積もる苛立ち
部屋に帰るまでの間、神奈を仇であるとは考えもしなかった、というより、思いつかなかった。いちいち事実を結びつけている余裕がなかったからだ。神奈は今どうしているか、まさか本当に姿を消しているかもしれない、という思いが頭の中を埋めつくしていた。
冷めた風が頬をなでる。玄関の前に立ったあたしは真っ暗な室内を見てビクッとした。ドアを大きく開けて靴を脱ぎ捨て、慌ただしく中に入る。明かりのついていない部屋には微かな物音が流れていて、その方向へ足を向けると、テレビがつきっ放しになり、鮮やかな新緑の風景を映し出していた。テレビの光が手前の布団を色とりどりに照らしている。
神奈が寝ていることを確認したあたしは胸をなでおろした。音をたてないように布団のそばに落ちているリモコンを拾い上げて、電源ボタンを押す。プツリとあっけない音を残して明かりは消えた。
あたしは後ずさりして和室を出て、手探りでダイニングの照明スイッチを押した。カンッと反応した電灯は机や椅子を寂しく照らしだす。
時計は午前一時を指している。
あたしは椅子に座り、ハァっと大きくため息をついて机の上に寝そべった。置いた腕は机の冷たさに鳥肌を立てる。息が苦しくて頭が重いし、いやに体の調子が悪いな。
原因はいくつも思い浮かんだ。荒れた神奈と、古賀の記憶と、神さまの命令。それらに囲まれてジロジロと監視されている感じがこびりついて離れない。あたしが逃げられないように道に立ちふさがり邪魔をしていて、あたしは頭を抱えてそれらを拒否しているしかできなかった。
――これからどうすればいいんだろう。神奈は、どうするんだろう。
顔を横に向けて和室を覗き込むと、暗がりに膨らんだ布団の影が見える。
あたしはふと気づいた。神奈を見ていると徐々に心臓の高鳴りが大きくなってきて、血の巡りすらもわかるくらいに鼓動が強くなる。重たかった頭の違和感は頭痛へと変化していき、どうにもムシャクシャする。
その正体はすぐに分かった。
神奈の姿がすごく腹立たしい。そう思っていたのだ。
あたしは机に突っ伏した形で一晩を過ごしていた。気がついたら黄色い朝の陽光が部屋一面を満たしていた。
――ああ、やってしまった。
しょぼしょぼする目をぐりぐりこする。立ち上がろうとすると、身体の節々が軋んで痛みが走った。
「あああ……」
中腰のまま大して意味のないうめき声をあげた。
「怜香、辛そうだね。大丈夫?」
突然背後から呼びかけられてびっくりし、急いで立ち上がって振り返ると、神奈があたしの顔をまじまじと覗きこんでいた。あたしは気恥ずかしくなって机の脚へと目線を逸らす。
「そんなところで寝るからだよ」
チンッと音がなる。神奈がトースターを開くと、香ばしいにおいが漂ってくる。
「怜香の分も焼いておいたから、食べる?」
きつね色のパンが乗った皿を差し出され、あたしは椅子の座り直しながらそれを受け取ってかぶりついた。
神奈はいつもと変わらない風だ。しかし昨日、あれだけ荒れておいてこの落ち着きぶりはおかしくないか。平静を装っているだけなのかも。あれこれ憶測を張り巡らしていると、昨夜と同じようにまたイライラをしてきた。神奈のやっていること全てが無性に気に食わなくなる。
「昨日はごめんね。心配かけちゃったよね」
さっさとパンを食べきった神奈は、皿を流しに運びながら言った。背中を丸めて、流し台に手をついている。
「ううん、大丈夫だよ。結果的に仕事はちゃんとこなせたし、帰るときだってそんなに苦労しなかったよ」
そっか、と神奈はそっけなく返事をしてから、グリッと首を回して、横目で私を見た。黒い虹彩が鈍く光る。
「怜香は大丈夫なの」
最後のパンのかけらを口に入れようとしたところで飛んできたその質問に、戻してしまいそうな気持ち悪さが湧いてきて、口をつぐんだ。呼吸を整えてから小さく答えた。
「何のこと?」
神奈の言いたいことなどとうにわかっている。まだ教えていないはずなのに、おそらく神奈はあたしの記憶のことに気づいているのだ。
あたしは黒い眼光に負けじと同じく睨みつけて、沈黙を突き通した。
「いや、別にいいんだ。何でもない」
顔を洗うと言って、神奈は洗面台に向かう。その横顔はひどく青ざめていた。
あたしはやっとのことでパンを飲み込み、後片付けを始めた。すると、すぐ後ろから「出掛けてくる」と、物々しい口調が聞こえてきた。玄関扉が開閉する気配がして、すぐに静寂が辺りを包む。
ハァっと息を長く吐きだして、机の脚を思いっきり蹴飛ばした。が、思ったよりも蹴りの軌道がずれて小指を直撃した。激しい鈍痛に涙ぐむ。
――ちくしょう。
昨日の一件を境に、なんでもかんでもうまくいかない気がする。頭を掻きむしったり、自分で頬をはたいてみたり、奇声を上げたりしても、体中を蝕むもどかしさは強まる一方だった。乱暴に椅子に座り直して、肘をつく。
この苛立ちは、巧巳との記憶が戻ってから生じ始めていた。
深呼吸して気持ちを落ちつけてから、昨日は出なかった結論を再考してみる。
神さまは神奈の命を吹き消してほしいと言う。そのためにあたしの記憶が戻るのを待った。あたしに神奈を躊躇いなく消し去れる動機があると、神さまはそう考えたからだと思う。
神奈は巧巳の命を消し去った――つまり、神奈は私にとっての仇にあたる。
三日間だけだったけど、巧巳はあたしの命を救ってくれて、大切に扱ってくれて、そう思うと今でもとても愛おしく、甘い痛みは心を締めつける。その誉れ高い魂を神奈は無情にも奪ったのだ。避けられない仕事だったとはいえ、神奈はあたしにとって憎むに値する存在だ。
――ならば、神さまの命令に従って命を吹き消す?
今あたしがここにいられるのは、「神官」としていられるのは、神奈のおかげではないのか。それもまた事実で、それにあたしは神奈のことが好きだ。命を吹き消すなど易々と実行できるものか。
いたたまれない焦燥は、アンバランスな気持ちの天秤が発している悲鳴だ。あたしはうつむきながら、ただただ痛む小指をさすっていた。
「結論は出せたかい? いや、出してもらわないとダメだね」
颯爽とした日差しの中で、なぜこんな意地悪な一言を聞かされなくてはならないんだ。
「いえ、頭の中がスッキリしなくて、どんなに考えても決着しなくて、知恵熱が出そうです」
「あのね、どんなに思い詰めても答えが出ないものは、何時間かかったって解決なんかしないよ。だからさ、もっと単純に捉えて――」
「単純に神奈を殺せってことですか」
「最良の結果を出せってことだよ」
あたしの言いたいことが伝わらないのか、言葉をどれだけぶつけても手ごたえが全くなくて、苛立ちが膨れ上がる。
「神奈を消すことが最良? 神さまの言う合理的な結論ですか」
態度悪く乱暴に言い放つが、神さまは怯まない。
「だから命じているんじゃないか」
「因果関係が明瞭ではないですね」
「そう見えるかもしれないけど、ちゃんと意味はある」
ここを訪ねたときから話が何一つ進展していない。焼けるような日の光があたしの頭を沸騰させる。神さまは「そういえば――」と言って話を続ける。
「君と神奈ちゃんは似てないけど、言うことはそっくりだって教えたことがあったね」
「神官」の力と記憶の復元のきっかけを与えられたとき、それを「合理的な判断ですか」とあたしが訊ねたときのことだろう。
「神奈ちゃんも同じところで引っかかって、いまだに『神官』止まりだ。怜香ちゃんにはそれを乗り越えてもらわないと困る」
あたしは神奈に「強くなる」と誓った。粉々に砕かれた神奈の信念を越えると、自分は正しいことをしていると信じることを決めた。神奈の命を消すという複雑な一件で、得体の知れないものに決意を試されている気がしてならない。その正体は神さまではないことはわかる。神さまはその要素の一部で、おそらくもっと広大な流れだ。
「とにかく、三日後くらいに、君に仕事を与える。内容は言わずもがな」
「……わかりました」
目の前の黒い球体も、辺りを埋め尽くす黄色い雲も、ポカポカと温かみを帯びる陽光も、あたしを卑下た目で見ている気がする。そんなにあたしをバカにしないでほしい。




