凄惨な灯
どうして忘れていたのだろう。
――古賀巧巳。ずっとあたしのそばにいてくれた人。あたしを愛してくれた人。そして、あたしが唯一、愛した人だったのに。
あたしには重波悠斗を守りたいと必死で願う由加の気持ちが、手に取るようにわかった。圧倒的な暴力に負けてしまうかもしれない。でもこれは本能のようなもので自分の意思で制御できないけど、後悔はない。そう思っていることもわかる。その理由は実に簡単なものだった。
あたしにも心の底から人を守りたいと思った経験があったからだ。記憶の海の底に落ちて何年もたったのに、改めて拾い上げても風化すらしていない、そのままの形で包まれていた。
由加の姿を見て、神さまに触れたときに感じた、電気が走るような痛みが全身を再び駆け巡った。あたしは、古賀巧巳の存在を思い出したのだ。
しかし、今の状況を鑑みてものうのうと感傷に浸っている場合ではないし、必要のないことを考える意味がどこにある。顎を下げて、目標である重波を鋭い目つきで見つめた。あたしが今ここにいる理由――これがあたしの使命だ。
ガタン。
突如背後で鳴った音にびっくりして振り返ると、壁にかけられてた額縁が揺れている。そしていつの間にか、神奈が猛烈な勢いであたしの前を横切っていった。嫌な生ぬるい風があたしにぶつかる。
無意識に神奈を目で追うと、彼女は重波夫婦へと突進していた。いち早く反応した由加が神奈の前へ、重波へと続く道を遮るように躍り出る。
しかし神奈は止まらなかった。由加の左側から突っ込んできた神奈は手を構えて、走ってきた勢いのままに彼女を突き飛ばした。由加は軽く一メートル以上は吹っ飛び、茶色いドレッサーに背中から衝突した。「あぅ」と短い悲鳴をあげて床に小さくうずくまる。激痛に身動きが取れないようだった。力なく横たわる。
神奈もその反作用で壁に激突したが、怯むことなく重波の前へと躍り出た。
重波は神奈を見上げる。圧倒的な威圧に彼は怯えて震えが止まらなくなっていた。目を頻繁にしばたいている。
神奈はスッと早く、無駄なく、彼の肋骨あたりを殴るように左手を突き上げた。「ぐっ」と息が詰まる音が重波から漏れる。神奈が腕に力を加えると、手のひらと服の界面から燦然と青い光が放たれた。命の塊が神奈を受け入れまいと醜く抵抗する光のように見える。
歯を食いしばり、神奈は重波を乱暴に蹴飛ばし、それと同時に手が引き抜かれる。神奈の左手にはゆらゆらと不思議に漂う命の灯があった。
青い氷塊に、この部屋にいるすべての人間の視線が注がれる。重波は唖然として動かず、由加はその大切なモノを取り返そうと身悶えている。無論、神奈も左手に浮かぶ灯をジロリと目でなめまわす。そして高々と持ち上げ、床に猛然と叩きつけた。
青い光は広範囲に飛び散る。破片の一部はあたしの足元をすり抜けて壁にぶつかり、力尽きて消えた。花火のように吹き上がった輝きはしばし部屋中に充満していたが、束の間に消失してしまった。事の終焉を告げる沈黙がキラキラと鳴り響く。
神奈は鬼の形相だった。過呼吸でも起こしたかのように大きな呼吸を繰り返している。額から汗が吹き出し、口元を伝って零れ落ちる。
あたしはふと我に返り、重波がいた方を向いた。が、そこにはもう誰もいない。荒れた部屋でその空間だけがポッカリと欠けて、わびしさをたたえている。
由加は輝く指輪がはめられている左手を、その付近に伸ばそうとする形で気を失っていた。
なにがどうなったのか。あまりにも轟々と過ぎ去った時間に意識も持っていかれてしまっていたが、あたしは首を大きく振って自身を取り戻した。重波はもういない。仕事は果たしたのだ。本能的に早くこの場から去るべきだと悟る。
あたしは正面にいる神奈に触れようと、背中にゆっくりと手を伸ばす。しかし先に神奈の身体が大きく揺れて床に転がった。自らを強く抱いてカタカタと震えている。
「神奈、大丈夫?」
黒々とした瞳があたしを向く。
「……怜香こそ、大丈夫?」
一番疲労困憊なのは神奈であるはずだが、彼女はそんなことは気にせずあたしを見て心配していた。神奈は、あたしの変化がわかるのだろうか。記憶を取り戻した変化が。
あたしは立ち上がって由加を見た。力及ばず大切な人を失った失意の形が、強い刺激を放っている。あたしは彼女に近寄り、左手薬指から指輪を抜き取った。重波の記憶など、神さまから特殊な処置でもしてもらわない限り消えたままだろう。この指輪の意味を忘れてしまった彼女がこんなものを持っていたって、戸惑い、気持ち悪く思うだけだ。あたしは指輪を握りしめた。
「神奈、帰ろう」
あたしは神奈に向けて呟いたが、何の返事も帰ってこなかった。




