主人公は、bではないが、なってみたかった。
騎士団本部を出た俺は、王宮へと急いだ。
俺は足早に、謁見の間や大広間、客室の横を通り抜け、奥の王族達の居住区に辿り着いた。王の後宮とは分けられた王族の居住区の中心に、王太子関連の部屋があり、その端に、俺の部屋もある。
王太子用の部屋は、扉も豪華で威厳がある。俺は中を見たことはないが、きっと想像以上に美しい部屋なのだろう。
その隣の、勉強部屋の前で、俺はなんとなく、足を止めた。何年もここには入っていない。俺は周囲に人がいないことを確認してから、ゆっくりと中に入ってみた。
相変わらず、子供には必要のない超一級品が揃えられたこの部屋を、懐かしく感じながら、俺は部屋の中を何となく見回した。
ふと、この部屋には似合わない、みすぼらしい箱を見つけて俺は手を伸ばした。殿下のためには、新しい道具が現在の最高の技術で作られ、渡された。だが俺には。その箱の中には、簡素な作りの羽ペンや線引きが入れられていた。
俺は色鉛筆が入れられた箱を取り出した。中には、一本しか入っていない。後の4本は確か、一本は殿下に捨てられ、一本は潰され、一本は誰かにあげてたな。もう一本は、どうだっただろうか、ああ、そうだ。殿下が俺の口に無理やり入れて、食べさせられたな。
懐かしい。
この色鉛筆は、我が国の魔法技術の最高傑作だ。魔法で芯に色を付け、固めている。俺の五色の色鉛筆ですら、相当貴重で、王族以外は見たこともないだろう。更に、六色の原色を混ぜ合わせて新しい色を作るのは、まだ研究中で、なかなか良い色が出ないと聞いた。それが、ここには百色ある。奇跡が重なりできた、美しく発色する色鉛筆が百本、幼い殿下に与えられた。
殿下が、どれだけこの国に愛されているか、俺は百本の色鉛筆を眺めてため息をついた。
それから俺は、並べられた二つの子供用机の前に立った。厚い木の板で造られ、彫刻がところどころに掘られた机と、少し低めに作られた、ただ机の形をした机。
俺は自分に与えられた机に座ろうとして、やめた。
殿下の机に、座ってみよう。
今まで、そんなことは、一度も考えたことがない。俺はゴクリと唾を飲み、机と揃えて作られた椅子を、ひいた。そして今の俺には小さすぎるその椅子に、そっと座ってみた。体が震えた。今まであった様々な出来事が、俺の中で渦巻いて、熱く膨れ上がった。急に涙が溢れてきて、嗚咽が止まらなくなった。俺は机に頬をつけて、その表面を撫でた。
「バーゼル。なんだそれ。ああ、お母様から貰った色鉛筆か。ぷっ。五色。たったの五色。ショボ。見ろよ、俺のを。百色だ。俺みたいな選ばれた人間と、お前みたいな能なしじゃ、この差は仕方ないか。ははははは。」
「はい。お兄様。」
「欲しいか。俺の色鉛筆。」
「は、はい。お兄様。」
「ほら。あ、手が滑った。あーあ。下に落ちちゃった。あのでっかい木の中。」
「はい。お兄様。」
「バーゼルのせいで、色鉛筆、一本無くなっちゃったな。お母様に後で叱ってもらうからな。ははははは。」
「はい。お兄様。」
「取ってこいよ。ここから、飛び降りて。」
「はい。お兄様。」
「あ、待て。その持ってる色鉛筆、置いていけよ。もったいないだろ、潰れたら。」
「はい。お兄様。」
懐かしい記憶と共に、胸に刺々した想いが溢れてきた。
俺は、兄ディミトリを愛している。
俺が幼い頃から、父も母も、他の全ての人々も、皆俺を空気のように扱った。居ても居ないように、居なくても居るように、俺の存在は誰にも影響せず、何にも変化をもたらすことはなかった。
ただ一人、ディミトリを除いては。
ディミトリは俺を罵り、嘲り、殴って、蹴った。俺の存在には、意味がある。俺は、生きている。ディミトリだけが、俺にそう感じさせてくれた。ディミトリの為ならば、命を捧げることなど簡単だ。
だがディミトリは、この子供部屋から出て行った。大きくなったディミトリはもう俺を見ない、見る必要がなくなった。
俺は馬鹿じゃない。
ディミトリにとって俺が、何の価値もない人間で、微塵の愛情も持ち合わせていないことは、分かっている。ディミトリから愛されたいわけでもない。
フローレンスに手紙の解読を頼む方法は、他にもあった。もっと単純な方法が。俺はただ彼女と仲良くなり、彼女とディミトリの結婚を祝福し、王族となった彼女に、頼めば良かった。
それなのに俺は、フローレンスと自分の結婚に固執した。
何故だろう。俺は最初から、フローレンスを愛していたのだろうか。
フローレンスは、可愛い。俺は確かに、会ったあの瞬間から、フローレンスに惹かれている。だが、これは、愛だろうか。恐らく、違う。
俺の人生は、ずっとディミトリの物だった。ディミトリは俺を、愛しても、愛さなくても、可愛がっても、蔑んでも、刺しても、何をしても良かった。その度に俺は、傷ついて泣いた。
だが俺が許されていたのは、ディミトリを愛することだけだった。
一度だけでいい。ディミトリを、傷つけてみたい。
俺は、飛び降りた時にできた腕の傷を撫でた。
俺はずっと、見てみたかったんだ。俺のせいで、泣いている、ディミトリを。




