影写しの街
この町では、人を裁くのに顔を見ない。
見るのは影だけだ。
理由は単純で、古く、そして残酷だった。
影は魂の形を映す。
そう信じられている——いや、信じざるを得なかった。
町の中央広場には白い石畳が敷き詰められている。
夜明けから一刻のあいだ、太陽が最も正しく影を落とす時間。その間だけ、影は嘘をつかないとされていた。
だから毎朝、人々は広場に集められる。
病人も、罪人も、旅人も。
そして役人たちは顔を伏せ、地面だけを見つめる。
影が歪んでいる者は、精神に異常あり。
影が薄い者は、虚偽と後悔を重ねた証。
影が二重の者は、運命を踏み外した者。
——そして。
影が、ない者。
それは禁忌だった。
「次」
冷たい声が広場に響く。
呼ばれて前に出たのは、外套を羽織った若い男だった。背は高く、痩せている。旅人に見えた。
朝日が彼を照らす。
だが、石畳には——何も落ちない。
一瞬、誰も声を出せなかった。
次に起きたのは、恐怖だった。
「影が……ない」
誰かが呟き、誰かが塩袋を落とした。
祈りの言葉が、あちこちで囁かれる。
影無し。
それは怪物でも、死者でもない。
未来を失った者だ。
「名を名乗れ」
影見役の長が言った。
彼女は白髪で、杖を持ち、やはり地面を見つめている。
男は少し考えてから、答えた。
「名は、もうありません」
ざわめきが怒号に変わりかけた。
「では、何者だ」
「かつて、この町に住んでいた者です」
それだけで十分だった。
未来を差し出す契約は、ほとんどが町の存亡に関わるものだ。
彼は“英雄”だった可能性が高い。
同時に、もう人ではない存在でもある。
「拘束せよ」
兵が前に出る。
だが男は逃げなかった。
「待ってください」
その声は穏やかで、驚くほど人間らしかった。
「影がないからといって、私は危険ではありません。
約束は果たしました。
それ以上、奪われる理由はないはずだ」
影見役の長は答えない。
制度は、慈悲を持たない。
「影は道の形だ」
彼女は言った。
「道を失った者は、どこへ向かうかわからぬ」
男は静かに笑った。
「ええ。だから、立ち止まっているんです」
そのときだった。
広場の端で、子どもが一人、前に出た。
影見の時間に子どもが口を挟むのは禁じられている。
「ねえ」
細い声が響く。
大人たちが振り向く。
兵が制止しようとしたが、男が首を振った。
「その人、昨日、ぼくを助けてくれたよ」
子どもは言った。
「荷馬車にひかれそうになって」
「下がりなさい」
影見役が言う。
「うそじゃないよ」
子どもは泣きそうな顔で続けた。
「名前も、ちゃんと教えてくれた」
広場が凍りつく。
「……名を?」
影を失った者は、真の名を保てない。
それは定説だった。
男は、驚いたように子どもを見る。
そして、ゆっくりと言った。
「教えたのは……昔の名だ」
影見役の長が、初めて顔を上げた。
その瞬間、朝日がわずかに動いた。
石畳に、かすかな染みのような影が生まれる。
小さく、歪で、弱々しい影。
だが確かに、男の足元にあった。
「影が……」
誰かが息を呑む。
影見役は杖を震わせながら、影を見つめる。
「これは……道ではない」
男は静かに言った。
「ええ。未来じゃない。
誰かが覚えている、過去です」
未来を失っても、
誰かの記憶に残るなら、
魂は完全には空白にならない。
影は、記憶でも形を取る。
沈黙のあと、影見役は命令書を破いた。
紙の裂ける音が、やけに大きく響いた。
「……通れ」
男は深く礼をした。
名は名乗らなかった。
彼が歩き出すと、
影は一拍遅れて、ついてきた。
それはまだ、道ではない。
だが、誰かと並んで歩いた痕跡だった。
そして町の人々は、初めて気づいた。
影を失うことより、
誰にも覚えられなくなることの方が、
よほど恐ろしのだと。




