笠縫秀喜
翌日。
ひかりは黒田に連れられ、都内の大型ダンススタジオへ向かった。
正式なデビューまで、残り二ヶ月。
今日は顔見せと挨拶回りを兼ねた、いわばひかりとメンバーの初仕事だった。
メンバーはそれぞれの軽い仕事を終わらせて後で集まる予定。ひかりと黒田はビシッとスーツを着こなし、先に準備を始める予定だ。
「緊張してるかい?」
エレベーターの中で、黒田が軽く声をかける。
「……少しだけ」
ひかりは着慣れないリクルートスーツの袖を握りしめて返事をした。
「大丈夫。今日は見る、聞く、覚える。それだけでいいからさ!」
そう言って、黒田はいつもの調子で金色のネクタイを整える。
「あと、変なことがあっても俺がいる。勝手に前に出ない、それだけ守ってね!」
黒田の約束にひかりはこくりと頷いた。
スタジオのドアを開けると、すでにいくつかのグループがレッスンを終え、入れ替わりで廊下に出てきていた。
汗と音楽の余韻が混ざった、独特の空気。
黒田はすれ違うスタッフやマネージャーに軽く会釈し、ひかりにも目で合図する。
「挨拶は、俺の後な!」
「はい」
その時だった。
向こうから歩いてきた一団の中に、見覚えのあるロゴの入ったパーカーが目に入る。
(……え)
ひかりの心臓が、どくんと跳ねた。
ーー遥香が、所属していたグループ。
直接知っている顔はいないはずなのに、その空気だけでわかってしまう。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
(はるちゃん…)
すれ違いざま、視線を落とそうとしたその瞬間。
ふっと、空気が変わった。
前方から、鋭い視線を感じる。
顔を上げると、そこにいたのはあの老人だった。
昨日、オーディション会場でひかりを追い返した、年配の男。
彼は一瞬でひかりを認識し、目を細めた。
「……君」
低く、落ち着いた声。
「なぜ、ここに?」
ひかりが言葉に詰まるより早く、黒田が一歩前に出た。
「彼女ですか?」
にこやかに、しかし一切の隙を見せない声で続ける。
「住み込みの家政婦兼、マネージャー見習いです。私の下で勉強させています。ひかり、挨拶」
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると老人の視線が、黒田からひかりへと移る。
一瞬だけ、探るような目。
だが次の瞬間、興味を失ったかのように、ひかりから視線を外した。
「……そうか」
それだけ言い残し、踵を返す。
すれ違うグループのざわめきの中、老人の背中はすぐに人混みに紛れていった。
ひかりは、無意識に息を止めていたことに気づき、ゆっくりと吐き出す。
廊下の角を曲がったところで、黒田が足を止めた。
「今の人、気になるよな」
ひかりは小さく頷く。
「昨日の……」
「そう。笠縫秀喜だよ。」
黒田は少しだけ声を落とした。
「この事務所の古株中の古株。創業期からずっといるらしい。叩き上げで、今の地位まで登りつめた人だ」
軽く肩をすくめて、冗談めかす。
「芸能界の表も裏も、だいたい知ってると思っていい。いい人だけど…」
ひかりは、黒田の濁すような言葉に反応する。
「……やっぱり、危ない人ですか?」
「さあな。暗いところには俺は近寄りたくなくてね!」
黒田は曖昧に笑う。
「でもそうだな…」
一拍置いて、ひかりを見る。
「アイドルデビューをこの事務所で目指すなら、最後にあの人の首を縦に振らせないとな」
何も知らない黒田はガハハと楽しそうに笑う。彼の目にはひかりはアイドルデビューをお預けされてる少女に見えているのであろう。
しかし、事件を追うひかりは笠縫がキーパーソンではないかと確信に似た感情が湧いた。
遥香のグループ。
笠縫秀喜。
自分の目で確認したかったものが見れただけでもこの事務所に潜り込んだ甲斐がある。
初仕事は思っていた以上に収穫がありそうだと、ひかりは息を吸って気合を入れ直した。




