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連罪  作者: ひらめ
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前編


 砂利の混じったグラウンドの土は、初夏の日差しを受けてジリジリと音を立てていた。茶色に汚れた白いスニーカーのつま先には穴が開いている。上下の服と同じく会社から支給されたものであるが、このスニーカーだけ異様に汚れや傷が目立っている。

 静まり返った空間で、アブラゼミの鳴き声だけが鳴っている。遠いようにも近いようにも感じられるその音を聞きながら、智弘は時間をかけて静かに息を吸った。やや湿気を含んだ生暖かい空気は智弘の張り詰めた心に沈静作用をもたらすことはなかった。

しかし時間は智久を待ってはくれない。遠くで井上の合図が見えた。丹田に力を籠め、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと、その画面に目を向けたまま前方へ進んだ。

 季節外れの黒いナイロンのジャケットと、カーキ色の薄汚れたカーゴパンツに身を包んだ男は高校のグラウンドの中心を歩いている。グラウンドのスピーカーからは聞きなれた上野の声が聞こえてくる。低音で、関西のイントネーションの特徴的な声だ。しかし緊張した今の智弘にはその内容は聞こえていなかった。両脇には体育座りをした制服姿の高校生が無言で智弘を見守っている。そしてその花道の先には赤い三角コーンが立ててある。目算であと十歩ほどだった。

 遠くでエンジンのかかる音がした。見なくてもわかる。上野の運転する年季の入った白いセダンだった。騒めきだす高校生たちの声に気づかないふりをしつつ、何も映し出されていないひび割れたスマートフォンを凝視しながら、黙々と歩を進める。車のタイヤが地面を打ち付ける音が智弘の神経を尖らせる。加速しきったエンジン音は四十キロの速度を緩めることなく、まっすぐこちらへと近づいてくる。

 心臓が大きく動悸した。呼吸が知らず知らずのうちに浅くなっていた。横隔膜を大きく上下させ、空気を無理やり肺に取り入れる。赤いコーンはもう目の前にあった。額に汗をかいているが、拭っている余裕はない。音がすぐそこまで来ている。

 ギャリイッと急ブレーキの音がした。智弘は画面から目線を上げ、右から迫る車を一瞥し、驚いた表情をすると同時に両足で地面を蹴った。浮かび上がった体を捻り、右腕を軸にボンネットに乗り上げた。身体全体に衝撃を受けるが、無理やり回転させる。フロントガラスに背中を打ち付け、その反動で身体は跳ね返り、再びグラウンドに着地した。その際、両手を使い受け身を取ろうとしたが、右手首が体重を支え切れずにぐにゃりと曲がった。ブチッという靭帯の切れる音がしたような気がした。

 生徒から一斉に歓声と悲鳴が上がった。甲高いその声の群れは、蝉の合唱と合わさって智弘の耳に忌々しく響いた。

「このように、歩きスマホは大変危険です。一歩間違えれば死にも繋がりかねません。皆さんも、スマートフォンを触るときは周りの確認をして、安全な場所で立ち止まってから使用するようにしてくださいね」

 上野はマイクを右手に高校生に向かって解説をするが、当の本人たちは先ほどまでの静けさとは打って変わっておしゃべりに興じている。

(すげーな。俺も今度轢かれそうになったらあれやるわ)

(お前には無理だろ。ぜってー死ぬ)

(あれ轢かれる前に飛んだよね。やらせってこと?)

(そりゃやらせでしょ。交通安全教室なんだから)

 慌てて体育教師らしきジャージ姿の中年男が両手でメガホンを作り、静かにするよう呼びかける。上野はその様子を見て話を中断した。そして困ったねとでも言うような様子で苦笑しながら智弘に目を向けてようやく智弘の異変に気づいた。怪訝な顔をしながら大丈夫かと口の動きだけで尋ねてきた。

 智弘は左の人差し指で右手首を強調し、口を大きく開き、ダメですと答えた。


 智弘がスタントマンになろうと思ったのは高校三年の時だった。

智弘は小さいころから絵を描くことが好きだった。暇さえあれば大学ノートにアニメや漫画の好きなキャラクターを描いていた。多くの絵描き少年たちがそうであるように、智弘は自然と漫画家という職業にあこがれを抱き始めた。

 漠然とした将来の夢は次第に鮮明になっていき、高校一年生のとき、三か月かけて処女作である『竹取物語 if version』を描き上げた。それは今にしてみるととても拙いもので、漫画と言えるかすら微妙なものだったが、作品を一つ作り上げたという自信は智弘に更なる作品を作る動機を与えるのに十分なものだった。その後も創作活動のペースは落ちることはなく、いずれ持ち込みする出版社まで検討しだした。智弘に転機が訪れたのはそんな頃だった。

 きっかけはクラスの友人に誘われたSNSだった。家族や友人との連絡手段はもっぱらメッセージアプリで、赤の他人とつながるSNSサービスは存在こそ知っていたが使ってみようという気にはならなかった。そんな智弘にとって、それはまさしく人生を変えるほど圧倒的なものだった。

智弘と同年代にもかかわらず、はるかにクオリティの高い作品をハイペースで上げ続ける漫画家志望者がそこにはまさに掃いて捨てるほどいた。世界の広さを若干十五歳で知った智弘にとって、その黒く淀んだ大海はあまりに深く、広かった。

その後作品を作ろうとしても、自分の絵や話の稚拙さを顔も見たことのない彼らのそれと比べてしまい、いずれ絵を描くことに楽しみを見出せなくなり、やがて創作そのものへの興味すら薄れていった。

楽しいからという理由で始めた漫画は、いつしか智弘自身の価値を表す記号になっていた。

ペンを持つことを辞めた智弘はその後勉強に打ち込むでも部活動に精を出すでもなく、ただ茫然と時間の流れに身を委ねた。友達と遊んだり、何も考えずにダラダラと時間を消費したりすることが学生たるものかくあるべき姿だといわんばかりに無気力に残りの中学高校生活を過ごした。

そして高校三年になり、いざ進路選択となったとき、智弘は悩んだ。就職はしたくなかったが、まともに勉強をしてこなかったせいで進学を視野に入れるには成績は壊滅的だった。

そのため、二者面談で進学希望だと伝えると、担任は小さくため息を吐いた。進学半分就職半分の高校だったため、成績最下層をさまよっている智弘は就職希望だと思っていたようだった。担任は重々しい動作で智弘の模試結果をペラペラとめくると、いくつかの私立大学を提案してきた。それらはボーダーフリーの聞いたことのない大学の聞いたことのない学部だった。気乗りしなかったが、考えてみますとだけ伝えて面談は終わった。


 智弘は部活動こそやっていなかったが、筋トレは欠かさず行っていた。漫画への情熱を失う前に読んだある漫画家のインタビュー記事で、仕事をするうえでなにより大切なのは体力と言っていたのを真に受けたからだった。球技のような手足のテクニックが求められるスポーツは苦手だったが、元来体を動かすことは好きだったため、その習慣は漫画家の夢をあきらめた高校三年の時も続いていた。

 受験を直前に控えた正月、智弘は久しぶりに受験勉強から離れ、親戚一同が集まる祖父の家に顔を出しに行った。その場で気心の知れた親戚のおじさんに進学意欲があまりないといった旨の相談をしたところ、半ば冗談交えながらスタントマンになるのはどうかと提案された。

 おじさんの大学時代の同級生がスタント事務所を経営しているらしいが、スタントマンの数が足りていないらしい。おじさんは本気で言っているわけではないようだったが、その言葉が智弘の心に残り続けた。

 電車で一時間ほどの距離の場所にスタントマン養成事務所があることを調べたとき、智弘には既に大学に行く気は残っていなかった。教師と両親の反対を振り切り、高校卒業後はアルバイトをしながら養成所に通った。養成所では簡単な体力作りから演技の指導まであり、それらすべてが新鮮で楽しく、数か月後には智弘は自分の選択は間違いでなかったと確信するまでになった。


 手首は思った通り捻挫していた。それもⅡ度という区分で、靭帯の一部が千切れているらしかった。あの後、上司の上野に事情を説明して、智弘だけタクシーに乗り、近くの整骨院へ向かった。車の中では車が揺れる度に右手首に激痛が走った。痛みに耐え、額に汗をかきながら、なぜか思考だけは冷静だったように思う。智弘は車窓越しに流れていく景色を見ながら、ただ「やらかしたなぁ」とぼんやり思っていた。

医者によるとどうやら捻挫の中でも損傷は重いほうらしく、整骨院では手首を何重にもテーピングしてもらい、全治一か月と診断された。

半ば覚悟していたことだったが、やはりショックは大きく、そして上野に診断結果を報告するのが憂鬱だった。

 翌日、智弘は公園のベンチで昼食を食べていた。痛いような日差しが降り注ぐ中、それでも子供たちは元気に走り回っている。

利き手の右手が使えないため、左手だけで菓子パンの袋を開けようとしたがうまくいかず、結局歯を使って無理やりこじ開けた。ここに来る前コンビニで買った菓子パンだ。味はうまくも不味くもない。智弘は最後の一口をペットボトルのお茶で流し込むと、大きなため息を吐いた。昨日の出来事がフラッシュバックのように思い出される。捻挫の治療費は労災が下りるので問題ない。しかし会社内での自分の評価が下がったことは否めないだろう。初めての交通安全教室の仕事で緊張していたのは確かだが、まじめに練習を積んできただけに、よりによって簡単な受け身を失敗するとはあまりにも情けない。

 スタントマンとしての仕事は初めてではなかった。一般人からするとスタントマンと言えば映画やドラマで階段から転げ落ちたり、カーアクションや火だるまを演じたりする職業と思われるかもしれないが、そのような仕事は智弘のようなひよっこに振られることはまずない。これまでの仕事は時代劇モノのドラマの数十人いる脇役の侍や、デパート屋上でやっている戦隊モノのスーツショーの敵役一人だったり、テレビのバラエティ企画で罰ゲーム用トラップの実験台だったりで、その上仕事を振られるのは月に二、三回しかなく、当然支払われる賃金も雀の涙だった。アルバイトを続けながらのスタントマン生活で、やっとのことで任されたスタントマンらしい仕事でミスをし、結果として負傷してしまい、智弘は高校三年生の自分の選択は間違いだったのだろうかと初めて思った。


 突然、噴水から水が吹きあがった。細かく散った水しぶきは木漏れ日を散乱し、その頭上に小さな虹が架かった。噴水の周りにいた子供たちやカップルから一斉に歓声が上がる。

 その途端、智弘の脳裏に映像が映し出された。その映像は主観的なものだった。カメラのすぐ目の前には輪郭のぼやけた裸の女がいた。それは薄暗い部屋だった。明かりは点いていなく、窓には遮光カーテンが取り付けられているのか、部屋の中には暗澹たる空気が漂っていた。それでもカーテンの隙間から漏れ出る光でうっすらと部屋の様子が見える。四畳半の和室に衣服や食べ残しのあるコンビニ弁当が四散して、数か所の壁には穴が開いている。視線が移り、目の前の女に焦点が合った。その女には顔がなかった。ただ薄い色をした唇があるだけで、目も鼻もなかった。ただ、手入れのされた長い髪と、小柄な体躯、膨らんだ乳房がその人物は女性であることを物語っていた。

 おもむろに女がこちらへ近づいてくる。和やかな雰囲気ではないようだ。緊迫した雰囲気が映像越しにもひしひしと伝わってくる。彼女の動きに合わせて、カメラはゆっくりと後退していく。しかし視線が彼女から動く様子はない。数メートルの廊下だが十分に時間をかけて移動した。ふと、彼女の背後に焦点があった。先ほどの四畳半の部屋だった。しかし、その部屋の中心に、さっきまではなかったものがあった。黄色い塗料が塗られた小さなプラスチックの箱。それは何かの拍子に床に落ちたのか、それとも地面にたたきつけられたのか、そのそこは歪にへこんでいる。女はカメラの視線に気づいたのか、自分の背後を一瞥すると口元を緩ませた。そして彼女はゆっくりと両手を広げる。


「あの、大丈夫ですか?」

 それが 自分に向かってかけられた声だと認識するまで数秒かかった。顔を覆っていた両手をどけると、心地よい薫風が智弘の顔を撫でた。顔がぐっしょりと濡れていた。こんなに汗をかいていたのか。

顔を上げると、目の前には中腰の女性がいて、怪訝そうに智弘をの様子をうかがっていた。おそらく声の主だろう。

「……あの、なにか?」

 そう言って、領平は自分の声が涙声になっていることに気付いた。汗ではなく涙と鼻水だったようだ。

「すみません、ただちょっと心配だったので。さっきから、ずっと泣かれていますよね」

「……ずっと泣いていたんですか?」 

智弘の反応に彼女の猜疑心は一層強まったようで、眉間にしわを寄せた。女性は二十代前半くらいで、水色のTシャツにデニム姿、そして長い髪を後ろで一つに結んでいた。平日の昼間にカジュアルな格好で公園にいるところを見ると、この近くの大学生だろうか。

ふと違和感を覚えた。いつの間にか辺りはすっかり暗くなっている。周りを見渡すと公園はすでに西日に包まれ、先ほどまでの喧騒はすでに消え去っていた。腕時計を見るとすでに十九時を過ぎていた。

「あの……」

 女性は一向に要領を得ない智弘に困惑しながらも再び声をかけてきた。

「ああ、すみません。ちょっと最近仕事で疲れていて、ご心配をおかけしました。もう大丈夫ですので」

 ここ数年若い女性と話したことのなかったため、早口になってしまった。余計に怪しまれただろうか。しかし、智弘の懸念は杞憂だった。

女性は安堵したようにパッと明るい表情になって言った。

「そうなんですね。もし病気だったりしたら大変だと思って」

 どうやらその言葉は本当のようで、先ほどまでの緊張がすっかり解け、智弘を見る目に穏やかな光が宿っていた。

智弘はその時初めて目の前の彼女の美しさに気付いた。ただの女子大生だと思っていたが、端麗な容姿と優れたスタイルは一介の学生のものとは思えなかった。そう思うと彼女がわきに抱えている控えめな小さなハンドバッグもひどく高級なもののように思えてきた。そして微小を浮かべている彼女の顔に再び目をやると、おや? と思った。その美麗な表情に既視感を覚えたのだ。どこかであったかもしれないという疑義は次第に確信へと変わっていった。

どうしても確かめたい気持ちが抑えきれなくなり、思わずそのまま立ち去ろうとした彼女の背中に声をかけてしまった。

「あ、あの。つかぬことを伺いますが、僕たちどこかで会ったことありませんか?」

 そういい終わった後、しまったと思った。これではまるでクラシックなナンパの手口ではないか。慌てて弁解しよう落としたが、彼女の言葉がわずかに早かった。

「……うーん、もしかしたらテレビか何かで見てくださったのかもしれません」

 彼女は上半身だけ振り返り、しばし迷った様子を見せた後、面はゆげな顔を浮かべながら彼女は言った。

「私、たまにドラマとかバラエティに出させてもらっているんです。まだ女優としては新米も新米なんですけど」

 目線をゆらゆらと動かしながらそういう彼女に女優らしさというものは見受けられなかった。だが、彼女の言葉で思い出した。彼女は智弘がエキストラとして出演した刑事ドラマのサブヒロイン役を務める女優だった。録画したテレビで自分の出演している場面だけ見ようとしたのだが、その前後のシーンで彼女が出演していたのだった。智弘は頭に浮かんだ名前を口に出した。

「もしかして、佐々岡穂香さんですか……?」

そう聞くと彼女は顔を少し赤らめ、観念したかのように体を智弘の方へ向けて、小さく数回頷いた。

ドラマで彼女が演じていたのは主人公の刑事と同じ係の新人刑事だった。ドラマの中では確か空気は読めないが快活にふるまうムードメーカーのような役柄だった。しかし、今目の前にいる穂香は智弘にそれとは正反対の印象を与えた。

「やっぱりそうだったんですね。……あっ、すみません。誰かに見つかったら大変ですよね。ごめんなさい、引き留めるような真似して」

 智弘は前の前にいる女性が人気急上昇中の女優だとわかった途端に一般人である自分のために時間を取らせていることがひどく厚かましいことに思えた。それに何よりこんな場面を写真にとられて彼氏とデートなどとでも噂になったら大変だった。

 しかし、そんな心配とは裏腹に彼女は落ち着いた様子だった。そしてパニックになる智弘を見て、吹き出すように笑い出した。

「あはは。大丈夫ですよ。そんな心配しなくても。テレビに出てるって言っても案外気づかれないものです。現実と画面越しに見る顔って結構違いますから」

 そう説明する彼女は先ほどまでの眉間にしわを寄せた状態からは想像できないほど明るかった。しかし彼女の人柄ゆえかこれほどの美人を目の前にしても、今の自分はそれほど緊張していないことに気付いた。

「それより、気になっていたんですけど、お兄さんその腕どうしたんですか? ひょっとしてさっき泣いていたのと関係あります?」

 穂香は智弘の右腕を指した。右手首にはテープ何重にも巻かれ、ちょっとやそっとでは動かないように固定されている。重度のものとはいえたかが捻挫なので、骨折のようにギプスで固定され、首から吊らされているようなことにはなっていない。

 穂香が話の流れとは言え、智弘のことに興味を示してくれたことがうれしくて、丁寧に自分がスタントマンであること、せっかく巡ってきた交通安全教室の仕事で失敗したことを説明した。そして一度エキストラとしてだが同じ番組に出たことがあることを言うと、彼女は非常に驚いたようで、意外そうに智弘の全身を見ながら声を出してリアクションした。

「それにしてもすごい偶然ですね。同じテレビに出演していた二人がたまたまこうして出会うなんて」

 そう言って彼女は自分の台詞に照れながらいたずらっぽく笑った。

エキストラと助演女優は全く対等の関係ではないのに彼女の態度からそのような考えは見受けられなかった。智弘も現場へ何度か行っているが、カメラの移っていないところではいわゆる下っ端に態度が豹変する俳優、芸能人は珍しくない。そのため、ただのスタントマンの自分に丁寧に接してくれているというだけでとてもうれしく思った。

「いやいや、僕なんてエキストラとしてほんの一瞬出ただけですから。……佐々岡さんは今日はお休みなんですか?」

「いえ、今日はこれからラジオの打ち合わせです。深夜ゲストで出るんです」

 彼女は芸能に疎い智弘でも知っている有名俳優の深夜ラジオの名前を出した。

「そうなんですか、もう結構遅いですけれど時間大丈夫ですか?」

 智弘はラジオ事情に詳しいわけではなかったが、夜の七時過ぎというのはラジオに出演する時間までに打ち合わせをするのなら少し遅いのではないのか。

「えっ、もうこんな時間!」

 彼女はバッグからスマートフォンを取り出して時間を確認すると小さく悲鳴をあげた。智弘と話していたため時間が近づいていることに気付かなかったらしい。

「すみません、ちょっと急がなきゃいけないので失礼します。またいつかお仕事でしれませんね。その時はよろしくお願いします」

 彼女は口早にそういいながら軽くお辞儀をした。智弘も恐縮してしまい、ベンチに座ったまま、膝より低い位置まで頭を下げた。

 小走りで去っていく小さな背中を見ながら、穂香はあのようにいったが、もう彼女と会うことはないだろうと智弘は思った。

 智弘はこの仕事を辞める決心がついていた。それは事故が起こった翌日にはもう決めていたことだった。きっかけはやはり交通安全教室でのミスだった。病院で捻挫と診断を受けて、診断書を事務所に持って行ったとき、上野は心配してくれたのだが、その顔に明らかに困惑と落胆の色が浮かび上がっていた。もちろん上野の智弘を心配する気持ちは嘘ではないだろう。しかし、ただでさえ生きていくのが難しいこの業界で、簡単な仕事でミスをしたうえ、怪我をするようではこの先、スタントマンとして生きていくにあたっては悲観的にならざるを得ない。上野はそれを悟ったのであろう。

 いつの間にか公園に人影はほとんどなくなっていた。少し前まで快晴だった空には鉛色の重く淀んだ雲がかかっていた。公園灯が点り、頭上では羽虫がぶつかり感電する音が聞こえてくる。びゅうと冷たい風が吹き込んできた。半袖を着ている智弘の体温を無情に奪っていく。そういえば、今日は天気予報を見ていなかったな──そう思った瞬間、頭頂に冷たいものが落ちてきた。


「ただいま」

 靴を脱ぎながら声を発したが返事は返ってこなかった。しかし明かりはついているし奥の部屋から音が聞こえるのでいるはずだ。またかと思い、小さく溜息を吐いた。べたべたに濡れて不快な靴下を脱ぎ、洗面所で手を洗った。鏡を見ると、そこに映っている男はひどくやつれていた。ハンドタオルで濡れた頭を拭きながら右手にある四畳半の部屋の横を通り抜け、その先にある突き当りにある引き戸を開けた。

「おう、帰ったか智。おけーり」

 六畳の和室の真ん中で、寝転びながらテレビを見ていた勝久が首だけをこっちに向けた。智弘がもう一度ただいま、というとすぐ興味を無くしたようにまたテレビに目をやった。テレビでは児童向けアニメが流れている。智弘が子供のころからこの曜日のこの時間に放送されているいわば国民的アニメだが、勝久は毎週欠かすことなく幼稚園のころから二十五歳になる現在まで見ているらしい。最近では呆れを通り越してよく飽きないものだと感心している。

「今日の飯何だ? 俺今日昼食ってないから腹減ってんだよ」

 相変わらずテレビを見たまま勝久は尋ねた。夕食を作るのは智弘の仕事だったが、今は利き腕の右腕が使えない状態なので、スーパーなどで総菜を買ってきて白米と一緒に食べる生活だ。智弘はいくつかのビニール袋を床に置いた。片手で荷物を持ち続けるのは思いのほか疲れるものだ。

「唐揚げ。今日はほか弁で買ってきた。すぐ米炊くから待っててくれ」

 智弘はビニール袋からいくつかの食材を取り出し、冷蔵庫に入れながら答えた。

「了解。唐揚げいいね」

 米を炊くくらいこの男でもできるのではないか、と思いながら無洗米を炊飯器にセットした。しかし智弘にそんなことを切り出せる勇気は持ち合わせていなかった。勝久に飯を作れと言うことは下民が独裁者に意見を申すこととほぼ同義であり、独裁者の機嫌しだいでどんな罰が下るかわからない。まさに命掛けともいえる無謀な行為であった。

「なあ智、お前腕の傷いつ頃治りそうだ?」

 不意に勝久が話しかけてきた。まだ当分テレビを見続けるものと思っていたが、いつの間にか智弘の背後でスーパーのレジ袋の中身をあさっている。智弘は勝久のいつもと違う様子に若干訝しさを覚えたが、素直に答えた。

「全治一か月って言われてるから医者が正しいとすると来週に治るってことだな。けどもうほとんど治ってるようなもんだよ。痛みはもうほとんどないし。一応大事を取ってテーピングは外してないけど」

 最後に整骨院に行ったのは二週間前だった。一度包帯を外して新しいものと交換してもらうためだったが、真夏に二週間も放置していただけあってかなり異臭を放っていた。それに包帯は決して濡らしてはいけないため、風呂に入るときもビニール袋に入れる必要があり、正直なところ早く取り去ってしまいたかった。

「そうか、そうか。それは都合がいいな」

 何に都合がいいのかわからなかったが、勝久は一人で納得したかのように何度もうなずいている。その顔に笑みを帯びていることがひどく不気味だった。

「都合がいいって、何が」

 しかし勝久は疑問に答えず、智弘に向かって一方的に言葉を投げた。

「お前、来週の土曜暇だよな? いや、暇じゃなくても時間空けとけ。そしたらいいところに連れて行ってやる」

 智弘に有無を言わせないという意思をはっきりと感じさせる、きっぱりとした言い方で話を切られた。智弘の返事を聞く前に勝久は再び六畳間に寝転がり、テレビの世界に入り込んでしまった。

 智弘には勝久の意図がわからなかったが、ただ一つはっきりしていることがあった。勝久が『いいこと』と言ったことで碌なことになった試しがないということだ。

 それは勝久の実質的な子分として、ずっと彼に振り回されてきた智弘がたどり着いた事実であり、この先変わることのない原理であった。


 山下勝久は小学生のころから図体がでかく、喧嘩腰で誰にでも向かっていく問題児として有名だった。智弘が勝久のことを初めて知ったのは小学四年生の時に起こった事件だった。それは勝久が主体となって授業のボイコットや教師への嫌がらせを繰り返し学級崩壊を起こし、それが原因でクラスを担任していた新任の女性教諭は精神を病んでしまい休職したという、比較的おとなしい子どもが多かった公立小学校に通う児童やその保護者、教員らにとっては衝撃的な事件だった。

 その後第二次成長期を迎え、同級生と比べ、ただでさえ大きかったその体はさらに肥大化し、中学二年生の時には身長186センチ、体重95キロという巨体になった。身長の伸びとともに気性はどんどん荒くなり、そのころには大型二輪を乗り回し、様々な悪事を働いたらしいが、智弘にはその詳細は知らない。それもそのはずで、勝久の非行のピーク時には学校へほとんど来ることもなくなっていたのだった。そのため同じクラスではあったが勝久の噂話すらほとんどされることもなく、平穏な日々を送れていたように思う。

警察に幾度も補導され、あと一歩で少年院に入れられそうになったときに勝久は改心した。何があったかは知らないが、「心を入れ替えた。もう二度と悪いことはしない」と照れくさそうな、しかし真面目な顔で語ったのは公立高校受験まであと三か月に迫った時だった。

 智弘と勝久は中学三年の時に初めて同じクラスになった。しかし、勝久は学校で他生徒からカツアゲや問題行為をするような不良とは異なり、学校そのものには興味がないようだった。いわゆる番長であったという記憶もない。

 智弘たちの中学の不良の多くは同族と群れ、教師や大人たちとの対立という構図にあこがれている生徒が多かったように思う。しかし、勝久はあまり人とつるむこともせず、明確な敵というものも持っていない様子だった。自分の欲求に正直に生きていたらレールから外れていしまった。今思い返してみると勝久という男にそんな印象を覚えた。

 授業妨害やクラスメイトに絡みに行くことこそはしなかったものの、修学旅行へ来ると知ったときはクラス中大騒ぎになった。それを勝久のいないホームルームで伝えた担任のあの引きつった顔は忘れがたい。生徒にとっての一番の問題は東京行きの修学旅行の班決めをどうするかということだった。

そのため、当然のように班決め当日も欠席した勝久を誰と同じグループに入れるかで大論争になった。一部の女子は泣き出すほどだった。せっかくの中学生活で一番のイベントともいえる神聖な行事、修学旅行の思い出を勝久のせいで台無しにされるのは真っ平ごめんという思いはクラスの誰もが持っていた。もちろん智弘もその例外ではなかった。最終的にじゃんけんで負けた班に入れるということになったが、その時負けた班のリーダーが智弘だった。

 仮病を使って修学旅行を欠席しようかと思ったが、親が積み立ててくれた金を無駄にするのはさすがに忍びないと思い、重たい足を引きずって荷物を詰め込んだスポーツバッグ片手に学校へ向かった。念のためにと親からもらったお小遣いを靴下の中に隠していた。もちろん勝久に財布をカツアゲされた時のためだ。

 総括として、修学旅行は当初想像していた以上に最悪の思い出として、深く智弘の海馬に刻まれることとなった。。そしてその修学旅行が現在まで続く勝久との親分子分の関係を位置づける忌々しききっかけになるのだった。

今になって深く思う。修学旅行は欠席するべきだったのだ。

 勝久は、修学旅行中も自重することなく破天荒な行動をとり続けた。一日目の班行動中に地元の高校生に喧嘩を売り、智弘たちまで怪我を負ったり、消灯時間を過ぎてから、同じクラスの女子を部屋に連れ込み、智弘たちの目の前で性行為をしたりだ。あまりの暴悪っぷりにその日の夜には同じ班のメンバーたちはみんな目の光がうす暗く濁っていた。

 

それは勝久が女子との行為を終え、他のクラスメイトも寝静まった明け方ごろだった。教師が見に来ないかの見張り役を任命された智弘は、廊下へ続く引き戸にもたれかかっていた。夜更かしをしたとき特有の全能感のせいだろうか、勝久は智弘を認めると、おもむろに近づいてきて近くに腰を下ろした。そして自分の半生を訥々と語り始めた。

 智久は語った過去はヤンキーとしてはあまりにありふれたもので、特段驚くようなことはなかった。裕福でも貧乏でもない家庭に生まれた智久は両親から愛情を受けることがほとんどなかった。そんな折、彼曰くすべてがどーでもよくなり、その結果として今のような状況に至ったらしい。時には悲愴に、時には愉悦に語る勝久に、適当に相槌を打っていたら気分が乗ってきたようで結局、起床時間まで話が終わることはなかった。

 勝久は話の構成がかなり下手で、同じことを繰り返し言ったり、時系列が入り混じったりしていて話の内容はほとんど覚えていなかったが、印象に残っていることが二つあった。

 一つはもう悪事はやめると宣言したことだった。今まで勝久は恐喝やレイプ、傷害など警察に見つかっていない犯罪だけでも数えきれないほど繰り返した。しかし、最近はその被害で苦しんでいる人もいるのではないかと思うようになってきたらしい。

「やっぱり将来は警察官になりたいんだよな。子供のころから正義の味方にずっとなりたかったんだよ。俺はさぁ」

 しみじみと噛み締めるようにそう呟いた勝久の目には少しの曇りもなく、キラキラと輝いているようにすら見えた。智弘は勝久の言っていることが微塵も理解できなかったが、冗談ではないようだったので「なるほどなぁ」と言った。

 二つ目はそれ以上に衝撃的な言葉だった。

「俺が不良になったのってやっぱり周りの奴らがバカばかりだったからなんだよな。俺って地頭は良いのに宝の持ち腐れだよな。お前もそう思うだろ?」

「なるほどなぁ」

 そうとしか答えられない。

「お前頭いいだろ? だからお前が友達になったら俺もどんどん頭良くなっていい高校へも進学できるってわけよ」

「うん?」

「よし、決まりだな! お前修学旅行から帰ったら毎日俺に勉強教えろや」

「ちょ、ちょっと待て! 誰が勉強できるって? 僕はクラスで下から五番目くらいだぞ。人に勉強教えるとかどう考えても無理だろ!」

 智弘は引きつった顔のまま、首をこれでもかというほど激しく振った。

「俺は学年ビリだから俺よりは賢いってことだよな。ま、テストなんか一回も受けたことないから当たり前だけどな」

 そう言うと勝久は大声をあげて笑い出した。馴れ馴れしく智弘の肩を叩いてくるが振り払う気力もない。智弘は何か言い返そうかと思ったが観念し、壁にもたれかかったまま天井を仰ぎ見た。カーテンの隙間から漏れ出る朝日の作る線を見ながら、勝久には聞こえないくらいの声で「もうどうにでもなれ」と呟いた。その時、今まで重たくのしかかっていた負荷が消え、少しだけ気分が軽くなったような気がした。

 その後、勝久は約束通り学校が終わった後、智弘に教えを請いに来るようになった。普段は横柄にふるまっている勝久も勉強を教わるときにはしおらしくなり、意外にも勉強には真摯に向き合っていた。その甲斐あってか受験前最後の模試では合格判定Bを取るようになってそのころには智弘の偏差値を抜き去っていた。

智弘も自分のおかげでみるみる成績を上げていく勝久を見るのは素直に喜ばしいことであった。一時は教師を目指そうかと本気で思ったくらいだ。自分の成績のことは考えないようにしていたのだが。

しかし、勝久の成長をうれしいと思ったのも束の間だった。勝久と親密度が上がるにつれ、智弘は友人が減っていった。周りからは不良の勝久と付き合っている智弘は同類とみなされたようで、同級生からは冷ややかな視線を浴び、今まで付き合っていた数少ない親友たちとも疎遠になっていった。

 智弘は地元の偏差値五十ほどの公立高校へ進学し、勝久は智弘よりワンランク上の私立高校へ進学した。勝久はもともと内申が手の施しようがないほど悪かったため、内申比率の高い公立高校は不合格となった。

 そしてめでたく智弘は中学卒業とともに勝久と別れられることになった。嫌な思い出もたくさんあるが、もう二度と会うことはない。そう考えたら一種の薄寂しさすら覚えたほどだった。確かにその時はそう感じていた、というよりそう思いたかっただけなのかもしれない。まさかその十年後に再びこの男と出会い、同棲まですることになろうと知っていたらそんな感情が沸き起こることはなかっただろう。


 約束の土曜の朝、二人はアパートを出て、四ツ谷駅で南北線に乗り換えた。勝久は吊革につかまったまま鼻歌交じりにスマートフォンをいじっている。智弘の懸念とは正反対に上機嫌の勝久は相変わらず今日の目的を話そうとする様子はない。智弘もあえて聞くつもりはなかった。この男がそう簡単に教えてくれるとは思えない。それに気分を害することはできるだけ避けたかった。この男は感情の起伏が激しいのだ。

ある日突然、競馬で儲けたといって小遣いを渡してきたと思ったら、次の瞬間にはちょっとしたことで激高し大声をあげて暴れまわるなど、一緒に暮らし始めて一年ほど経とうとするが未だに勝久のことを理解しかねていた。内心、何らかの、それこそ双極性障害などの 病気ではないかと思ったこともあったが、ただ単にそういう気性なだけかもしれない。いずれにせよ困ったものだ。そんなことを考えながら電車に揺られていると、勝久が下りるぞと声をかけてきた。

 上京したばかりの智久にとって、大岡山は全くなじみのない街だった。大岡山駅で降りる乗客は学生風の若者が多く、やはりというべきか、駅を出ると目の前に大きな建物があった。奇妙な半円系のオブジェがくっついた建物は智久でも知っている理系単科大学の図書館らしかった。しかし、勝久はそんな建築物には目もくれず、智弘に早くついてくるように促した。

 勝久は何度かこの町に来たことがあるようだった。迷うことなく、一直線に目的地へと向かっている様子を見て、改めて勝久の目的は何だろうかと案じた。彼は中学三年の時誓ったように、確かにあの後悪事に働くことはなくなったようだった。進学した私立高校も中退こそしたものの、問題行動を起こし教師から自主退学を言い渡されたり、除籍になったりしたわけではないらしい。

 その後はとび職の仕事に就いたが、それもすぐにやめ、フリーターをしながらブラブラしていたらしい。そんな生活をするうちに智弘のことを思い出した。即座に智弘に電話をかけ、東京でスタントマンとして働いていることを知ると、智弘に相談する前に荷物を持って上京した。そうして半ば強制的に智弘と勝久の同棲生活が始まった。

 同棲と言っても勝久が渡す生活費とは先に行った気まぐれでくれるお小遣いくらいだ。家賃や水道代、光熱費は智弘が支払っているため、居候と言ったほうが正しいかもしれない。

 確かに勝久には一方的に迷惑をかけられているし、彼の言う『いいこと』がいいことだった試しがないといったが、かといって少しも期待していないわけではなかった。普段は横暴にふるまっているものの、居候として勝手に他人の家に上がり込んでいる以上、多少なりとも罪悪感が生じるはずだ。自然に考えれば今日は勝久なりにその償いをしようとしているのだろう。問題はそれをどんな形で示そうとしているのかであり、勝久が常識的な感覚を持っている可能性に賭けていた。

 気が付くと辺りは住宅やアパートが立ち並び、人行きも少なくなってきているようだった。歩道は建物の陰になっているため、炎暑を避けられて涼しくなった気がする。平日昼間ということもあって、住宅街を歩いているのは犬を連れた老人や主婦であり、駅前にたくさんいた学生たちの姿もすっかり見えなくなっていた。

 勝久が意外なところで路地を曲がった。小さな二つのアパートの間にできた道で、隙間と言ったほうが適切な気がするほどだったが、智久も黙ってその背中を追う。その道はまさに路地裏というにふさわしく、鬱然とするような薄暗さで、ジメジメとした淀んだ空気がカビの臭いを運んできた。

 その小道は智弘にさきほどまでの学生で賑わっていた駅前からは想像もつかないほど遠くに来たような印象を与えた。心なしか雲行きが悪くなってきているようにも思われる。空一面に広がる暗澹たる朧雲はさっきまであっただろうか。雑草が覆い茂る鬱蒼とした道を進むと、不意に勝久が立ち止まった。

 勝久は振り返ると、似合わない温顔でにっこりと笑いかけ、親指で右にある建物を指した。智弘は勝久の顔を見て、即座に自分の危惧が正しかったことを悟った。

 勝久の指さした方向を見ると、そこには二階建てのアパートが建っていた。築四十年ほど経っていそうな古びたた佇まいで、ペンキのはげ落ちた赤いトタンの屋根とひび割れたコンクリートは不穏な雰囲気を漂わせていた。側面には黒色のゴシック体でサンヒルズ宮本と書かれている。アパートの駐輪場には一台、野晒しで錆ついた自転車が倒れていた。

 勝久は臆する様子もなく、我が家に入るように堂々とした足取りで階段を上っていく。智弘は勝久について行く際、一階の階段下にある集中ポストを見た。各ポストに住居者の名前は書いていなく、部屋番号のみ記してあった。それぞれのポストは大量のダイレクトメールやチラシ、請求書で埋め尽くされ、これ以上は入りきらなさそうなほどだった。

 どうやらこの状況から判断するに、勝久は智弘を誰かに合わせるのが目的なようだった。しかし数カ月は開けられていないポストを見るに、少なくともその人物は真っ当な職に就いているとは見込めなかった。ふと、屈強な体をした刺青の男に注射機で注入されている自分の光景が目に浮かんだ。

「なあ、そろそろ教えてくれてもいいだろ。僕たちはいったい何をしに行くんだ? ここはどこなんだ?」

 智弘はとうとう耐え切れなくなって勝久に尋ねた。返答によっては今すぐ帰ってしまおうと思った。

嫌だ。薬物中毒にはなりたくない。

 しかし勝久はゆっくりとした動作で振り返ると、口元を歪ませ、首を数回左右に振った。意味は全く分からなかったが、その思わせぶりな動作が癇に障った。もう帰ってやろうかと思い、踵を返した。腹立たしい気持ちを抱えたまま、大きく足音を立てながら階段へ向かう。しかし、階段を降りようよしたちょうどその時、背後からドアが勢いよく開く音とともに甲高い声が聞こえた。

「かぁくん! 会いたかった! ずっと寂しかったんだからぁ」

 耳に障るほどの媚びた声の持ち主は202号室から出てきた二十代半ばの女性だった。肩より下まで伸びている長い金髪をたなびかせ、甘えるように勝久に抱き着いている。智弘の位置からは横顔しか見えなかったが、かなりの美人であることは容易に認められた。

 勝久は困ったような苦笑いをしながら智弘を見た。そして空いた右手で意味の取れないジェスチャーを行うと、ウインクをした。女は上目遣いで勝久の顔を見つめた。その潤んだ瞳は智弘がいまだかつて拝んだことのない、求愛を意味するメスのサインそのものだった。勝久はまんざらでもなさそうだったが、体に絡みついている女を引き離すとぶっきらぼうな口調で注意した。

「おいおい、お客さんの前で抱き着くやつがあるか。あいつは俺の親友の智弘だ。見た目通りいいやつだ。ほら、お前も挨拶しろ」

 女は体をくねらせながら舌足らずな話し方で言った。

「あたしはぁ、トモエですぅ。えぇと、かぁくんの彼女でぇす」

 そう言ったトモエの目には明らかに智弘を軽侮する光を灯していた。そしてふっ、と鼻で笑うと、品定が終わったようで、顔をそむけた。智弘はこれほど人によって態度を変えられたことがなかったので、顔が引きつり、怒りを抑えることで必死だった。

 智弘はなるべくトモエの方を見ないようにして勝久に語り掛けた。

「一体なんなんだ。僕をこの人に合わせて何がしたいんだ?」

 すると勝久はキョトンとした顔で、尋ね返すような表情で首を傾げた。

「何って決まってんだろ。トモエでお前の童貞を捨てるんだよ」

 唖然とした。最初の数秒は勝久の言った言葉の意味が理解できなかった。そして勝久の言ったことを理解すると、今度はそれが彼なりの冗談なのだろうと解釈した。

「ははは。いくら冗談でもそんな……」

 智弘は言葉を続けられなかった。ちらりと見た勝久の目は真剣そのものだったからだった。

口だけは笑ったままで智弘は視線を横にずらした。どうやらトモエも衝撃を受けたようで茫然と立ち尽くしていた。口は半開きになり、その目の焦点はあっていなく、虚空を眺めていた。そして首だけを回転させ、ロボットに似た動きで勝久を見ると、さっきまでの媚びた声とは異なり低めのはっきりとした発音で尋ねた。

「え、どういうこと。あたしがこの不細工とヤるってこと? マジ無理なんだけど、想像するだけで吐きそうだわ」

 いくら無理難題を押し付けたからと言って、初対面の女に不細工呼ばわりされる筋合いはない。言い返してやろうと思ったが、その前に発せられた勝久の怒声が智弘の言葉を遮った。

「馬鹿野郎! 俺の言うことが聞けねぇのかアマが! 智とセックスできねぇなら今すぐ出て行け! そして二度と顔見せるな馬鹿野郎!」

 ドスの利いた勝久の声はアパート中に響いた。激高した勝久を見るのは中学以来で、当時よりもさらに威圧感が増していた。直接怒鳴られたわけでもないのに、智弘は自分の両足が小刻みに震えていることに気付いた。その恐怖はトモエの方がはるかに強かったらしく、すっかり畏縮して今にも泣きだしそうな表情になっていた。そして数秒を待たずに彼女の涙腺は決壊し、目を見開いたまま幾粒もの涙が溢れた。ガクガクと震えていた彼女の足は力が抜けたようで膝から崩れ落ちた。

「わがまま言ってごめんなさいぃ。言うこと聞くから許してぇ」

 トモエは顔面を涙と鼻水で皺くちゃにして勝久の膝に抱き着いた。智弘は先ほどまでと打って変わって柔和な声で囁く。

「わかってくれたらいいんだ。俺も少しきつく言いすぎたな。許してくれるか?」

トモエの頭を優しくなでる勝久を見て、やはりこの男は尋常ではないと悟った。いくら滅茶苦茶な論理でも最終的にトモエが謝ってしまったのは恋の性質によるものなのか、それとも勝久の被依存体質によるものなのか、はたまたその両方か。

「よし、じゃあ部屋の中入るぞ。他の住民に怪しまれても面倒だからな。おい、智も早くこっちへ来い」

 勝久が手招きしてくる。屈託のないその笑顔は、智弘が断ることなど一切考えていない楽観的な思考の現われだった。その様子を見て智弘は勝久得体のしれない恐怖を感じた。

 しかしそんなことは一切考えが及ばないようで、一歩も動かない智弘の腕を引いて無理やり部屋に引きずり込んだ。智弘の必死の抵抗も屈強な肉体を持つ勝久の前では無力に等しかった。

「照れるな照れるな。わからなかったら俺が手取り足取り教えてやるから大丈夫だ」

 照れてなどいないしなぜ童貞だと決めつけるのか。この男にそんな個人的なことを打ち明けた記憶はない。

 部屋の中は外観から想像したような、ゴミで溢れかえった汚部屋ではなかった。第一印象を一言で言うなら、引っ越してきたばかりの部屋だった。玄関に入って左手には洗面所とトイレへ繋がっており、右側には流し台があった。しかし、そこに調理道具らしきものはおろか、皿や食器用洗剤すらおいていない。本来ガスコンロが置かれるスペースには電子レンジが設置され、その周りには無造作に紙皿と割りばしの入った袋が置かれていた。

 勝久に連れられるがまま奥の部屋に入ると、そこは四畳半ほどの洋室だった。部屋の中央にはピンクのシーツの張られたダブルベッドが配置されている。明らかに部屋の大きさに合っていないそのベッドは、ただ寝床としてあるわけではないのだろう。ベランダへ続く掃き出し窓は遮光カーテンで完全に遮られている。そのため、外からの光は一切入ってこなく、間接照明だけがこの部屋の唯一の光源だった。おそらくアロマが焚かれているのだろう。独特の甘ったるい香りが智弘の鼻腔を刺激した。

 部屋を見回してみると、ベッドのほかにはテレビも本棚も机すらなく、とても人が生活している様子が想像できなかった。床には脱ぎ捨てたらしいキャミソールが無造作に投げ捨てられていた。トモエを今一度見てみると、薄手のパーカーにハーフパンツという身なりだった。もしかしたら勝久が来ると聞いて、すぐに行為に臨めるよう準備していたのかもしれない。そんな想像をしていると、自分がこの部屋に連れ込まれた理由を思い出し、顔が紅潮するのが感覚でわかった。

「おい、勝久! 手を放せ! 僕はこんなこと頼んでいないだろ!」

 智弘は貞操の危険を感じ、腕を振り払おうとした。

「智。今更それはないだろうがよ。せっかく俺がやらせてやろうって言ってんだ。人からのプレゼントはありがたくいただくもんだぜ」

 勝久はにやりと笑った。

「もうなんでもいいけどさ。ちゃっちゃとやってくれない? あたしも暇じゃないんだけど。あんたとやるなんて本当は死んでも嫌だけど、かぁくんに言われるなら仕方ないわ」

 トモエが吐き捨てるように言った。彼女はもうすでに腹を固めたようだった。今時の若者の貞操観念はどうなっているんだ。

それでも一向に抵抗し続ける智弘をみて彼女は面倒くさそうにため息をついた。そしておもむろに智弘の前にしゃがみこんだ。そして手慣れた動作で智弘のズボンのチャックを下げだした。

「おい、何勝手にやってるんだ!」

 驚いた智弘はとっさに、手で振り払ってトモエを突き飛ばした。しかし、力加減を間違えた。しゃがんでいた彼女はバランスを崩し、後転するような形で後ろに倒れた。ゴンという後頭部を打つ音とともにトモエは小さい悲鳴を上げた。

勝久はすぐさまトモエの元へ駆け寄り、安否を確認する声をかけながら体を起こすのを手伝った。涙目になっているがどうやら無事らしい。勝久はさすがに見かねた様子で諭すように語り掛ける。

「おいおい! いい加減にしろよ。初めてのセックスが怖い気持ちもわからんでもないが、こんなチャンスめったにないぞ。トモエは中身こそあれだが、見てくれだけならは美人だ。それに童貞のくせに選り好みなんかしてたら一生童貞のままだ」

 トモエは何か言いたげな顔をして見せたが勝久は気づかない。

「そういうことを言ってるんじゃない!」

「でもお前だってこの部屋まで、のこのこやってきただろ。逃げようと思ったなら、本気を出せばいつでも逃げられたはずだ。でもお前は逃げなかった。つまり本当は興味があったんだろ? でもつまんねぇプライドのせいかしらねぇが、セックスなんか興味ないみたいな面してやがる。違うか?」

 智弘は何も言い返せなかった。今までただのバカだと思っていた勝久の口から、自分の内面を見透かす言葉が発せられたことに驚きを隠せなかった。

認めたくないが確かにそうかもしれない。もしかしたら自分は無理やり行為をさせられた、という口実が欲しかっただけなのか?

「すまん、トモエ。もう一度頼むわ。こいつは昔からシャイな奴なんだよ。その証拠にほら、見てみろ」

 勝久は智弘の股間を指さした。そこには不自然に膨れ上がった歪な山ができていた。ジーンズの固い生地越しでもはっきりと認識できるほどだ。自分でも気が付かなかった。いつの間に。

「はぁ? なにそれ。結局やりたいんじゃん。だから童貞は面倒くせぇんだよ。まぁいいけど、あたしを突き飛ばしたことだけはちゃんと謝ってよね」

 智弘は自分の顔が紅潮するのを感じながらも、今度はトモエの手を振り払おうとはしなかった。理性では拒絶しようとするが、本能ではその行為を欲していることを理解した。

「その……。さっきは悪かった。だから、その」

 言葉を発するのに躊躇いはなかった。トモエはぷっと笑い。柔らかい表情で「いいよ。許してあげる」と呟いた。ボクサーパンツから智弘の屹立した陰茎を取り出した。

「おお! 智お前いいもん持ってんじゃねぇか」

「まぁ、かぁ君には及ばないけどね。でもそこら辺のおっさんよりは大きいよね」

 勝久とトモエの会話ももはや智弘の耳には入ってきていなかった。

次第に全身が脱力していき、陰茎が暖かいものに包まれた。下を見るとトモエが智弘の性器を咥えていた。熱を発し、汗をだらだらと流している体とは対照的に、智弘の思考はどんどん冷めていった。ゆっくりと全身が深い幸福感に包まれていく。

そしてまるで幽体離脱でもするかのように自分の精神が肉体から離れていく感覚がする。いつしか智弘は画面の向こうにいて、客観的に自分の行動を見ることができるようになっていた。

何分経った頃だろうか。部屋の入り口で呆けた顔をしながら立ち尽くしている智弘と、床に横になったトモエ、目の前の出来事が信じられないといった様子で口を半開きにして二人を眺める勝久がそこにいた。そう気づいた時、智弘は射精した。


 すべての行為が終わった後、智弘と勝久は岐路についた。アパートを出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。昼間は学生の姿が目立った駅前は、酔っぱらったサラリーマンの姿が目立った。智弘は電車に揺られながら、トモエのアパートで起こったことを反芻した。トモエの裸、喘ぎ声、肌の温もり。ほんの数時間前のはずなのになぜかとても昔の事のように思う。射精した時の感覚はもしかしたら夢だったのではないかと思うほどの快感だった。

 アパートを去ってから、智弘と勝久は無言だった。二人とも目を合わせようとすらしなかった。

最寄り駅で電車を降りる。そしてどちらが言い出すわけでもなく、駅前の牛丼屋に入った。カウンター席に着き、牛丼が運ばれてくるのを待っているとき、勝久が呟くように低い声で言った。

「童貞拗らせると性癖歪むっていうけど、まさかあそこまでとは思わなかったわ」

 横目で見ると、そこには引きつった顔をした勝久がいた。その目には弱弱しい光が浮かんでいる。こんな勝久の顔を見るのは初めてだった。どんな時も楽観的で、自信満々な顔を絶やしたことのない勝久が本気で怯えていた。その虚勢に応えて、智弘は静かな声で返す。

「勝久、ありがとう。僕が間違っていた。今までの自分がどれだけ愚かだったか理解したよ。セックスがあれほど気持ちいいものだとは思わなかった」

「ま、まぁ。お前が気持ちよかったなら何よりだ。確かに最後のあれは俺も予想外だったがよ。……でもこれで思い出に残る卒業式になっただろ? これもひとえにお前の家に住まわせてもらってる感謝の気持ちだ」

 そう言った勝久の顔にはもう怯えの感情はなく、朗らかなものとなっていた。

「ああ、最高のプレゼントだ」

 そう返しながら、智弘は初めてこの男と友人になれた気がした。智弘は勝久に右手を差し出した。少々小恥ずかしい気持ちもあったが、それでもこの気持ちを伝えたいと思ったのだ。勝久もすぐ理解したようで、同じく右手を伸ばしてきた。

 二人はお互いの顔を見合わせると、小さくうなずいた。握手をすると、勝久の大きな手を通して、力強さが体の芯まで伝わってきた。その時、二人のもとに店員が丼を運んできた。

 カウンター席で握手をしている二人を見て、店員は不思議そうな顔をした。


 翌日、智弘はいつもより一時間ほど早く起きた。目覚ましはかけていなかったが、昨日は熟睡できたのか目覚めも悪くなかった。洗面所で顔を洗い、奥の部屋から聞こえてくる勝久のいびきを確認した後、家を出た。

 小道を歩いていると、自転車に乗った小学生の集団とすれ違った。バットとグローブ、ボールなどを器用に自転車の籠に乗せている様子を見るに、今から公園か学校へ行って野球をして遊ぶのだろう。そう考えて今日が祝日であることを思い出した。

 空は雲一つない快晴だった。初夏の日差しが容赦なく照り付けてくる。半袖で家を出てきたが、それでも額に汗をかいている。陽光に目を細めながら手の甲で汗を拭った。


 コンビニで菓子パンと牛乳を買い、公園で朝食をとった。半分ほど食べ終え、ふと思い出す。この噴水前のベンチは先日、穂香と出会った場所だった。彼女は今日もどこかの現場で熱演しているのだろうか。

時間をかけながら咀嚼して、牛乳で流し込むと、腕時計は十時過ぎを示していた。

ゴミをビニール袋の中に詰め込み、ベンチのそばにあったゴミ箱に放り込んだ。智弘はなんとなしに辺りを見渡した。当然だが穂香はどこにもいない。落胆はしない、最初から期待などしていないのだから確認の意味の方が大きかったのだ。そんな理屈で自分を納得させようとする。

しかし、そのとき智弘の頭に一つの疑問が浮かんだ。あの日、彼女はなぜ公園に立ち寄ったのだろう。あの時穂香はラジオ番組の打ち合わせに向かう途中だと言っていた。時間が迫っていたというわけではないようだったが、この公園は通りから外れた場所にある。実際この町に住む智弘も最近まで知らなかったくらいだ。デビューしたてとはいえ売れっ子の女優が住むような町ではないし、彼女は何か目的があってこの公園に立ち寄ったのだろう。

しばらくその謎について考えてみたが皆目見当つかない。ただ一つ確信を持って言えることはその理由は智弘とは一切関係のないことということだ。


おびただしい数の本が見渡す限りを埋め尽くしている。普段書店などほとんど入らない智弘でもこれはかなり品ぞろえの良い本屋だとわかる。智弘にとって本屋とは、主に漫画を

買うところで、そのほかには多少の小説や雑誌が置いてあるだけの小さな店舗というイメージしかなかった。そのため専門書コーナーがあるとは言え目当ての品が手に入るか心配だったのだ。しかし一歩足を踏み入れてそれは杞憂であったことを確信した。まず数フロアに別れていること自体が驚きだった。その衝撃は、あまりにバカバカしいことだが、これだけの本がこの世に存在するのかと本気で思ってしまったほどだった。理工学書、宗教、美術、農学、それぞれの棚の前では真剣な顔つきをした学生から年配まで幅広い年代の人が書物を吟味している。智弘は今までの学問とは程遠い人生を歩んできた自分に引け目を感じながらも、確かな足取りで目的の棚へ向かった。

 見つけるのは簡単だった。法医学書はエレベーターからすぐの医学書コーナーの一角にあった。


 スーパーでの買い物を終え、アパートに戻ると勝久はいつものように寝転がってテレビを見ていた。勝久にはなぜかカーテンを開ける習慣がない。ジメジメした部屋に日光を取り入れるのは勝久の仕事だった。

 すでに十四時を過ぎていたが、この時間に勝久が起きているのは珍しい。勝久は普段はゲームで遊んだり、酒を飲んだりで朝方まで起きていることが多い。そのため目覚めるのは十五時ごろで、それから智弘は少し遅めの昼食を、勝久は朝食を食べるのが常だった。

 勝久の起床時刻をいぶかりながらも、あえて口に出すことはしない。勝久は智弘が帰ってくるなり腹減ったと喚いたから、いつもより少し早い昼食を作った。卵とネギだけのシンプルなチャーハンだ。まだ朝食べたパンが腹に残っていたが、勝久の機嫌を損ねるのは後々こわい。まだ右手のギプスを外したばかりだったため、久しぶりの料理だった。少々手間取ったが、そこそこ上手に作れた。

 食事中、二人は無言だった。智弘も勝久も物を食べながら何かを話すという習慣はない。しかし、この日の沈黙は普段とは違った意味を持っているように思われた。それは智弘が一方的に感じていることなのかそれとも勝久もそうなのか。しばし様子を観察してみたがとうとう判断がつかなかった。

黙々と食事を進める二人の間には冬にはこたつとして使われる正方形机が置かれている。もともと智弘が使っていたこの座卓は今では勝久の私物で溢れている。ゲームのコントローラーや菓子の食べ残しなどはまだいい方で、勝久のチャーハンの隣ではカビの生えたオナホールが一際存在感を放っていた。それを意識した瞬間、智弘のコップの横に置かれているマグカップが気になった。コーヒーが蒸発し、内側が真っ黒になったマグカップの中には、大量のティッシュが窮屈に詰め込まれていた。そのティッシュは黄ばんでいて、ハエがその上を這っている。

 智弘は気分が悪くなったが、なるべく意識しないようにしてさっさと皿を片付けることを優先することにした。チャーハンを食べ終え一息つくと、勝久もどうやらちょうど平らげたところらしかった。勝久はまだ寝ぼけているらしく、しきりに目を擦っている。そしてあくびを一つすると、はっきりとした口調で問いかけてきた。

「なぁ、智。お前昨日のことどう思ってる?」

 勝久の低い声が部屋に響いた。

「……なんとも思ってない。それに後悔もしてない。昨日言った通りだ」

 智弘が呟くように言った。手元にある半分ほど水の入ったコップを見た。水の表面に炒飯の油が浮かんでいて、窓の外から射す光によって七色の光を反射していた。なぜか勝久の顔を直視することが怖かった。

「そうは言うがな。俺はそれが本心だとは思えんわ。昨日のお前の顔を見てたからわかるんだ。……あの気持ちよさそうな顔は忘れられねぇよ。そのせいで昨日も寝不足だわ。ボケが」

 勝久は吐き捨てるように言った。勝久がいつもより早い時間に起きていたのは熟睡できなかったからだったのか。自分とは正反対だなと胸の内で笑った。

「……いったい何が言いたいんだ?」

部屋に緊張が張り詰める。アナログ時計の秒針と心臓の鼓動が場違いに大きな音を出し続けている。智弘は何も答えない勝久に追及する。

「自首しろとでもいうのか? それとも精神病院で診断してもらえと? 生憎だがそんなの必要ないね。俺は昨日久しぶりに熟睡できたんだ。スタントマンの仕事で事故して以来初めてだった。お前に俺の気持ちがわかるか?」

 この一か月、何をするにあたってもあの事故の記憶がフラッシュバックした。その想起から逃げるように智弘は酒に耽った。だが時の流れが胸の痛みを癒してくれるということはなく、時間がたつにつれその記憶はトラウマへと変貌していった。そしていつしか仕事へ復帰することを考えるだけで涙が出てくるようになった。漠然とした将来への不安が際限なく押し寄せてくる。夜に眠ることも困難になり、一時は朝から晩まで布団に包まって震えていた。

この一週間ほどはかなり精神状態が回復してきていた。意識して外で朝食をとるようにしたことがよかったのか、不安で涙を流す回数が減った。しかし、依然として腕のテーピングを外すことはできなかった。腕の痛みはとっくに引いていたがそれを外すことは復職することを意味する。智弘にはその決断を下す勇気がなかった。

 しかし、昨日トモエの家で完全にその恐怖から脱却することができた。彼女の家で久しぶりに見た右手は垢で薄汚れていた。鬱血していたせいで全体的に紫色をした皮膚は全体的に浮腫んでいた。長時間夏場の湿気と暑さのなか密閉されたせいで、異臭を放っていた。それは想像以上の臭さで、不思議と笑いがこぼれた。

「智、俺の話を聞いてくれ。俺はそんなことを言っているわけじゃない」

 勝久の声が智弘の意識を現実に連れ戻した。

「いや、俺にはわかってるぞ。警察にバレるのが怖いんだろ。いいか、昨日も言った通りそれは心配ないんだよ。警察にトモエと勝久の接点をつかむことはできない。確かに指紋やらなんやらは残っているが、前科者でもない限り、無関係な一般人のものと照合することはない。俺たちが警察に捕まることは絶対にない! いいか、絶対だ!」

 トモエと勝久の関係を聞いたのは『行為』が終わった後だった。確かにトモエは勝久に惚れていたが、その出会いはやや特殊なものだった。

 智弘は昨日の夕方、トモエの部屋で勝久から聞いた話を思い出す。二か月ほど前、勝久が日本武道館で行われたロックバンドのライブに行ったときに出会った女がトモエだった。トモエの美形な容貌と艶やかな体はすぐさま勝久の目を惹いた。一人で来ていることを確認すると、ライブが終わった後に彼女に接近した。高い身長に整った顔立ちと巧みな話術を駆使するとあっけなく勝久の誘いに乗った。そしてそのままホテルに入り情を交わした。そしてそれから数回にわたり彼女の部屋に赴き体を重ねた。

 だがその後、勝久は彼女への関心を無くしたようでアパートへ訪れることも、度々送られてくるメールに返信することもなくなった。そのまま数十日が過ぎ、智弘の童貞を捨てさせてやろうという慈悲深い心が芽生えた時、ふと彼女のことを思い出した。

「おいおい、何勝手な想像してるんだ。俺は一言もそんなこと言ってねぇだろうが! 誰が警察に捕まるのが怖いだと?」

 勝久は智弘の物言いが頭に来たらしい。眉間にしわを寄せて顎を突き出すようにして智弘を睨んだ。

「答えろよオラァ! 俺がいつ警察が怖いっつったよ!」

片膝を床についたまま机を拳で殴りつける。調味料のビンがいくつか倒れた。智弘も負けじと大声で怒鳴り返す。

「だったらなんなんだよ! 何か言いたいことがあるんだろ! 今更トモエに未練でも沸いてきたのか! それともあの女に同情でもしてんのか!」

「ちげぇっつってんだろ!」

 勝久の右腕が智弘の肩を突いた。強い衝撃を感じ、智弘は後方へ倒れた。受け身を取る暇もなく、本棚に背中を打ち付けた。頭上から何冊かの漫画が落ちてきた。智弘は勝久の目を見据えたまま怒声をを張り上げる。

「嘘ついてんじゃねぇぞ! 俺がトモエを殺したことがそんなに気に食わねぇのか! 警察に捕まりたいだけの腑抜けがよぉ!」

 智弘は勝久の胸倉をつかんだ。右手首に痛みはない。やはり傷は全治したようだった。

胸倉をつかんだまま勝久の体を座卓の上に押し倒した。勝久の背中で皿やコップが割れる音がした。体格ではとても勝久に敵わなかったが、それでも学生時代からスタントの訓練を積み重ねながら体を鍛え続けた智弘には、本気を出せば負けないという自信があった。

 勝久の上に乗っかって、上がった息を整えようと力を緩めた途端、左から何かが飛んできた。一瞬目の前が真っ白になった。何が起こったかを理解できたのは床に転がり、勝久の二度目の拳が飛んできた時だった。両腕で必死に顔を防御しようとしたが、すぐに腕の感覚がなくなった。絶え間なく襲い掛かってくる鈍痛の連続に、智弘はただ耐えることしかできなかった。

 それから三分ほどした時、勝久の攻撃が収まった。いや、それは一分だったかもしれないし、本当は三十秒ほどだったかも知らない。とにかく、勝久の腕が止まった。

 グワングワンと視界が回る状況で、智弘は恐る恐る腕をどかした。そこには勝久の顔があったが、様子がおかしかった。

 勝久は泣いていた。目から大量の涙を流して、顔は皺くちゃに歪んでいた。勝久はこの状況で涙と鼻水にまみれて、静かに嗚咽していた。

 智弘は困惑した。熱くなっていた頭が冷静になっていくのを感じた。


「お前がトモエを殺した時はそりゃ焦ったしビビったさ。だがその瞬間はってことだ。今の俺たちに捜査の手が行き届かないことは理解してるし、お前のことを恨んでるようなこともない。もともとあいつはただのセフレのつもりだったしな」

 そういうと勝久は鼻をかんだ。落ち着きを取り戻し、呼吸も整っている。たった今の一悶着の存在を保証するように、両目の下には涙の痕跡が残っていた。

 勝久は続ける。

「だがな、智がトモエの首を絞めながらヤってた時の記憶が頭の中から離れねぇんだよ。あの時のお前の気持ちよさそうな顔を思い出すたびに勃起するんだ。一体どれほど気持ちよかったんだ? ってな」

 智弘はしばらく考えてから恐る恐る尋ねた。

「つまり、勝久も俺と同じことをやってみたいってことか?」

 勝久は智弘の目を見据えたまま大きく頷いた。その力強い目からは相当の覚悟がうかがえた。

「そうだったのか……」

 智弘は眉間を揉んだ。勝久に殴られた顔は依然痛かったし、口の中は未だに鉄の味と臭いで溢れているが、結果的に勝久の心の内を知ることができた。そう思うと腹の中でふつふと燃えていた憤怒の種火が消えていくのがわかった。

 智弘は深呼吸を一つすると、勝久と向き合い、穏やかな口調で語りかけた。

「すまない、僕が悪かった。勝久の話も聞かずに勝手に決めつけて。一番警察のことにビビっていたのは僕だったのかも知れない。心から謝罪する。この通りだ」

 そう言って智弘は頭を地につけた。顔が見えないため勝久の反応は分からない。

「顔を上げてくれ。俺たちは親友だろ? 俺も少し殴りすぎたのかもしれない。これでお相子とまでは言わないが、お前の誠意はしっかりと受け取ったわ」

 右肩に手が置かれた。勝久のごつごつした大きくて暖かい手だった。許しを得た、そう思うと勝久の懐の広さに対する感謝の気持ちが勢いよく湧き出してきた。智弘は顔を上げると同時に両手を広げ、抱き着いた。智弘は間断なく流れてくる涙とそれに伴って生まれる嗚咽に感情を飲み込まれながら、二人は何も言葉を交わさず、初夏の日光が降り注ぐ狭い部屋で抱き合った。

智弘と初めて親友になれたと思ったのは一日ぶり二度目の事だった。


「おっ、出てる出てる。智も見てみろよ」

夕食を食べながらスマホを見ていた勝久が興奮気味に呟いた。そしてすぐに智弘にその画面を見せてきた。眼前三センチの位置にある画面はぼやけてまともに見たら目が悪くなりそうだった。

「近い近い。もうちょい画面離してくれ」

智弘は勝久からスマホを奪った。それはニュース記事だった。その見出しを見て、体の芯から寒気が込み上げてきた。一度深呼吸をして再び画面に目をやった。そして震える手でスクロールし、一字も読み逃さないようにと時間をかけて入念に目を通した。

「おお、まさかここまで大きく取り上げられるとはな。思ったより見つかるの早かっただけに驚いたわ」

 勝久の興奮が伝染したのか、智弘も捲し立てるように言った。

「いやー、まさかヤフーニューストップに出るようになるとは。とうとう俺たちも全国的になってきたってことでいいのかねぇ」

 勝久が照れるように言った。目尻は垂れ、口角は吊りあがっている。自分の功績が認められたことがうれしくて仕方がないといった様子だ。

 智弘も勝久の気持ちがよく分かった。確かに二人の名前は載っていなかったが、これは間違いなく智弘と勝久が成し遂げたものだった。

 智弘は未だ実感がわかなかった。体がゾクゾクするのは警察に捕まるのが怖いからではなかった。この記事の真相がこのアパートの一室にいる二人しか知らないという事実が心を沸き躍らせるものだったからだ。

 勝久にスマホを返し、一度大きく深呼吸してから、自分のスマホでニュースサイトを開いた。確かにトップ画面にその記事は載っていた。


  公園に切断された遺体 行方不明の女子高生と断定 埼玉

 埼玉県大宮市の市民公園で切断された遺体が見つかった事件で、埼玉県警は遺体の身元を十七日から行方不明となっていた女子高生だと断定した。

 県警によると、十七日の夕方、女子高生は学校が終わったあと、学校から帰宅する途中、同級生とドラッグストアに立ち寄った。その後同級生と別れたが、自宅には帰らなかった。連絡がつかないことを不審に思った両親により、その日のうちに埼玉県警大宮署に捜索届が出された。

 大宮市の公園で発見された遺体は二十日早朝、散歩中の近隣住民によって発見された。捜査関係者への取材では、遺体は刃物で数か所に渡って切断されており、いくつかのビニール袋に入った状態で噴水の中に投げ込まれていたことが分かった。

 司法解剖の結果、死亡推定時刻は十七日の二十二時ごろで、最後の目撃されたときから四時間後とされている。捜査関係者によると、遺体の首には絞められたような跡があり、殺害後、数時間たってから遺体を切断したとみている。

 県警は本件を殺人および死体損壊、遺棄事件と見て大宮署に捜査本部を設置した。


 

事件の発端は二人で涙ながらに抱き合った日に遡る。

 涙の止んだ智弘と勝久は、すぐさま作戦会議に移った。勝久にもあの体験を味わせてやろうという智弘の提案を基にした作戦会議であった。勝久に聞いてみたところ、相手の女はなるべく若い方がいいとのことだったため、なんとなくの思い付きで対象は女子高生とした。

 すると当然のことだが、『どこで?』『いつ?』『どのように?』の疑問符が頭に浮かぶ。警察に捕まることはなるべく避けたい。ならば埼玉辺りではどうだろうと勝久が申し出た。なぜ埼玉とも思ったが、特に断る動議もなかったため場所は埼玉県にした。次に決めるのは『いつ?』だったが勝久はなるべく早くやりたいと言ったので、数日以内の決行とした。すると残った『どのように?』が問題となってくる。

 女子高生は主に群れて行動する生き物だ。また少女とは言え成人女性と体格はほぼ変わらないため、必死で抵抗されると勝久と智弘の二人がかりでも逃げられかねない。どうやら誘拐するのは勝算が低そうだ。

 そのため、安全にことをやり遂げようとするなら女子高生自らこちらへ来てもらう事が必要となってくる。

「なぁ、智よ。最近の女子高生はパパ活とか言って売春をするのが流行ってるんだろ? それなら簡単にセックスまで事が運ぶし、いいんじゃねぇか」

 勝久が陰茎を屹立させながら言った。計画の段階でここまで興奮しているようで大丈夫だろうかと思ったが、智弘は冷静な口調で答えた。

「それも考えたがな、リスクが大きすぎる気がするんだ。パパ活っていうのはSNSや専用のアプリを通じて行うことが多いんだが、おそらく警察に調べられたら一発で回線を引き当てられちまう」

「なるほどな。そいつは怖い。……となると、残った手段はナンパか」

「それが一番足の付きにくい方法だろう。監視カメラなど気にしだしたらキリがないが、そんなこと言ってたらいつまでたっても始められない。勝久は見た目だけなら好青年だからな。ほいほいついてくる女も多いだろ?」

「ま、自慢じゃないが、俺に股を開かなかった女はいないからな。中学生のガキから七十過ぎの婆まで経験した俺にとっちゃそこら辺の女子高生なんて一発よ」

 そういいながら勝久は指を使って何やら卑猥な形を作った。

今更ながら本当にこの男は常軌を逸しているなと呆れた。


 作戦は想像以上にスムーズに進行した。学校から出てくる勝久好みの女子高生の後をつけ、一人になったところを誘った。少女は今時の高校生らしく、前髪が水平に切られているボブカットをしていた。丸顔でパチリとした大きな二重の目が印象的なかわいらしい面立ちの少女だった。男が二人いると不審に思われる可能性があったため、智弘は予めホテルに待機していた。最初は訝しげな表情を浮かべていた女子高生も、お礼に渡すつもりだと札束を見せた途端従順になった。

 勝久も一人目で成功するとは思っていなかったらしく、あまりのあっけなさに思わず笑いが込み上げてきたという。

 ホテルに入ると、少女は智弘が待ち構えていたことに驚いたが、カメラを回す役割だと説明した。少女は、最初は行為を撮影されることを拒んでいた。しかし、絶対に他人に見せることはないと約束し、お礼は弾ませるというと渋々といった様子で承諾した。

 緊張をほぐすためにしばらくは菓子やジュースを食べさせながら雑談をした。聞くと少女はパパ活の常習者らしく、智弘や勝久よりも性行為の進行やホテルの設備を熟知していた。

「最近の若い奴らの貞操観念はいったいどうなってんだ」

 と智弘が呟くと、「そんなセリフ本当にいる人いるんだ」と言って冷笑した。

 ホテルに入って一時間ほどして、漸く行為の時間になった。勝久は慣れた手つきで前戯を手早く終わらせると、いよいよ勝久の待ちわびた挿入の時間となった。興奮で震える手でゆっくりとベルトを外すと、ボクサーパンツ越しに屹立した陰茎が現れた。パンツを脱ぐと、その大きさはより際立って見えた。仰角を向く陰茎はニ十センチほどあり、カウパー液で湿った鬼頭は、鈍い光を放っていた。黒光りした陰茎からは、数本の静脈が浮き出ていて、勝久の呼吸に合わせてビクビクと律動していた。

 その陰茎の大きさに、少女も驚いたようだった。パパ活百戦錬磨の彼女も恐れをなしたのか、ベッドの上で勝久と向かい合うように座っていた足がぱたんと閉じた。明らかにサイズの合っていないコンドームを手間取りながらも装着し、少女の性器に密着させた。彼女は意を決したようにこくりと頷くと、勝久の陰茎はゆっくりとその体内に飲み込まれていった。勝久は待ちきれなかったのか、挿入するとすぐに勢いよくピストンしだした。少女の顔が苦痛に歪んだ。彼女はとっさに制止するよう言ったが、勝久は意に介さず一心不乱に腰を動かし続けた。

 挿入してから三分ほどたったころだった。彼女も勝久の動きに慣れてきたらしく、小さな喘ぎ声を漏らしていた。勝久は射精が近いことを悟り、おもむろに少女の首に両手を伸ばした。少女は喘ぎを止めて一瞬当惑した表情を浮かべた。彼女の大きな瞳が勝久とカメラを持っている智久に交互に向けられた。

「結衣ちゃん、これから滅茶苦茶気持ちいいことしてあげるからな。ちょっとだけ我慢したらアドレナリンがブワァって出て滅茶苦茶気持ちいいはずだから。ちょっとだけ我慢してくれよ」

 勝久が少女の耳元でやさしく囁いた。

「ちょっと待って。何を……」

 明らかに状況を理解できていない少女に静かに微笑んだ後、勝久の大きな手は彼女の首を捉えた。そしてそのまま腕に力を籠める。

 その瞬間、彼女の瞳孔が開き、全身が一度大きく震えた。

「ぐぅっ……ごぉぅ……」

 少女は叫び声とも言えないような低くくぐもった声を漏らした。その血走った目は勝久の顔を捉えていた。少女は両手で必死に勝久の腕をどかそうとしていた。しかし、勝久の握力の増している腕はか弱い女子高生に外せるはずもなかった。

 勝久の巨体が少女の上に載っていたため、逃げることもできなかった。酸素が肺に取り込まれなくなり、思考能力も低下しているのか、彼女は体をよじり、足をバタバタと上下させた。少女の必死の抵抗もむなしく、勝久は薄気味悪い笑顔を浮かべて彼女の顔を眺めていた。智弘はその様子をじっくりとハンディカメラに収めるが、勝久の大きな背中が邪魔であまり上手に撮影できない。絶頂の瞬間を映像に残せないのはカメラマンとして失格だ。智弘はベッドの上に上がり、顔のアップだけ映すことにした。

 彼女の顔は紅潮し、唇は紫色に変色していた。白目をむいた眼からは涙が間断なくなく流れ落ち続けていた。その白目も充血して赤い色が混ざって全体としてはピンクに似た色となっている。そしてあのかわいらしかった丸顔は涙と鼻汁との区別がつかないほど、顔全体が透明な液体で汚れていた。

 ふと、勝久の手が血だらけになっていることに気付いた。勝久は興奮のあまり気づいていないようだった。よく観察すると、彼女の爪でひっかかれた切り傷らしかった。

 彼女の全身が小刻みに震えだした。先ほどまで暴れていた手足も、ベッドの上に放り出されたまま痙攣している。足がピンと伸びているのはなぜだろう。

智弘はトモエの経験を思い出し、そろそろ終わりが近いかと思って彼女の全身を舐めるようにビデオカメラに収めた。

 不意に勝久が叫んだ。

「うわっ、なんだこれ」

勝久の視線は結合部に向けられていた。すると彼女の性器から液体が勢いよく吹き出していた。少し黄色がかった液体は勝久の腹にあたり、たぱぱぱ、とユーモラスな音をたてた。その様子を見て、智弘と勝久は同時に吹き出した。

「ぎゃはは、結衣ちゃんおしっこ漏らしてるじゃねぇか! あったけぇなおい!」

「勝久、お前汚ねぇな! ハハハ!」

 智弘はカメラで撮るのも忘れて哄笑した。

もしかしたら殺人を犯しているという異常な状況が脳にストレスをかけないように、勝久が言っていたような快楽物質が出ていたのかもしれない。とにかく智弘はあまりのおかしさに涙を流しながら床に突っ伏せた。

「あっ、やべぇ。出すぞっ!」

 不意に勝久が叫んだ。智弘は慌てて起き上がり、その様子を撮影した。少女は舌を口腔からはみ出したまま天井の一点を見つめていた。その瞳は白濁していて、何かを恨むような気持と苦しみが混ざり合ったような複雑な感情が顔に浮き出ていた。


 その後、智弘と勝久は遺体をホテルの外に運んだ。彼女を大型のトランクケースに詰め込むと、レンタカーに乗せ東京のアパートまで運んだ。

 警察車両とすれ違うたびに呼吸は浅くなり、心拍数は増して生きた心地がしなかったが、幸いにも何事もなく自宅まで帰ってこられた。

 東の空には陽が昇り始めていた。朝焼け特有の瞑色から茜色までの層とともに空の低い位置に三日月が浮かんでいた。

 遺体を解体したのは発見されることを避けたかったからだった。当初の目的では彼女を解体した後、重しを付けて東京湾に捨てるつもりだった。

 しかし、自宅の風呂で解体しているとき、小さく勝久が呟いた。

「にしても、この子の親はかわいそうだよなぁ。娘が死んだのは仕方ないとしても、真っ暗な海の底に沈んじまったら一生会うことはできないんだぜ? 自分の子供が生きてるか死んでるかもわからずにこの先、生きていくのはあんまりだ」

 智弘は黙って聞きながら少女の腹に牛刀包丁を入れた。その途端強い腐敗臭が鼻腔をついた。目に染み涙が出てきたため、顔をそむけた。包丁には黄色い脂肪がべったりとついている。智弘は咽ながら答えた。

「それはそうだけど、死体が見つかったら僕らのことがバレる確率が上がるんだぞ。この子の膣内には勝久の精液がついているし、今この瞬間だって僕らの指紋や皮膚、髪の毛なんかがこの体にくっつきまくってるんだ」

「だがそれはトモエだっておんなじだろ。今のところは死体も見つかってないみたいだし、当分は俺らに捜査の手が及ぶことはないのかもしれんが、あのアパートには俺らがいた証拠がたくさん残ってる」

 それは智弘も懸念していたことだった。いくら勝久たちとトモエの接点がないといっても有能な日本の警察のことだ。いつかは自分たちのもとにたどり着くのではないかという不安が確かにあった。

「だとしても、だ。この子を返すのはあまりにリスクが大きすぎる。僕は賛成できない」

 智弘は語調を強めて言い張った。

 しかし、勝久の目にはその決意の重さを象徴するような力強い光が浮かんでいた。智弘の説得に納得するどころかより決心を強めたようだった。

「なぁ智。お前は捕まるのが怖いか?」

 活費だが低く呟いた。それは智弘にとって予想外の言葉だった。

「な、何言ってるんだ。そりゃ怖いに決まってんだろ。勝久は怖くないのか?」

「俺は……。怖くないといったら嘘になる。だがな、俺たちはいずれ捕まるんだろうなと思ってるわ。それがトモエの事でなのかこの子の事でなのかはわからねぇけどよ。俺には分かるんだ。それに、本当はお前もそうなんだろ? 智」

 図星だった。智弘は何も言い返せなかった。智弘は勝久から目をそらした。下を見ると右手に乗っている少女の足首があった。とても小さいがずっしりとした重さのあるその足は、昨日殺害したことの罪の大きさを無言で主張しているように感じられた。

 咽返るような異臭の漂う狭い浴室に沈黙が張り詰めた。

勝久は作業をしながら、腕で額の汗をぬぐった。その空間は蒸し暑く、二人とも汗だくだったが、浴室のドアを開けることも換気扇を付けることもできなかった。腐敗臭が外に漏れ出るのを防ぐためだった。

「勝久。お前まさか自首するつもりか?」

 誰も聞いているはずがないのに、智弘は声を潜めるようにして言った。

先ほどの様子から勝久に何らかの覚悟が芽生えていることは気付いていた。二人で抱きあったあの日から、この男に限って自首することはないのだと確信していたが、今はその確信が揺らぎつつあった。勝久は昨日の性行為をしているときと別人のようだった。言葉数は少なく、目には虚ろな光が射していて、表情筋もどこか弛緩しているように見えた。勝久の思いつめた顔を見るのは初めてだった。

「いや、自首はしねぇ。だが俺は逃げることもしねぇ。どうせ捕まるならやりたいことをやるまでだ」

「……」智弘は勝久の次の言葉を促した。

「俺は昨日の夜考えたんだ。俺たちはどうせこの先クソみたいな人生を送るんだろうなってな。低賃金の仕事をしてたいして好きでもない女と結婚してよ、子供を作って家族サービスをしてってな。だがそんな人生楽しいか? 俺たちが望んだ未来はそんなものか? 俺たちには学歴もないし、資格や技術があるわけでもない。この先みじめに暮らしていくのはごめんだ」

 智弘は勝久の言いたいことが理解できた。そしてこの後に続く言葉も。

「だからよぉ。この先、捕まらなくても俺らに未来なんてねぇんだよ。だとしたらだ」

 勝久は一呼吸分間を置いた。その鋭い眼光は智弘を射して譲らない。

「やりたいことをやるだけだ」

 勝久の声が浴室内に響いた。

「……本当にそれでいいのか? 勝久」

 智弘は確認するように言った。その返答次第で智弘の人生は百八十度変わることになる。

「ああ。俺はもう逃げねぇ」

 智弘は観念し、顔に微笑を浮かべた。

「だったら僕にもやらせてくれ。どうせ最初から共犯だ」

 勝久は口角を上げ、腐敗臭のせいで充血した目を細めると、右手に二重に着けていたゴム手袋を外した。そしてその手を智弘に差し出してきた。

 智弘も手袋を外すと、勝久の手を力強く握った。


 智弘はニュース記事を読み終わると、スマートフォンの画面をオフにした。目の前にはすっかり冷めた夕食が置かれている。

「それにしてもあの子、家族のもとに帰れてよかったな」

 勝久に向かって言った。勝久は食後のインスタントコーヒーを啜っている。

「ああ。何よりもそれがうれしいわ。これでも昔は警察官になりたかったくらいだからな。やっぱり善良な心が残ってるんだろうなぁ」

 勝久はそう言いながら何度もうなずいた。冗談ではないようだった。

「まぁそれは置いといて、そろそろ次の計画を立てたほうがいいかもしれない。あまりもたもたしてると何もしないまま捕まるかもしれないからな。でも本当に今まで警察に指紋を取られたりしたことはないんだよな?」

「当たり前よ。俺が警察に捕まったことなんて氷山の一角のまた一角。それも軽い注意で済まされることばかりだったからな」

「……ならいいんだが」

 勝久はうんうんと頷きながら智弘を指さした。

「それでだ。俺もそう言おうと思ってたところだ。それで智、次の実行について提案があるんだが」

 智弘は勝久の突然の提案にやや憂慮したが、黙って続きを促した。

「トモエの時は智が、結衣の時は俺がヤっただろ? でもそれはちょっと効率が悪い気がするんだわ。相手のを待ってる間、ギンギンになったマラボウ片手にシコるのはあまりにバカバカしいしな。だからよ今度からは二人同時に犯すのはどうだ?」

 智弘は眉をひそめた。勝久の言っている意味が理解できなかった。

「二人同時に犯すって言うのは、二人の女を連れ込んでそれぞれセックスするという意味か?」

 勝久はかぶりを振る。

「いや、そうじゃねぇ。それだったらもし暴れられたとき逃げられるかもしれねぇし、警察に見つかるリスクも二倍になるだろ。一人の女を二人で犯すんだよ」

「交代でセックスしても、片方は首を絞めた時の気持ちよさを味わえないだろ」

 勝久は苦笑いしながらまた首を横に振った。いったい何が言いたいのだろう。

「みなまで言わなきゃわからないかねぇ。つまりだ、一人が前の穴を使って一人が後ろの穴を使えば同時に使えるだろ」

「それは……。つまり膣と肛門に同時に挿れるという事か?」

「そうだ」

 智弘は絶句した。勝久が正気で言っているとは信じたくなかった。

「あのな、普通の女はケツの穴なんかに入らないんだよ。あれは徐々に慣れさせて……ってそんなことはどうでもいい。お前は嫌じゃないのか? 俺と二人で女を挟んでセックスするんだぞ」

 智弘は語調を強めて言った。勝久の言っていることの異常さをわからせるためだったが、勝久は気抜けした顔を浮かべた。

「なにが嫌なんだよ? 別にホモセックスするわけでもねぇだろ」

「そういうことじゃ……」

 智弘は途中で反論をやめた。この男にこの生理的嫌悪感をどう説明しても理解してくれない気がした。

 結局、その日の作戦会議はうやむやに終わった。


 翌日、昼近くになってもテレビをつけたまま熟睡している勝久を置いて、アパートを出た。部屋には勝久もいるし、何より盗られるものなど何もないのだからと鍵も掛けなかった。

 いつものコンビニでパンと牛乳を買って中央公園のベンチに腰を下ろした。パンをかじりながら智弘はスマホでネットニュースを見る。どの記事も事件のショッキングさ、被害者の少女の生前の様子や遺族へのインタビューを載せているだけで、犯人の正体への言及はされていなかった。一安心しながらも、次にSNSやブログサイトをチェックしていく。今や世界中の一個人がカメラと情報発信の場を得たため、どんなところから事件の真相が漏れ出すかわからない。

 すっかりパンを食べ終わって、今のところまだ大丈夫そうだと判断できたのは一時間ほど経ったころだった。ぬるくなった牛乳を飲み干し、この後どうしようかと思案する。

 十五時には一度家に帰って勝久に食事を作らなければならない。別にわざわざ毎食作ってやる義理はないのだが、勝久が気まぐれで渡してくる金で食費をやりくりしようとすると必然的に自炊するしか選択肢がなくなるのだ。それに今は智弘も無職のみであるため、自分の食費もなるべく減らさなければならない。

 智弘は昨日の夜、上司の上野に電話し、仕事を辞めたいと連絡を入れた。上野は考え直してみるよう説得したが、智弘がもう一度強く言うと簡単に受け入れた。おざなりに感謝の意を伝えると、上野の方も特に話すことがなかったのか、一度事務所に来て正式な手続きをしたり、荷物をまとめたりするようにと指示を受けて通話はすぐ終わった。画面を見ると通話時間は二分五十秒だった。

 あれほど恐怖していた復職から逃れられたというのに、不思議と開放感はなかった。胸の奥にどんよりと沈んでいた黒い靄は今もなお消える気配はない。

「どうすりゃいいんだよ……」

 智弘の低い呟きは無邪気に遊ぶ子供たちの声でかき消された。

 ふと、向かいのベンチに座っている少女が視界に入った。中学生くらいの、セーラー服を着た長い髪の少女。スマートフォンを退屈そうに触っている。華奢な体と丸顔の幼さの残った顔つき。埼玉の女子高生に似ているような。

 智弘は何かを考える前に身体が動いていた。一歩、一歩と近づいていくが誰も智弘のことに気が付いていないようだった。だんだんと息が荒くなる。心臓の鼓動は早まるが不思議と頭は冷静だった。

 彼女を連れ出してアパートへ行こう。なに、これくらいの年の子どもは警戒心がまるでない、簡単に乗ってくるはずだろう。結衣だってそうだった。

 少女から二メートルほどの距離で立ち止まった。第一声が大切だ。不審者と思われることだけは避けなくてはならない。

 智弘が声をかけたのはちょうど少女が気配に気づいて顔を上げた瞬間だった。

「あの、もしかしてK中学の生徒さんですか?」

 智弘の突然の声掛けに少女は動揺したようだった。全身に力が入って、顔つきが強張っている。

「そ、そうですけど……」

 か細い声で答える。目の前の男が何者か探るように視線を巡らせている。智弘は即興で頭に浮かぶ言葉を口にする。なるべくフレンドリーな態度になるよう努める。

「青少年生活育成員の井上勝久といいます。実は最近この辺りでK中学の生徒が関わっている事件があるんだけど……」

 とっさの仮名に勝久の本名を使ってしまったが、出だしとしてはいい感じだ。青少年なんたらというのが何なのかは考えていなかったが、下手に警察だの子ども相談所の人間というより相手の想像に任せた方が都合がいい。

「あの、私は別に……」

 全く話の内容をつかめていない少女は明らかに困惑している。

「いや、ごめんごめん。そうじゃないんだ、その事件の犯人のことは把握している。ただちょっとかなり深刻な事件だったから。決して君のことを疑っているというわけではなくて、ええと……」

「あっ、山本です。山本紗彩です」

「ありがとう。ええと、そう、山本さんにK中学校の生徒の目線でお話を聞いてから、その原因究明をしたいと思って。もし時間があったらお話だけでも聞かせてもらえないかな?」

「わ、私にですか?」

「うん、実はちょっと詳しくは言えないんだけど、その問題の子っていうのは君の知っている生徒なんだ。個人情報になるから名前を言うことはできないんだけど……。学校の方では結構大きな問題になっていて……」

 するとさっきまで戸惑いの色を浮かべていた紗彩の目の色が変わった。

「まさか、それってタクミの事ですか……?」

 よし、釣れた。

あまりの安易さに思わず笑ってしまいそうになったが、深刻そうな顔を崩さないように演技を続ける。

「……そうか。ごめん、僕には否定も肯定もできない。でも、もし紗彩ちゃんが協力してくれるならその生徒の処分を軽くすることが出来るかもしれないんだ。もちろん無理にとは言わない、君の意思を尊重するよ」

 さりげなく下の名前で呼び、最後は本人の判断に任せる。心の距離を縮めて、最終的に断わったり逃げ出したりしづらくさせるためのテクニックだ。ここまで来たら彼女の答えは聞くまでもなく分かる。

「……わかりました。タクミ、いえ、その生徒を助けられるかもしれないのなら私、協力します」

 智弘は少し驚いた表情をした後、神妙そうな面つきになって頷いた。どうして顔も名前も知らない紗彩を学校ではなく公園で話しかけたのかなど考えもしていないようだった。


「飲み物は何にしようか、ジュースがいいよね?」

カラオケボックスのメニュー表を捲りながら訪ねた。

「あ、すみません。じゃあ……オレンジジュースをお願いします」

紗彩はすっかり恐縮してしまっている。普段カラオケにはあまり来ないのだろうか。智弘は二人分のドリンクを備え付けの電話で注文した。

場所をカラオケに選んだ理由は、中学生の紗彩でも入るのに抵抗がなさそうだと思ったからだ。この後のことを考えたら人目に付くことは避けたい。そのため、個室であり、彼女にとっても馴染み深いであろうこの場所を思いついた時は名案だと自賛した。

だが彼女の緊張がほぐれるどころか帰って固まってしまっている。やはりリスクを冒してでもファミレスなどにするべきだったか。

 小さな個室に気まずい沈黙が張り詰めた。場違いにモニターからは聞いたことものないようなアイドルグループの声だけが流れている。

 さて、この後どうしようかと考え直したところで店員がドリンクを二つ持ってきた。二十代前半の智弘と制服を着た中学生の少女を見て一瞬訝し気な表情を浮かべたが、そのまま引き返していった。

 智弘は小さく息を吐くと、控えめにジュースを飲んでいる紗彩に向かって静かに語り掛ける。

「紗彩ちゃん、さっそくだけど本題に入りたいと思う。さっきも言ったけど、僕には守秘義務というものがある。子供たちの個人情報などを人に言ってはならないという義務だ。……だけど、君がどうしてもというなら僕はその生徒が誰なのかを君に伝えたいと思っているんだ。もちろんこれがバレたら僕は処分を受けるし、もしかしたらクビになるかもしれない」

 ここで一息入れる。そしてこめかみに手を当てる。考えているふりだ。

ちなみに先ほどからしているこの小癪な演技は、中学の時やたら女子から人気があった大宮先生の真似だ。この演技が功を奏するかどうかは大宮先生に懸かっている。

 彼女の目はまっすぐと智弘を見据えている。智弘の続く言葉を待っているのだ。そしてその返答はすでに頭に浮かんでいるに違いない。

「だけど、君がこれを他の人に話せないと約束できるなら、僕は君にその人の名前を打ち明けようと思う。……どうやら君にとって大切な人らしいからね。どうする? ここから先は君が決めてくれ」

 智弘は身を乗り出し、テーブルの向かいに座る彼女の意思を確かめる。彼女の瞳には強い決意の色が映し出されていた。紗彩は唇を一度噛んでから、大きくうなずいた。

「お願いします。教えてください。私は水島君の、いえ、彼の助けになってあげたいんです」

 水島タクヤか。

「わかった。……と言ってももうすでに分かっていたんだね。うん、そうだ。その問題を起こした子というのは水島タクヤ君だ」

 彼女はほぼ確信していたとはいえ、それでも驚きを隠せていなかった。視線を膝の上にやって押し黙った。いったい水島タクヤとはどのような男なのだろうか。

掠れたような小さな声で尋ねてきた。

「タクヤは……タクヤは何をしたんですか?」

 智弘は一瞬押し黙った。何を言うかはすでに考えてある。説得力を持たせるためにいかにも重々しそうな口ぶりでゆっくりと答える。

「強姦だ」

 紗彩の喉からヒュウと空気が抜ける音が聞こえた。

「な、なんで。どうしてそんな……」

 彼女の肩は小さく震えている。そして両手で口を押えた。まるで口から何かが飛び出してくるのを必死で耐えているようだった。

「強姦、つまり強制性交だけど、水島君は二週間ほど前、あそこの中央公園にいた女子中学生を言葉巧みにトイレに連れ込んだ。男子トイレに人が倒れているからと言ってね。それ自体はくだらない嘘だったが、彼女はそれを信じてついてきた。そして個室に連れ込むと無理やり行為に及んだんだ」

 智弘は明らかに聞くことを嫌がっている紗彩を無視して一方的に語り続けた。なぜ自分がここまで詳細に事件の推移を語れるのだろうか。

 もしかしたらその水島タクヤという男に嫉妬しているのかもしれない。中学生とはいえ、女性にここまで大切に思ってもらえている顔も知らないその男に妬心を芽生えているのだ。

「もうやめて!」

 少女の声がカラオケルームに響いた。

 紗彩は涙を流していた。しゃっくりをしながら智弘を凝視する彼女の目は充血して溥井朱色になっていた。

「もうやめてください。もうタクヤの話はしないで……」

「……ごめん、やはり中学生の君にする内容じゃなかった。本当にすまない」

 智弘は深々と頭を下げた。

「こちらこそごめんなさい。私が悪いんです。話を聞かせてって言ったのは私です。でもこんな話だとは思わなかった……。それは本当にタクヤなんですよね?」

「ああ、そうだ。水島タクヤ君で間違いない。警察にも学校にも確認した」

でも、と彼女は反論する。

「タクヤは今日も学校に来てました! 授業中とかは退屈そうにしてたけど……。でも、いつもみたいにサボっていないし、様子も普段通りでした。普通そういうのって事情

取とかされるんじゃないですか?」

 彼女は明らかに智弘に敵意を向けている。ここが正念場だ。

 智弘はすぐには答えず、大きなため息をついた。眉間を揉みながら紗彩を睨みつける。

「あのね、そういうのはドラマとかアニメの話だよ。実際には未成年の子供を逮捕状もなしに警察に呼びつけて事情聴取なんてできないんだよ。……友達を信じたい気持ちもわかるけどね、教えてくれって言ったのは君の方じゃないの?」

 紗彩は今度は何も答えないし目すら合わせようとしてこない。智弘を恐れているのは明白だ。

「そんなに言うなら今から来てみるか? 水島タクヤが犯人だっていう証拠見せてあげるよ」

 智弘の様子を上目遣いで伺う彼女の目には怯えの色が浮かんでいた。



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