海底に降る雪~マリンスノー~
あたしは神さまに、神奈の命を消し去ると決意をした旨を伝えていた。
「そう、やる気になってくれたんだ。苦渋の決断だったろう」
うんうんうなずくそぶりを見せている。
「怜香ちゃん、ありがとう」
「いえ、これはあたしが決めたことですから」
気高に振る舞うも、どうせ神さまは、あたしが不安に絡めとられていることを見抜いているに違いない。
「失礼かもしれないけど訊くよ。なんで考えをコロッと変えたの」
あたしは虚ろに目を伏せて、思いのたけを声に乗せてぶつけた。
「神さまは前に、神奈を追い詰めることになる何かが神奈の心の中にあって、その正体がわからないって言ってましたよね」
「うん、覚えてるよ」
「その答えを本人から聞いたんです」
この「神官」の仕事の遂行に伴う責任に耐えられなくなった。自分のしていることに疑念を抱いてしまって、神さまの語る運命が真実であると信じられなくなった。だから、嫌になってしまった全てを捨てて蒸発してしまいたくなった。神奈はそう話してくれた。
そのとき、あたしは怒りに充ち満ちていた。
神奈は今まであたしの何倍もの命を消してきたのに、疲れたからもうやめたいなどとは無神経にも程がある。人の命を侮辱し、小馬鹿にしている。人生の大先輩であった田辺ばあちゃんの命も、その他のたくさんの命も、そして何より、愛おしく思っていた巧巳の犠牲ですら、そのたった一言で全て無に帰してしまう。神奈の仕事の対象となった者たちを思うと、この神奈の態度は許せないし情けない。
だったら、あたしが引導を渡してやる。それが、今まで可変的な運命に巻き込まれてきた人々への償いだ。
だから、神奈を消すことを決めた。怖いけど、これはあたしがするべきことだ。
「神奈は、『私は人間としていきたかったのかも』って言ってました」
「へぇ。私にそんな考えはなかったな。だから私には、神奈ちゃんの行動とか態度がよくわからなかったのかもね」
神さまはうーん、と低く唸った後、小さく呟くのが聞こえた。
「私は戻りたいとは思わないね」
――戻りたい? その一言が耳についた。
「それって、どういう意味ですか」
「そうか、まだ話してなかったっけ? 本件の後で教えるよ」
訝るあたしをよそに神さまは一旦区切りを置いた。
「今、雲の下に町があって、その近くに山がそびえているんだけど」
「山、ですか」
ふと後ろを振り返る。
「確認してみるといいよ」
あたしは指示に従い、雲と夜空の境界を目指して進み、端っこから身を乗り出して、柔らかな生活感をたたえる街並みを見下ろした。木が深く生い茂り、いかにも重厚な山の全貌も見える。この山が何だというのだ。
「そこはね、もう誰も入ることがないし人目もないから、仕事はそこで果たすといいよ」
「仕事の場所にここを指定する意味って、何かあるんですか」
少し沈黙を置いて、神さまは言った。
「仕事をこなすならそこがいいかなって思っただけだよ。でも、私も知らない潜在意識がそこを選んだのかもしれないね」
あたしは神奈の背中に近づいて、ゆっくり左手を置いた。
――怜香。
神奈が呟いたようでもあったが、意識すると胸が強く締め付けられて苦しくなるから、見ないように、聴かないようにと、あたしはあたしの中に意識を沈める。
肌から熱さを感じる。薄く目を開けると、手のひらの隙間から青い光がほとばしっていた。波のようにうねり、ほのかな輝きを放ちながらあたしの手を覆っている。何度も見てきて、いつもと何ら変わりのないはずの光が、痛みを伴ってあたしに突き刺さり、苦しい。
ふいに左手が神奈の背中から外れた。あたしは自分の手を見やり、前方によろめく神奈に視線を向けた。膝をつき、口を小さく開け、短い髪をなびかせながら落ち葉の上にあっけなく倒れこんだ。その衝撃に、サクッと軽い音を立てて落ち葉が舞いあがる。神奈は眠るかのように微動だにせず、横になっている。
左手に残っていた青い炎を目の前に引き寄せて、まじまじと見つめた。月の光に照らされて、周囲はちらちらと、まるで雪が舞うように白く明滅している。灯の中心には、じゃれあうように動き回る結晶が浮いている。繊細で簡単に壊れてしまうのに、この輝きは人を魅了してやまない。強さと儚さを纏って、人の不安定さを象徴している。
「ねえ、怜香」
呼びかける声のする方を向くと、呼気を荒くしている神奈がうずくまりながら必死に何かを伝えようともがき、顔をこちらに向けて鋭い視線を発していた。この状況に場違いなほどに穏やかな目。その姿はあたしに愛おしさに似た痛みを突きつけてくる。
「マリンスノーって、知ってる?」
マリンスノー? あたしは素直に首を横に振った。でも、海と雪なんて、字面から察するにとてもきれいなものなのだろう。それが今とどんな関係があるのか。
「マリンスノーっていうのはね、深海に降る、雪のことだよ」
かすれゆく優しい声で神奈は言った。
「海に雪が降るの?」
あたしは訊き返した。森も月も、全てが神奈の話の中に吸い込まれていく。言葉が冷たい音を鳴らして降り積もっていく。
「その雪の正体はね、微生物やプランクトンの死骸」
「死」という、甘美なものとばかり想像していたあたしに黒い影を指し示す一言。物事には表と裏があって、一面だけを見て漠然ときれいだなんて思うのは、ひどくおこがましい。そう思うと自分がどこまでも愚かだったことを痛感する。そして「死骸」という響きが今の神奈の状況を表しているようで、頭の中に強く残る。神奈は呼吸を整えて続ける。
「死んだプランクトンたちは流され、海の底を目指して沈みながら、深海でその力ない姿を人間たちに見せたの。それを目撃した人々はどう思ったんだろうね」
「どうって、あたしは見たことないからわからないけど……」
「私にもわからないけど、きれいだとか、神秘的だとか、もしかしたら汚いなと思ったかもしれない」
神奈は目を細めてあたしを見つめ返す。命の灯が黒い虹彩の中で輝いていた。
「でも私にはね、それが叫びに見えた。命が尽き果てて魂の抜け殻になって、光が届かない最果てに来てしまった生き物たちの、最後の抗い。美しかろうと醜かろうと、それを目の当たりにした別の生き物に何かを伝えたいと願う叫び」
神奈の言葉に呼応してか、命の灯が脈を打つ。
「私は、そう思った」
強い風が吹き上げ、神奈の話を聞いている間にも命の灯は一本の筋となって空へと溶け出していて、もう原形の半分が持っていかれている。零れ落ちる白い粒を見て、叫んだ。
「神奈、もう終わりにしよう」
歯を食いしばる。もうこの状況に耐えられない。いっそのこと一思いに終わらせてしまいたい。これ以上こんな掛け合いを続けていたら、力なく横たわる神奈に、あたしの決意が鈍って、あたしの感情も零れ始めてしまう。
「ずっとこのままなんて、辛いだけだよ」
震える声で告げた。
「それ、似てると思わない?」
唐突に出た神奈の声にびっくりした。その声の先には、煌々と灯る青い炎があった。「そっくりだよね」
何が言いたいかがわからない。
「そっくりって、これが、何と?」
「今まで消してきた命と」
顔をうずめてくすくすと笑っている。咳き込んでいるようにも、嗚咽を漏らしているように見えなくもない。
「人の命とそっくりだなって。私、ずっと『神官』でいて、人間とは違うけど神さまでもない中間をさまよってた。でも、これではっきりしたね」
息を大きく吸って、言った。
「感情的に動いてしまうこと、人間性を捨てられずにいたこと。その原因は結局、私は人間だったからだよ。古賀巧巳と同じことを願っていたのに、答えはずっと近くにあったのに、間抜けなことにそれに気づけずにいたんだ」
森は気温をグッと落として、あたしたちは肌寒さの中に孤立していく。神奈は一通り話し終えるとゆっくりと体を丸めた。
「もう寒いし、眠くなっちゃった。だから怜香、お互いに、使命をまっとうしよう。怜香は『神官』としての、私は怜香の教育者としての」
――教育者? その言葉が耳に引っかかったが、その意味をおぼろげに理解はできた。あたしは、うん、と力強くうなずいた。
あたしの手のひらで瞬いている光は、もはや元の三分の一ほどにまで小さく弱いものとなっていた。しかしこの命の灯だけは誰にも頼らず、自分の意思で消し去るべきなのだ。今のあたしはそのためだけに存在している。
潤った唇を青く揺らめく炎に近づけて、口を小さく開けて軽く息を吹きかけた。夜空へと伸びる筋がより一層太くなり、輝きを増していく。月に照らされながら立ち上る光の粒子は少しずつ見えなくなって、切ない叫びを残して遠くに消え去った。
足元に目をやるが、そこにいた人間の跡はもう無い。落ち葉が吹きすさぶ風に流されて山の頂上へと転がっていく。存在の証拠すら、もう残らない。
神奈の唯一の命の名残は、あたしの記憶だけとなった。今まであたしの隣に立って支えてくれていた枯れかけの木がなくなると、少し心細くなった半面、見える景色がいつもと違って明瞭で、新鮮だった。
空を見上げると、月は白々と、一人たたずむあたしを映し出していた。
「神さまって、結局何者? これが終わったら話すとか言って、小説内で話してくれないのかよ」という疑問がありました。残り一話残ってますが、ストーリー的には何の進展もないので、ここでばらしてしまいます。
神さまの設定はしっかりあります。ただ、ストーリーをプロットしていくうちに、適当に決めたものではありますが。
神さまとは、実は以前は神奈や怜香と同じ立場にあった者です。現在の神さまの前任者に、適合者と認められ、さらに神さまへと昇進(?)しました。
さらに言うと彼は元々は人間でした。昭和の経済成長の一端を担ったほどの――
金! 名誉!! 権力!!!
の持ち主でした。しかし、根っから純朴だった彼は、人間である以上、自分の全てを投げ打っても世界を良い方向にはもっていけないことを痛感していた。そのとき、降ってわいた「運命を変える仕事」を、彼は受け入れたのでした。
物語中「生活のあらゆる心配はしなくていい」とは、彼が人間だったころに持っていた潤沢な資金と権力者としての人脈によるものでした。ちなみに彼が人間を捨てたことを知るのは、極々一部の側近だけです。トップシークレットです。しかしメタ的にもトップシークレットにしてしまったため、神さま何者疑問が生まれてしまったわけですが。反省しております……。
神さまの姿――濁色のもやに包まれた球体は、神奈や怜香が取り出してきた命が変質したものです。劇中、命は儚くもろいものとして描かれていますが、彼がプラスチックのように固い質感なのは、暗に人間性を捨て、無情になった覚悟を表現していました。
劇中での説明が足りなかったのは、私の技術の至らなさによるものです。さらに言うと「全てを明らかにしないで、読者に想像の余地を残そう」という、自分の実力を推し量れず、難しいことをしようと思ってしまったことが原因です。
こんなかたちで弁明するようになってしまい、本当に申し訳ございません。




