砕けた信念
赤くはらした目が神さまと合った。
「なんか、すごく大変だったみたいだね」
「いえ、もう大丈夫です」
あたしは唇を突き出して膨れた。気持ちはすっかり落ち着いていたが、目をこすりすぎたせいでまぶたが腫れ、ガサガサになっていた。風が当たるとヒリヒリする。
「神奈がうまくやってくれたおかげで、危ないことにはなりませんでした」
そうかそうか、と神さまがうなずくそぶりを見せる。
「神奈ちゃんは本当に優秀だよ。いよ、さすが」
神奈の方を見ると、優秀という言葉に対し自慢げにすることなく耳を傾けていた。ただ、あたしに何か話があるような感じがにじみ出ていて、ちょくちょく目があった。
「しかしまぁ、私は実際に見てないけど怖そうな人だったね。新井って人は」
「……はい」
あたしはしょんぼりと小さく言った。
「アライだけにね」
神さまはしょうもない冗談を飛ばしている。卒業式のときの風華と同じように、何がおかしいのかさっぱりわからない。神さまはやはり一味違うのか。
「ところで、私は思ったことを聞いてくれるかい。君たちの忌憚のない意見を知りたいな」
そう言って神さまは憶測を語りだした。
「たぶんね、新井の前に姿を現したのが男性の『神官』だったら、バッグで殴られるなんてことは起きなかったと思うんだ。いや、別に新井が男に媚びるからとかじゃなくて、今回、女性だったから殴ったんじゃないかなって」
それはあたしも思っていたことだ。たぶん彼女は、あんな鬼のような形相を男性の前では絶対に見せない、というか、できないはずだ。
「女性同士って、たまに生理的に嫌いあったりすることがあるんじゃないかな。まぁ、その原因は遺伝子的に似ている、似ていないってところに関連があるって聞いたことあるけど」
言ってから、神さまは少し訂正した。
「確証とか自信はないよ。ただ、相手をひたすら敵視して憎むエネルギーといったら、男性の比じゃないよ」
神さまって、神さまなのに何か男性よりだな、なんて考えていた。だから自称神さまなのかな。
「この考え、どう思う」と神さまに訊ねられてあたしは困惑した。そんなことを意識して生きてきたことがない。眉間にしわを溜めていると、神さまが言った。
「いや、そんなに難しく考えなくていいよ。わからないならわからないで、それでいいから」
そんな興味程度のことだったのかな。少し勘ぐるが、初仕事の疲れか、頭がぼやぼやしてうまく考えられない。
「怜香ちゃんには初めての仕事だったんだ。いろいろ疲れただろう。さっさと帰って休んだ方がいいよ」
まさにその通りです。神さまの言葉を聞いてホッと息をついた。やっと家に帰れる。新井を消し去った後の涙が命の重荷を洗い流してくれたが、それでも残った淀みがあたしを縛りつけていた。その気持ちがようやく、音もなく剥がれ落ちていく。
「怜香、行くよ」
神奈の言葉が聞こえたと同時に腕を掴まれていた。あたしは顔をもたげて、言われるがまま神奈の指示に従った。きっと、あたしに言っておきたいことがあるのだろう。そのことが神奈を急かしているのだ。
「怜香は私のことをどう思った」
神奈は部屋に着くなり、奥の和室に電気もつけずに座り込んだ。白いロングスカートをギュッと抱えている。あたしはダイニングの椅子に体をのせた。背中を丸めて腕を脚の間に挟んで、神奈の様子を覗き込む。
「どうって?」
「今日の仕事をする前後で、私のことをどう思った」
質問の意図がよくわからなかった。しかもどういうことかと聞き返しても、神奈の質問の内容は全く変わらない。なくなく、あたしは感想を述べた。
「凛々しくて、動じなくて、冷静で、すごかった。毎日一緒に暮らしてたから、神奈のことみくびってたのかな」
あたしは照れるように笑った。
「あたしなんかよりずっと強い芯を持ってるんだなって思った」
それを聞いた神奈の反応はあたしの想像と全く違っていた。てっきりあっさりと、でもニヤリとあたしに笑いかけてくれるかなと、そう思っていた。神奈はだるそうに体を横たえて呟く。
「私はね、怜香が思ってるほど強くないよ」
神奈の声が淀んでいく。
「私だって仕事をこなすときは怖い。ましてや今回は、怜香を危ない目に合わせたくなかったから余計にピリピリしてた」
「そんな風には見えなかったけど?」
「強がってただけだよ。本当は、あんまり会話だってしたくなかった」
神奈はゆっくり身を起こして、暗がりからあたしを見た。
「怜香は新井の命を消し去った後、泣いたよね。あれは何で?」
「え、えーっと、泣いたっけかな?」
恥ずかしくなり、顔がほてってきて、なくなくうつむいた。しかしあれだけさんざん泣いた後にできる言い訳などない。正直に言うしかなかった。
「やっぱり、怖くなったからかな。命を消すってみんなぼやかして言ってるけど、要は殺しちゃうことでしょ。だから、怖かった。新井さんも怖かったけど」
「怜香のやったこと、自分で正しいって思えない?」
あたしは口をつぐんで一拍の沈黙を置いた。
「……わかんない」
そんなことを言ったら怒られるかなと思った。覚悟が甘いって。でも、これがあたしの素直な思いだった。それを聞いた神奈はうなずいていた。
「わかんないよね。私だってそうだもん。神さまが言っている可変的な運命の話に関しても、どこか疑いが晴れないの。証明なんかできないし、信じるしかないのにね」
それでも神奈はずっとこの仕事をまっとうしてきた。自らの複雑な心中と命の灯が消えるという事実に折り合いをつけられないままに。
「怜香。嫌ならこの仕事はおりていい。私がいれば神さまが困ることはないから。そして、命の重荷を背負うことない道を行きたいと言うのなら、そっちを選択してもいいよ」
でも――と神奈が続ける。
「これからも神さまに仕え続けるなら、私のようになっちゃいけない」
――なっちゃいけない?
「神さまの言ってる運命が正しいとか正しくないとか、そういうことじゃない。そんなものは関係ないよ。本当に必要なのは、怜香に持っていてほしいのは、『自分は正しいことをしている』という強い信念なの」
雨はいまだに降り続いている。予報では一晩中止むことはないそうだ。潮騒にも似た雨音が閑散とした部屋に響き続けている。その空気を引き裂いてあたしは神奈に訊いた。
「神奈は、その強い信念を持っていないの?」
神奈は指を紙で切ってしまったような反応を見せた。指先をグッと握っている。
「私の信念はね、弱かったの。弱くて、気づいたらあっという間に壊れちゃってた」
真っ直ぐ鋭く飛ぶ声だったが、か細くて、震えていた。言葉は徐々に速度を失い、重力に逆らえずに床へ落ちてドロドロと溜まっていく。
苦い思いをあたしに漏らした神奈は、しばらくしてふらふらと立ち上がった。そして、あのマンションのときと同じ優しい声で続けた。
「私はね、もう『神官』の立場を越えられる気がしないんだ。だから、ダメだよ。私のようになっちゃ」
そういえば「神官」というのは、ちゃんと神さまに仕えられるようになるまでの仮の立場だって言っていたっけかな。神奈に乗り越えるだけの能力がないとは思えないが。
神奈はあたしの方を見もせず、奥の布団の中に潜り込んでしまった。もしかして、この一件で一番疲れてしまったのは神奈の方ではないのだろうか。
神奈が寝てしまった後、あたしはペットボトルのお茶を取り出して飲んだり、お菓子をつまみ食いしたり、本を読んでみたりした。その間、なぜだか眠くならなかった。
時間はゆったりと流れ、あたしに十分な時間を与えてくれた。
暗い和室を見やり、神奈は寝てしまっているかもと思いつつも、ふと口にした。
「あたし、『神官』続けるよ。あたしは強くなるから」
奥で何かがうごめく気配がした。




