4、何が悪いんですか?
イルーアはゆっくり立ち上がると、静かな眼差しを私に向ける。光を宿さない深く青の瞳は暗い冬の海のようだった。
「その子はシズ。私の《守護者》です。――今後、シズへの侮辱は私に対する侮辱と見なします」
「も、申し訳ありません……イルーア様」
私の腕を掴み上げていた少女がさっと身を引き、小刻みに震えだす。
歩み寄ってきたイルーアは、バレッタについた泥を払い、私へと差し出す。その白い手には、無残にも赤いすり傷が残っていた。
「……ごめん。イルーアに怪我させるつもりじゃなかった」
イルーアは何も答えず、私の手を取るとバレッタを乗せて強引に握らせる。
「うん、これは返してもらうね。……あと、あの彼女のペンダントも」
それだけははっきり言わねばと、私がもう片方の手を差し出す。イルーアは少し不満そうに下唇を噛んだが、すぐに私の手の中に銀色のペンダントを落した。
「ありがとう、イルーア」
お礼を言うのが正しいのかはわからないが、今のイルーアが相当私に譲歩しているのは理解していた。
私はまだ地面に座り込んだままだった、『アネリー』と呼ばれていた少女の元へ歩み寄る。私の乱入により彼女もまた呆気に取られていたのか、その頬に涙の跡は残っていたが完全に乾いていた。
「――どうぞ」
ペンダントを差し出すと、アネリーは弾かれたようにそれを受けとる。
「あ、ありがとうございます」
私はアネリーの胸元の校章入りのカメオを見る。私やイルーアのカメオは赤だがアネリーの物は黄色だ。これは入学年度ごとに決められていると聞いた。黄色は私たちより一つ下、二年生ということになる。
アネリーは立ち上がると、淑女らしく膝を折ってお辞儀をした。
「このご恩は一生忘れません」
「そんな……大げさだよ」
私は笑いかけたが、アネリーの表情がまた強張る。肩越しに振り返れば、イルーアが冷たい眼差しを向けていた。
「……次はありませんよ、アネリーさん。規則違反を見つけた時は、厳正に対処させてもらいます」
イルーアの言葉にアネリーは深々とお辞儀をすると、そそくさと立ち去って行った。静かな怒りを湛えたままのイルーアに、私は気まずさを押し隠しながら話しかける。
「イルーア、あの――え、ちょっと!!」
イルーアは突然私の手を取ると、何も言わず引きずるように、校舎の中へと向かった。
イルーアは空き教室らしき、少し埃っぽい部屋に私を押し込むと、後ろ手で鍵をかけた。
「イルーア!? 私、先生から学院の中を案内してもらってところだったんだよ」
ドアに背を預け、イルーアはうつむいたままだ。
「だいたいアレは何なの? イルーアがあんな真似するとは思わなかった!」
世間知らずの天使がいびられてはしないかと心配していたが、まさかいじめの主犯格をしているとは……。小学生の頃、可愛がっていたお気に入りのハムスターが、仲間を共食いをしている所を見た時以来の衝撃だ。
「正直……がっかりだよ」
「私は風紀委員会の委員長です。規則に則った権限を行使しただけで――」
顔を上げて言い返してきたイルーアに、私も怒鳴り返す。
「言い訳はやめて! あんなの立場を盾にしたいじめじゃない。わからないはずないでしょ!?」
「……だとしたら、何が悪いんですか?」
イルーアが物知らずな子供を見るよう目つきで私を見た。
「自分が割を食わないために、誰かを犠牲にするのは仕方のないことでしょう」
「なに言って――」
開き直った信じがたい台詞に、私は絶句する。
「シズだってもうわかってると思いますけど、この学院は皆が平等なんかじゃありません。身分の垣根を越えて友情が生まれることはほぼありませんし、教師たちだって生徒の家柄を見て、成績や賞罰を決めています」
「だから王様よりも尊い《御使い》様は平民を虐げてもいいってこと?」
「《御使い》である私だって、盤石な立場ではありません。甘く隙を見せれば、喰い物にされるのは一緒。……そういう意味では、皆平等かもしれませんね。この学園という箱庭の中で自分にふさわしい立ち位置を見極めて、味方や人脈を作り、情報を集め、必要とあれば力を誇示できないようでは、社会に出てからも相手にされません。そんな無能を政策の味方や商売相手に選べますか? 我が子を共に育てる生涯の伴侶にできますか? これは大人になる前の前哨戦です」
イルーアはとうとうとこの世界の現実を語る。
これは本当に私の知ってる、あの底抜けに明るい能天気な少女なのだろうか。イルーアとはそう長い時間は共にしていないが、それでも私たちは親友だと疑いなく思っていた。イルーアにこんな一面があることなど何も知らなかったくせに、我ながらなぜ疑いなくそう思い込んでいたのか不思議なくらいだ。
「もし私が他人から虐げられる立場なら、私の《守護者》であるシズだって、悲惨な学園生活を送ることになるんですよ」
恩恵を受けているのだから口を出すなと言いたいのだろうか。確かに私自身は《守護者》という肩書だけの、気休め程度の《御使い》の添え物だ。貴族だの平民だの以前に、身分すら持っていない。この国では完全なイレギュラーだ。
「あと勘違いしてるみたいですけど、さっきのアネリーはただの平民じゃないです。……その辺の事情はそのうちわかると思います」
イルーアが重いため息をこぼした。年下の少女らしからぬ、疲れ果てた大人のような表情だった。
「勝負がしたくないのなら、最初から学院に来ないという選択肢だってあります。そういう人は片田舎で日銭を稼いで、細々と一生を過ごせばいいのだから」
「……選択肢がない人だっていると思うよ」
私がぼそりとつぶやいた言葉に、イルーアは答えなかった。
「とにかく、シズが不快と思うようなことはもうしません。それでいいですか?」
「……わかった」
煮え切らない思いを抱えながらも、私はそれ以上のことは言えなかった。
私はとんでもない思い違いをしていたのだ。また新たな学校生活が送れると浮かれるばかりで、イルーアの覚悟などまるで気づいていなかった。能天気なのは私の方だった。
学園に来る前に神官たちは私に言った。『同じ年頃の方たちと生活することで、この国の文化や風習、そしてイルーア様に置かれる立場を知ってほしい』と。その意味がようやくわかった。
イルーアは誰よりも尊い存在と、国中から信奉される身。だからこそ邪心を抱く人々に利用される可能性があるのだ。甘い顔をしているだけでは、食い物にされる。イルーアは自分の身を守るため、皆を支配する側になることを選んだのだ。
こんな一挙一動に精神を払わなければいけない環境では、私はイルーアを守るどころか足を引っ張る存在になりかねない。そして望もうと望むまいと、《御使い》の恩恵を受けて学園生活を送ることになる私では、イルーアに意見する資格すらないのだ。