赤ちゃんポスト
かくれんぼしてて、誰も見つけてくれない。
ワタシは暗闇で、モゾモゾした。
見つけるのあきらめたのかなぁ。
それとも、ワタシが隠れていることなんか忘れて、みんなお家に帰っちゃったのかなぁ。
ワタシには、記憶が無いはずだ。
だって、これから刻むことになってるはずだもん。
でも、なんでだろ。
夕日が沈みかけた頃、かくれんぼの終わりも知らないで空き地で震えている、可哀想な女の子が見えた。
遠くから、何か迫ってくるよ。
真っ黒な雲がワタシに覆いかぶさってくるよ。
こわいよう。
誰か、助けてよう。
ワタシを、独りにしないでよう。
言葉なんて知らないはずだけど、何千年もの間叫ばれてきた言葉、言語は違っても共通のものを指すその言葉。
・・・・タスケテ、オカアサン。
見たこともない風景。
勿論、何か見えてるわけじゃないよ。
ワタシは、自分の住む世界が変わったことを全身で感じた。
でも、ひとつだけ安心なことがあったよ。
それは、ワタシがさっきまでいた世界を離れることはあっても、それはすぐ近くに、ずっといるんだって。
いつまでもじゃないけど、見守っていてくれるんだって。
ワタシと同じ旅人から、そう聞いた遠い記憶がある。
不安になった。
何かが、おかしい。
ワタシは、自分の出てきた元のセカイに抱かれた。
ホントなら、何よりもうれしい一瞬のはずだ。
なにかの、ボタンの掛け違い。
ワタシの心臓と、ワタシの出てきたところのそれとは、ぴったりと触れ合った。
拒絶。不安。
聞いていたのと、違う。
ワタシの体は誰かの肉体に包まれて温かかったけど、それはあくまで温度の世界。
何か推理すると真っ暗な海に沈みそうで、ワタシは何か考えるのをやめた。
いくらかも日が経たないうちに、私はもとのセカイと離れた。
考えないようにしていたけど、このセカイに出てきた瞬間に、どこかで覚悟はしていたことだ。
これから私は、この太古から受け継いだ魂の知識を、思考をこれで封印することにする。
今からワタシは、何も知らない、「赤ちゃん」として、大きな川の流れに弄ばれながら生きていく。
もしかしたら、この子の自我が、向かってくる世界に打ち勝てるかもしれない。
ワタシはそれに賭けてみる。
この子を信じる。
また、眠りにつこう。
一世紀もしたら、この記憶は誰かの誕生とともに覚醒するのだろうか。
それとも、この子はそれまで生きているだろうか。
タカシぃ、なんでだよぉ。
なんで、来てくれない。
17歳の私にとって出産とは、言語を・そして想像を絶する恐怖だった。
死ぬかと思った。いや、死んだほうがマシ、とさえ思った瞬間があった。
散々ジェットコースターに振り回されて、全てのコースを回って帰ってきた、体を固定していたバーが上がった時のような安堵感と幸福感に包まれた。
今まで赤ん坊というものを、しかも新生児というのを身近で見た経験に乏しかった私は、一般的なまるまるとした、目のクリッとしたかわいいイメージばかり先行していた。
ものを知らない女子高生だと言われれば、その通りだ。笑いたきゃ笑いなよ。
今見るこの子は、しわくちゃだ。
なんか、ものすごい。
私は、圧倒された。
見た目がカワイイ、なんていいにくいけど・・・違うな、カワイイという語彙じゃ表現できないんだ。
うまく言い表せる言葉なんて、日本語にない。
イノチって、すごいな。
私は、宗教なんて縁がない。もちろん、カミサマだって信じちゃいない。
でも、私はなにかに畏怖の念を抱いていた。かしこまっていたよ。
大昔の人が自然を崇拝してたって聞いた。私は、それってなんかバカにできないことだな、ってこの子見て思った。
この子の生物学上の父親、タカシはついに私の出産に立ち会わなかった。
ワタシ、思いっきり泣いたよ。この子を看護士に預けたあとで。
そりゃあもう、子ども時代から今までの量を合わせたのと張り合えるくらい、涙がでたさ。
どっちが赤ん坊か分からないくらい。
セックスを甘く見てた。
好きだから・・・・その思いがセカイで至上のものだと思って、ほとんど迷いがなかった。
今思えば、ある意味それも何かの新興宗教みたいなもんだよね。
目が覚めた私は、生命の神秘という、恐れ多いものに無知にも楯突いた。そして自らの愚かさを見せ付けられ、カラダという存在を超えて魂の底蓋を木っ端微塵に破壊されたような気分だった。
しかし、もう取り返しがつかなかった。
私は、母親というものに会ったことがない。
物心ついたら、養護施設、というものにいた。
父さん、母さん。
ドラマやコマーシャル、学校で読む教科書で、家庭というもののことを聞く。
施設では、できるだけその雰囲気にしようと頑張ってくれている。
季節ごとのイベントも多い。みなそれぞれの誕生日だって祝ってくれる。職員のお兄さん、お姉さんは優しかった。
でも、何かが物足りなかった。
何故だかわからない。そういう時、何度も頭の中で繰り返されるイメージ。
それは・・・・・
・・・・夕日が沈みかけた頃、かくれんぼの終わりもしらないで空き地で震えている、可哀想な女の子。
それは、私自身なのだろうか。
高校生になって、私は施設のある男性職員に肉体を奪われた。
力ではかなわなかった。私は、首から下の思考チャンネルを切り替えた。
浮かんでくるのは、あのかくれんぼの女の子。
悲しいとか悔しいとか、そういうことは分からなかった。
ココロとは関係なく、私は上から涙を、下からは血を流した。
その職員は、つかまったよ。
ある日の新聞の片隅に、記事が載ったという。
私はそんなこともうどうだっていい。その記事さえ読んだことはない。
はやく、こんなとこ出てやる。
そして、自分のチカラで生きてやる。
そう思って、大して世間も知らない小娘がいきがってもがいていた時に、タカシと出会った。
彼は、優しかったよ。ワタシに、とてもよくしてくれた。
一緒によく入ったマック。彼が連れて行ってくれた夏の海。今でも忘れないよ。
でも、ワタシが傷ついていたから、人並み以上に寂しかったから、彼の優しさが本当の価値以上のものに見えたのかなぁ。
今となっては、彼が父親であるということから逃げたというその現実に打ちのめされていた。
私の後見人は、弁護士を通して彼との裁判さえ考えていた。
そんなことは、半分どうでもよくなっていた。
ワタシなんか、生きてて何の価値があるのさ。
・・・・育てられっこ、ない。
私は漠然とそう思っていた。
母親なんて、どうやってなるのさ。
何の覚悟もなかったさ。
タカシが、ダイジョウブだっていうから。私も、まぁいっかくらいで受け入れた。
子育ては恐ろしく手がかかってタイヘンだって、そういうことだけよく知っていた。まさか自分が生むとはね。
私は、堕ろさなかった。
なんでだろ。
周囲も、首をかしげていたし、私自身もヒトに満足させられるような言葉を持たなかった。
この子を殺したら、私自身が死ぬよりも恐ろしい目に会う。
そして、一生後悔する。
オンナとして、レイプされるのと同等の、あるいはそれ以上の荷を負うことになる。
理由はわからない。何故かそう思った。
看護士さんが、私の赤ちゃんを連れてきてくれた。
「赤ちゃん」という言葉のそのものの語感を始めて実感した。ホント赤いや。
私は、ベッドの上で体を窓側にずらし、赤ちゃんの寝れるスペースを作った。
そして、横向けの姿勢で赤ちゃんの顔をマジマジと見つめる。
ごめんね。私みたいなのから生まれてきて。
私、母さん知らないんだ。
だから、どんな風にしてあげたらいいか、分からない。
教えてくれないかな。
その通りにするよ。何でもするよ。
だから、どんな風に母さんすればいいのか、教えてよう。
突然泣き出した私に、担当医と看護士がびっくりして飛んできた。
二人は言葉も無く、私を見つめて立ち尽くしていた。
赤ちゃんは、スヤスヤ眠り始めていた。横でこんなにうるさくしてるのに。
「いってきまーす」
バタン、とドアの閉まる激しい音。
私は、二階のベランダで布団を干していた。ここからでも、娘の駆けていく姿が見える。
いつも早く起こしてるのに、まったく。
いつの間にやら、娘も私が彼女を産んだのと同じ年齢に成長していた。
そんなに走るくらいなら、もっと早くに準備して、余裕を持って出ればいいのに。
娘は恐ろしいスピードで、視界の中を小さくなっていく。
風を切る速さに、制服のスカートが後ろにたなびいている。
・・・成績はともかく、カラダだけは丈夫に育ったもんだ。
私は、あれから施設を出た。
娘は、ゼロ歳児から受け入れてくれる保育園に入れさせてもらい、小さな会社に就職をした。
体はものすごく辛かったが、保育園にこの歳で預けざる得ないわが子を思って、耐えしのいだ。
そうこうするうちに、今のダンナにめぐり合い、美咲のことも受け入れてくれた。あ、我が娘の名前言い忘れてたね。
私は、男の人に体を抱かれることが嬉しいと思える日が再び来るとは思っていなかったよ。
お母さんを知らない私でも、よくここまでこれたものだ。
布団を干し終えたので、一階のリビングに降りた。
つけっぱなしだったテレビからは、「赤ちゃんポスト」のニュースが流れていた。
それを聞きながら、深くため息をひとつついた。
電話が鳴った。
この時間なら、お隣の矢口さんか、町会長さんかなぁ?
何気なく受話器を上げた私は、そのまま凍りついた。
こんな大きなホテル、落ち着かない。
普段そんなところに行きつけない私は、かなり豪奢なホテルのロビーでまごまごしていた。
エントランスをくぐると大きな吹き抜けになっていて、手前に受付、窓側にカフェテラスがある。
そこが待ち合わせ場所だったので、とりあえずコーヒーを注文して座った。
ゲ。コーヒーだけで500円?
ワタシの出入りする世界じゃないなぁ、と苦笑した。
その時、私の後見人だった人に連れられて、独りの中年女性が連れられてきた。
私は、手にしたコーヒーカップを落とした。
誰かは知らない。
いや、知っていた。
目が合った。
二十数年の時が逆戻りした。
次の瞬間、私の体は宙を飛び、彼女に抱きついた。
私の中の、かくれんぼの女の子は、「みぃーつけた」と言われて、笑っていた。
エヘヘ。私を忘れてかくれんぼ、終わっちゃったわけじゃないんだぁ。
よかったぁ。
「よかったね」
どっからか声がした。
どこだろ。
私の中だ。誰か知らないけど、ありがと。
・・・なんでそんなこと思ったのか分からないけどこうつぶやいた。
ワタシを信じてくれて、ありがと。
放浪の旅人はようやく、安住の地を見つけたのだ。