主人公は、bではないが、俺でもある。
俺は、舞踏会の翌日には王宮を出ることを決め、フェルゼッドから預かっていた侍従を返した。
別れ際、侍従はずっと、何かを言いたそうな顔をしていた。俺は、目的であったフローレンスとの結婚が叶わなかったことを謝罪した。侍従は、俺の計画でフローレンスが自由になれたことを本人に伝えたい、と言ったが、俺は断った。
フローレンスは今、とても、楽しそうで幸せそうだ。だから、伝えなくていい。聞けば、俺に気を遣ってしまうだろう。
俺は舞踏会の開始時刻より早めに準備を済ませ、第五王子から白馬を借り、少し走らせた。
俺は殿下に付いていたから、殆どのことは、最低限はできる。馬にものれるし、好きだ。だが、今日で最後になるな。平民になれば、馬など見ることもないだろう。舞踏会も王宮も、もう見られなくなるのかと思うと、急に寂くなってきた。
感慨深いな。
俺が考え事をしながら、音楽が始まった大広間のほうを見ていると、ジェスス家の馬車が見えた。
え。
フローレンスが、来たのか。
いや、公爵だ。
きっと公爵に違いない。俺は確認しようとジェスス家の豪華絢爛な馬車に近寄り、御者に話しかけた。
すると、中にはフローレンスがいると返ってきた。
え。
えええ。
ええ。
どうする。俺は、どうしたらいい。
とりあえず俺は御者に、王族専用の馬車待機所に行くよう指示を出した。
そうだ。断ろう。
俺が、フローレンスを利用するために騙していたこと、彼女を女性として好きではないことを伝え、謝って、帰ってもらおう。それがいい。
俺が意を決し、ジェスス家の馬車へと向かうと、何故かアシュリーがいた。
俺は白馬から降りた。
「アシュリー、君も一緒だったのか。そうか。」
もしかしたら、二人は一緒になれたのか。俺からの求婚を止めるために、婚約の報告にでも来たのだろうか。
そういうことか。
それなら、良かった。
俺の心の中の祝福をよそに、アシュリーが不機嫌な顔で尋ねてきた。
「王太子殿下の婚約と、コリーの仕事の件。あれは、王子が筋書きを書いたのですか。」
俺は笑って頷いた。コリーは俺の発案ではないが、細かいことはいいだろう。
「バレたか。君は、鋭いね。」
公爵が、買っているだけはある。
「あの二人には、フローレンスは必要なかった。だから、他の方と幸せになってもらったまでさ。」
アシュリーが頷いてから、何か問いたげな顔で俺を見た。
「でもアシュリー、君には、フローレンスが必要なんだろう。君は、相手がフローレンスじゃないと、幸せになれないのだろう。」
だから、フローレンスは君に任せる。
俺はそう言おうとして、息を飲んだ。
アシュリーの、この眼は、何だ。
凍てつくような冷たい瞳の中に、何かが揺れている。燃えるような何かに、俺は震えた。アシュリーは、本気だ。この男は、俺にも、フローレンスにも、誰にでもこの眼をするのだろうか。自分が燃え尽きたとしても、最後の最後まで燃え続けようとする、意志。
俺は。
俺は。誰とも向き合えず、いつも逃げてばかりだ。お母様の真意を知ることを諦め、王宮を出ようとしている。お父様とも殿下ともまともに話したことがないまま、王宮を出ようとしている。フローレンスと向き合うこともなく、彼女と話すことすらやめようとしている。
俺は、こんなにも真剣に、誰かを見つめたことがあるか。俺は我慢して、いつか、逃げようとしてきた。問題を、何も、解決しないまま。
いいのか。それで、いいのか。俺は、どうすればいい。
どうしたい。俺は。
俺は、決めた。
今日、諦めようと思っていた全てのことを、俺は、諦めないことに、決めた。
俺はアシュリーに、頭を下げた。フローレンスを暫くの間、俺に貸して欲しい。俺の我が儘に付きあわせて、申し訳ない。
俺は、フローレンスを王宮に連れて行く。
「フローレンスと私は、次会えば、必ず恋に落ちる。」
準備は万全だ。フローレンスを、落としてみせる。
ブワッとアシュリーの怒りが膨れ上がった。冷気のような鋭い殺気に、俺は身構えた。このビリビリする感覚、久しぶりだな、俺は笑った。
アシュリーのストレートを防いで、俺はアシュリーの腕に触れた。俺が素早く宙に文字を刻むと、細い蔦がアシュリーの両腕に巻き付いた。
「何だ、これは。」
驚いたアシュリーが、蔦を噛みちぎった。俺は驚いた。野生児みたいだな、この男は。ジャリっと不快な音がして、アシュリーが俺を睨んだ。
俺は囁いた。
「土魔法。秘密にしといてね。」
目を丸めたアシュリーは、だが諦めなかった。すぐに俺の口を狙ってきた。魔法の詠唱を阻止するためか、良い判断だ。だが、俺には、関係ない。
俺が避けたことで、アシュリーの殺気が消えた。苛立ったような舌打ちが聞こえて、俺はアシュリーを見つめた。
クッソ。アシュリーの声が、遠ざかっていった。
俺は、両手を握りしめた。
そして、白馬に跨がり、ジェスス家の馬車へと向かった。
凝った作りの王宮を背景に、フローレンスが豪華な馬車から降り立った。真っ黒なドレスに包まれた、真っ白な少女。
俺は息を飲んだ。
天使、なのか。
天使が、こちらを向いた。まるで作り物のように美しい白い顔が、こちらに目を向けた。その目が俺を捉え、頬がパッと上気し、一気にそこから人間味が溢れ出した。
天使は、可愛らしい小さな口を丸くあけ、呟いた。
「王子様。」
王子様。俺のことか。
俺は頷いた。
「フローレンス。」
俺は白馬から降り、引き寄せられるようにフローレンスに向かって歩きはじめた。
真っ赤に染まった頬で、モジモジしているフローレンスが相変わらず、可愛い。俺が手を伸ばそうとすると、アシュリーが俺を阻んだ。
「ご機嫌よう、王子。」
アシュリーの挨拶を無視し、俺は口を開いた。
「アシュリー、退いてくれないか。」
俺はアシュリーに体を近づけると、耳元で囁いた。いつもより、低い声で。
「お前は、手に入らない、フローレンスを、手に入れるために、足掻いたか。」
アシュリーとフローレンスが、運命の二人なのは理解している。だが、大人達は関係ない。アシュリー自身は、足掻いたのか。
いや、アシュリーなら、すでに足掻いているだろう。
むしろ、足掻いていないのは。
俺だ。
俺はいつも、空気のようだった。
だから、今回だけは、最後まで、足掻く。
「俺は、手に入らないフローレンスを手に入れるために、足掻いて、足掻いて、命を懸けた。何もせず、ただ待っているだけの者は、何も、手に入れられない。足掻いた人間にだけ、その権利が与えられるんだ。」
俺はアシュリーを手で押しのけ、フローレンスの目の前に立った。
フローレンスの金色の髪の毛が、フワフワと揺れて綺麗だ。俺はついそれに手を伸ばすと、言った。言わずには、いられなかった。
「きれいだ。」
俺はそのまま、その美しい髪を撫でた。
待て。
待て。俺。
考えろ。フローレンスとアシュリーは運命の二人で、いつか結ばれる。俺は暫くの間、王宮でフローレンスに手紙の解読を頼む。解読後、俺は王宮を出る。フローレンスはアシュリーのもとに帰る。
俺は、フローレンスを騙している。いつも彼女好みの俺を演じてきた。フローレンスが好きなのは、本当の俺じゃない。
今までは、護衛の監視や、殿下との婚約話があり男女の関係にはなれなかった。誰にも文句を言われず、遠慮も、迷わなくもいい今、俺は、どうしたい。
俺は、フローレンスを女性として愛してはいない。
ドクン。俺の心臓が、音を立てた。
愛していない。はずだ。
俺はフローレンスを見下ろした。
生き生きとした、真っ青な瞳。
触りたい。
触りたい。許されるならば、フローレンスに、触れたい。
俺を見上げている瞳は、俺を拒絶してはいなかった。俺はゆっくりと、フローレンスの円やかな額に、唇を落とした。
「やっと、触れた。」
つい口から零れた言葉の意味について、俺は考えた。
やっと。
そうか。俺はずっと、触りたかったのか。初めて会った日からずっと。俺はすでに、捕らわれていたのか。
真実が見えてきそうで、俺は息を吐いた。ダメだ。今は、お母様の手紙のことを考えろ。
そうだ。俺は、気になっていた手紙のことを聞いてみた。
「手紙は読んでくれたかな。」
俺のことを、どう思っただろう。王子であることを隠し、彼女に惹かれ、結婚を願った俺のことを、どう思っただろう。フローレンスがどう思ったのか、その答えが気になって、仕方がない。
「今日の招待状にも返事がなかったけど、来てくれたから、いいか。」
フローレンスが、俺の言葉に首を傾げた。可愛い。
「え。手紙。招待状。」
混乱しているフローレンスの様子に、俺は驚いた。
「まさか、読んでないのか。だから、返事がなかったのか。」
俺は、一気に襲ってきた不安に、押しつぶされそうになった。
フローレンスは、何も知らない。
俺の正体も。
何故俺が彼女に手を出さなかったかも。
ここに俺達がいる、意味も。
俺は真っ青な瞳と目線を合わせ、尋ねた。
「俺が、誰だか、分かる。」
フローレンスが、頭を振った。
「ご機嫌よう。バーゼル王子。」
その時、新しく到着した貴族達が、王族への挨拶をし、大広間の方へ消えて行った。フローレンスが、横目でそれを確認していた。
フローレンスの瞳が突然潤みはじめ、何かを伝えようとしては小さな唇が開き、それが何も言わないまま閉じられた。小さくしゃくりあげながら俺を見つめる姿が、可愛い。
俺は、フローレンスの涙の意味も、俺を見つめる視線の意味も、分からない。嫌で、悔しくて、泣いているのか。それとも、俺と会えて嬉しくて、泣いているのか。
俺は恐る恐る、フローレンスに向かって両腕を広げてみた。そんな俺を、フローレンスが見た。見て、微笑んだ。可愛らしくあげられた唇の両端を見て、俺の心が震えた。
ゆっくりと、フローレンスの体が、俺の腕の中に収まった。
心臓がドクドクと音を立て、体中が熱い。何も考えられなくなった俺は、小さな小さな体を抱きしめた。この世界に、俺とフローレンスしかいなかったら。俺は無意味な想像をしながら、妄想から生まれた幸福感に、酔いしれた。
俺は、馬鹿だ。
そこに突然、甲高い人の声が嵐のように巻き起こった。キャーキャーと黄色い声が響き、俺達の心地よい世界を壊した。俺が周囲を確認するためフローレンスから体を離すと、小さな体が、また俺に抱きついてきた。可愛い。
そこに、またも歓声が飛び交った。俺達はいつの間にか、沢山の観衆に囲まれ噂されていた。地味なバーゼル王子が、相手は誰か、その視線にフローレンスの体が一層小さくなった。俺はそのまま彼女を抱き上げ、皆に軽く挨拶をしてから大広間に入った。
腕の中のフローレンスが、俺に寄りかかり、頬を肩にこすり付けてきた。今、俺を受け入れてくれた彼女に、俺は心の中で感謝した。
話さなければいけないことが、沢山ある。
「あそこじゃまともに話せないから。話そう。沢山。」
そう言いながら、俺は、ついフローレンスの髪に唇を降らせた。それから、額にも目にも耳にも唇を押しつけ、唇にも触れそうになった時、フローレンスが、俺を遮った。
「待って待って。話を、するんでしょ。」
フローレンスが両手で俺の顔を押さえると、俺は残念で、その手を舐めた。
話す。
そうだ、話さなければいけないことが沢山、ある。あるはずなのに、全て、忘れた。
俺は大広間の中央、生演奏とダンスが繰り広げられているスペースにフローレンスを連れて行った。そこには凝った衣装を身にまとい、華麗に踊る若者達がいた。王族である俺の姿に、皆が頭を下げ道を譲り、俺達は中央の、一番目立つ場所へと誘われた。皆の視線が、俺達に注がれた。
俺はワルツを求め、背筋を伸ばし、ポーズを決めた。フローレンスが、不安そうに瞳を揺らした。彼女の体の震えが、繋いだ手から伝わってくる。
俯いて震える姿も、可愛い。
俺は、繋いだ手を揺らしフローレンスの視線を上げさせた。顔を上げたフローレンスと目が合い、俺達の視線が絡み合った。フローレンスが息を飲んだのが分かった。
それから、彼女の背筋が伸びた。
「転んだら、ごめんなさい。」
謝っていながら、弱気な声ではなかった。俺は落ち着き、安定したフローレンスを抱きしめたい衝動に駆られたが、なんとか踏みとどまった。
「それはない。俺が、君を転ばせると思うか。」
今なら、なんでもできそうな気がする。苦手なワルツも、フローレンスと一緒なら、悪くない。
奏でられた音に呼吸を合わせ、俺は踊り出した。しっかりとフローレンスの体を支え、彼女が動きやすいよう導く。フローレンスの表情が夢見心地で俺は微笑んだ。この美しい少女は、ワルツを踊る姿まで、可愛らしかった。
曲が終わると、周囲から拍手が巻き起こった。俺達は顔を見合わせた。だが当然か。フローレンスの金髪と、真っ黒なドレスがクルクル回る様子は、息を飲むほど美しかった。ヒューヒューとからかう声、感嘆のため息、この少女が誰かを噂する声が、俺の耳に聞こえてきた。
王宮。白馬。ワルツ。観衆。
そろそろ、いいだろうか。
俺は、繋いでいるフローレンスの手をギュッと握りしめた。そしてそれが握り返されたことに気づき、覚悟を決めた。
フローレンスの前に片膝をつくと、俺は頭を下げた。
「フローレンス、私と、結婚してください。」
上の方から、息を飲む音が聞こえた。
何百回も練習したこの言葉が、今はじめて、本当の意味を持ったように思えた。俺とフローレンスの運命を、この言葉が、繋いでくれるだろうか。
だが、暫く経っても、フローレンスからの返事がなかった。ドキドキがおさまらない心臓と、渇いた喉が引きつった。
やっとフローレンスが何かを言おうと、モゴモゴと口を動かしてから、小さな声で、呟いた。
「今は、いい、です。私、忙しいので。また今度。」
その返事に、俺は固まった。何か言わなければ、そう焦っていると、大広間が爆笑の渦に包まれた。
「フローレンス様、何で忙しいの。」
「バーゼル王子、頑張れ。」
ここで、引くわけにはいかない。俺は唾を飲み込み、フローレンスに問うた。
「それは、俺と結婚したら、できないことなの。」
フローレンスが勢いよく頷く姿に、俺は負けそうになった。フローレンスにとっては、その方がいい。俺は酷い理由で、彼女を巻き込もうとしているのだから。
「王子の妻が何をするか分かりませんが、私は、図書館に籠もり歴史表や家系図の仕事をする予定です。王宮に留まることはできません。」
フローレンスらしい。応援したい。
俺は本心から、そう思った。
「問題ない。王宮を出ればいい。俺は暇だから、その仕事を手伝う。いや、手伝いたい。朝から晩まで、一緒に歴史書を読み漁ろう。」
これは、俺の願望だ。フローレンスと一緒に、第七図書館でまた歴史書を読めたら、幸福だろうな。
俺はそう思って、言った。
「それに、フローレンス。考えてみてくれ。君の大好きな歴史上の出来事が実際に行われたのは、殆どが、王宮、だ。しかも王宮の図書館には、王族、だけが、読める、君が、大好きな、ドロッドロの、資料が、数多、ある。」
フローレンスが俺との結婚で、唯一得られるものは、恐らく、これだけだろう。
「俺と、結婚すれば、君も、自由に、読めるようになるよ。」
そのために、俺は君と結婚するのだから。
金色の髪と、青い瞳。理解のある家族と、優しい友人達。天才的な頭脳と朗らかな性格。フローレンスは、俺が欲しくて欲しくてたまらないものを、全て、持っている。
羨ましい。妬ましい。自分が惨めに思える程、フローレンスは、完璧だ。
それなのに、捨てた。フローレンスは、俺が欲しくて欲しくてたまらないものを、あっさりと、捨てた。
きっと、フローレンスなら、笑いながら俺を、ここから引っ張り出してくれる。
あちらこちらに目線をやりながら、悩んでいたフローレンスが、恐る恐る、俺に聞いてきた。
「私は、ジェススの家を出るので、後ろ盾はありません。」
そんなものは、いらない。
「大歓迎だ。あの狸オヤジと話すのは疲れる。俺は三番目の王子だから、後ろ盾は必要ない。むしろあると、王位を狙ってるとか言われそうだから、困る。」
むしろ、邪魔だ。
「私が老いて、美しさもなく賢さもなくなっても、いいでしょうか。」
それも、いらない。
「構わない。老いたら二人で手を繋いで、歴史名所探訪に出かけよう。」
こんな風に、老いることができたらいいな。俺は叶わない夢を、フローレンスのために、フローレンス好みの言葉で囁いた。
フローレンスは、俺に騙されている。
「では改めて。」
俺は姿勢を正した。
「フローレンス、貴女が実家を出され、美しくなく賢くもなく、変人になったとしても、愛しています。だからどうか私を、貴女の人生に巻き込んでくれませんか。」
俺の言葉に、フローレンスがプッと笑いだした。
愛しています。俺はその言葉を口にしたことを、後悔した。ああ、これは、俺の本心だ。
気づきたくなかった真実に気づいて、俺はたまらず、フローレンスの手の甲に頬を寄せた。
フローレンスが静かに、頷いた。
俺は我慢できず彼女を引き寄せると、待たせてごめんと囁いて、そのまま彼女の唇に唇を重ねた。
フローレンスのことを騙し利用し捨てようとしている俺。
フローレンスを可愛いと思い愛してしまった俺。
どちらも、俺だ。




