十六時への鼓動、初めての放送一時間前
約束の午後四時まで、あと一時間。アリアの部屋は、普段の静けさとは異なる、張り詰めた空気に包まれていた。彼女は、机の上に広げたノートと、その傍らに置かれた木箱型ラジオ(送信機)を交互に見つめていた。手のひらには、うっすらと汗が滲んでいる。
「ポルン……私、ちゃんとできるかな?」
アリアが不安げに呟くと、ポルンは彼女の肩に止まり、小さな頭を優しく擦りつけた。アリアの心の声が、使い魔であるポルンにははっきりと伝わってくる。緊張と、それに勝るほどの強い決意が。
「うん、そうだよね。私が、みんなに希望を届けるんだもんね」
アリアは、ポルンとの心の会話で、少しだけ落ち着きを取り戻した。
今日の放送で語る内容は、すでに決めていた。最初は、老メイドのマリアから聞いた、森の妖精が人々を助けるという心温まる民話。そして、リンドバーグ家に伝わる昔の祭りの歌。誰もが知っている、安心して聞ける物語と、耳馴染みのある歌ならば、きっと受け入れてもらえるだろうと考えた。
アリアは、もう一度ノートを開き、声に出して民話を読み上げてみた。声が震えないように、ゆっくりと、はっきりと。しかし、喉はからからに乾き、心臓はまるで激しく鐘を打ち鳴らしているかのように鼓動する。
「もう少し、落ち着いて……深呼吸」
前世の記憶が蘇る。深夜ラジオのパーソナリティたちは、いつも穏やかで、楽しそうに話していた。でも、きっと彼らも、初めての放送では同じように緊張していたに違いない。そう思うと、少しだけ勇気が湧いてきた。
次に、歌の練習だ。アリアは、口ずさむように、祭りの歌を歌ってみた。歌声は、普段の控えめな話し声とは違い、驚くほど澄んでいて、どこか懐かしい響きを持っていた。魔力が込められた彼女の声は、単なる音ではなく、聴く者の心に直接触れるような、不思議な力を持っていた。
送信機が置かれた机の上には、ポルンがじっと座っている。ポルンは、アリアの魔力の微細な変化を誰よりも敏感に感じ取っていた。アリアが緊張すると、ポルンのルビー色の瞳もわずかに揺れ、アリアが歌い出すと、その歌声に合わせて、小さな身体を揺らす。
部屋の窓からは、午後三時を少し過ぎたばかりの、柔らかな光が差し込んでいる。庭師のフィンが丁寧に手入れした庭の木々が、風にそよぐ音が聞こえる。厨房からは、グレゴリオが夕食の準備を始めたのか、香ばしい匂いが微かに漂ってきた。そして、屋敷のどこかでは、若メイドのエミーリアが、はつらつとした声で誰かと話しているのが聞こえるような気がした。
この家のどこかで、これから彼らが、アリアの声を待つ。そう思うと、緊張はピークに達したが、同時に、深い喜びと責任感がアリアの胸に込み上げてきた。
「大丈夫、アリア。あなたはできるわ」
セレスティの言葉が、耳の奥で響いた。そして、前世の記憶の中の、深夜ラジオのパーソナリティの優しい声も。
アリアは、そっと目を閉じた。そして、ゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。
「準備は……いい?」
ポルンが、アリアの心の声に答えるように、小さな鳴き声で応えた。
午後四時まで、あと僅か。アリアの小さな部屋から、新しい世界の扉が開かれようとしていた。




