保護者の神奈
あたしは、他の子よりも早く成長しなければならなかった。身体的な面は無理であっても、少なくとも知識や教養、それ以上に、自らを支えることのできる確固たる芯を立てなければならなかった。これは、あたしが生きるための義務だ。
「もう卒業だねー。私さ、式のとき、ちょっとじわーってきちゃったんだよね」
友人の笹本風華が、まだ余韻が残った赤い目で言った。風華は普段からそんなに涙もろい方ではない。いつも気張っていて陽気な子だ。あたしには、何が彼女に涙を流させたのかよくわからない。
「怜香はこれからどうするの? 高校には行かないって言ってたけど」
「あたしはね、実家の家業を継ぐんだ」
あらかじめ用意しておいた決まり文句だ。若干声が強張ったが、感涙の極みにある今の風華には、そういう機微を察知する余裕がなかった。
「家業? じゃあ、もう働くってこと?」
興味と心配の入り混じった質問が飛んできた。
「そんないきなりじゃないよ、たぶん。まずは仕事の助手みたいのをやって経験を積んでからだよ」
「怜香すごいねー。前まではちょっとおませな中学生みたいな感じだったけど、家業かー。なんかすっごく大人になってるみたい」
キラキラとした尊敬の眼差しがあたしに向けられている。そして、彼女は自然な流れで言った。
「どんな仕事なの?」
やはり来た。でも相手は風華だ、大丈夫。
「企業秘密だよ」
「あぁ! 仕事なだけに?」
何が面白くて笑うのか、と言いたくなるほど失笑する風華を見て「そうそう」とうなずき、あたしもニッと笑った。思った通り、話を逸らすには、風華にはこれくらいの受け答えで十分だった。
例年より春の訪れは早く、桜にはぷくっとした可愛らしいつぼみがついていて、心地良い風が、さよならを言い合う生徒たちを後押ししていた。
神さまがあたしの成長を待とうと決めた後は、慌ただしいことこの上なかった。
急遽、あたしは引っ越してきたという設定で小学校へ編入することになった。昔から神さまに仕えていた「神官」の神奈は、その突拍子もない決定に対して困惑していた。
「戸籍があるかもわからないのに学校に通えるのか」「『神官』となる上で問題はないのか」「どこから通う」などなど、神さまに猛然と質問攻めをする。
それに対して神さまは、特にひるむ様子もなく答えた。
「確かに戸籍なんかないだろうね。だけど大丈夫」
何を根拠に言っているのだろうかと神奈は疑っているようだ。
「下々の世界にだって多少、私の理解者はいるし、その人たちに頼めばいいさ」
その一言にあたしは驚いた。――地上に神さまのことを知っている人がいるの? その反応を見た神さまは、あたしに説明してくれた。
「神奈ちゃんをここに引っ張ってくることができたのも、彼らという支援者がいたからなんだよ。まぁ、大昔のツテみたいなものだよ」
そのときの神さまの言葉に人間みたいな部分を見た気がした。その感じはすぐに隠されてしまったが、違和感だけは今もあたしの中に残り続けている。
神さまという神秘の輝きに現実感という影が混ざりこんで、何だか複雑な気分になった。
「だから、自称神さまなんだよ」と神奈はつけ加えたが、その神奈の意図はうまく汲み取れず、さらなる疑問としてふわふわと漂う。
神さまが話を戻す。
「そういった社会のしがらみ――もとい手続きとか、金銭面とかなら彼らに任せておけば大丈夫だって」
「……わかりました」
神奈はおずおずと返事をした。しかし戸籍って、そんなに簡単になんとかなるものだろうかと疑問に思ったが、そのときのあたしにはよく理解できない話であり、納得するしかなかった。
「ただ、学校に行くのはいいです。なくなく私が教育するよりもずっといい。ですが、その他の生活の面はどうするんですか」
「その他の面って?」
神さまには何のことか見当がついていたはずだがわざとらしく訊ね返す。どうにも神奈の口から言わせたいらしい。神奈はハァっと強くため息をついた。
「学校以外の時間です。怜香はまだ六歳です。生活するには保護者が必要です。それも彼らに頼むのですか」
嫌な風でありながらも真面目に答える。それを聞いた神さまがニヤッと笑った――気がした。
「それは当然、君の仕事だろう」
――やっぱり、と呟く声が聞こえた。
「彼らは支援者であって保育者じゃない。それに怜香ちゃんと暮していれば、こう――絆? みたいなものとか生まれて、仕事もはかどるようになるんじゃないかな」
「そう、思いますか」
「思うとも。これは、長い目で見たときの将来への投資だ」
神さまはそう断言した。ポカポカとのんきな日差しの中で、どうにも神奈だけが浮いていて空回りしている。そんな疎外感に頭を悩ませていた神奈は「わかりました」と、神さまの要望をとうとう受け入れた。
「ようし、決まりだね。困ったときは支援者がどうにかしてくれるはずだから、大丈夫。今後の予定もおいおい伝えてくれるでしょう」
あたしは高らかに言い放つ神さまを見てから、神奈に視線を向けた。何やら難しい顔をしている。
「保護者の神奈ちゃん、怜香ちゃんをよろしくね」
意気揚々としている神さまが口をはさみ、ケラケラとからかっている。神奈はそれを無視してゆっくりと振り向き、あたしと目を合わせた。やれやれと呆れるそぶりをあたしに見せている。そして互いに、微かに笑い合いあった。
神奈がそばにいる生活が始まった。その雰囲気は実に淡泊なものだった。
住居は近くの大通りから歩いてすぐ、真っ白くペンキが塗られた上品なにおいを醸しだすアパートだった。しかし部屋の中身は、極めて質素としか言いようのない2DKのさっぱりとした空間。奥にこげ茶の畳が敷いてある和室があった。日当たりは良いが窓が小さく、中が奥まっているため、妙に暗い。
部屋をあらかた見回した後、家具一式が支援者と呼ばれる人たちから送られてきたので、二人で相談しながら配置した。空間と引き換えにある程度の居心地の良さを手に入れた。
環境は整った。一方、生活の方だ。
神奈は保護者というよりも、むしろあたしが自由に生活するのを監視する管理者に近かった。もちろん、あたしの学校での話は熱心に聞いてくれたし、たびたび遊んでくれたし、ご近所づきあいというのもうまくやってくれた。だけど、何かが欠けていた。その欠けたものは、日々の暮らしの彩りをどことなく薄くしてしまっていた。
そして、神奈があたしにずっと言い続けてきたことがある。
――私は、怜香の家族ではない。
その言葉は、他に生活を共にする人がいないあたしに少しショックを与えた。
一緒に暮らし始めてから数年経ち、あたしに物心がついたころ、神奈に訊ねたことがあった。
「神奈はあたしの家族じゃないんだよね。じゃあ、あたしの家族について神奈は何か知らないの?」
和室の壁に寄りかかって本を読んでいた神奈は、その質問を聞いて目を上げた。
「怜香は覚えてないの?」
小さく問いかけてきた。
「全然覚えてない」
そっか、と神奈が静寂の中で呟いた。何やら複雑な思いが顔に表れていた。
「そういえば、あたしが神さまに初めて会う直前の記憶っていうのかな、神奈や神さまに会う経緯も、全く思い出せないんだよね」
あたしの頭の中に沸いた微かな疑問が口をついて漏れる。
特に何かを意識して言ったわけではない。しかしふと首を横に向けると、神奈が目を丸くしてこちらを向いていた。あたしは変なことを言っただろうか。いつも感じる神奈の雰囲気とずいぶん違っていて、ちょっと肌寒くなった。「気にしなくていいよ」
神奈が短く言ってから、さらに続けた。
「本当に大切な記憶だったら忘れるわけない。思い出す必要がなくなったから忘れたんだよ、きっと」
神奈は本をパタンと閉じて区切りをつけると、やおら立ち上がった。そして、黙ったまま玄関へと向かう。部屋を横切るその姿は、どことなくこの空間に似合っていて、すっかり背景に溶け込んでいる。神奈が振り向いて訊いてきた。
「今日は神さまに会って月ごとの報告をする日だけど、怜香も来る?」
うん、とうなずいて立ち上がり、そそくさと神奈の元へと駆け寄った。
あたしは何となく気づいていた。これほど生活に馴染める神奈に欠けているもの。「家族ではない」という一言は、きっとそれの一部だ。神奈はこの部屋にある何かを、あえて必死に遠ざけようとしている。しかしそのときの私には、それが一体何なのかを知ることはできなかった。




