初めてのおねだり、母の戸惑い
「家内放送」を始めてから数日、アリアのノートは、フクロウたちや小鳥たちから得た情報で、びっしりと埋まり始めていた。魔物の出現情報、珍しい植物の自生地、隠れた泉の場所、迷子の動物の目撃情報……。しかし、文字だけで羅列された情報は、頭の中で整理しきれないことも多かった。特に、地図のように位置関係を把握したり、時間軸で変化を追ったりするには、何か視覚的に分かりやすい手段が必要だとアリアは感じていた。
そこでアリアは、ある日の午後、思い切って母エリザベスの部屋を訪れた。エリザベスは、ちょうど午後のティータイムを楽しんでいるところだった。
「お母様……あの、少し、お願いがあるのですが」
アリアが遠慮がちに声をかけると、エリザベスは優しい笑顔で振り返った。
「あら、アリア。どうしたの?あなたが私にお願い事なんて、珍しいわね。ドレスかしら?それとも、新しいお人形?」
エリザベスは、娘が年齢相応の可愛らしいものを欲しがることを期待していた。これまでのアリアは、ほとんど物欲を見せず、たまに欲しいものといえば、絵本や古びた魔術書くらいだったからだ。
アリアは少し頬を染めながら、小さく首を横に振った。
「いいえ、ドレスでも、お人形でもありません。あの……私、大きめの黒板のセットを二組、欲しいのです」
「黒板……ですって?」
エリザベスの顔から、期待に満ちた笑顔が消え失せた。彼女は、まさか娘からそんなものを頼まれるとは思ってもみなかった。一般的な貴族の令嬢が欲しがるものとは、あまりにもかけ離れている。
「ええ。あと、色々な色のチョークもたくさん。そして、黒板を立てるためのイーゼルも……」
アリアは、脳裏に描いている光景を説明するように、具体的な要望を続けた。一つの黒板には森の地図を書き、もう一つには得た情報を書き出して整理したい。そうすれば、もっと分かりやすくなるはずだ、と。
エリザベスは、しばらく呆然とアリアを見つめていた。娘の真っ赤な瞳は真剣そのもので、その無垢な顔には、ドレスやお人形をねだる時の、はにかんだ可愛らしさとは違う、探求心に満ちた輝きが宿っていた。しかし、母としてのエリザベスは、正直なところ、少しだけショックを受けていた。
(この子は、本当に私の娘かしら……)
華やかなドレスや、精巧な人形に目を輝かせる娘の姿を、一度でいいから見てみたかった。他の貴族の令嬢たちのように、流行のアクセサリーを欲しがったり、お洒落な髪飾りをねだるアリアを想像してみる。しかし、アリアの頭の中にあるのは、どうやら「黒板」と「チョーク」らしい。
「あの……お母様、だめ、でしょうか?」
アリアが不安げに尋ねると、エリザベスは慌てて笑顔を取り繕った。
「い、いいえ、だめなわけではないわ。黒板、ですのね……ええ、ええ、分かりましたわ。手配しましょう。すぐにお屋敷の者に伝えさせます」
エリザベスは、多少の戸惑いを覚えながらも、娘の真剣な眼差しに応えようと決めた。アリアが何か新しいことに夢中になっているのは、彼女が部屋にこもりがちだった頃よりも、ずっと良いことだとエリザベスは思っていたからだ。
「ありがとうございます、お母様!」
アリアは、満面の笑顔でエリザベスに抱きついた。その純粋な喜びの表情に、エリザベスの心は少しだけ癒された。娘の笑顔は、何よりも大切な宝物だ。それが黒板をねだった結果の笑顔であったとしても。
アリアは、これで情報を視覚化できると、期待に胸を膨らませて自室へと戻っていった。エリザベスは、残された紅茶を一口飲み、小さくため息をついた。
(ああ、アリア。もう少し、お母様を喜ばせるようなものを、ねだっても良いのよ……)
そう思いながらも、エリザベスの心には、娘の成長と、その中に秘められた未知の可能性への、漠然とした期待が芽生えていた。




