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ともしび  作者: れとろそふと
第五章
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空っぽの器に響く怒号

 私が昼ごろ帰ってきたときには怜香も出掛けたようで、部屋には誰もいなかった。

 朝、私は急いで部屋を出たため鍵を持っていなかった。つまり、私は部屋から締め出されている。仕方なく再びあてもなく歩き始めるが、同じ道を何度も行き来しているだけでいささか飽きてきた。駅までの道のりを何往復しただろう。

 夕方ごろに帰ってくると、鍵はすでに開いていた。ホッとして玄関を開くと、怜香は厳かな雰囲気を醸しながら窓に映る夕日を眺めていた。逆光のせいで怜香の顔が翳ってよく見えない。

「おかえり」

 か細い声が聞こえる。怜香は今朝、昨日の私の異常な行動を「気にしていない」と言っていたが、それは本心だったのかなと考えを巡らす。もしかしたら私に反感と嫌悪を抱き始めているのかも。

「三日後、仕事があるって、神さまから」

「そう、わかった」

 日程と時間だけ言って、詳細は教えてくれなかった。

 ――怜香の独り立ちのための神さまの考慮かな。

 ダイニングを横切って和室に入ろうとしたところで、怜香に声をかけられた。身を彼女の方に向けて、畳に座り込む。

「神奈、一つ訊いていい?」

「うん、いいけど」

 怜香の物々しい口調に体が強張る。

「神さまに仕える立場って、どうあるべきだと思う?」

 その言葉を聞いて少し困惑を受けた。その質問の意味するところは、多少なりとも怜香の中に戸惑いがあるということだ。未来を担う彼女には堂々としていてほしい。伝えるべき言葉を少し考えて、言った。

「前に『神官』の立場について話したことがあったよね」

 私に視線が向けられる。「神さまのように振る舞えるようになるまでの、仮の立場だって」

 私は口を真一文字に結んで、少し迷った。この気持ち、怜香に打ち明けてもいいものだろうか。怜香はどう思うかわからないけど、彼女が前に進むためには告白してしまうべきだろう。怖いけど、そのためには自分に正直にならないといけない。首は下を向きながら指を組み、大きく息を吸って一気に話した。

「私ね、前にどこかに消えてしまおうかと思ったことがあるんだ」

 怜香が声にならない驚きをし、息をのむ気配が伝わってきてもなお続ける。

「始めはね、『怜香が一人前になったら私はお払い箱かな』『私は居ても居なくても変わらなくなって、だから消えてしまっても構わない』って思ってた。そうだろうと思い込んでいた」

 絡み合った自分の指を眺めながら言った。「でも、きっと違ってたんだ」

 この言葉は、素直に、私へ向けるべきものだ。

「私はこの使命から逃げたくなったんだ。いつの間にか神さまの考え方についていけなくなっていて、仕事をするたびに辛くなって、心が押しつぶされて耐えられなくて、嫌になったんだよ」

 指をほどいて顔を上げると、怜香はこちらをジッと見つめていた。顔に浮かぶ肌の色が抜けて、青白くなっている。

「私は人間みたいに生きていきたいのかもしれないね。だからとっくに『神官』としての資格すら失ってたのかも」

 赤い夕焼けにゆっくりと紫色が混じっていき、二人の影が壁へと伸びていく。扱いにくい侘しさが忍び寄ってくる。

「……神奈は、そんなことでいいの」

 怜香の声は怒りに震えていた。私の支えを離れて自立する怜香の気持ちは、もはや私にはわからない。彼女はこの話を聞いてどう思ったのか、もう予想するすべはない。

「私にだってわからないことが多すぎる。神さまに仕えるならどうあるべきかなんて、人間性に近づきすぎた私には理解のしようがない。だけど、これだけは言える」

 ――怜香は、私のようになっちゃいけない。

 怜香が勢いよく立ちあがった。その衝撃で周囲のものが大きく音を立てて揺れる。息を荒げながら顔をしかめている。

「何なのそれ」

 彼女の鋭い眼光が向けられる。

「向上心はないわけ。もう疲れたからいいやって、背負ってきたものは簡単に投げ捨てられるものなの。神奈って、実はそんなに弱かったの」

「それは、私の信念がもたなかったから――」

「そんなの言い訳に過ぎないじゃない!」

 一喝されて自分がどんどん小さくなっていく。

「もっと大事なものがあったはずでしょ。そんなことも忘れたっていうわけ? 神奈、バカなの?」

「怜香……」

 数々の罵声を頭から浴びせられて、先ほどの私の発言に対する憂鬱と反省が心を占める。首をもたげて怜香に視線を合わせると、頬に微かな光の筋が見えた。夕闇に覆われていく部屋で、それは異様な輝きを放っていた。

「巧巳は、こんなやつに消されちゃったんだ」

 その冷酷な言葉に私の心は穿たれ突き放されて、大きく目を見開いた。怜香は冷ややかな一瞥を残して、さっさと部屋を出て行ってしまった。漂う喪失感に、部屋は暗闇に包まれていく。

 去っていく彼女の背中を見て、気づいた。怜香の素朴に見えた質問は、実は何かを期待していたもので、その気持ちを私は無残にも情けない解答によって裏切ってしまったのだ。弁解するにも、気づくのが遅すぎた。

 私たちの繋がりがどんどん細く、弱いものになっていくのを悔いながらも、しかし何をすればいいのかわからないままだった。


 その後の数日は、私はアパートで、怜香はおそらく神さまのいる地で過ごしただろう。もう私が怜香の仕事につきあう必要はないと思うけど、日時を知らせてきたのだから、顔を出さなければならないはずだ。怜香との関係を修復したいけど、私に失望した彼女はそんなことは望んでいないかもしれない。

 時間はどうしようもなく流れる。私のするべきことをはっきりさせられないまま、告げられた時刻である午後九時となってしまった。

 玄関に座り込み、靴ひもを固く結ぶ。扉を開けると、普段よりも明るく透き通った青い夜空に、煌々と光を降らす大きな満月が見える。普段は見えない雲がくっきりと姿を現している。

 寂しく浮かぶ月のすぐそばあたりに焦点を当てて、より糸を紡ぐと、身体が軽く浮き上がり、示された道を滑らかに進んだ。

 今の私には信念も、希望も、意志も何もない、ただの空虚な器だ。そんな私がするべきことっていったいなんだろう。私に、何が残されている。

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