ恐怖のせいで声が出せなくなっていた。
そして、背中から神奈の左手が外れたのがわかった。神奈の視線の先、小暮の目も、それを捉えた。
神奈の左手には、細かな氷塊を集めて固めたかのような、青く輝きながら燃えさかる物体が、手のひらから二センチほどの所で浮いていた。青い粒は分離と合体を繰り返し、周囲を白いもやが覆い、陽炎のごとく景色を揺らめかせる。小暮は直感で、それが何であるかをおぼろげに理解した。意識せずに、言葉が口から漏れる。
「そ、それ、もしかして――」
目を見開いた小暮の様子を見て察した神奈が、目を細め、透き通る声で説明した。
「これは、あなたの体がかばうように包み込み、必死に守ってきた、人の魂とも、心とも呼称されるもの。煌々と燃える命の灯」
月明かりに照らされたその塊は、淡く神々しく、そして小暮と神奈を弱々しく照らしていた。神奈はそれに唇を近づけ、フッと、ろうそくの火を消すように強くゆっくりと息を吹きかけた。その風に煽られ、粒ともやが散り散りとなっていく。空気中に溶解して、光は力尽き、初めからなかったもののように消え失せた。
神奈の足元にあったであろう小暮の身体も、土に溶け出していったかのように灯と運命を共にし、跡形もなくなっていた。完全に、消失していた。




