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ともしび  作者: れとろそふと
第三章
26/37

記憶のきっかけ

「おかえり。怜香ちゃん、今日はどうだった?」

「はい、まぁ、場馴れはしてきた気がします」

 田辺家からこの地に返ってくる間に太陽はさらに傾いて、朱色を空に映し出し、いつもは薄黄色の雲も赤々と染め上げられて一日が終わることを示していた。

「そろそろ、力を与えてもいいころだと思うんだが、どうかな、神奈ちゃん」

 あたしと神さまから少し距離を置いていた神奈が、ゆっくりと言った。

「怜香なら、大丈夫だと思います」

「訊くけど、その根拠は?」

 神奈はこちらに向き直っていた。

「怜香、もう覚悟は固まりかけてるんでしょ。だったら、それを手放しちゃだめだよ」

 神奈の言葉には勢いがあったが、あたしは気圧されることなく答えた。

「うん、わかってる」

 まだ強度が足らない信念を、力を得るという強引な方法でより盤石なものにしたかった。神奈もそういう意味合いを込めて力を与えるべきだと提案したのだと思う。

 神さまは黙っていた。こういうときはたいてい、何かを思案しているのだ。

 太陽は完全に落ちて周囲の赤い成分が次々と消えていく。徐々に暗く深い夜へと変貌しようとしている。

「……よし」

 神さまは小さく言葉を発した。

「そうしよう。怜香ちゃんに力を与えておく。神奈ちゃんはアパートに帰ってていいよ」

 あたしは神さまの方を向いた。なぜ神奈を帰しておく? 別にここにいてもらっても差し支えはないのでは。

「時間かかるし、きっと暇になるよ。だから先に帰って夕飯でも作っておいてよ」

 神奈が訝るそぶりを見せた。

「私のときってそんなに時間はかからなかった気がしましたけど」

「じゃあ、私が神奈ちゃんに力を与えたのって、いつだか覚えてる?」

「いえ、忘れてしまいましたけど」

 反抗するような口ぶりだった。

「そんな曖昧なのに、時間がかかるどうかがわかるとは思えないけど」

 なんだろうか、神さまが若干焦っているように見える。

「……わかりました」

 神奈を見やると、ずいぶん無愛想な顔をしていた。そして雲を踏み散らして、宵闇の中にさっさと帰ってしまった。

 二人の掛け合いに疑問を残したまま、あたしは神さまを見た。すると神さまは語りだした。

「見苦しいところを見せてごめんね。実は、私の言ったことは嘘なんだ」

 それは何となく気づいていた。しかし、神さまが嘘をつく理由がわからない。

「その嘘というのは、力を授けるのに時間はかからないということですか」

「そう、実はあっという間。怜香ちゃんは絶対にあっけないって思うよ」

 神さまを取り巻く煙が瞬く間に集合して、手のひらみたいなものをかたどった。

「こっち来て」と神さま自身の足元付近(神さまに足はないが)を指し示して言った。あたしはそれに従い、神さまのすぐ前まで近づく。

 神さまは糸に釣られているようにゆらゆらと高度を下げ、あたしの胸の位置まで下りてきた。思っていた以上に彩色の煙の勢いは強かったが、煙たいということはなく、喩えるなら加湿器から出る蒸気のようなものだった。

「怜香ちゃん、私を持つように触れてみて」

 サッカーボールくらいの大きさの球体。手のひらで触れてみるとけっこう硬く、少し冷たい。無機質なプラスチックのようだった。

 すると急に、ガンという音が頭の中で大きく鳴り響いた。意識が飛びそうになるが、ひたすらこらえる。手のひらは磁石でくっついたように神さまから離れず、あたしの身体がのめり込むかたちで吸い込まれる感覚に襲われた。

 そして、電気が身体中を駆け巡る――そんな痛みを感じた。それは神さまと触れている手のひらから始まり、一瞬で足先まで走った。指すような痛みにあたしは咄嗟に手を引いていたが、勢い余ってよろめき、背中から倒れこんだ。

 しばらく浅い呼吸を繰り返しながら呆然と空を仰ぐ。すると神さまの声が聞こえてきた。近くにいるはずだが、ずいぶんと遠くから話されているように思える。

「これで終わり。ね、一瞬だったでしょ」

「……はい」

 問いかけにそう答えたものの、実際は何も考えていなかった。身体中の関節全てが軋んでいる。

 その状態で十分くらい経っただろうか。気持ちの波が次第と収まっていく。そして冷静になった頭に、一つの疑問が浮かんだ。

「なんで、神奈をこの場に居させたくなかったんですか」

 神さまが神奈に嘘をついた理由。それはおそらく神奈の耳に入れてほしくない、何か重要な要件をあたしに伝えたかったからではないのか。

「怜香ちゃん」

 月が出ない夜に辺りは暗く、闇は大きく広がり、あたしを圧迫していた。それを助長させるような神さまの声が聞こえる。

「『古賀巧巳』って、覚えてる?」

 ――こがたくみ? 人の名前か。聞き覚えはないが、どこか心の奥底が軽快になる温かさを感じる。それは懐かしさに似ていた。

「覚えていませんが、誰ですか?」

 神さまはあたしの質問に答える気はないようで、勝手に進める。

「記憶は真実だと思う?」

「あたしは、そうは思いません」

 そう言ったのには理由があった。二年ほど前に風華とケンカしたときのことだ。遊ぶ約束の日時が風華と食い違っていて、互いに自らの正しさを主張しあっていた。しかし、風華の母親がその約束を交わす場面を聞いていたらしく、のちに風華の主張が正しかったということがわかった。

 あたしは、あたしの記憶が正しいと信じ込んでいただけだった。記憶はいくらでも改ざんできるし、思い込んでしまえば事実と異なることも真実と思えてしまう。しかもそれは無意識に起こる。

 記憶の改ざんの事実を証明するには、第三者からの真実の告示が不可欠だ。だがもしもたった一人で記憶に向き合うとして、どうやって改ざんを証明する? つまりそれは無理なのだ。記憶はとてもあいまいであると、あたしは経験で知っていた。

「怜香ちゃんがそう思っているなら、もしかしたらもうわかってるんじゃないかな。私の言いたいことが」

 あたしは言うべきことを頭で整理して、答えた。

「『古賀巧巳』はあたしの記憶から、あることがきっかけで抜け落ちてしまった人のことである。そしてその話題を神奈の前でするべきではなかった。神さまは何かしらの理由であたしに『古賀巧巳』のことを思い出させる必要がある」

 箇条書きのように述べた。

「悪くないね。だけど、詰めが甘い」

 あたしは顔を上げて神さまを見据えた。あたしに向けて神さまは続ける。

「もう少し憶測が立てられるんじゃないかな。まぁ、これ以上考えても確証が出ないか」

 神さまは不敵に笑うようだった。

「記憶の復元には時間がかかる。さっき力を与えるついでに、記憶のきっかけも授けておいた。だからじきに君の知りたいこともわかってくると思う」

 どうでもいいのだが、力を与えると言いつつ勝手に記憶もよみがえらせてやろうだなんて、少々横柄な気がする。

「ところで――」とあたしは話を切り出した。

「そうする神さまの狙いって、何ですか?」

 神さまは「直球だね」と言って微かに笑った気がした。

「それについては、怜香ちゃんの記憶が戻ってから話そうと思う。おそらく、そっちの方が都合がいい」

 要は、まだ話さないよ、ということか。

 煮え切らない部分があるものの、余計なものまで色々授かってしまったあとでは神さまに従うしかなさそうだった。そして最後に、あたしは神さまに質問した。

「これは、合理的な判断の上なんですか?」

 これを聞いた神さまは意外そうに答えた。

「君たちはあんまり似てないけど、そういう質問をするところは同じなんだね」

 ――似てない。神奈とあたしが? 他人からはそう映っているのか。

「当然、合理的判断だよ」

 やはり神さまの考えはわからなかった。しぶしぶ、あたしは神奈の待つアパートへと帰る。その一歩手前、神さまが背中からあたしに忠告してきた。

「今回のこと、神奈ちゃんに絶対に言わないでね。じゃあ、おやすみ」

 はい、と返事をして、雲の端から地上を目指した。


 玄関の前に立つ。あまり部屋に入りたくない。それは何でだろう。

 新緑のにおいを纏った生ぬるい風が吹きすさぶ。心地良いと思う反面、気持ち悪さも伴っていて、なくなく部屋に入る。

 神奈はいつも通りだった。神さまと何を話したかなどは訊かず、「気分はどうか」「夕飯は食べられるか」とあたしに問いかけた。あたしは「うん、平気」と返す。

 変わっていたのはあたしの方だった。

 神奈の日常生活で欠けているもの、私のようになっちゃダメと釘を刺すこと、古賀巧巳との関係、似てないこと、そして敵視。神奈に対するあたしの見方が随分と変わってきたのは、それらの疑問、疑念が混ざり合ってできた黒い塊が心の中に生まれたからだ。

 そして、今度からあたしは自分の力で自信を支えなくてはならないと考えていた。

 思えばこのころから、運命はゆっくりと、軌道に乗り始めていたのだろうか。


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