変化が生んだ対立
一面に生い茂る草を踏みつけると、シャリシャリとのんきな音が聞こえてくる。オレたち二人は、二日前に見つけた川の下流を目指していた。怜香の海を見てみたいと言うのだ。
眼下に広がる川面の様子は、海に近づけば近づくほど緩やかで優しいものへと変わっていく。オレは、流れる水を追いかけている怜香を見守っていた。
ニコニコしていた怜香がこちらを振り返った。その途端、底なしの恐怖に怜香は顔を強張らせる。オレではなく、オレの背後にいる何かを見つめていた。背筋が凍りつきそうなほど鋭い視線を後ろから感じる。オレもおそるおそる振り返ってみると、そこに、あの特徴的な白い影を認めた。銃撃戦に巻き込まれたのを最後に、いくら探しても見つからなかった若い女性が、強烈な威圧感を放ちながら微動だにせず立っていたのだ。
オレは怜香の方に向き直り、身振り手振り合図を送った。
――どこかに隠れてろ。
しかしオレの合図を察してもなお、怜香は服の裾をギュッと握ったまま動こうとしい。必死に首を振っている。痺れを切らしたオレは、今度は声にして怜香を促した。
「怜香!」
それでも強情に拒否する。
オレは大きくため息をついてから、一つ、嘘をついた。
「大丈夫。何にも心配はないから」
怜香はオレを見てしばらく黙っていた。オレのその言葉を疑っていたのかもしれない。しかしその後しぶしぶと従い、そばにある岩陰に身をひそめた。それを確認してから正面を向いた。
「古賀巧巳、ですね」
オレの前に立ちふさがった女性が口を開いた。
初めて会ったときと同じセリフだったが、あのときとは全く異なる雰囲気を纏っていた。怒りとか悲しみとか、どれがどれだかわからないくらい感情がごちゃ混ぜの状態であることが見て取れた。
「私が再びあなたの前に現れた理由、わかってますよね」
早口で言い切り、いきなりこちらに歩み寄ってくる。オレはその焦った様子に疑問を抱き、彼女を制止した。
「待ってくれ。あんたの目的はオレの命を奪うことって言ってたよな」
――待ってくれ。
女性は足を止めた。オレの言葉を聞いて言いたいことを察したのだろうか。みるみるうちに顔色が淀んでいく。
「確かにオレもあのとき、早く命を消してくれ、と言った。だけど――」
先の言葉が詰まる。前言撤回という風な物言いを、オレは好まない。それ以上に、涙を流してまで死を願っていたことがバカバカしくなってくる。しかし、今となってはこれだけは決して譲れないのだ。
「取り消せないだろうか、あのときの返事を。今、オレは生きていたい。生き続けなければならなくなったんだ」
女性の顔が一気に蒼白になっていくのがわかった。
海が近いのか、あたりは湿った空気に満ちていた。空は厚い雲が陽光を遮り、ぬくもりを失くした土にオレは肌寒さを感じていた。
動揺を隠せない女性は、ただこちらを睨みつけているだけで何も言い出さない。二人してずっと黙っているわけにもいかず、背負っていたザックを降ろしながら訊ねた。
「……あんた、なんて呼べばいい。あんた、だなんて自分で言ってても失礼な気がして」
とりあえず、と思って言った質問だった。黙ったままでいると、この期に及んでわがままな返事をしたことに対する罪悪感が湧き出てくるようだった。
「それくらいは、教えてくれてもいいんじゃない?」
わなわなと震わせていた唇から、「なんで」という声が聞こえてきた。聞き取れないほどのか細い声は沈黙の間を響き渡る。
「えっ、なんて言った」
と聞いたのもつかぬ間、感情をあらわにして女性が叫んだ。
「なんで数日でそんな心変わりをしたの? あそこにいる子どもがきっかけなの? ――あの子はあなたに、何をもたらしたの」
こぶしを強く握って、蒸気があがりそうなほど激昂した。歯を食いしばり、息を荒げている。その後は「言ってしまった」と言わんばかりに目を逸らして、再び黙る。後ろで物陰に隠れながらこちらの様子をうかがっていた怜香は、自分が罵倒されたと感じたのか恐る恐る、しかし、瞬きもせずに彼女を見つめていた。
オレはこの場を落ち着かせる意味も含めて、再び同じ質問をした。
「あんたを、なんて呼べばいい」
肩で息をしていた彼女は、大きく深呼吸をしてからオレに向き直り、言った。
「神奈」
ぶっきらぼうな声が飛ぶ。
「そうか」
彼女の名前を聞いてから、まず自分がしなければいけないと思ったことを行動に移した。
「神奈さん。ごめんなさい」
謝罪した。何に対してのものかはわからない。けれど彼女があまりにも必死な様子なので、心苦しさを感じたのか、無意識のうちに謝っていた。
「オレの決意が揺らいだ理由、それを話すよ」
語ったところで何も変わらないかもしれない。それでも、話しておきたくなった。




