表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
連罪  作者: ひらめ
2/2

後編

「あの、本当にここなんですか?」

 薄汚れたアパートを前にして、彼女は怖気づいているようだった。電車に乗っている間、一言も話さなかった彼女は何を考えていたのだろうか。

「そうだ、さっきアポを取るとき君が来ることも伝えておいたから大丈夫だ。だが、今はかなりの精神ショックを受けているからな。あまり大きな音を立てないようにするんだ。いいね?」

 紗彩はこくんと自信なさげに頷いた。

 智弘は202号室のインターホンを鳴らす。しばらくして、どうぞという低い声が返ってきた。智弘はドアを静かに開けて、彼女に入るように促す。部屋の中は真っ暗だった。

 靴を脱いで奥の部屋に進む。室内用芳香剤の甘ったるい不快な香りが漂っている。紗彩は不安そうにキョロキョロと周りを何度も見ながらゆっくりと歩を進めていく。なぜ自分がここにいるのかも理解できていないだろう。

 廊下の奥まで来て、智弘は引き戸を開けるように言った。彼女は言われたとおりに静かにドアを開けた。そこには四畳半ほどの洋室だった。部屋の中心にはダブルベッドが置かれている。カーテンは閉められて、照明はついていないうす暗い部屋だった。そして申し訳程度に置かれた小さいちゃぶ台の前に男が一人座っている。

 男は紗彩の存在に気が付くとゆっくりと顔を上げ、柔和な笑顔で挨拶した。

「こんにちは。君が水島タクヤのクラスメイトの山本さんだね?」

 紗彩は無言でうなずく。

「西野宏と申します。既に聞いていると思うけれど、水島タクヤに暴行された西野香菜の父親です」


 智弘が勝久に電話したのは紗彩と公園を出てカラオケボックスに向かうまでの間だった。「もしかしたら若い女を連れ込めるかもしれない」というと、勝久は興奮して歓声を上げた。そしてそれだけで、智弘の電話の意図を察した。

「つまり、俺がトモエのアパートに行って待っていればいいんだな?」

 こういう時の察しの良さには毎回感心させられる。だが今回は細かい注文があった。

「……というわけで、勝久の名前は僕が使っているから代わりに何か仮名を使ってくれないか? そしてついでに娘の名前も適当に考えと置いてくれ」

 勝久は不満げだった。

「まぁお前が俺の名前使ったことは百歩譲って許したとしよう。だがなんでアパートに連れ込んだ後にも芝居を続ける必要があるんだ? さっさとレイプして殺しちまえばいいだけの話だろうが」

 確かにその通りだ。勝久の話ではあのアパートはほとんど人が住んでいないばかりか、たとえどれだけ叫んでも警察を呼ぶような住人は住んでいないとのことだった。すつまりレイプするには絶好の好地であるわけだ。

「俺はあの子の体だけじゃなくて心まで滅茶苦茶にしてやりたいんだ。あの子と話していてただ首を絞めて殺すだけじゃ満足できないことを悟ったんだ。頼む、今回だけは俺に譲ってくれ」

 勝久はしばらく無言だったが、言葉を重ねて懇願する智弘にとうとう折れた。

「わかったよ。智には結衣の件で世話になったからな。今回だけは特別だ」


「それで、私に聞きたいことがあるって井上さんから伺ったんだけど。それはいったい何かな?」

 勝久が静かに問いかける。勝久は年こそ智弘と同じだが、顔が濃いためそれより十歳は年上に見える。それでも中学生の父親には若すぎる気も否めないが、まぁ世の中十代で子供を作る人間も多少はいるだろう。

紗彩は俯いたまま何かを訪ねたようだった。小さなテーブルがあるだけで、成人男性二人に挟まれている状況に緊張しているのだろう、何かを話しているのは分かるが声が小さくてその内容は聞き取れない。

「紗彩、聞こえないぞ」

 智弘の言葉に上ずった声ではい、と返事をした。

「あの、水島君がその、西野さんに……ひどいことをしたって聞いたんですが……。それは本当なんでしょうか?」

 その瞬間、勝久の顔から笑顔が消えた。

「つまり君は、香苗が嘘をついたと?」

 名前がさっきと違っていたから肝を冷やしたが、幸い紗彩は気づいていないようだった。

「いえ、ごめんなさい……。そういうわけではないのですが。ただ、水島君はそんなことをする人じゃないと思ったので」

「それで?」

「あの、どうして水島君が犯人だと思ったのか教えてください」

 勝久は一息間をおいてから流暢に話し始めた

「香苗が言ったんだ、水島タクヤがやったとね。香苗は出会い系サイトであいつと知り合った。そして深夜の公園に呼び出し、赤の他人を偽ってトイレに呼び出した。そしてそこで行為に及んだ」

 紗彩の顔はすっかり血の気が引いている。それにしても勝久がここまでちゃんと考えているとは思っていなかった。

いや、何かがおかしい。出会い系サイトで出会ったということは電話で話したが公園のトイレ云々については話を合わせたか? いや、この話を思いついたのは勝久に連絡を取った後、カラオケボックス内だ。

 ……なぜ勝久はこの話を知っているんだ?

「たしかに最初は抵抗されるさ。男と女で体力に差があるとはいえ、本気で抵抗されたら逃げられるし、叫べば人も来るかもしれない。深夜とはいえ公園だしね。でも、いい方法があったんだ。水島はトイレに連れてきたら頭に厚手の麻袋をかぶせた。人の頭がギリギリ入るくらいだといい。そして二、三発殴る。すると不思議なことに一切抵抗しなくなる。声も出さないし身動き一つしなくなる。やっぱり暗闇っていうものは本能的に怖いものなのだろうね。ただ袋を頭からとればいいのにそれもできない。水島はきっと面白くて笑っちゃっただろうさ。こんな簡単にレイプできるのかとね」

 紗彩は怯えていた。なぜここまで詳しく知っているのかと疑問に思っているだろうが、それよりもここから逃げ出したい気持ちの方が強いようだ。

 勝久は紗彩の顔を一瞥して、話が脱線していたことを思い出したようだった。

「あっ、ごめんごめん。君が知りたいのはなぜそれが水島君だとわかったかって話だったね。それは……ええと」

 まさか、考えていないのか。

勝久は助けを求めてきたが智弘は首を横に振る。私は頼りにならないとあきらめたようで、さっきまでの達者な口調はどこへ行ったのか、訥々とした話し方で危なげに論理を組んでいく。

「監視カメラ……じゃないな。そうそう、その出会い系サイトかに乗っていた名前を調べたんだ。それで……まぁ、何とかして見つけたんだ。本人にも確認を取ったから間違いない」

 すると紗彩は吃驚し、身を乗り出して聞いてきた。

「本人って、水島君の事ですか! 彼は……認めたんですか?」

「そうだ、水島だ。あいつは認めたよ。確かにうちの……娘をレイプしたってな。涙ながらに謝罪していたよ。男として彼の気持ちも当然わかる。だがそんなことは許せない、警察に突き出してやるから覚悟しておけと言っておいたよ」

 勝久はだんだん辛抱が利かなくなっているようだった。明らかに先ほどまでと比べて演技に粗があるし、何よりスウェットの股間が著しく膨れ上がっている。紗彩は気づいていないといいのだが。

「彼は……タクヤはほかに何か言っていましたか?」

 俯いたまま苦し気に話す彼女は今にも涙を流しそうだった。智弘はその姿を見て、今まで感じたことのないほどの法悦を味わった。ずっと心に居座っていたわだかまりが解消されたような心地よい気分だった。

……そうか、これが私が欲しかったものだったのだ。

「ほかにも何もないよ。あいつはただヤりたかったからやっただけだろう。もういいね? あとは明日学校で本人に聞きなさい」

「でも!」

 紗彩はそれでもなお尋ねてくる。この子はとても強い子なのだろう。このどこだかわからない小さなアパートの一室で男の大人二人に囲まれてもなお友人のことを信じ、救いたいと思っているのだ。なんと美しいことか、そして智弘はそれを十分に堪能した。

 困った顔で紗彩の相手をしている勝久が指示を仰ぐように智弘を一瞥した。

 智弘は微笑を浮かべ、ゆっくりと、小さく頷いた。

 勝久は目を輝かせた。蒙古芝居を続ける必要はなかった。

 勝久は不安げに彼の顔を見ている紗彩に顔を向けた。そして紗彩よりももっと小さい子供に話しかけるような優しい口調でゆっくりと言葉を紡ぐ。

「紗彩ちゃん、君の気持はよくわかった。友達を大切に思う気持ちはとても立派だ。でも、だからと言ってほかの人の気持ちを考えないことはいけないことだ。そうだろ?」

 紗彩は勝久の言葉の意を解していないようで、否定も肯定もしなかった。

 勝久は構わず続ける。

「君は一度でも私の娘のことを考えたかい? 君と同い年の女の子だ。娘がどれだけ怖い思いをしたのか一度でも想像したかい? それを想像したうえで、君は娘が嘘をついたと言いたいのか? 本当は合意の上だったとでも言いたいのか?」

 紗彩は射たいところを突かれたようで、押し黙った。そしてしばらくたった後、やっとの思いでといった様子で言葉を発した。

「私は、香苗さんが嘘をついているなんて思っていません。彼女がとてもつらいおっもいに会ったのはよくわかります。ただ、何か勘違いが……」

「ふざけるなっ!」

 勝久の低い声が部屋に響いた。突然のことに智弘までも身を竦ませたほどだ。

「香苗のことをよくわかるだと! よくそんなことを俺の前で言えたな! お前なんかにわかってたまるか! よし、いいだろう。そこまで言うなら早苗の恐怖というものを教えてやる! おい立て!」

紗彩は勝久の態度の急変に当惑している。目をキョロキョロ動かしてどうするべきか考えている。

「立てって言っているだろ! 聞こえないのか!」

 いくら住民が少ないとはいえあまり大声は出してほしくなかったが、智弘には様子を見守ることしかできなかった。

 紗彩は言われるがまま立ち上がった。畏縮して足は小さく震えていた。智弘に助けを求める目を向けたが、智弘はかぶりを振った。

 勝久はおもむろにクローゼットから小さな袋を取り出した。黒地のトートバッグだ。

「おい、お前これ頭から被れ」

 勝久はそれを紗彩に手渡していった。

 それをみて智弘は合点した。勝久はそのレイプにあったという少女の恐怖を体験させようとしているのだ。勝久の言動を理解出来て納得した智弘とは対照的に、紗彩は何が起こっているのか全く分かっていない様子だった。涙目になりながら勝久トートバッグ受け取るが、一向に被ろうとしない。

「かぶれって言ったのが聞こえないのか?」

 勝久は少女相手に無慈悲な態度を取り続ける。ごめんなさい、と彼女が涙声で言った。

「香苗の気持ちがわかるって言ったよな? わかるなら被れるはずだろ」

 紗彩はとうとう根負けし、ゆっくりとした動作で頭から突っ込んでいく。顔全体がすっぽりとトートバッグに包まれた途端、彼女は突然泣き出した。全身が小さく震えている。何をされるのか分かっているのだろう。智弘にサディズムの趣味はないから泣いている少女を陸辱することはためらわれた。

 しかし、勝久は一向に気にしないようで、満足そうな表情を浮かべると床に置いてあった一升瓶を手に取ると、躊躇なくそれを紗彩の頭に振り下ろした。

 鈍い音とともに紗彩は床に倒れた。バッグを被っているため、頭から血が出ているかはわからなかった。手足が顫動し、微かにうめき声をあげている。とりあえず死んでいなかったことに安堵した。

「おい、紗彩ちゃん。聞こえるか? 聞こえるなら返事してくれるか」

 勝久は倒れた紗彩の傍でしゃがむ。その手にはまだ一升瓶が握られている。

「うぁあ……。ゔぅう」

「紗彩ちゃん! 聞こえるか?」

 勝久はビンで彼女の体をつつく。

「ごめんなさいぃ……。やめてぇ、ゆるして」

「よしよし、聞こえてるな。じゃあこれから香苗がその水島ってやつにされたこと紗彩ちゃんにも体験してもらうよ。いいね?」

 智弘はまだ律義に演技を続ける勝久に感心した。本来不意打ちで頭を殴ればよかったはずなのに、わざわざ目隠しまでさせたのはやはり演技を続けるためだったのだ。

 勝久は一升瓶を床に置き、彼女を抱き上げ、ベッドまで運んだ。そして慣れた手つきで彼女の制服を脱がすと、そこには顔だけが隠れた全裸の少女がいた。それは異様な光景だった。紗彩は鞄を外そうとする様子もなく、ただぶつぶつと何かつぶやいている。

 智弘は呆気にとられていると、勝久が不思議そうな顔をして手を振ってきた。早くこっちへ来いというのだ。

 正気に戻った智弘はゆっくりとした足取りでベッドに向かう。

そういえば今日はカメラを持ってくるの忘れたな、まぁいいか。

 勝久はすでにズボンとパンツを下ろしていた。智弘もベルトに手をやるがなかなかベルトが外れない。なぜだろう、暗闇だからだろうかと考えていると、勝久が訝し気な表情をした。

「おい、智。お前何やってんだ。大丈夫か?」

 勝久はそういうと智弘の股間を指さした。智弘もつられて目線を下にやる。そこにはベルトはなかった。ズボンも下着もなかった。ただ屹立した陰茎だけが存在感を放っていた。

 いつの間に脱いだのだろう。勝久がベッドまで運ぶときか? それとも紗彩がトートバッグを被ったときか? まぁそんなことは些細な問題だ。

「すまない。大丈夫だ。さあ、始めようか」

 智弘がそういうと勝久は朗らかな表情で右手にサムズアップを作った。紗彩は今何を考えているのだろう。ここから助かる方法だろうか。智弘についてきたことを悔いているだろうか。今までの人生を走馬灯のように思い返しているだろうか。それとも水島タクヤの事か。

 智弘は十代前半という若さでこの世を去る少女に憐憫の情を覚えながらも、それよりはるかに勝る果てしない気分の高揚感に身を委ねていた。


「にしても、昨日の子はだめだったな、ありゃ」

 雑誌を捲りながら勝久は呟いた。傍らにはビニールひもで縛られた漫画雑誌が優にニ十冊は積んである。それらは明らかにゴミ集積場から盗んできたものだった。いつの間に持ってきたのだろうか。

智弘は皿洗いの手を止めた。

「そうか? 勝久も楽しそうにしてただろ。特に最後の首を絞めてたときなんかは目がイっちゃてたぞ」

「いやいや、ダメなんだよあれは。あの子処女だっただろ?」

「いや、知らないが。でも勝久処女が好きだって言ってなかったか?」

 勝久は神妙そうな顔つきでかぶりを振った。

「確かに俺は処女が好きだ。だがそれは普通にセックスするときだけの話だ。レイプするときに処女は絶対にお断りなんだよ。俺は」

 そう言って勝久は漫画雑誌を机に叩きつけた。どんな男にでもこだわりはあるものだ。

「だったら僕にやらせてくれればよかっただろ。昨日はお前ひとりで挿入から首絞めまでやってたじゃないか」

 そう、結局昨日智弘も全裸になったものの特に出番はなく、二人の行為を見ながら手淫で済ませただけだったのだ。たまに勝久に指示されて手ぬぐいを紗彩の首に巻き付けたりしただけだ。

「何言ってやがる。昨日お前の意味不明な演技に付き合ってやったのは誰だと思ってるんだ? それに相談もせず勝手に行動しやがってよ。お前が捕まる分にはいいが、その時には俺まで道連れだろ馬鹿野郎。せめてあれくらいの褒美はあってしかるべきだ」

「それは……本当に反省してるよ」

 智弘は首を垂れる。

「だが、それよりも許せないのは最後のあれだよ」

 勝久が吐き捨てるように言う。

「ああ、あれか……」

 あれが指すことはもちろん分かっていた。

 勝久の指示通りに、手ぬぐいを紗彩の首に巻き付けて勝久はそれを思い切り引っ張った。彼女は勝久の腕をつかんだが、ほとんど握力がなくなっているのだろう。勝久はまったく意に介さない。さらに腕に力を入れつつも腰の動きは一定に保たれていた。あの体制で人を殺せるほどの力を入れることはかなり難しいはずだが、勝久は平然とした様子だった。

 そしてトートバッグを被らせたままだと紗彩の顔の変化がわからないことに気付いて勝久は、智弘に合図してそれを脱がせた。智弘は彼女の顔を見てぎょっとした。顔と目は真っ赤に染まり、舌は口蓋から飛び出していて、涙と汗と鼻汁でスコールに降られた後のように顔はびしゃびしゃに濡れていた。頭頂の髪は血が固まって頭皮に張り付いている。そして何より驚いたのは、紗彩の目が一心に勝久に向けられていることだった。それは明確な敵意を浮かべた眼だった。

 智弘は彼女の執念に感動を覚えた。今まで殺したトモエや結衣らは、死への恐怖で悶絶の形相を浮かべただけだった。そしてそれは紗彩も例外ではないだろうと思っていた。だが彼女はまだ目の前にいる男への怒りが残っている。恐らく今勝久が手を緩めたら、紗彩は躊躇なく襲い掛かってくるだろう。

 その時勝久が「やべぇ、イく!」と叫んだ。その瞬間勝久の肩甲骨が隆起して、紗彩の手足がピンとまっすぐ伸びた。

 紗彩は言葉とも言えない音を喉から発し、泡を吐いた。そしてその途端、背後から何かが放出されるような音がした。そして刹那、激しい周期が漂ってきた。

 慌てて振り返ると、やはりベッドの上に軟便が飛び散っていた。

「うっわ! くっせ! こいつクソ漏らしやがった!」

 勝久はそう言うと慌ててベッドから飛び退いた。


「確かに首つり自殺した後はうんこ漏らすって言うもんな。でもトモエと結衣がそうじゃなかったから今回も大丈夫だと思ったんだよ」

 智弘は勝久の言葉を聞き流しながら、最後の皿を洗い終えた。そして気になっていたことを聞いた。

「……で、紗彩はどうするんだ。やっぱり家族のもとに帰るんだろ? だとすると早めにした方がいいだろ。この暑さだとすぐ腐ってアパートで異臭騒ぎになりかねない」

 勝久はにやりと笑った。

「大丈夫だ。昨日の夜のうちに運んだよ」

「は……? 運んだ?」

「おうよ。実を言うとな、昨日の深夜またムラムラしてきてよ。それでいてもたってもいられなくなって自転車飛ばしてトモエのアパートまで行ったわけよ。もう一回セックスしようって寸法よ」

 言われてみれば確かに昨日、夜トイレに起きた時珍しく部屋が静かだと思った。

勝久が続ける。

「でもよ、マラボウおっ立てて意気込んで入っても、部屋にはまだクソの匂いが残っててよ。その瞬間気分が萎えたわけだ。で、もう一度紗彩の顔を見返してみると、なんだか可哀そうになってきてさ、早く家族のもとに帰してやろうと思ったんだ」

 勝久は紗彩を担いでアパートを出た。深夜の三時ごろとはいえ誰かに見つかったらすぐに警察を呼ばれるだろうが、不思議とその時は捕まる気はしなかったそうだ。そして人影を見付けては隠れ、見付けては隠れを繰り返すうちに近所の小学校へたどり着いた。  

夜の小学校というものは階段話の定番だが、背中に死体を背負っている状況なら幽霊の怖さなど些細なものだろう。

 勝久は周辺を何度も確認し、人がいないことを確認した後、校門前に死体を下ろすと即座にその場を離れた。

「だからよ、あの子も今頃は警察に見つかって家族のもとに帰れるんじゃないか?」

 勝久は話し終えると満足そうにうなずき、再び漫画の世界に入り込もうとした。智弘は慌てて勝久を制止する。

「おい、その小学校ってトモエのアパートの近くの小学校だよな?」

 勝久は不機嫌そうに答える。

「ああ、だから言っただろ。背負って行ったって。そんな遠くまで運べねぇよ。でも大丈夫だって、どうせあの辺にはアパートや住宅街で人がいっぱいいるんだし」

「そうじゃない! なんでこの近くの中学校に通っているあの子が電車に乗らなければいけないあの場所で発見されるのかってことだ!」

「おいおい、そんなのどうだっていいだろ」

 未だ、自分のしでかしたことの大きさに気付いていない勝久に苛ついた。

「いいか? まず紗彩の身元確認が取れたらあそこの駅の監視カメラをチェックされるだろう。行方不明になったのが昨日の放課後から、そして見つかったのが今日の早朝だ。だとしたら駅での紗彩の映像が一日足らずに見つかるだろう。俺と一緒に行動している紗彩の姿がな」

 ようやく状況を把握したのか、勝久の顔が曇った。

「そいつはヤバいかもな……」

 その時、チャイムが鳴った。智弘と勝久は固まった。視線だけは廊下の先にある玄関に向いているがどちらも動き出そうとしない。智弘は眼球だけを動かし、掛け時計を見た。17:00。いくら日本警察の捜査が優秀だからと言え、ここまで早く捜査が進むとは思えない。

 智弘は意を決し、立ち上がる。勝久は目の動きで大丈夫か? と伝えてきた。そんなの知るわけがない、そう言い返してやりたかったが、その言葉は飲み込んだ。

 智弘は一歩一歩足の感覚を確かめながら慎重に歩を進めた。わずかに床からきしむ音がするたび胃が縮む感覚がした。

 たたきに裸足のまま下り、音を立てないようにそっと覗き穴を見た。そこにいたのは予想外の人物だった。



 異変に気付いたのは朝のホームルームが終わった後だった。卓也のクラスでは出席は一人一人点呼して確認するわけではない。一、二年の時は普通に出席を取っていたし、隣のクラスからは一定の感覚ではい、という声が聞こえてくるから担任の藪沢が面倒くさがって省いているだけなのだろう。

 フレームレスの眼鏡をかけた不機嫌そうな数学教師は生徒からの人気もなかった。

 一分ほどのホームルームを終わらせた藪沢は役目を果たし終えたというようにそそくさと教室を後にした。刹那、沈黙を保っていた教室は、騒音に包まれる。女子生徒の甲高い笑い声から、声変わりを終えた男子の響くような声までが若いエネルギーを帯びて、それらが重なり合って大きな渦を巻き起こす。

 教室のほぼ中央に席がある卓也は休み時間が嫌いだった。元来友人がいないことに加えて、思春期を迎え、有り余る体力と異性への関心、校内ヒエラルキーの意識が歪に絡まり合い、皆が皆自らの存在を他者に誇示しているようなこの雰囲気に馴染めなかった。

 一時間目が始まるまで廊下で時間をつぶそうかと考えていた矢先、背後から誰かに肩を叩かれた。

 やや挙動不審になりながら見ると、二人の女子が立っていた。背の高いポニーテールと背の低いロングの女子たちだ。彼女らがクラスメイトだということはわかるが名前は知らない、というより覚えていなかった。

「……なにか?」

 卓也が尋ねると、二人の女子はたがいに目配せしあった。どちらが話しかけるかを押し付け合っているようだった。それくらいあらかじめ決めてからくればいいものを。

 普段から比較的クラスの中心にいる彼女らに話しかけられる理由など思い当たる節がない。考え得るのは罰ゲームだろうか。

「ねえ、水島に聞きたいことがあるんだけど」

 渋々といった様子で背の高いポニーテールが切り出してきた。

「はぁ」

 情況がわからないので気の抜けた声が出る。

「水島って紗彩と仲良かったよね?」

「……仲がいいわけではないが、山本とは幼馴染だからな。同じアパートだったんだ」

 実際卓也と紗彩は小学校に入る前からの幼馴染だった。同じアパートで、しかも隣通しであったため、小さい頃は相手の家を自分の家の延長のように互いに行き来しあっていたものだ。だがそれも小学校低学年までの話だった。紗彩の親が同じ市内に一軒家を建てて引っ越したのをきっかけに互いに疎遠になり、今では同じクラスではあるが、たまに登下校が被ったら一緒に歩くというくらいだ。

「別に山本に付きまとっているわけではないぞ。勝手に当然付き合っているわけでもない」

 卓也は先手を打った。このクラスで紗彩は男女問わず人気がある。いわばスクールカーストの最上位層と言っても過言ではない。そのためたまに一緒に登下校する卓也の陰口が耳に入ってくることもあるのだ。彼女らが聞きたいことと言うのもきっとそのたぐいの話だろう。

 しかし、卓也の予想は外れた。

「はぁ? 何言ってんの」

 あきれ顔の背の低いロングが言った。

「違うのか」

「違うに決まってるでしょ。私たちが聞きたかったのは、紗彩がどこ行ったのか知らないのかってこと」

 苛立ちを隠さす様子も見せずにロングが言った。

 卓也は眉を顰め、斜め後ろの紗彩の席を見た。いない。

 座ったまま椅子の背もたれをつかみ、身を捩るようにして教室全体を一望した。いない。

 卓也は再び彼女に目をやり、答える。

「便所じゃないか」

 片方が額に手をやり、大げさに溜息を吐いた。

「馬鹿じゃないの」

「わかるように説明してくれよ。バカと言われても困る」

「あのねぇ。今日は紗彩学校着ていないでしょ。ホームルームの時もいなかったじゃん」

「そうなのか、後ろだといなくても気づかないんだ。……で、なんだ。俺は紗彩がどこにいるかもなぜ休んだのかも知らない。なんにせよ風邪かなんかだろ。そうでなければ仮病かあるいは遅刻か。そんな気にすることもないじゃないか」

 すると途端に二人の顔が曇った。

「紗彩、昨日家に帰ってきてないらしいの」

「帰ってきてない? 誰が言っていたんだ」

「昨日の夜、紗彩のお母さんからうちに電話があったんだ。帰ってきていないけどどこにいるか知らないかって。……わたしらよく紗彩の家に遊びに行ってたから。知らないって答えたら紗彩のお母さんすごく心配していた。もう少し待って帰ってこなかったら捜索届出すって」

 黙って話を聞いていた卓也は、一言だけ訊いた。

「まだ、帰ってきていないということだな?」

二人そろって頷いた。そしてもう卓也に用はないと卓也の机から離れていった。

「ごめんね、水島。私らも学校終わったら探してみるわ」

 そういうのと同時に授業開始のチャイムが鳴り、藪沢が前方のドアからひょっこり顔を出した。

「おーい、机座れ。一限の授業は自習にするから各自、静かに勉強するように」

 そういい終わると、藪沢は小走りで廊下をかけて言った。教室がざわつく。

 どうやら彼女たちの話は本当のようだ。本当に紗彩は行方不明になっているらしい。

 卓也は初めて嫌な予感に心がざわつく感覚を覚えた。

 結局この日はそれ以降藪沢が教室に顔を見せることはなく、帰りのホームルームはめったに姿を見ることがない副担任が行った。

 荷物をリュックに片付けて帰ろうとしたとき、廊下でほかのクラスの生徒たちが何やら興奮気味に話しているのが耳に入った。

(今駐車場にパトカー止まってるらしいぜ)(教頭が青い顔して廊下走ってたよ。なんか事件があったんじゃねぇの)

 

卓也の家は校舎に対して南西側にある。そのため南門と呼ばれる裏門を使ったほうが近いし、普段はそちらを利用しているのだが、この日は北門と呼ばれる正門を使うことにした。来客たちが使うのがこの北門だ。

果たしてそこにパトカーが駐車してあった。中に人はいなく、校舎からは見つかりにくい比較的隠れた場所にそれはあった。しかし、その存在はこの平凡な中学校の校舎と調和することはなく、異彩を放っている。

竹箒を持った掃除中の下級生たちがパトカーを見ながら何かひそひそと囁き合っている。卓也がパトカーの前を通り越し、正門に掛かろうとしたとき、校舎の来客用玄関から数人の大人が出てくるのが見えた。

真っ先に目に入ったのはスーツ姿をした体格のいい男二人組だった。スポーツ刈りをしたいかにも体育会系といった風貌の若い男と、角刈りをした渋面の中年男。彼らに続いて出てきたのは教頭と藪沢だった。

定年近い二人の教員の顔は青ざめ、沈鬱な雰囲気が漂っている。

彼らはこれからどこかへ向かうようだった。恐らく警察署だろう。

ふと、藪沢が顔を上げた。藪沢は卓也を認めると、気まずそうに眼をそらした。その目には弱弱しい光が浮かんでいた。普段仏頂面を突き通している藪沢のこんな顔を見るのは初めてのことだった。

卓也は彼らの表情から危局を悟った。途端に堰を切ったように様々な感情があふれ出してきた。彼女に何か起こったのだ。それもかなり大きなことが。


自宅に帰ると、リビングのソファで寝転がった姉がテレビを見ていた。

「おかえりーたっくん」

 気の抜けるような声で話しかける姉を横目に、卓也はキッチンへ向かい水道の蛇口を捻った。塩素の匂いとともに勢いよく水が流れ出す。戸棚から持ち出したコップ一杯に水を注ぎ、一息に飲んだ。

 ひどく火照っていた体が中心から順に熱を放出していくことが分かった。口蓋に張り付いていた舌が保湿されていくのとともに脳が冷静さを取り戻していく。

 真っ先に思い浮かんだことは紗彩安否だった。どこに行けばそれを知れるだろうか。担任の藪沢が警察と一緒にいたことを考えると、やはり紗彩が警察に関与しているのは間違いなさそうだ。

 問題は一つ。紗彩は加害者なのか、被害者なのかだ。

 卓也は紗彩のことはクラスの中で一番知っている自信があった。それはひとえに一緒にいる年月が長いからだ。紗彩は昔から曲がったことが大嫌いで、人のために尽くすことを厭わない性格だった。それはよく言えば真面目で献身的、悪く言えば頑固なお人よしだった。しかし、その性格のおかげで卓也が助けられたことがあるのも事実だった。

 その紗彩に限って親に無断で外出して、何か犯罪に関与することがあるとは到底信じられなかった。

 ……となると考えられる結論は一つだった。

「わー! 物騒だねぇ。たっくんも気を付けるんだよ」

 背後から姉が話しかけてきた。この姉は自分が見ているテレビは他人も見ていて当然と思っている節がある。この家でテレビを見るのは姉だけだというのに。

「なんだよ」

 ぶっきらぼうに答える。

「ほらほら、テレビテレビ。十代くらいの女の子が小学校の校門前で死体で見つかったんだって。殺人事件として調査中だってさ。犯人まだ捕まってない」

 十代の女の子という言葉に身体が反応した。そんなことは確率的にありえないということは分かっていたが、卓也は急いでテレビの前まで移動した。

「ちょっと、たっくん。どいてー! テレビ見えないでしょ!」

 姉のことは無視してテレビの画面から情報を読み取る。場所は東京だがここからは遠い。年齢や名前は発表されていないようだ。まだ身元が分かっていないのか発表されていないのか。

 校門の前に黄色いテープで規制線が張られ、それを囲むように群がるマスコミ関係者たちの中で、若い男性リポーターが状況を説明している。

『朝六時ごろ、学校職員が校門に訪れたところ、横たわるようにして亡くなっている少女を発見したとのことです。また、首にはロープのようなもので絞められた跡が残っており、警視庁は殺人事件の線で捜査を続けているようです』

 どうやらまだほとんど何もわかっていない状況らしい。ただ、紗彩があの町に行く用事は考えにくい。卓也は紗彩ではないと確信した。

 卓也は自分の考えが正しいことを誰かに同調してほしかった。少し考えた後、姉に向かって言った。

「姉さん。山本紗彩って覚えてる?」

 姉は即座に言葉を返した。

「ああ、紗彩ちゃんね。昔よく仲良くしてた。……それがどうしたの? まさか付き合うことになったとか冗談言わないよね」

「そんなわけないだろ。昨日の夜から連絡がつかないらしい。親も捜索届出してるんだと」

 姉は数回瞬きした後、テレビを一瞥して、笑顔で言った。

「彼氏でもできたんじゃないの? 紗彩ちゃんは進んでるねー! まだ中学生だってのに。まぁがっかりすることないよ。最初からあんたみたいな暗い男に可能性なんてないんだから」

 彼女は一人でしばらく笑った後、静かに微笑んで付け加えた。

「安心しなさい」

 卓也はうん、と頷きリビングを後にした。この年で初めて姉のやさしさに触れた気がした。

 卓也はその夜、ベッドに寝転がったまま天井を見上げていた。紗彩の身に起こったことを想像しようとしても、深い靄がかかった森を歩くように、どの可能性を考えても最終的に行き着く結論というものが想像しうる最悪の結果だった。もっともらしい理由などは皆無に等しいのだが、それでも脳裏にこびりついた教頭と藪沢のあの表情がそのばかげた妄想をそれらしいものにさせていた。

 枕もとのスマートフォンを持ち上げ、ニュースアプリを起動する。トップニュースは芸能人の結婚、今夜あった野球の試合結果、女子中学生の身元判明。卓也は特に何かを考えるわけでもなく、最小限の動作で画面をタップした。


 校門前では教師たちが生徒待ち構えるように一定の間隔をあけて立っていた。それを遠巻きに眺めるようなマスコミの姿。向かい側の道路で二人の女子生徒がマスコミ関係者らしき男に捕まっているのが見えた。卓也に遅れて教師の一人が急いでそちらに向かう。

 卓也は再び歩を進めた。いつも大声で生徒を怒鳴り散らしている体育教師が似合わない穏やかな声で挨拶をしてきた。

「おはよう」

「……おはようございます」

 同じクラスだったことを知っているのだろうか、卓也の精神状態を見透かそうとするような目を向けてきた。悪気がないことはわかっているが、それでも不快に思うことは変わらない。

 教室に入るとクラスの雰囲気が昨日までと違うことに気づいた。

 男子たちは興奮気味になにか議論している様子だった。その多くはスマートフォンを片手に犯人、レイプなどの単語が勢いよく飛び交っている。一方女子たちは対照的に悲しみに明け暮れている様子だった。数人の女子が泣いていて、それを取り囲むように複数の女子が慰めている構図だった。

 卓也は無言で自分の席に着いた。もともと友人もいないのだ。卓也はどちらのグループにも入るつもりはない。

 リュックサックから教科書の類を取り出し、ふと気になって右後方を振り返った。やはりというべきか、そこには花瓶に入った一凛の花がぽつんと置いてあった。

 誰が持ってきたのか名前も知らないその花は、非日常感に酔いしれるこのクラスをあざ笑っているような印象を卓也に与えた。

 予鈴がなっても、朝のホームルームのチャイムが鳴ってもクラスの喧しい喧騒は一向に収まる気配がなかった。しかし、副担任が教室に入ってきた途端静寂が訪れた。生徒たちは自主的にぞろぞろと各自の席に戻っていく。副担任は疲れた顔で淡々と今日の予定について話した。どうやら普段通り授業はあるらしかった。溜息や舌打ちの音が漏れた。生徒たちは皆そわそわしながら副担任の次の言葉を待っている。

「じゃあ、出席取るからな、相田」

 無言。そしてしばらくしてその意を解した相田が「はい」と返事をした。藪沢も物事を億劫がる性格のせいで出席というシステムの存在を忘れていたのだろう。だが今日ばかりはあの藪沢も出席を取っていたかもしれない。これは教室に入ったときから感じていたことだが、クラスの人数が明らかに少ない。四十人クラスのはずが、どう見ても三十人くらいしかいない。これは遅刻というわけはないだろう。気になって昨日卓也に話しかけてきた背の高いポニーテールと背の低いロングを探してみるがどこにもいない。

 出席を取り終えた副担任は慣れない動作で出席簿に書き込んだ後、教卓に置いていたプリントの束を生徒に配った。

 プリントは三枚あり、一枚はスクールカウンセリングについての案内、二枚目は学校の保護者向けの説明会の案内、三枚目はマスコミ対応についてだった。

 副担任は全員にプリントがいきわたったのを確認すると、抑揚をつけない独特な話し方で説明を始めた。一言も情報を漏らさまいと生徒が真剣に耳を傾ける。

「ええと、すでに知っている人も多いと思いますが、昨日山本紗彩さんがある事件に巻き込まれたことが分かりました。皆さんはとてもショックだと思います。ですがまだ犯人は捕まっていません。ですから、紗彩さんのことで何か知っている人がいれば、どんな些細なことでも構わないので先生に教えて欲しいです」

 突然、後方で女子が大声で泣きだした。教室がざわついたが、すぐに廊下から女性教諭が駆け寄ってきた。優しく二、三言声をかけると女性教諭に付き添われた女子は教室を出ていった。

 卓也は廊下を見た。そこには数人の教師が立っていた。なるほど、取り乱した生徒が興奮することを見越しての采配らしい。

 副担任はしばらく呆然と彼女らが立ち去った方向を眺めていたが、正気を取り戻したらしく、ええと、と言って話を続けた。

「それで、ええと、今田、荻原、田宮そして水野はホームルームが終わったら会議室まで来てくれ。場所、わかるよな」

 数人が頷いたが、肝心な副担任のその目は出席簿に向いているため確認を取った意味はなさそうだった。

「じゃあ、あとは各自配ったプリントに目を通しておいてくれ。……ああ、そうだ。ええと、今日の昼休み、急遽全校集会が開かれることになったから給食を食べ終わったらすぐ体育館に向かってくれ。わかったな」

 いくつかのはーいという声に満足した副担任は教室を後にした。それに続いて廊下の教員たちもバラバラに散っていった。そして教室には先ほどまでの喧騒が戻った。

 卓也はとりあえず言われたとおりに会議室に向かおうとした。なぜ教師陣が卓也と山本とかかわりがあることを知っているのか疑問に思ったが、そんなことは大した問題ではない。

 黒板に書かれた時間割を見る。一時間目は数学だった。どうせ授業を受けられないなら宿題をやらなければよかったと思った。

 卓也は席を立つと、「水島君」と声をかけられた。女子の声だった。昨日の二人組が頭に浮かんだが、彼女らは休みだったことを思い出した。

 面倒に思いながらも声の主を見ると、普通の身長の肩までぎりぎり届かないくらいの長さのボブカットをした女子生徒だった。上目遣いに卓也の顔を見つめてくる彼女は一度も話したことのない名前の知らない女子群のうちの一人だった。

「……なにか」

「え、えっと。水島君もだよね? 会議室に呼ばれたの」

「はぁ」

「あの、良かったら一緒に行かない? 一人だと心細くて……」

 卓也はあきれ果てた。なぜ一度も話したことのない他人と一緒に行動しなければいけないのか。確かに女子はやれ連れションやらなんやら集団で行動したがるものだ。それは認めるとして、よりによってこんな時まで、しかも知らない男子相手でも一緒に行動したがるのか。

「心細いって……。他の奴らと行けばいいだろ。何人か呼ばれていただろ。あの……副担任に」

 女子は眉をひそめる。

「葵ちゃんや美穂ちゃんたちは今日学校休んでるじゃん」

 そうなのか。

「まぁ、なんにせよ僕はこの後トイレに行くんだ。だから悪いが一人で行ってくれ」

「えっ、それくらい待つから大丈夫だよ」

 大丈夫じゃないのはこっちだ。なぜ女子を待たせて用を足さなければいけないのか。落ち着いてできないだろ。

 だが彼女の中ではすでに一緒に行くことが決まったようだった。さっきまで露骨に強張っていたその顔はすっかりほぐれている。

「じゃあ終わったら迎えに来てね。私教室で待ってるから」

 ニコニコと卓也を見つめる彼女を見ているとどうしてもノーとは言えなかった。相手に聞こえない大きさの溜息を吐くと、観念して言った。

「もうトイレは良いよ。行くなら早く行こう」


 てっきり会議室に刑事が待ち構えているのかと思ったが、そこにいたのは藪沢と教頭と、顔だけは知っている学年主任の女性教諭だった。

 いつもの仏頂面に加えて疲れ果てた表情を隠そうとするそぶりも見せない藪沢は、卓也と女子を見て、目をしばたたかせた。

「水島と荻原だけか? 今田と田村はどうした?」

 なるほど、荻原という名前か。

怪訝な顔をした藪沢の目の下には大きな隈ができていた。もしかしたら昨晩紗彩の身元が特定されてからずっと学校にいたのかもしれない。

「今田さんたちは今日休みだと思います。ホームルームの時にはいませんでした」

 はきはきとした口調で荻原が答えてくれる。それにしても担任と副担任の間で出欠の連絡すら満足にされていないようで大丈夫だろうか。他人事ながら心配になる。


 話というのは想像していたよりずっと早く終わった。教頭と学年主任は隣でただ話を聞いているだけで何か質問してくることもなかった。藪沢の質問というのも紗彩は普段何をしているか、事件に巻き込まれた日は様子がおかしいところはなかったかなど想像の域を出るものはなかった。十五分ほど話を聞き終えて質問もなくなったのか教室に帰ることを許された。そして退室際に一言。

「刑事さんが昼休みにお前たちに話を聞きに来られるそうだ。だから悪いが四時間目が終わったらすぐまたここに来てくれ」

 給食はどうなりますか、と聞きたかったがそんな雰囲気ではない。こくりと頷き、会議室を後にした。

「水島君、警察だってさ。これって事情聴取ってやつだよね。私そんなの初めて受けるよ。水島君は受けたことある? 事情聴取」

 さっきまで教師たちの前では慇懃な言葉遣いだったのに、二人きりになった途端不謹慎なほどに砕けた口調で話しかけてくる。女子にしては低めの声だ。

「ま。ないよねそんなの。でもどうしようね、もしかして私たち容疑者に入ってるのかな。だとしたら怖いよねもし冤罪で捕まったらさ」

 卓也の方は一言も話していないのにどんどん言葉が押し寄せてくる。まだ知り合って一時間もたっていないぞ。其れなのになんだ、この馴れ馴れしさは。

「おい、ちょっと。いったん待ってくれ」

「なに? どうかした、水島君」

「どうかしたじゃない。まだほかのクラスは授業中だぞ。大声でしゃべるのは辞めた方がいい」

 すると何がおかしかったのかクスクスと笑い始めた。いったい何がおかしいのだろう。

「水島君って真面目だね。なんだか紗彩ちゃんみたい。授業中だから静かにって……フフッ。あーおかしい」

 卓也は目の前のこの女に呆気にとられた。確かに授業中だから静かにしろと言ったのは話を聞きつづけるのが面倒くさいから口から出た方便だ。だが言っていることにおかしいところなど何もない。

 ……それに。卓也は荻原と初めて話した時から感じていた違和感があった。今この場で確かめてみるのもいいだろう。卓也は一つ咳払いをした後、おもむろに切り出した。

「なあ荻原……さん」

「奈穂でいいよ」

「荻原さん。あんたは山本と仲がいいんだよな? 俺は二人の関係は知らないがそれは事実だろう。会議室に呼ばれるということは藪沢たちがどういうルートからかは知らないが交友関係があると踏んだ人物というわけだ」

 紗彩はクラスの人気者ポジションだ。それに部活や委員会も活動的に参加し、その交友関係はクラスや学年の隔てを感じさせない。それなのに今回呼ばれたのは卓也含めて四人だけだった。そのうち二人は家によく遊びに行くほどの関係と言っている。卓也が呼ばれたのは単純に幼馴染という理由もあるだろうが中一の時のあの一件と関係しているのだろう。

 ではこの女は、荻原奈穂はなぜ呼ばれた? 今話している分には萩原に紗彩と通じ合う部分は見いだせない。丸っきり正反対だ。

 だが、今は荻原の顔に浮かんでいる感情は歓楽でも憂愁でもなく、うまく言葉で表現することが出来ない複雑なものだった。

「うーん。紗彩と仲いいかと聞かれると微妙かな。確かに同じボランティア部だから話す機会は多いけどね。でも正直あの子は真面目すぎて融通効かないところもあったしあまり好きにはなれなかったな。……ごめん、死んじゃった後でこういうこと言うのって性格悪いよね。だから、正直あの子が事件に巻き込まれて死んだって聞いた時もショックだったし可哀そうだと思うけど泣くほどでもないから、ちょっと身の振り方に困ってたんだよね」

「正直だな」

「正直なのかな」

「俺も本音を言うとあんたとい一緒だ。山本と幼馴染だったし、中一のとき俺が不登校になったときにはあいつが根気強く家まで来てくれたおかげで学校に来ることもできた。最近もたまに一緒に家に帰ることもあった。そのせいかわからないが、俺は昨日、あいつが行方不明だと知って不安になったんだ」

 一息つく。自分は今何を話しているのだろうか。まぁなんでもいいか。

 横目で荻原の顔を覗く。話を聞いているのかいないのか、その顔はただ廊下の向こうを見つめていた。卓也は再び口を開く。

「夕方あの事件のニュースがテレビで流れていた。その時はまだ名前はおろか中学生だという事すら報道されていなかったが、俺はなぜかそれが山本じゃないかと思った。なんの根拠もない直感だ。俺は恐ろしくなった。心配になってすぐにどこかへ駆け出したくなった。もしあいつが巻き込まれていたら自分がどうなってしまうのかわからなかった。……被害者が山本紗彩だと知ったときは不思議となんとも思わなかった。心が動かなかった。薄情だよな。涙ひとつ出てこなかったし、今朝も家族に心配されたくらいだ」

 卓也は話を終えると自嘲的な笑みを浮かべた。柄にもないことを話した。あったばかりの他人に。だが不思議と嫌悪や後悔の念が浮かんでくることはなかった。むしろすがすがしさに似た何か別の感情があるような気がした。これは何だろうか。

「ねぇ、水谷君。多分君は私と似ていると思ったんだろうね。友達のはずなのに悲しむことが出来ないってさ。でも、それは違うよ」

 卓也は無言で聞く。

「私はあの子のために泣くことはできなかったんだもん。君とは違うよ」

「え?」

 とっさに発せられた自分の声がくぐもって聞こえた。これは……涙声というやつだ。

 卓也は歩足を止めた。萩原も立ち止まる。呼吸が荒くなる。顔が皺くちゃに変形していく。自分ではそうするつもりなどないのに。

 視界がぼやける。涙というやつだ。

 ふと背中に暖かいものが触れた。人の手だった。体温がカッターシャツ越しに身体に伝導する。盛夏の日差しが絶え間なく廊下に降り注ぐ中、卓也はその温もりを感じながら、事件以降初めて紗彩のことを考えた。


 蒸し暑い猛暑の中、卓也は一人道端に佇んでいた。半袖短パン姿でも暑さは情け容赦なく卓也の水分を奪っていく。ポケットに手を入れる。折り畳み式の財布の感触があった。薄っぺらい財布だ。

 卓也はノソノソと時間をかけて自販機に向かう。表面を赤いペンキで塗られた最もよく目にするタイプの自販機だ。スポーツ飲料を飲みたかったがそのボタンは二つとも赤いランプを灯していた。売り切れだ。

 仕方ないから水にしよう。そっちの方が安くて経済的だ。財布を開き、小銭入れを開ける。十円玉が数枚、申し訳程度の五円玉と一円玉がちらほら。

 仕方ない、紙幣があったはずだ。あまり小銭がたくさんあるのは好ましくないがこの際そんなこと言っていられない。紙幣入れを見る。そこには五千円札と二千円札がそれぞれ一枚ずつ。

 五千円札はまだわかる、だが二千円札なんて卓也は全く身に覚えがなかった。というより卓也は確かに千円札を二枚財布に入れておいたはずだ。数日前CDをお年玉の貯金から切り崩した一万円で会計したのだから。そのときお釣りで二千円札が帰ってきた記憶はない。

 いや……。たしか昨日。昨晩の姉との会話が思い起こされる。一週間ぶりに自宅に帰ってきた姉は、やたら上機嫌だった。いつものように素っ気ない卓也に、なぜか執拗に絡んできた。今にして思えば酔っていたのかもしれない。両親も姉も全く酒を飲まない人たちだから、卓也は酒に酔った人というものを見たことがなかった。というより彼女は素面でも酔っぱらっているな人だから判断がつかないのかもしれない。

「たっくん、ただいまぁ。おねぇちゃんがいなくて寂しかったかなぁ」

 リビングのソファで文庫本を読む卓也に絡みつくように迫ってくる。

「寂しくないよ。大丈夫」

 卓也は慣れた手つきでそれを払いのける。

「たっくんは冷たいなぁ。昔はあんなにいい子だったのにおねぇちゃんかなしいなぁ。最近だってたっくんは非行に走るんだもん。はーあ、昔は」

「……どこ行ってきたんだっけ? 沖縄だったか」

 卓也は言下に話題を変えた。嫌な話に持っていかれるのは防ぎたかったのだ。

「そうよぉ。沖縄はいいよねぇ。海はきれいで。でもごめんね、たっくんにお土産買ってくるの忘れちゃった」

「いいよ別に、姉さんも忙しかったんだろ」

 姉はにんまりと笑って卓也の隣に座った。

「やっぱりたっくん優しいね。お土産は買ってこれなかったけど、代わりにいいものもって来たからね」

 卓也は文庫本から顔を上げ姉の顔を見やる。

「いいもの?」

「うん、いいものだよ。多分明日になったら気づくからお楽しみに」

「はぁ?」

 怪訝な顔を浮かべる卓也など意に介す様子もなく、姉は階段を上がっていった。

「もう疲れたからお姉ちゃん寝るわぁ。おやしみー」

 

……なるほど。これがいいものか。だが、それにしてもだ。沖縄の土産で二千円札をくれるのは十分理解できる。しかしだからと言って中学生の弟の財布から千円札二枚を取るだろうか? それはプレゼントとは呼べないし、卓也はなんの利益も得ていない。それどころかこの炎天下、自販機の水すら変えないという不利益を被っている。

ふつふつと沸き起こる姉への恨みつらみ。体温が上昇していくのを感じる。いかんいかん、落ち着かなくては。それにしても遅いな。もうとっくに時間は過ぎているはずだ。

腕時計を見ようとしたちょうどその時、遠くから走り寄ってくる影が見えた。

「ごめーん! おまたせ!」

 走ってきたのはジーンズに白いTシャツ、その上に群青色のカーディガンを羽織った奈穂だった。詫びるように顔の前で合掌している。しかしその顔には微笑が浮かんでいる。

「もう少し遅かったら脱水症になっていた。早くどこかの店に入ろう」

「うん、私この辺にいい店知ってるんだ」

 自信満々にそう言った奈穂に、卓也は少し畏敬の念を抱いた。卓也は喫茶店など片手で数えるほどしか入ったことがない。それもすべて姉の付き添いで。そい言い張れるとは通なのだろうか。


「どう? おいしいでしょ、ここのカフェラテ」

 二人掛けのテーブル席の向かい側から満面の笑みでそう尋ねてくる奈穂にどう応えてよいものか迷った。連れてこられたのは卓也でも名前を知っているような有名なコーヒーチェーン店だった。やや値を張るコーヒーとおしゃれな空間が女子中高生にとってのあこがれの場所だというのは聞いたことがある。しかしだ。

「なぁ、普通いい店知ってるっていうときには個人店に行くものだと思うだろ」

 奈穂は首を傾ける。

「君はそういうところがあるから友達がいないんじゃないかな。そう思っても言わないのが社会でのルールだよ」

「そういうもんか」

「そういうもんだよ。それに、おいしいでしょ? カフェラテ」

 先ほどの質問を重ねてくる。

「俺はコーヒーの味は分からんが。これは苦いな」

 奈穂はそれを聞くと目を細め、鼻で笑った。なんだか無性に腹が立ったが何とか気を収める。女に腹が立っても怒らないスキルは姉と過ごした十五年間で鍛えられたのだ。

 卓也は無言でアイスカフェラテを半分ほど飲み切ると、奈穂の目を見据えて呟いた。

「それで……今日俺を呼んだ理由はなんだ?」

 しかし奈穂は目を丸くして二、三回瞬きをした。卓也は自分の声が聞こえなかったのかと思い、もう一度同じ言葉を繰り返した。

「今日俺を呼んだ理由は」

「そんなの決まってるじゃん」

 はつらつとした声で言葉を遮られた。卓也は気分を害したのだが、奈穂はそれに全く気付いていない様子だった。

「ただ君と一緒に遊びたかったんだよ。理由なんてそれだけ」

 照れる様子などおくびにも出さないその様相に、なぜか卓也の方が照れくささを感じ赤面した。

「まぁ、なんにしろだ。どこか行く当てがあるんだろ? それを教えてくれ」

 つまらなさそうな溜息を一つ吐いたあと、渋々と言った様子で教えてくれた。

「公園だよ。多分水島君も知っているところ」

「公園? なんでまたそんなところに」

 奈穂はアイスコーヒーの入ったグラスをストローでかき混ぜる。氷がカラカラと心地よい音を立てた。

「私さ、実は藪沢先生にも警察にも言ってなかったことがあるんだ。前委員会の関係で紗彩と二人で仕事してた時にポロってこぼしてたんだ。最近はよく公園にいるってさ。だから、もしかしたらあの日の夕方も公園にいたのかもしれないなって」

「それ、本当か? どうして警察に言わなかったんだ」

「違うの、そうじゃない。ええと、忘れてたっていうか。実はそれ昨日の朝思い出したんだ。だから……」

「そうか、じゃあ一足遅かったんだな」

「うん……」

 しばらくの沈黙の後、卓也は至極当然の疑問を口にする。

「……で、その公園に何しに行くんだ? もう犯人は捕まったんだ。俺たちにできることなんて何もないだろ」

 奈穂は目を伏せた。今日の奈穂の様子は少しおかしい、物静かというかなんというか……そうだ、煩くない。と言ってもまだあって数日しか経っていないからそう判断するにはいささか早急かもしれない。もしかしたら卓也の知っている奈穂の様子がおかしかったのかもしれない。そっちの方が理解できる。

「それは……。あの、こんなこと言ったら変だと思うのは分かってるけど、でも私あのニュース見た時からずっともやもやしてて。でも、なんていうか」

 卓也の視線は彼女の顔から動かない。今目を逸らしたら重要なものを見過ごしてしまう気がしたからだった。十分な間をおいて、彼女の唇が開いた。

「本当に紗彩は援助交際なんてやっていたのかなって思っちゃったの。……私、あの子が事件に巻き込まれる前まではあんまり好きじゃなかった。私とはあまりそりが合わないし、ちょっと掃除サボっただけでも親や教師みたいに叱ってきて、どちらかというと嫌いだったかもしれない。今にして思うと反発してたんだよね」

 卓也は無言で話を促す。奈穂は自嘲気味に微笑んで話を続けた。

「でも、紗彩が亡くなったって聞いて……正確には水島君の話を聞いて、紗彩のことを色々思い出したんだ。あの子の事全くわかってなかったんだって気づいた。それはテレビで流れているような美談ばかりじゃ無くてくだらない冗談だったり、欠伸をかみ殺して授業を受ける姿だったり、……好きな人の話だったり」

 卓也は初めて相槌を打った。奈穂は気まずそうに店内に視線を巡らせる。卓也と目を合わせたくないのだろう。卓也は彼女の気持ちが分かった気がした。なぜなら卓也も奈穂と目を合わせるのが気まずかったからだ。

だが、彼女の考えばかり話させるのもフェアじゃない。卓也は咳ばらいをしてから彼女と向き合った。

「実のところを言うとだな」

 上目遣いで卓也を見る。卓也は心臓の鼓動のペースが増すのがわかった。彼女のことを意識したせいか平常心を保つのが難しい。もう一度咳払い。

「俺だって微塵もあいつが援助交際した結果頭のおかしい奴らに捕まって殺されたなんて思っていない。あんたのことを試すようなことを言ってしまってすまない。だが俺の決心は一度たりとも揺らいだことがない」

 奈穂は今にも涙を流しそうな顔のままテーブルの一点を見つめた。だがその口角は上がっているのがわかる。

「俺はあいつと幼馴染だ。一応な。確かに俺はあいつのことは知っているようで何も知らない。ひょっとしたら本当に売春していたのかもしれない。だとしたら何か理由があったはずだ。俺はそれを知りたい。俺は俺の記憶の中のあいつを信じたいんだ」

 卓也がそう言い切ると漸く奈穂が顔を上げた。その顔はもう涙で濡れていた。だが晴れ晴れとした顔だった。

 その顔を見た途端、卓也は心の中で何かが揺れ動いた気がした。だが今はそれに気づかない振りをしよう。

「じゃあいくか。善は急げだ。その公園の名前は?」

 彼女は答える。卓也もよく知っている公園だった。

 それは何気なく聞いた一言だった。その答えは予想の範囲内だったはずだ。紗彩は昔卓也のアパートの近くに住んでいたのだ。お気に入りの場所がそこであっても何ら不思議はない。

 だが卓也はその答えに、不吉なものを感じずにはいられなかった。それは紗彩が姿を消した翌日、リビングで姉の背中越しにテレビを見た時に感じたそれと同種のものだった。

 卓也の異変に気付いた奈穂がおずおずと、か細い声で尋ねてきた。彼女の大きな栗色の瞳には憂色が浮かんでいた。

「水島君……大丈夫? 顔色が悪いし、震えてるよ」

 冷や汗が絶え間なく流れ出てくる。冷房の効いた店内は今の卓也には寒すぎた。眼球は顫動し、焦点が定まらない。指先から血の気が失せ、震える。どこからどう見ても平静には見えないことを承知の上で、脆く今にも壊れてしまいそうな声で答える。

「大丈夫……。大丈夫だ」


 激烈な暑気のため、人数は少ないものと踏んでいたが、好天に恵まれた休日の力は侮れない。親子連れから散歩する老人、サッカーに興じる子供たちなどまさに老若男女問わず瑞々しい新緑の芝生の上で盛夏のひと時を過ごしていた。

 卓也はこの中央公園に訪れたのは実に二年ぶりだった。だが二年という時間は短い。公園は卓也の記憶にあるままの姿で今ここに存在している。

 公園と言っても遊具などがあるわけではなく、主に敷き詰められた芝生による広場だけのものだ。申し訳程度に敷地の片隅に小さな噴水とベンチなどが置いてあるが、平坦ンあ原っぱと人工的に作られた大小の池、水の流れや斜面緑地がその大部分を占めており、それを囲むようにして何重ものイチョウの木が植えられている。秋になると黄色の絨毯ができてとても奇麗だった。南側にはソメイヨシノや糸枝垂れ、山桜の木も植えられており、陽春になると花見に来る住民も少なくない。また、今くらいの暖かい季節にはテントを張っている家族の姿も散見される。

広場という体ではあるが、実際にはいくつもの死角があり、卓也は小学生の時などは風通しの良い日陰で一日中漫画本を読んでいたこともあった。

「それで、公園に来たのは良いが。これからどうするか……」

 卓也は額の汗を拭いながら言った。だが返事は帰ってこない。横を見ると、確かに奈穂はいた。だが様子がおかしい。彼女は口を半開きにして焦点の合わない目で虚空を睨んでいた。有り体に言うと上の空と言った様子だった。

「おい、どうした。大丈夫か」

慌てて彼女の肩を掴んで声をかける。幸い奈穂はすぐ正気を解き戻したようだった。双眸に光が戻ると、すぐ目の前に卓也がいることに驚いたようだった。

「あっ、ごめんね。なんだかぼーっとしちゃって、熱中症になりかけてたのかも。でももう大丈夫だから。……それより、水島君の方こそ本当に具合が悪かったりしてない? その、さっきはちょっと体調が悪そうだったから」

 それを聞いて卓也は合点した。今、彼女は卓也のことを案じていたのだ。

 確かに先ほどは明らかに意識が昏迷していた。それはこの中央公園の名前を聞いたからだ。だが、実際にこう来てみると不思議と気分は落ち着いている。懐かしさすら覚えるほどだ。

 何の気なしに公園を歩いてみる。公園には二、三の公衆トイレが設置してあるが、その利用者は少ない。公園のすぐ隣には市立図書館が立てられているからだ。お世辞にも清掃が行き届いているとは言えない公衆トイレを使うよりは、近年改装工事が行われた衛生的な図書館のトイレを使う利用者が多い。それに以前は公衆トイレの周りは明かりが少なかったという理由もあるだろう。夕暮れ時の薄暗い時間帯に使うことは特に女性にとっては躊躇われたことだろう。

 中心部に近づくといくつかの池が見えてくる。この公園を設計した人物が何を考えてこの人工池を作ろうと言い出したのかはわからないが、利用者からはあまり評判は良くない。それというのも夏が近づくとボウフラが発生するのだ。そのため蚊が増え、テントを張っているような人達にとっては最大の天敵とも言えるだろう。

 ふと前方に注意を向けると、藻が繁殖して鶯色をしたその池に数人の子どもたちが入り込んで遊んでいるのが見えた。小学校中学年くらいだろうか。卓也は思わず顔をしかめた。あまりあっちの方には近づかないことにしよう。水しぶきが飛んで来たら困る。

 さりげなく背後に目をやると、奈穂がついてきているのが確認できた。奈穂も公園中に視線を巡らせているようだった。だがその理由は卓也のような懐古の念によるものでないことは分かる。紗彩の事件につながるきっかけを探しているのだろう。

 卓也は確かに紗彩が援助交際を行っていたなんて微塵も信じていないし、バカバカしいとすら思う。この公園に紗彩が来ていたのも事実なのかもしれない。だがこの公園を調査するという行動を冷ややかに思ってしまっているのも否めない事実だった。奈穂には悪いが、この公園を踏査することは無意味だろう。だが、ここまでついてきたのは奈穂の思いを踏みにじりたくないからで、ついでに自分が冷たい男だと思われたくないという利己的なものだということも自覚していた。

 彼女の気が住むまでとことん付き合ってあげよう、そう思ったとき不意にある疑問が浮かんできた。

紗彩はなぜこの公園にいたんだ? 

卓也は奈穂からこの話を聞いた時、その理由は昔住んでいた頃を思い偲んでのことだと思った。しかし、なぜ彼女はこの数日立て続けに公園に来る必要があったのだろう。確かに普通に暮らしていて昔住んでいた場所に帰りたくなる瞬間というのはあるだろう。卓也は生憎物心ついた時からずっと同じ場所に暮らしていたからそのような気分は味わったことがないが、この公園に思いを馳せたようなことなら理解できる。それ自体は何もおかしいことではない。だがその場所に連日訪れるというのは少し異質なことのような気がする。それも彼女は奈穂にこの町に来ると言ったわけではなくこの公園に来るといったのだ。その真意はなんだ。あの日から頭の中を渦巻いているアイデアがある。だがそれはまだ点として存在するだけだ。紗彩が死んだという現実とどう繋がってくるのかはまだわからなかった。

卓也は首だけを回して彼女と目を合わせる。

「なぁ、ちょっと聞いてもいいか」

「ん。なに?」

 奈穂は怪しむ素振りなど全く見せずに答える。

「紗彩はこの公園にいるって言ってたんだろ? それはどういう話の流れでそうなったんだ? ほかに何か言ってなかったか? どうして公園にいるのかとか」

 その瞬間、奈穂の表情が曇ったのを卓也は見逃さなかった。何か後ろめたいことでもあるかのように露骨に視線を合わせようとしない。一呼吸分ほどの間を置いた後、彼女の顔があげられ卓也と浮き合った。

「それって、どうしても知らなきゃいけないことなのかな」

 彼女の弱弱しい光が浮かぶその瞳を見て、卓也は気づいた。というより雲のような不定形で頭の中に浮かんでいたものが取り除かれて、その中に包まれたものが見えたといったほうが正確なのかもしれない。半ば開き直りとすら思えるその態度だったが、卓也はその言葉の意味することが分かったのだ。

「いや……もういい。わかったよ。気を使わせて、すまなかったな」

 だが彼女の表情は晴れない。今だその胸中には大きく膨らんだ迷いが淀んでいるのだろう。打ち明けるべきか、それとも黙っているべきかというのは一人の中学生にとっては大きすぎる選択だろう。

 しかし、彼女は話した。それはほぼ卓也の想像通りのものだったが、それを確認できたということが、何より奈穂の口からそれを聞けたことがうれしかった。


「結局、何も見つからなかったね……」

 西日に横顔を照らされながら、残念そうな顔で奈穂は言った。あれから公園中を探し回った。三百メートル平方もの敷地内のベンチを回ったり、普段から利用していそうな人に話を聞いてみたりした。だが誰に聞いても首を振るだけで、探偵ごっこを中学生にまともに話を聞いてくれる人物などいなかった。

 十七時を回り、人の姿も少なくなってきた。これ以上いてもきっと意味はないだろう。

「……今日は引き上げるとするか」

 今日は、と言ったのは奈穂に対する情けから来たやさしさだった。気が済むまで何度でも付き合ってやるという意思表示だった。

「うん」

 物憂げにそう呟く彼女の顔は、ひどく悲しげだった。とぼとぼと歩く奈穂の後をついて行く。待ち合わせした時の覇気はどこへ行ってしまったのだろう。その背中はとても小さく見えた。

 噴水の近くを通りがかったとき、不意に水しぶきが上がった。その巻き上げられた水は日光に照らされ虹を作る。ミスト状になった水滴がこちらに飛んだが、火照った体が冷やされたため不快な気分にはならなかった。

 その時、奈穂は噴水前のベンチに座っている人影に気付いた。これが最後と決めたのだろうか、空元気を振り絞って少し駆け足で向かっていく。卓也はゆっくりとその方向へ歩を進める。

 そこに座っていたのは若い男だった。がっしりとした肩幅に、膨れ上がった大胸筋。薄いTシャツ姿なのが、その恵まれた体躯をより印象付けていた。

「すみません、ちょっといいですか?」

 奈穂が控えめに声をかける。この数時間に何十回も発したセリフだ。若い男はその声にやや驚いた表情をした後、和やかに微笑みかけた。

「ええ、どうしました?」

 低いがよく通る声。

 奈穂は卓也の方へ振り返る。男も自然と卓也に目が行く。

「あの、この一か月くらいの間、K中学校の制服を着た女の子がこの公園に来ていたんですけど、心当たりはありませんか? 多分夕方くらいの時間だったと思うんですけど」

 男は顎に手をやり、しばらく考え込む様子を見せた。そして、何度か一人で頷いた後、尋ね返してきた。

「それって、長い髪をしたおとなしそうな女の子の事かい?」

 奈穂は目を大きく開いた。

「そうです、きっとその子です! あの、詳しく教えてもらえませんか? 私たち彼女の事を調べているんです」

 早口に捲し立てる奈穂とは対照的に、その男は落ち着いた様子だった。

「君たちはあの子のクラスメイトかい? ……にしても調べてるって、直接その子と話せばいいじゃないか。何かのっぴきならない理由でもあるの?」

 奈穂は言葉に詰まった。それもそうだろう。赤の他人に紗彩の事件のことを話すのは躊躇われるに違いない。ましてや奈穂たちがいましていることと言えばただの探偵ごっこだ。彼女は自覚こそはないものの、心の奥底で気づいているはずだ。自分が今していることは好奇心に任せて死者の過去を暴くという、健全ではない行為なのだということを。

 それにしても、この男は性格が悪い。なぜ知らないふりをするのだ。こんなことは台本にはなかったはずだ。

 卓也の苛つきを悟ったのか、男は鼻息を一つついた後で、話を切り出した。

「まあいいよ。君たちになにか理由があるのは分かった。彼女は……確か一週間くらい前に見たよ。ちょうどこのベンチから見てたんだ。ええと、あそこのベンチかな」

男は今座っているベンチと噴水をつないだ直線の、ちょうど反対の位置にあるベンチを指さした。

「もしかして一週間前って、二十三日の事ですか?」

 卓也は男に訊いた。ずっと黙っていて奈穂に怪しまれても面倒だからだ。

「二十三日って言うと……金曜日か。うん、そうだ。僕があの子を見たのは二十三日の夕方だ」

「そっ、その時、彼女はどんな様子でしたか? なにかおかしいところとかありませんでしたか? 誰かと待ち合わせしていたりとかっ! 他に誰かいませんでしたか!」

 奈穂の口は次々と言葉を吐き出していく。卓也は少々驚いた。奈穂はこの公園を援助交際の待ち合わせ場所に使ったと考えていたのだ。なるほど、口では信じるなどと言っておいてやはり本心ではその考えで頭がいっぱいだったのだろう。

 男は平然とした様子で答える。

「うん、確かいたよ。中年の男の人と一緒だった。楽しそうに話していたな」

 それを聞いた瞬間、奈穂の喉から声ともつかない息が音を上げた。唇が震えている。彼女はゆっくりと首を動かし、卓也の顔と向き合った。何か言いたげな顔だったが卓也にはそれを読み取ることが出来なかった。

 収穫があった喜びなのか、紗彩が援助交際をしていた可能性があることへのショックなのか、それとも自分の想像の中の紗彩との乖離による喪失感なのか。それともすべてかもしれない。

 奈穂は俯いた。そして風の音に消えてしまいそうな、か細い声で呟いた。

「その後、彼女がどこへ行ったのかわかりますか?」

 男は、頷いた。

「うん、彼女たちはね。……ちょっと待ってね」

 男はズボンのポケットからスマホを取り出した。画面を二、三度タップし、耳元にあてる。傍から見たらバイブレーションが鳴ったから電話に出たように見えるだろう。単純だがなかなか嘘とは思わない。

 男は電話をしながらいくつか生返事を返した。三十秒ほどして、不機嫌そうにため息を吐いて、スマホを再びポケットにしまった。

「ああ、ごめんね。話してあげたいのはやまやまだけど、ちょっと急用ができたからすぐ帰らなきゃいけない。――まぁそういう友達のことは直接話したほうがいいと思うよ。じゃあね」

 男は立ち上がり、出口の方へ歩いていく。奈穂は慌てて男の後を追う。

「待ってください! あの……そうだ、連絡先教えてもらえませんか?」

「あのねぇ。いくら君が子供と言ってもそんなどこの誰かもわからない他人に連絡先教えるほど不用心じゃないよ」

 あきれた様子で答える。これは間違いなく正論だろう。だが、奈穂はまだ離さない。

「えっと、あの。でも、私あの子のことがどうしても知りたいんです……」

「だからそういうのは直接……」

「亡くなったんです」

 静寂が漂う。奈穂は今にも泣きそうな顔になりながら、男の袖をつかんで離さない。彼は観念したように息を吐きだすと、

「わかった、家まで歩きだからその間だけなら話をしてあげるよ。それでいいだろ?」と言った。

 奈穂は涙で潤んだ瞳を輝かせ、ありがとうございますと小さく言った。


「それで、珍しいなって思ってたんだよ。あの公園に制服姿の中学生が来ることなんてほとんどないからね。それも女の子が。しかもずっとスマートフォンを見ながら時々辺りをちらちら見るのね。まるで誰かを探しているみたいにさ。そしてしばらくしたら中年の男の人がやってきた。スーツ姿のね」

 路地裏を早歩きで進む男に置いて行かれないように必死についている奈穂。メモを取りながらなので時々電柱などにぶつかりそうになる。見ていて危なっかしい。

 この道は卓也にとって慣れ親しんだ道だ。家のあたりというわけではないが、小学校の友達の家に遊びに行くときなどはよく通ったものだ。だが、校舎を挟んでほぼ間反対の場所にクラス奈穂にとっては全く知らない道だろう。それでも奈穂は勇敢に知らない大人の後をついて行く――卓也がついているからというのもあるだろうが。

「その男の人の特徴はどんな感じでしたか?」

 奈穂は息切れしながらも、質問は続ける。この限られた時間を最大限に利用しようという彼女の強い意志が感じられる。

「うーん、特に印象のない人だったからなぁ。あえて言えば少し太ってたくらいで。……でも中年のサラリーマンなんてみんな太ってるから参考にならないよね。はは」

「二人はどんな雰囲気でしたか? 例えば……親子みたいだとか、教師と生徒みたいだとか……初対面みたいだとか」

 最後の一言だけ囁くような声になったのは彼女の葛藤の表れなのだろう。しかし男は気に留める様子もなく平然と答える。

「あれは初対面だね。正直言って、最初はパパ活ってやつか? って思ったくらいだもん。女の子はすっかり緊張しちゃっておっさんの方はニタニタ笑っててさ」

 彼女の顔が暗くなる。

「でも、普通に考えたら違うよね。ああいうのの待ち合わせにこんな住宅街の中の公園を選ぶわけないよね。普通もっとホテルとかが近くの……」

 男はそれ以上言うのは自重したようだ。しばらく無言の時間が続いた。奈穂は矢も楯もたまらずといった様子で追及を続けようと口を開いた。しかし、奈穂の言葉より先に男の声が響いた。ひどくぶっきらぼうな冷たい温度をした声だった。

「着いた。じゃあ、申し訳ないけど」

 目の前にはアパートがあった。二階建ての六世帯までが住める小さな古いアパートだ。

住宅街に位置するはずだが、不思議と人影は一切見当たらなかった。ひどく静かなこの路地裏は、まるでこの世界には僕たちだけしかいないかのような錯覚に陥らせた。

 奈穂は唇をかんだ。口惜しさと苛立ちが混ざり合ったような表情で肉惜し気に目の先にあるアパートを睨んだ。

 男はそんな奈穂を見て、小さく笑った。そして体の正面をこちらに向けたかと思うと、低い声で呟いた。

「よかったら、部屋まで来る? 紗彩ちゃんの一部もあるんだ、見せてあげるよ」

奈穂はその言葉の意味を理解できなかったようで、口を半開きにしたまま思案しているようだった。そして少し間をおいてから、

「え……?」と素っ頓狂な声で訊き返した。

 男は笑みを浮かべると、もう一度言葉を発した。やっと男の意を理解した彼女は動揺を隠せていなかった。彼女の眼球はしきりに顫動し、体は露骨に強張っていた。

 男は続ける。

「ごめんね。君には二つ謝らないといけないことがあるんだ」

「謝る……?」

「うん、一つはいました話は全部全くの出鱈目ということ。そしてもう一つは君の友達の紗彩ちゃんを殺したことだ」

 ヒュウという風が通り抜けるような音が聞こえた。そして間もなく彼女の肩が震え出した。

「えっ、えっ、えっ」

 奈穂は男の顔を見つめながら、言葉なのか吐息なのか判別できないくらいのか細い声を発した。それは何かを尋ねているようにも思えたが卓也には判別できなかった。

「でも紗彩ちゃんを公園で見かけたのは本当だよ。僕が彼女に声をかけたんだからね。……だからあの子が援助交際をやっていたなんてことは一切ない。僕が保証するよ」

 彼女はゆっくりとした動作で卓也に顔を向けた。今にも泣きだしそうな顔だった。瞳に灯った弱弱しい光が涙に揺れていた。

 卓也は無言で彼女に近づき、手を握った。奈穂の小さな手は汗ばんでいて、夏だというのにとても冷たかった。

「行こう」

 卓也が耳元で囁くと、彼女の腕に力が入り、瞳孔が開くのが見えた。

「どうして……?」

 彼女の切実な疑問に卓也は答えなかった。彼女の手を引き、こちらの様子をうかがっている男を追い越してアパートの階段を上がった。つないだ手は一瞬引き留められたが、すぐに観念したかのように卓也に追従した。

「ねぇ、どうして?」

 背後からまた声が聞こえた。卓也は振り返らない。だが言葉は続く。

「ねぇ、どうして卓也は部屋の場所を知っているの?」

 卓也は答える。

「来たことがあるから」

 それ以上彼女の言葉は続かなかった。


 卓也が初めてこのアパートに訪れたのはニュースで紗彩の死を知った翌日だった。その日の朝はいつも道理朝食を食べ、いつも通り学校へ行った。教師や警察に事情聴取を受けるといったこと以外は何事もなく終わったといっていいだろう。ただ一つ言及すべきことがあるとしたら、それは警察に一つ嘘をついたということだ。

 藪沢に指定された通り四時間目の後、会議室へ行くとドアの前で藪沢が待っていた。

 藪沢たちと話した時とは違って、卓也と奈穂は別々に話を聞くということらしい。最初に話すのは奈穂だった。卓也は廊下で待たされた。

いつの間にか藪沢もどこかに行ってしまい、椅子もない暑い廊下で一人、立つことになった。ニ十分くらいたったころだろうか、上の階から給食中の生徒の騒がしい声が聞こえてきた。内容までは聞き取れないが、これのトーンからして楽しい話なのだろう。そう思ってすぐ気づく、おそらく紗彩の話だ。

卓也はため息をついた。懸案事項が一つあった。それは一人の中学生の自分には大きすぎる問題だった。

考えあぐねてもう一度ため息をついた時、会議室のドアが開いた。奈穂は職員室を出るときのように部屋に向かってぺこりとお辞儀をして、失礼しました、と言った。

ドアを閉めて、奈穂は卓也に近づいて、

「次、卓也だって」と声を潜めて言った。

 卓也は頷き、会議室に向かった。すると後ろから、

「私、先帰ってるからね。またあとで」という声がした。

 わざわざ言う必要などないのに、と思いながら右手を上げた。


 会議室に入ると、エアコンの効いた部屋で二人の刑事が待っていた。教員はいなかった。刑事という生き物はドラマで見るような強面の高圧的な人間しかいないと思っていたため、正直最初は呆気にとられた。小太りの温和そうな若い男と好々爺一歩手前といった初老の男だった。汗だくでしきりにハンカチで額を拭う二人は、言われなければ警察の人間だと気づかなかっただろう。

一脚のパイプ椅子が長机の前に置いてあり、向かい側に刑事たちが座っていた。椅子を勧められ、おずおずと腰を下ろした。高校入試の面接のときを思い出していた。

はじめは軽い雑談のようなものだった。二人の刑事は名を名乗り――警察手帳を見せるようなことはなかった――給食の時間にごめんね、と詫びた。

 そして次に藪沢たちに聞かれたことと似た質問をされた。卓也は藪沢たちに応えたようなことを話す。

 その間卓也はずっと心臓がドクドクと今にも音を出して破裂しそうなほど大きく振動していた。卓也には刑事たちに言わなければならないことがあったのだ。だがそれを言うかどうかをずっと考えていた。……だが。

「じゃあ、何かほかに気付いたことはないかな? どんな些細なことでもいいんだけど」

 温和そうな小太りの刑事が訊いた。

 卓也は腹をくくった。ひょっとしたら朝奈穂に胸の内を打ち明けたせいかもしれない。

「実は、先生たちにはいってないことがあるんです。……あの日、山本さんが事件に巻き込まれた日、山本さんと通話したんです」

 刹那、二人の刑事の目の色が変わるのが分かった。四つの鋭い眼光が卓也に向けられた。今すぐ逃げ出したかった。撤回したかった。だがもう引き下がることはできない。

「事件に巻き込まれた日っていうのは、一昨日、二十三日だね。その通話は山本紗彩さんからかけてきたものかい? 内容はどんなものだった?」

 卓也は気づいた。刑事たちは既にこのことを知っているのだ。なるほど、見た目はそうでも生粋の刑事であることは間違いなさそうだ。卓也は鎌をかけられたのだ。

「はい、山本さんからでした。……時間は、十七時くらいだったと思います。正確な時間は多分履歴を見たらわかると思います。……それで、内容はすべて覚えているわけではないんですけど、……今どこかのホテルに向かっているって言っていました」

 初老の刑事の眉がピクリと動いた。卓也は続ける。

「あの、それで。どういうことなのか訊いたら、今パパ活をしているんだ、と」

「パパ活……」若い刑事が呟いた。だがそれは意味を持って発言された言葉ではないようだった。すぐに初老の刑事が、「続けて」と言った。

「どうしてそんなことを僕に伝えたのか気になって尋ねたら、一言だけ。嫉妬した? と答えました。それで僕は冗談だと思って問いただそうとしたら、向こうから男の人の声がして、すぐ電話は切られました」


 その後、警察に事細かに質問を投げかけてきた。通話時間、彼女の様子、男の声、その時何処にいたのか……。すべての質問に答え終え、やっと解放された時には給食の時間はおろか放課後になっていた。

 警察は帰り際に、また話を聞くと思うけど、と言い残して去っていった。刑事が去ると、すぐさま教頭と学年主任が駆け寄ってきた。どんな話をしたのか聞くつもりなのだろうが、卓也は疲れたので帰らしてくださいと言うと、すんなりと開放してもらえた。

荷物を取りに教室に戻ると、誰もいなかった。夜から保護者向けの説明会が行われるため、生徒は授業が終わり次第、下校を強いられたのだ。

荷物を持って階段を降りると、そこには藪沢が待っていた。曰く、家まで送ってくれるとのことだった。だが、卓也は断った。本当なら言葉に甘えてさっさと家に帰って眠りにつきたかったが、どうしても行かなければならない場所があったのだ。


その場所はすぐ見つかった。スマートフォンの地図アプリは学校のすぐそばを示していた。紗彩からの通話の本当の内容、それは紗彩が今いる場所だった。最初は何かのいたずらかと思った。ガサガサと布ずれの音だけが聞こえてきた。だが、耳を澄ましてみると彼女の震えるようなか細い声が微かに聞こえた。最初は鞄かポケットの中で間違えて発信されたのかと思ったが、彼女の声は確かに意思を持って何かを伝えようとしていた。そしてその声が伝えてくるのは深刻な状況そのものだった。彼女はしきりにアパートの名前を呟いていた。聞いたことのないアパートだった。卓也が「どうした? 説明しろ」と言っても、返ってくる言葉は「助けて、助けて」という鳴き声だけで会話にならなかった。

だが、今になって考えると彼女は命の危険を感じていたのだ。そしてその瀬戸際、彼女が頼ったのは警察でも親でもなく卓也だった。それが意味する本当のところは分からない。しかし一つ確実に言えることは卓也は彼女の死に間接的に加担したということだ。

絶え間なく湧き出てくるアドレナリンのせいか、恐怖を感じることはなかった。ただあるのはただ一つ、自分はできるという全能感だけだ。

 彼女が見つかったのは違う町のはずだったが、彼女が公園で犯人と出会ったとしたらこのアパートが現場だとしてもおかしくない。あるいはこのアパートに来た後場所を移動したのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 卓也は郵便ポストを見た。計六つのポストが二行三列になって並んでいる。さすがに部屋番号までは分からないかと思ったが、目当ての部屋はすぐわかった。直感と言っていい、入居者募集の札が貼られていなく、適度にチラシが溜まっていて、名前が書かれていない、中途半端に開かれたポスト、203号室。

 階段を上がり、ドアの前に立った。通路に面している窓は分厚いカーテンが張られている。チャイムを鳴らす。少し間をおいて部屋の中からピンポンという音が聞こえた。

 留守でないことを願った。今日を逃したら卓也が対面する機会は一生損なわれるかもしれないのだ。警察に先を越されることだけは避けたかった。

 ドアを開けたのは若い男だった。細い目が訝し気に卓也に向けられた。

「……なにか?」

 神経質そうな顔をした男は尋ねてくる。意外に高い声だった。卓也はこの男が犯人なのか判断がつかなかった。犯人だと思えばそう見えてくるし、違うと思えば普通の青年に思えてくる。つまりなんの特徴もないどこにでもいそうな見た目だった。特筆すべきことがあるとすればやや筋肉質というくらいか。

 卓也は一瞬躊躇したが、もう今更引き返すことはできない。

「あの、山本紗彩さんを知っていますか?」

 卓也は臆することなく聞いた。すると男の目の色が露骨に変わった。最初は衝撃、次に緊張、最後に敵意。大きく開かれた彼の瞳は卓也に敵意を滲ませていた。逃げるべきだろうか――いや。

「山本さんを知っているんですね」

 卓也問い詰める。背中に冷や汗をかき、喉が渇く。だが卓也の目は男を見据えて離れない。これは単なる意地だったのかもしれない。

「うん、知ってるよ」男が答える。

「君は紗彩ちゃんのなにかな? クラスメート? 友達? 恋人かな。どうやってこの場所を知ったんだ?」

 男はあくまで淡々とした口調で話す。

「あなたには関係ないでしょう。ただ、僕はあなたに会って話をしたかった」

 男は眉を顰める。そして薄ら笑いを浮かべながら言う。

「話? 彼女をどうやって殺したかを話してほしいのか?」

「あなたは余裕を気取ってるんだろうが内心はヒヤヒヤしているはずだ。僕がどこまで知っているのか、それを誰に話したのかが気になっているんだろう。だからそんな軽口をたたいて自分を落ち着けようとしているんだ」

 男は鼻で笑う。

「最近の中学生は精神分析まで勉強しているのか。だが君の推理は外れだ。僕は別に警察に捕まることなんて怖くない」

「嘘だ」

「疑り深いな。……まぁなんにせよ外は暑いだろ、中に入れよ」

「僕も殺す気か?」

「君はそれを覚悟のうえでここに来たはずだろ? ……大丈夫、殺しはしないよ。僕も話したいことがある」

「入ると思うか?」

「入るさ。君はここまで来たんだからな」

 卓也には返す言葉が見つからなかった。

 通された奥の部屋は普通の独身男性の生活スペースと言った印象だった。雑誌類や脱ぎ散らかされた下着や中途半端に飲み残されたペットボトルが散乱しているが、ゴミ屋敷というほどではない。卓也は座卓の入り口に近い方に腰を下ろした。座布団を渡されたが、使わなかった。

キッチンから戻ってきた男は両手にコップを持っていた。そして片方を卓也に渡す。入っているのは氷が入った薄茶色の液体。

「麦茶だ。毒なんか入ってないから安心しろ」

 そういいながら男は喉を鳴らして飲んだ。だが、卓也が無言のままでいるのを見て、

「そんなに怖いなら僕のと交換するか?」と言い、男はせせら笑う。

 卓也は黙ってコップの中身を半分ほど飲みほした。火照った体に液体が染み渡り、心地よい清涼感を覚えた。コップを机の上に置こうとしたが、物で溢れていてスペースがなかったから床に置いた。ここで初めて、机の上に二人分の食器が置いてあることに気付いた。同居人がいるのだろうか。――あるいは共犯者か。

 男は満足そうな表情で微笑むと、本題を切り出した。

「それで、君の話から聞こうか。君がここへ来たのは何の目的でかな」

「僕がここへ来たのは、あなたを殺したいと思ったからだ」

 それを聞いて、男は目を丸くした。そして瞬く間に驚きは嗤笑へと変化した。

「なるほど、かたき討ちというわけか。そんなにあの子が好きだったのか、悪いことをした。……だが、君に僕を殺せるかな? 何か秘密道具でも持ってきてなきゃ厳しいと思うぞ」

 男は大げさに両手を広げておどけて見せた。

「……殺しに来たんじゃない。殺したいと思ったから来たんだ。僕は今、あなたを殺すつもりはない。今ある思いは話を聞きたい。ただそれだけだ」

「僕が何を思って彼女をレイプし、殺したかという事がか?」

 卓也はうなずく。男は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、すぐにそれは笑みに変わり、おかしくて仕方がないといった様子で、

「いいよ、全部話してやるよ」と呟いた。

 男の話は行為の詳細まで及んだ。彼女がどんな反応をしていたのか、始めて挿入するときはどんな感覚だったのか、熱を入れて捲し立てる男の話を卓也は一言も漏らすまいと聞きつづけていた。

 男が話しつかれて、一息ついた時、時計の針は既に十九時を回っていた。

「どうだ? 面白かっただろ。自分の恋人が知らねえ大人にレイプされて殺された話だもんな。性欲を持てあました中学生にとってはこれほど興味をそそられる話もないだろうな。ははは」

 男はそう言ってすっかり氷の解けたグラスの残りを一気に飲み干した。そして一つ息を吐くと、無表情で呟いた。

「で、この話をどうするつもりだ、警察に渡すか?」

「……」

「ボイスレコーダーか? それともどこかと電話が繋がっているのか?」

 卓也は無言でスマートフォンを渡す。男は画面を開く。だが、その顔はすぐに怪訝な表情へと変わる。

「僕はこの話を聞きたかったのはあなたが犯人である証拠が欲しかったからじゃない」

 男は目線で続きを促す。

「あなたの話を聞いて確信した。ぼくとあなたは同類だ」

「……何が言いたい? お前はいったい何をしにここに来たんだ」

 卓也は深く息を吸い込み、一気に吐き出す。ここが人生の分水嶺だ。

「交渉だ。僕がもう一人提供すると言ったらどうだ? 同じクラスの女子だ」

「……お前、自分が何を言っているのか理解してるか?」

「ああ、だが交換条件だ。僕もあなたの仲間に入れてくれ」

 男の鋭く細い目は卓也を捉えて離さない。言葉の真意を確かめているようだった。卓也は気にせず続ける。

「僕は、昔から紗彩が好きだった。本当に大好きで大好きでずっと彼女の事だけを考えてきた。彼女に構ってほしくて、わざと不良じみた言動をして彼女の気を引いたこともあった。そのたびに彼女は幼馴染だからと僕に手を差し伸べてくれた。紗彩は優しかった。……だが彼女は僕の思いには全く気付かずに、僕の本心を見ようとしてくれなかったんだ」

「おい、まさかお前、水島タクヤか?」

 不意に男が口を開いた。

「なんで僕の名前を知っている?」

 だが男は答えない。男は意味深な笑みを浮かべて一人で頷いている。

「いや、続けてくれ」

「……まぁ、とにかく僕は彼女にを好きにできたあなたたちが羨ましい。ただそれだけだ。でももう過ぎたことは仕方ない。だから代わりに代替品で我慢するというわけだ」

 卓也は鎌をかけたつもりだったが、男は何の反応も見せなかった。気づいていないのか、はたまた無視しているだけなのか。だが共犯者がいる可能性は高まった。

 男はしばらく考え込んだ。口元に手を当ててしきりに何かぶつぶつ呟いている。そして一分ほど経って顔をあげた。

「僕としてはお前の提案に反対する理由がない。別にお前の助けなんて受けなくてもいくらでも若い女はいるわけだからな。それに、単純に人が多くなると一人当たりの楽しみが減る。これは明らかなデメリットだ。そして最後に、僕たちはもうすぐ捕まる。それが一週間後か、明日か、もしかしたら今日かもしれない。だから僕は今日同居人と一緒に家を出るつもりだ。警察から逃げながらこの趣味を続けていくつもりだ。だからお前と組むメリットはどこにもない」

「警察に通報すると言ったらどうだ?」

「その時はすぐに殺すね。何ならお前を生きて返すメリットだってないはずだ」

 男はにやりと笑った。だが、その程度卓也の想定内だ。

 卓也は真実を洗いざらい話した。紗彩から電話が来たこと、昼間、犯人をかばうために刑事に嘘をついたこと。

 一通り話を聞き終わった男はため息をついた。そして、こめかみを人差し指と親指で揉んで、一言、

「わかった、僕の負けだ。仲間に入れてやる」と小さく呟いた。

 それから卓也と男は計画を進めた。連絡手段はもっぱら公衆電話だった。捕まったときのためと言っていたが、この程度の細工が意味を成すとは思わなかったが、卓也は口に出さなかった。計画には同居人の勝久は参加しないことになっていた。理由は4Pは多すぎるという男の意見だった。それには卓也も賛成だった。そのため、卓也が勝久に会うことは一度もなかった。



「来たことあるから」

 卓也がそう呟くと奈穂は何も言わなかった。ただ、怒りと悲しみと苦笑いの三つが重なった、複雑な顔をしていた。卓也は無言で奈穂に近づき、力強く抱きしめた。

「行こう。大丈夫だから」

 卓也が耳元で囁くと、彼女は涙声で何か呟いた。卓也が訊き返すと、少し笑って、

「私、騙されてたんだね」と。

 卓也は何も答えなかった。代わりに、彼女の手を引いた。汗ばんで冷たくなった小さな手を。今度はするりと彼女の体が引き寄せられた。卓也は彼女の後ろにいる男を見て、小さく頷いた。男は興味深そうに眼を見開いてこちらを観察していたが、自分の使命をようやく思いだしたようで、カンカンと軽快な音を立てて階段を上がってきた。卓也と奈穂の横を通り抜け、鍵のかかっていないドアを開けると、ホテルマンのように部屋の中を掌で指し示した。

 卓也は勝利を確信した。奈穂はすっかり精気を失っている。もはやほとんど抵抗もするまい。あとは思う存分行為に集中するだけだ。

 仮に警察に捕まっても卓也はまだ中学生だ。男たちと違って少年院に数年はいるだけだ。たいしてリスキーな賭けでもない。この退屈な生活から逃れられると思うとそっちの方がいいのかもしれない。

 そう思いながら部屋の中に足を入れようとした瞬間、背後から声がした。女の声だ。とてつもない怒りを孕んだ、響くような低い声。そしてそれはとても聞きなじみのある声だった。

 ゆっくりと振り返る。果たしてその声の主は目の前にいた。よく知った顔だが、初めて見る表情。全身の毛穴が収縮し、サっと血の気が引くのが分かった。

  卓也は掠れた声で、半ば自問するように声を出した。

「な、なんでここにいるんだ」

 彼女の強い眼光が卓也に向けられる。卓也は思わず目を逸らした。男の姿が視野に入る。そこで男も彼女の姿を見て驚愕しているのが見えた。目を見開いて口をパクパクと動かしている。卓也はそのことには驚かなかった。知っていても不思議ではない。

 男は呟いた。

「佐々岡、穂香さん?」

 そう、今目の前にいる女は卓也の姉であり、女優でもある水島穂香。芸名佐々岡穂香だ。

「なんで、ここにいるんだ? 姉さん」

 卓也も男に追従するように、目を伏せたまま聞いた。姉は何か言葉を吐いた。それは暴言のような侮蔑のようなものだった気がする。

 姉はゆっくりと歩いてきて、男と向き合った。男は困惑しているようで、思考が追い付いていないらしい。

「……あなただったんですね」

「なぜ、どうしてです」男は信じられないといった様子で訊く。

「私が、あの日、あなたと会った日、公園に行った理由が分かりますか?」

 姉は、静かに語り掛ける。先ほどまで見せていた莫大な怒りのエネルギーは見られない。姉は淡々と、まるであらかじめ書かれた台本を読むかのように感情をこめずに言った。

「あの日は、命日だったんです」

「めいにち……?」

 男はただおうむ返しするだけで、顔には大量の疑問符が浮かんでいる。隣を見ると、奈穂も情況が理解できていないようだった。それも当然だろう、卓也も何が起こっているのか、姉が何を話そうとしているのかがわからなかった。全員が固唾を呑んで彼女の言動に注意を払った。

「私の妹の、早苗の命日です」

 その瞬間、卓也の頭にはある数字が浮かんだ。数週間前の日付。あの日姉はこの男と会ったのか。男は眉間にしわを寄せる。

「早苗は、その一か月前にあの公園で強姦されました。……命を奪われることはなかったけれど、彼女は心に深い傷を負った。彼女は苦しんで、苦しんで、最終的に自殺に追い込まれました」

 卓也は目を伏せる。そのことは卓也も知っていた。その事実が卓也の心を長い期間苛ませた。だが、それでも姉が何を言いたのか一向にわからない。姉がここにいることと何の関係があるというのか。

「な、なにを……」男がポツリと漏らす。だが姉は耳に入っていないのか、気に留める様子も見せずに話を続ける。

「犯人は、捕まりませんでした。当時は公園も暗くて、目撃者もいない。当然監視カメラもついていなった。でも早苗が言うには、犯人は高校生だったと」

 突如、男の目が見開かれた。半開きになった口は何か言葉を発しようとしている。

「制服や言動からして、どうやら修学旅行中の高校生らしいということは分かりました。けれど警察に修学旅行中の高校生が怪しいといっても、捜査範囲が拡大することを嫌がってか、ろくに調べられることもありませんでした。私や両親は犯人を捜すことばかりに夢中になって、彼女の心のケアをすることもしなかった。そのことに気付いたのは取り返しがつかなくなってからでした。

 私は、早苗を助けてあげられなかったことを悔やみ、せめて彼女の命日だけでも公園に足を運ぶようになりました。なんの意味があるのかわからない、私の心もただつらくなるだけだったけれど、それでもせめて一パーセントでもあの子の痛みを理解したかった。そこであったのがあなたですよね。その時にはあなたが怪しいなんて少しも思いませんでした。けれど、不思議ですよね。今になってみると私があなたに地数いたのは必然だったのかもしれない。

 そして異変に気付いたのが紗彩ちゃんが殺されたことが報道された時、私は紗彩ちゃんが公園によくいるのを知っていたからすぐにあの犯人のことを思い出しました。今度はレイプだけじゃなくて殺人だし、発見場所も違っているけど、間違いないと思いました」

 姉は、いったん言葉を止めると、ふぅ。と息をついた。男は待ちきれないといった様子で、間髪入れずに問う。

「何がだ、何が間違いないと思ったんだ」

 その瞳には焦りの色が浮かんでいて、先ほどまで冷静を気取っていた男とは別人のように見えた。

 姉は微笑を浮かべると、なだめるように両手を開き、話を続ける。

「何をって、本当は知っていますよね。私の妹、早苗をレイプした人物と、今回の犯人は同一人物だと。……でもそれは結果から言えば間違っていたんですよね。……だけど半分当たっていた。すごい偶然ですよね。早苗を殺したのが山下勝久、そして紗彩ちゃんを頃したのが勝久とあなた、安武智弘」

男はいつの間にか汗でぐっしょり濡れている。卓也にはなぜ男がこれほどまでに怯えているのかわからなかった。だが、男が発した言葉で理解した。

「勝久は、勝久は今どこにいる?」

姉は意味深な笑みを浮かべると、クスクスと笑った。

「そんなに心配ですか? あなたはあいつと一緒にいることに嫌気がさしていたはずですよね。今更になったお友達思いですは少し都合がいいんじゃないですか?」

 男は答えない。奈穂は未だ状況を解していないらしく、不安げに様子を見守っている。

「そもそもなんで私があいつとあなたの名前、この場所を知っているのかが気になりますよね。教えてあげます。あいつ、山内勝久が全部教えてくれたんです」

「嘘だ」

「本当ですって。私があの男を公園で見つけたんです。紗彩ちゃんがいなくなった次の日にね」

卓也は思わず声をあげる。

「翌日? だってあの日は」

「うん、沖縄にロケって言ってたよね。あれ嘘だから。ごめんねタッくん、嘘ついて」

 彼女は卓也を見て、目を細める。そのひどく芝居がかった様子が、卓也の目にとても不気味に映った。

卓也は何も言うことが出来なかった。目の前にいる女が、自分の知っている姉であるという確証が持てなかった。

「見た目でわかっちゃった。だって早苗が言ってた容姿そっくりだったんだもん。私がちょっと声かけるとすぐ乗り気になっちゃったみたいで。その日はあいつと一緒にホテルに行ったんです。それから一週間粘り強く待った。すごく憎くて憎くて殺してやりたかったけど頑張って耐えた。そしてついさっき、あいつに呼び出されてホテルに言ったらバカ面でプロポーズしてきやがった。俺は今すごい犯罪を犯してるんだって自慢げに話した後、もうすぐ捕まるかもしれないから結婚してくれって。あんな馬鹿見たことねぇよ。会って一週間しか経ってねぇし、顔がよくてもあんなのと結婚しようとする女はそれこそ同じくらいの知性のアバズレじゃないかって思ったんです。

 ……話がそれましたね。それで自白を聞き出せた私は満足して、殺しました。もちろん死ぬ直前に事件の話を全部聞きだして。確かに男女は力の差がありますけど、セックス中に無防備なのは男の方も同じですよね。泣きながら命乞いしていましたよ。あの男。今思い出しても笑えます。動画に取っておけばよかったかな」

「ふざけるな。……あいつが、勝久を殺しただと……?」

 男は姉を睨んだ。凄みを聞かせようとしているのだろうが、目には隠し切れないほどの虚ろな光がにじんでいる。

 姉は芝居がかった動作で大げさに肩をすくめた。そしておもむろに背負っていたリュックサックを下ろし、ジッパーを開けた。中から取り出したのはビニール袋だった。コンビニの小さいサイズの袋。中はよく見えないが、赤茶色の濁った液体が底にたまっている。姉はビニール袋を男に投げた。男はおどろして後ずさった。ビニール袋は床に落ちる。

「見てみたらどうです? 爆弾ではありませんよ」

 そう言って姉はまたくすくす笑う。男は恐る恐ると言った様子で一歩一歩慎重に近づく。そして片手で拾い上げた。

 結んであった袋を開けると、中を覗き込んだ。途端、男は咽返し、袋を手放した。卓也はそれを拾う。

 最初はハムスターか何かの死骸かと思った。皮をはがされ、中の肉が飛び出ているのかと。赤茶色の血の中にぽつんと置いてある拳の半分ほどの物体。硬質の黒い毛がいくつかついている。肌色より少し浅黒い皮は、垂れていた。切断面からは白っぽいぶよぶよした塊が覗いている。そして一気に血の匂いが立ち上ってくる。

 卓也も咽た。改めて今目の前にいる女のお精神状態が以上であることを認識した。

「金色じゃないんだね、当たり前だけど」そう言ってせせら笑う女に、卓也は本能的に恐怖を抱いた。

「どう? これで疑問は全部解決した? やっぱり悪いことしたら全部自分に帰ってくるんだよね。自業自得、勧善懲悪ってね」

 そういいながら、姉はリュックサックから包丁を取り出した。刃渡り18センチの、卓也の家で使っているものだった。一度タオルか何かで拭いたのだろうが、わずかに残る赤い血が日光を浴びてテラテラと輝いている。

 その瞬間、彼女は男に向かって一直線に突撃した。

 二人は倒れ込んだ。しばらくして、床にどす黒い血の水たまりができた。それはみるみる広がっていき、卓也のスニーカーを濡らした。卓也は黙って二人を眺めた。奈穂がどうしていたのかはわからない。しばらくして、男が立ち上がった。

 立ち上がった男は、顔面蒼白で変な呼吸をしながらよたよたと二歩ほど歩き、外廊下の手すりにもたれかかった。そしてバランスを崩し、一気に地面のコンクリートに落ちた。鈍い音が響く。それでも男は血を垂らしながら、一歩、また一歩と歩を進める。

 男はアパート前の車道に飛び出した。刹那、ダイヤと地面がこすれる連続した音が聞こえたのち、男は音を立てずに宙を飛んだ。


 不意に、後ろから声が聞こえた。姉の声だった。

 卓也は振り返る。

 姉は地面に横たわったままだった。腹には包丁が刺さっている。しかしその顔は苦痛に歪むどころか、穏やかなものだった。卓也は姉の傍にしゃがんだ。

「姉さん。ごめん」

 だが姉は首を横に振るだけで何も返してこない。ただ、唇だけを動かして何かを伝えようとしているのが分かった。しきりに繰り返されるメッセージを卓也は読み取ろうと必死で観察した。

 そして、三度目の彼女の口の動きから卓也は彼女の言葉を理解した。

「わかったよ。姉さん」

 卓也はそっと呟くと、彼女の腹に刺さっている包丁に両手をかけた。姉は歯をギリギリと音が出るほど食いしばるが、それでもひどく苦しそうなうめき声が漏れ出てくる。卓也はそれを数分かけてゆっくりと引き抜いた。包丁には脂肪や凝固した血液がこびりついている。腕は釣りそうなほど疲労して、掌には大量の汗をかいていた。

 姉は気を失っていた。もしかしたら死んでいるのかもしれない。

 卓也は姉の顔を一瞥した後、振り返った。そこには恐怖で顔をひきつらせた奈穂が座り込んでいた。どうやら恐怖で腰を抜かしたようだった。

 卓也は笑いかける。

「奈穂もごめんな。いろいろ迷惑かけたよな。でももう君には何もしないよ。これは僕たちだけの問題だ」

 卓也は包丁を自分の首元に当てた。無機質な鉄の塊はまだ姉の体温を残していた。

奈穂は目を見開き、こちらに手を伸ばしてきた。

 卓也は素早く手を引いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ