月下の対峙
時間が、かつてないほどに長く感じられた。家に着いてからというもの食欲もなく、ベッドに座って手を組みながら、ただ一心に時が流れるのを待った。まめに動く秒針の回数を意味もなく数えながら、同じ言葉を繰り返し呟いていた。
――まだか。
日が完全に没して月が出て、部屋に淡い薄明かりしか入ってこない時間になっても、僕は電気をつけることなく、ただうつむき、ひたすら待った。
僕は少しまどろんでいた。ふと目をさまし、時計に目をやる。午前二時。そろそろ行こう。息を強く吐いてからゆっくりと立ち上がる。ジャージの上からダウンジャケットを羽織り、玄関で靴ひもをギュッと固く結ぶ。通りに出て、大きな影を落とすあの山へと向かう。ポケットの中でこぶしを強く握り、若干前かがみになって大股で歩いた。
――今日で、この夜を終わらせられるだろうか。
懐中電灯の明かりを頼りに、林道を慣れた足取りで進む。ころころと小石を蹴り、ぱりぱりと枯葉を踏みつけていく。暗く鬱蒼とした木々の並びが、いつもより長く延々と続いているのではないかという風に思える。大丈夫、もうすぐ着くはずだから。
木々がひらけた場所に出た。それと同時に、月明かりに照らされ、ぼやっとした反射光を放つ何かがいることを確認した。僕は意を決し、それに向かって歩を進める。一面を照らす月の光は強く、懐中電灯の明かりを消してもなお、僕たちは互いを確認することができた。
僕の行く手に立つものの正体は、今日の放課後に見かけた若い女性だった。不自然なくらいに汚れていない白いスカートがひらひらと風になびいている。青白い肌に埋め込まれた黒い眼が、あのときと同じ視線を放ち、僕を貫く。彼女は口を開き、凍りつくような吐息とともに言葉を発した。
「小暮正雪、ですね」
「へぇ、そんなことまで知ってるんだ。調べたの」
僕は強がっては見たものの、本当は怖かった。この女性が、まるで人の生気を感じさせないほどに淡々としていたから。それでも、口を止めることなく僕は訊いた。
「……どこまで知ってるの」
「私は結果しか知らない。だからあなたに訊きに来たの。一連の詳細を」
顔色も声音も変えずに、淡泊に話を続ける。
「教えてくれますよね」
「つまり、僕に自首しろって言いたいのか」
彼女は何も答えない。僕は、恐怖に占められた心の片隅にあったわずかな怒りをきっかけにして、叫んだ。
「そうだよ! 僕は、父を殺して、そのことを隠すためにここに死体を埋めたんだ」
星々が煌めく紺碧の空の下で、二人は対峙していた。しかし、彼らの状態は対照的で、小暮は何かしらの呪いでもかけられているかのように不吉にゆらゆらと左右に揺れ、クマがくっきりと浮き出ている。はたから見てもわかるくらいに心臓が高鳴っているようだった。一方、若い女性は浅い呼吸をしながら直立したまま、小暮の様子をうかがっていた。
小暮が語りだした。
「僕がまだ小さいころ、僕と母を置いて家を出たまま行方をくらました父が、僕のアパートを訪ねてきたんだ。一週間くらい前のことかな。僕はさ、何で今頃って思ったよ。こんなろくでもない父が帰ってくるなんてさ」
自嘲気味に話し出したものの、その目は笑ってはいなかった。
「呆然とする僕に父は、いきなり土下座してさ、何か語り始めたんだよ。内容とかは全然覚えていないんだけど、ごめん、とか言ってたから、たぶん、僕と母の前からいなくなったことに対する弁明だったと思う」
小暮は深くため息をつき、続けた。どうやらそうでもしないと息が続きそうにないようだ。
「何でもする、とも言ってたから、家に上がらせて、後ろから金づちで殴らせてもらった。声をあげる暇もなく気絶して、それから僕は、怒りにまかせて何回も何回も殴った。もう起き上がらないことを確認してから、ホームセンターでスコップを買って、その日の夜二時ごろに山に埋めにいった」
小暮は傍の木に手をついて寄っかかり、中腰になって息を強く吐きだしていた。この事件が彼を蝕み、それが体調を崩す原因になっていることは明らかだった。
「でもさ、一通りやり終えた後、殺した時のとは違う恐怖が急にやってきたんだ。もしかして、埋める現場を目撃した人がいたんじゃないかって。初めは気にしないように努めてた。だって、夜遅くに山で誰が何をしてるかを気にする人がどこにいる。でも、少しでも考えちゃったら、もうそのことで頭がいっぱいになってきて、心配で眠れなくなった。たびたび山に入っては何も変化がないことを確認して、大丈夫と自分に語りかけてた」
首を横に振り、目を合わせないまま小暮は続けた。
「これが、あんたが知りたいっていう一連の流れだ。たぶん察してると思うけど、僕が夜、眠れなくなった理由だ」
一通り話し終えた小暮は、薄暗い中でもはっきりわかるほどに狼狽していた。そして二人の間には、空っぽの沈黙が横たわっていた。
麓から風が吹き上げ、静寂を取り払っていった。顔をあげた小暮が訊ねた。
「……あんた、名前は」
聞かれた途端、若い女性は目を逸らし、しばし考えてから小暮の方に向き直った。
「神奈」
ぽつりと呟いた。あまり言いたくなかったというニュアンスが、そこにはあった。
「へえ。じゃあ、カンナさん、僕もあんたに訊きたいことがあるんだけど」
疲れきった顔に、若干、含み笑いが浮き出ていた。
「あんたは、僕が父を埋めた現場を目撃してたんでしょ。どこらへんから見ていたのかは知らないが、結果を知っているって言ってたな。少なくとも埋めてる場面を見ていなきゃ、そんなことは言えないよな」
小暮が神奈を鋭く睨む。
「目撃者がどうしてのこのこと、こんなところに来た」
「……」
「この事、誰かに話したのか」
静かに質問を聞いていた神奈が口を開いた。
「……私は仕事でここに来ただけ。その仕事を果たすのに、この件を他人に話す必要は無い」
「仕事?」
小暮は少し戸惑った。この状況で「仕事をしに来た」とは、まともではない。生気が感じられず、色白の肌に端正な顔立ちや、容姿も、そこに立っている人間は異常であると決定する要素となっていた。小暮は、もはや真剣に取り合うのをやめた。
「僕もさ、わざわざここにやってきたのには理由があるんだ」
一歩前に歩み出て、姿勢を低くして構えた。顔には影を落とした微笑がうっすらとういていた。その笑いは小暮の中で破裂しそうな緊迫感を和らげる意味と、もう一つ、感情的な意味合いを持ち合わせていた。
「僕は毎晩毎晩、目撃者を――つまりあんたを捜していた。なぜだと思う」
ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、すらりと光る折り畳み式のナイフを取り出した。ここへ来る途中ずっと握りしめていたため、熱を持っていた。
「口封じをするためだよ」
鬼気迫る形相で落ち葉を踏みつけ蹴り飛ばし、小暮は神奈に向かって駆けだした。




