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ともしび  作者: れとろそふと
第三章
23/37

雨音の中

 高級そうなマンションの廊下の上に立っていた。横には高めの柵が設置してあり、そこから見える景色は悪くなく、この雨の日にも生活感あふれる蛍光灯の光がチラチラと映っていた。そしてあたしたちの前方では、若い女性がちょうど部屋の鍵を開けようとしているところだった。

 女性に向かって大股で歩いていく神奈の後ろを、あたしはそそくさと追う。前にいる女性もあたしたちに気づき、こちらを向いた。

 もとから長身であるようだが、履物のヒールは高く、あたしたちは彼女の顔を見上げる格好となるだろう。ほりが深く整った顔立ちに化粧は薄く、きっと美人に分類されるはずだ。シンプルなドレスに見間違えそうな華やかな服装。色白の肌がすらりと覗く黒いスカートはそこまで短くないが、もし中学校であったなら厳重注意をされるであろう。

 上品でありつつも高慢な雰囲気を感じさせない。色気はあるが下品ではない。この絶妙な風貌はおそらく、人を騙すために緻密に構築されたものなのだろうなと直感した。こういう打算は、きっと男性は気づきにくい。

 神奈は身長の高い彼女からの目線に怯むことなく言った。

「新井加奈子、ですね」

 その言葉を聞いて彼女は急に目つきを変えた。どうやら当たりのようだ。

 あたしたちを見る新井の形相は、鳥肌が立つほどに恐ろしいものに変わっていく。美人が台無しだ。きっと男性相手にはしないような顔だろう。相手が逃げ出してしまう。実際のところ、あたし一人だけだったなら、人違いでしたと言って帰ってしまいそうなくらいだった。

「あんたたち、何か用」

 新井はそう吐き捨てて、高圧的に見下ろしてきた。

「あなたがそんなことを知ったところで意味がない。あなたには何を言っても、きっと無駄だ」

 新井の威圧を軽くあしらって、神奈は一歩踏み出す。

「なんだよ。こっち来んなよ」

 神奈は彼女の脅しに怯むことなく詰め寄る。

 新井が少し大きめなショルダー型のバッグを肩から降ろして身構えたが、神奈は警告を無視して、彼女の防衛範囲に足を踏み入れた。

 と、新井が血相を変え、バッグを勢いよく神奈に向けて振り下ろした。それは神奈の顔の側面を直撃して、金具がぶつかった音だろうか、カンッと軽い音が周囲に響いた。神奈はよろめくように身をかがめた。

 あたしは殴られた神奈を見て、それから歯を食いしばりながらも冷ややかに笑う新井に焦点を合わせた。だが。この状況に体が委縮してそれ以上動けなくなってしまった。

 新井は隙をついて身を翻す。そしてあたしたちに「ざまあみろ」とでも言いたげな卑しい背中をむけて部屋に逃げ込み、新井は部屋の扉を閉めて安全を確保しようとした。が、新井の顔に若干の焦りが映る。何かが引っかかって扉が完全に閉まらない。

 神奈の靴が閉まるドアを妨げていた。低い体勢で伸ばした神奈の足が、ぎりぎりで扉と壁の間に挟まっていたのだ。

 神奈は何事もなかったかのようにしなやかに身を起こして扉を蹴り開き、部屋の中へとするりと入る。それと同時にパン、と空気が張り裂ける音がした。

 あたしはその音で我に返った。そして開きっ放しの扉に駆け寄り、中を見た。そこには頬を押さえてうずくまる新井と、その前に昂然と立ちふさがっている神奈がいた。新井は小さなうめき声をあげている。

 神奈はこちらを振り返り、左目の端であたしを捉えた。その左手には腕時計がつけられているが、文字盤を守るガラスにひびが入っていた。神奈はバッグで殴られるとき、咄嗟に左手で防御をしていた。ショルダーバッグの金具は腕時計に直撃していたのだ。

「怜香、見てな」

 神奈が透明感のある冷静な声で言った。新井に一歩近づき、鎖骨の中心辺りに右手を当てる。

「なんだよ! ふざけんな、この野郎!」

 あたしたちと会う以前の新井と同じ人物とは思えないほどの汚い言葉をまき散らしていた。女性としての節操は全く見られない。憎しみのこもった威圧感が、ひたすらあたしたちに向けられていた。神奈の腕を両手で掴み、引きはがそうと抗っている。

 しかしそんな抵抗はあっという間に消えていった。神奈の手と新井の身体の境から青白い光が漏れた瞬間に、新井の腕から力が抜け、床に落ちた。息が絶え絶えになり、毒を含んだ暴言は影をひそめる。

「これが――」

 神奈は静かにそう言って、新井から手をそっと外した。そしてあたしを振り仰ぎ、目の前に右腕を突き出す。

「これが、人が包み込んでいる命の灯だよ」

 手のひらには青い炎が灯っていた。火の根元に水晶のような小さな塊が無数にあり、それらはゆらゆらとうごめく。あたしはその美しさに見入っていたが、ハッとして新井に視線を向けた。

 新井ももぞもぞと懸命に体を持ち上げてあたしを見た。焦点はぶれて、その目はただただ空虚を映しだす。そんな状態になり果てていても、彼女は感情をあらわにして口を開いた。

「こ、この……」

 最後の悪態が聞こえるか聞こえないかのうちに、神奈が割って入った。

「怜香、あなたはこれを吹き消すんだよ。それが、私たちの仕事だ」

 あたしに気高に告げたが、声が震えている気がした。

 突き付けられた青い灯。無残に横たわる新井の身体と見比べて、少し迷いが生じたが、自身の身体を抱いて首を大きく横に振り、戸惑いを追い払った。そして神奈に指示されるままに、細かく震える息を強く吹きかける。

 炎は形を歪めて少しずつ千切れて散っていく。湿度を大量に含んだ空気の中に漂い、キラキラと美しく消えていく。だが、弱々しくなっていく灯の勢いに伴い、徐々に虚しい気持ちが身体の中に降り積もっていく。

 そして新井も、灯も、いつの間にか全てなくなっていた。先ほどまで感じていた恐怖の視線も、新井がそこにいたという気配も、異次元に持っていかれたみたいに跡形もなく消滅していた。あたしは、ついに命を消し去ってしまったんだ。あたしの意思で――

 ふわふわと現実から離れていた普段のあたしが舞い戻ってきた。それと同時にこみ上げてきた気持ち悪さに襲われて、膝から崩れ落ちる。あたしは寒くなって震えが止まらず、耐えられなくなって体中を握りしめた。

 そんなあたしを神奈はそっと抱えてくれた。

「大丈夫。一緒にいてあげるから」

 その優しい声に甘えたくなった。ギュッと神奈の服を掴んで顔をうずめる。柔らかい肌と溶けそうなぬくもりに、心が少しずつ穏やかになっていく。

 雨はいまだに降り続いていて、喪失に満ちた静寂をしとやかな水音で包んでいた。


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