一
一八〇〇年六月、昌慶宮で正祖大王が亡くなった。
名君の死を国中が悲しんだが、朝廷の一角では今後起りえることに胸を痛めていた。
朝鮮全土が悲しみに沈むなか、朝廷の一部の人々はこれから起るであろうことに胸を痛めていた。
「兄上、これからどうなるのでしょう」
美庸の問いに天全は
「分からない。とにかく身辺に気を付けて身の処し方を考えよう」
と静かに答えた。
新たに即位した王は幼かったため、曾祖母である大王大妃が実際の政務を執ることになった。
彼女の実家は前王の時、朝廷内の主流でなかったため、これを機に政権掌握しようと画策した。
大王大妃の一族及び彼らの仲間たちは手始めに前時代、王に寵愛され、活躍した人々を除去することにした。それは、容易いことだった。彼らには、弱点があった。天主教(キリスト教)である。
朝鮮にキリスト教が入ったのは、17世紀頃である。もちろん、それ以前にも新羅留学生が唐で景教に出会ったり、壬辰倭乱(文禄の役)の際は、キリシタン大名が宣教師を連れて朝鮮入りしたりしたが、人々の間にキリスト教が伝わることはなかった。
その後、丙子胡乱の時、人質として清国に連行された昭顕世子が帰国する際に、祖国の発展に役立てようと西欧の文物・書籍を携えてきた。その中にはキリスト教関係のものもあったが、世子が早くに亡くなったため、これらを生かすことが出来ず、キリスト教も広まることはなかった。
二度の侵入の結果、朝鮮は清国に服属するようになり、朝鮮は定期的に清に使節を送ることになった。使節は燕京(北京)に滞在し、その間に西欧の文物に関する書物を多数入手した。こうした中には漢訳したキリスト教関係の書籍もあった。
これら書物は、士大夫層の間で広く読まれ、数学や天文学等、西欧の学問を始める者も現れた。当時の朝鮮では“実学”が流行していたため、西欧の学問は受け入れやすかったようだ。
天文、数学の書物以外に彼らはキリスト教関係の書物にも目を通していた。
西欧の学問の根底にはキリスト教的なものがあると思ったからである。
最初は、学問の補助的なものとして読み始めたが、やがてその“教え”そのものに心を捕らえられた者も現れた。
子述 李承薫もそうした一人であった。