9話 お兄ちゃんって呼んで良いですか?
あの後、晴夏はすぐに帰ろうと言った。直ぐに立ち上がったと思ったら、足取りも早かった。月明かりと外灯だけでは、もちろんお昼のようには明るくはないんだけど、晴夏がどんな表情をしているかぐらいはわかる。
気がつけば、家の前にいて、晴夏は階段をかけあがると、ポケットから取り出した部屋の鍵で、しれっと俺の部屋のドアを開けた。
俺はそれをアパートの前の道路から見上げていた。
ドアは半開き、振り向く晴夏。
「入らないの?」
「今行くよ」
俺が閉めたはずの部屋の鍵が開いたことに一瞬戸惑った。
そうだった。俺の部屋の鍵を晴夏にも渡したのは俺だった。
晴夏から連絡が入った。友達と遊んでくるとかで、学校から帰ったら少し出かけてくるらしい。いつもそんな連絡は入れてこないし、遊んでるのか遊んでないのかなんて聞いたこともなかったけど、わざわざ連絡してくるぐらいなんだから、本当に遅くなるんだろう。
「でさ、どうしたの?」
晴夏は商業施設のフードコートにいた。向かい合って座っている。この前キミトお兄ちゃんと行った大きなところだ。
「お母さんと喧嘩しちゃって、家にいたくないんだよね」
このお友達は千佳ちゃん。一年生の時から仲良しのお友達だ。
「なんで喧嘩しちゃったの?」
それから晴夏は千佳ちゃんのお話を聞いた。お母さんと喧嘩しちゃったこと自体、今の晴夏にはうらやましいことだった。端から聞いているだけでは、たいした理由ではなかった。
「何も頼んでないのに、ここにいるのって悪いよね?」
「そうだね。晴夏ちゃん、ちょっと待ってて」
そう言って、歩いて行った千佳ちゃん。その隙を見て、スマホで時間を確認した。
もう六時半。お兄ちゃんそろそろ帰ってきてるのかな。毎日バラバラだけど、早い日はもういるよね。
「私たち、小学生だよね・・・・・・」
周りを見渡してみる。私たちと同じぐらいの年齢の子はチラホラと見かけるけど、親と同じみたいだ。なんだか私だけ一人ぼっち・・・・・・。
「お兄ちゃん・・・・・・」
晴夏はお兄ちゃんが恋しくなっていた。
「おまたせー」
小さなポーチを斜めがけして、両手にファーストフード店の飲み物を持っている。
「おごりね。私の」
「え? そんなの悪いよ。払うって」
「良いんだよ。そんなの。晴夏ちゃんぐらいしかこんな時間まで突き合わせられないしさー」
「それは私が今どんな状況で住んでるか知ってるからってこと?」
「そーゆーことかな」
「帰らなくて大丈夫? 怒られるんじゃないかな?」
「知らない。もうどうでも良いんだ」
なんて言葉を返せば良いかわからなかったけど、いつまでもここにいるわけにもいかない。なんとかしないと。
晴夏がおまわりさんのところに連れて行くべきか、家に帰るように強引に連れて行くか、悩んでいると、本当に、おまわりさんが来た。
「ごめんなさい」
晴夏と千佳だけで座っていたはずのフードコート。二人がけテーブルから四人がけテーブルに移動している。何故かというと、俺が追加されたからだ。
夜八時を過ぎても小学生だけでいるとかで通報され、警察がフードコートまで来たそうだ。そこで晴夏は二つの嘘をついたらしい。
一つ目は、晴夏と千佳は姉妹だということ。
二つ目は、お兄ちゃんはちょっと買い物に行っているということ。
そして俺の電話が鳴って、ダッシュでここまでやってきた。俺の名前を出して、保護者として、俺が呼び出されたってわけだ。
「で、なんでこんな時間まで帰ってこなかったの?」
晴夏のテンションは落ちきっていた。膝の上に手を置いて、小さく丸まっている。
「それは私が・・・・・・」
「ごめん、ちょっと待っててくれる?」
俺は千佳ちゃんの言葉をぶち切った。千佳ちゃんは小さく、はいと言うと、膝の上にちょこんと手を揃えた。
「遊んで帰るって言った・・・・・・」
「それはそうだけど、時間見ながら遊んでたか?」
「それは・・・・・・」
俺も別に説教したいわけじゃない。理由を聞きたいだけで、ダッシュしたのはただただ心配だっただけだ。
「まぁ良いけどさ、無事みたいでよかったし」
晴夏からの返事はない。
「千佳ちゃんは大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないです」
そのとき、千佳ちゃんのスマホが鳴った。ポーチから取り出した千佳ちゃんは晴夏にスマホの画面を見せた。
「お母さんだ・・・・・・怒られちゃう」
「ねぇ、お兄ちゃん、来てもらったついでにお願いがあるんだけど・・・・・・」
「お、お、なんだよ。嫌な予感しかしないんだけど」
俺はその後、千佳ちゃんのお母さんと電話することになった。晴夏のお父さんだという嘘をつき、千佳ちゃんは晴夏の家で寝てしまっていたと嘘をついた。そして、俺の家に泊めることになった。
俺たちは家に向かって歩いている。辺りはもうすっかり夜だ。
「ヒヤヒヤしたって、バレるか不安だったってば」
「ごめんね。お兄ちゃん」
「お兄ちゃんって本当ですか?」
「えっと、あの、俺どうなってんの? 晴夏」
「いとこのお兄ちゃんだよ。千佳ちゃんだけは知ってるんだ」
千佳ちゃんは目をキラキラと輝かせて、俺を見上げている。いつの間にか俺がど真ん中を歩くという構図になっていることは、不思議でならない。本当に保護者な気持ちになってくる。
「もしかして、千佳ちゃんもお兄ちゃんいない同盟?」
「そうですよ!」
千佳ちゃんはお腹の前で指をモジモジとさせながら小さく口を開いた。
「私も晴夏ちゃんのお兄ちゃんのこと、お兄ちゃんって呼んで良いですか?」
「え?」