月下の宴
祖父母のものだった家の庭には、一本の枝垂れ桜がある。
春になれば薄墨色の花をつける風変わりなそれを、祖母は特に好んでいた。
祖父はそんな祖母と桜を見て、穏やかに笑っていたように思う。
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「すると、そなたが次代か」
春の満月の夜にふと桜を見たくなって静かな庭に出ると、突然、そう声をかけられた。
「誰!?」
誰何すると、
「ああすまぬ、聞いておらなんだか」
笑いを含んだ野太い声は、桜の根本から聞こえていた。
「次代殿、一献いかがか」
白一色の瓶子を掲げている男は、着物姿だった。
それも、今の着物ではない。大きな袖と胸紐がついた直垂を着て、侍烏帽子をかぶった、この近辺の時代行列で『御館様』と呼ばれる役が着るものにそっくりの衣装だった。
「え?なに?御館様ごっこ?」
見知らぬ男だというのに、なぜか恐怖は感じなかった。
「春の夜は短いぞ、次代殿」
私の言葉に応えず、男はにやりと笑ってそう言った。
「お酒、苦手なんですけど」
「なに、現し世の酒ではないから酔わぬよ」
言われて気がついた。
月が影を落とすほどの月光の中で、男には影が見当たらなかった。
「幽霊?」
「ほほう、驚かぬとは豪胆な」
「驚いてますよ」
怪しい存在だと分かったのに、どういうわけか、怖がる気にはならなかった。
「どちら様です?」
「この木を依代にする者、であろうかな。代々の、家の主とは必ず、春に一度酌み交わしておった」
「あ…」
我が家に伝わる、儀式を思い出した。
花が一輪咲いたら、当主は衣服を改めて木の下で酒を捧げ、自らも一口飲まねばならない。いつ始まったとも判らない風習だった。
「知っておったようだな」
「まあ、それは、はい」
その儀式だけは、婿入した男がやってはならないとされている。故に、当主が婿であるならば、儀式の担い手は家付き娘でもある家刀自だ。それが男で女であれ、代々、この家の血を引く者の役目だった。
今は父が担う儀式も、いずれ私が継ぐことになる。それは、私も承知している事だ。
「我の名は伝わっておらぬと聞く」
微かな夜風に揺れる桜を見上げながら、男は穏やかに言った。
「だがのう、こうして酌み交わす事のできる間は、我はここにおる」
男に押し付けられた盃を受け取り、一口含む。ほとんど甘酒と言って良いような、濁酒だった。
私が返した盃を受け取りながら、男は微笑んでいた。
「今宵は、良い酒であったよ。まだ風も冷たいゆえ、戻られるが良い」
「あ、はい、あの、またお会いできますか」
「春は巡るものよ。花の盛りの隈なき月も、いずれまたあろう」
男らしい太い声がそう告げた時、ざぁっと風が吹き、思わず目をつぶった。
目を開けた時、そこにあったのは一輪の花だけであった。
この作品はエブリスタに投稿したものを改訂の上、なろうに投稿しなおしたものです