11、この世界であなただけ
私の頭を引き寄せるようにイルーアがそっと手を回した。肩口に乗った私の頭を撫でる。髪をすかれる優しい感触に、私は堪えきれず涙を流していた。
「泣いてくれるんですか? シズは本当に優しいですね……きっとそういう世界とは、無縁の場所で大切に育まれて生きてきたのでしょうね」
イルーアの言葉は聞きようによっては皮肉や当て擦りとも受け取れたが、その眼差しは何かまぶしいものでも見つめているようで、私は胸が詰まる。イルーアの言う通りで、どう足掻いても私には想像でしか、イルーアやメディラの民の苦難を察する方法はなかった。
「ごめっ……ごめんね……」
「いいえ、こんなこと理解できない方がいいんです。私にとってこの世界であなただけなんです。シズが存在してくれているだけで、どれほど救いになるか……きっとあなたにはわからないでしょうね」
安堵したような吐息と共に言われ、私は思わず泣き濡れた顔を上げる。
「ちなみにさっきの話は、私の三つ上の姉の話です」
「え……?」
「私の母は周囲よりは多少知恵の回る人でした。姉たちに比べ、稀有な美貌を持つ私を安易に売るより、高値を付ける方法を考えていたようです。その前に私は神官たちの秘儀により存在を見出されて、神殿に連れて行かれました。だから私自身はメディラの『生業』に従事したことはありません」
イルーアが酷い扱いを受けていなかったことにほっとすると同時に、彼女の身近な家族が実際に恐ろしい目に遭っていた事実に、やり場のない思いに囚われる。
「でも、そうした仕事で稼ぐ母や姉たちに育ててもらったのは事実。そして私がメディラの民であることに変わりはありません」
その言葉の中に出自の引け目、家族や故郷への愛、そして現実を受け止める覚悟、様々な感情が混在するのが分かった。
「とはいえ、この国を安寧へと導く《御使い》の出自としては、あまり外聞がよくありません。出来ればこの先も、私がメディラの民であることは秘密にしてくださいね」
いつもの悪戯っぽい笑みでイルーアは言った。
「当たり前でしょう。人様の事情を言いふらしたりしないよ」
だがこの学園には、もう一人イルーアの事情を知っている人間がいる。
「そういえばアネリーは、どうしてイルーアの出身のことを知ってたんだろう……?」
「あの子の親から聞いたんでしょう。彼は――ああ、今は彼女でしたね。アネリーの継母は中性の元神官です。《御使い》を選出するための秘儀を執り行った責任者であり、秘儀により占われた特徴を持つ私を、銀雪平原の貧民窟から連れ出した人なんです」
その忌々しそうな口調に私は少し疑問を持つ。アネリーの母親はイルーアを貧しい暮らしと、いずれ課せられたであろう『仕事』から救ってくれたも同然ではないだろうか。
「神殿やエメディスが、私を貧民窟から連れ出してくれたことには感謝していますよ。……もっとも、彼らも慈善でやったことではありませんけどね」
「そのエメディスって人がアネリーの継母?」
アネリーを目の敵にする原因も、彼女の継母にあるのだろうか。
「エメディスはこのエンドラに十二人しかいない大神官でした。将来を嘱望されていた若き大神官が、王族を篭絡した挙句にその座をあっさり辞すなど、誰も想像していなかったでしょうね」
「だからイルーアはそのエメディスさんが嫌いなの?」
「エメディスは私を貧民窟から連れ出す際に、母や姉たちに多額の金子渡したそうです。『もう二度と末子には関わるな』という条件と引き換えに。お金があれば母も姉も春をひさぎ、暴力と病に怯える暮らしから解放されます。……その判断は当然だと思います。母たちはエメディスの取引に従い、故郷の貧民窟から姿を消したそうです。私とはそこで別れたきり、今どこで何をしているかも知りません」
「そうだったんだ……」
「私たちの堕落した生活からすれば、理解しがたいかもしれませんが、これでも家族は仲が良かったんですよ。家とも呼べない狭い穴倉で身を寄せ合って暮らしていました。母はよく私たち姉妹を抱きしめて、『あなたたちと出会うために私は生まれてきたの』って口癖のように言っていました。――エメディスはそんな私たちの関係を、あっさりとお金と権力で引き裂いたんです」
穏やかな口調が一転して、憎々し気な声音に変る。
「家族を恋しがって泣く私に、あの人は『これは《御使い》という尊いお役目のために必要なこと』と言い聞かせました。そのエメディス自身が大神官としての使命を投げ捨て、『真実の愛からは目を背けられない』などとのたまって色恋に走ったんです。人を馬鹿にするにもほどがあるっ……!」
(だからイルーアはアネリーを……)
その言葉ににじむ怒りは、責務を投げ出した無責任さに向けられたものではなく、期待を裏切ったことに対する絶望だ。おそらく家族と引き離された幼いイルーアは、その代わりを求めるようにエメディスを信頼し懐いていたのではないかと想像する。もしそうなら、エメディスの新たな『家族』となった、継子のアネリーを敵視する理由にも通じてくる。
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