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主人公は、bではない、ないが祈りたい。


 その日、俺達はいつもと同じ様で、何かが違っていた。


 俺はフローレンスを見つけると、いつものように手を少しあげて合図を送った。フローレンスが俺を見て、嬉しそうに笑う。その嬉しそうな表情の中に、いつもと違う何かが混じっているような、そんな気がした。


 俺達が外のベンチに腰掛けると、フローレンスがすぐに革紐で綴じられた資料のような物を差し出してきた。


「これは、何でしょうか。」


 俺はフローレンスが持参する資料をいつも楽しみにしている。今回は、何だろうか。



 表紙は白紙だった。


 俺は最初の頁をめくり、息を飲んだ。ブワッと、鳥肌が立った。皮膚の感覚が研ぎ澄まされたような、そんな可笑しな感覚に、俺は笑った。俺はごわごわとした羊皮紙を撫で、そこに書かれている文字を指で追った。そこには、家系図のような表が書かれていて、名前の代わりに歴史上の重要な出来事が書き込まれていた。我が国の誕生から今までの歴史の流れが、簡潔にまとめられていた。



 この美しい字の主は、フローレンスなのか。


「これは、ジェスス様が自ら作った物なのでしょうか。」


 はい、と頷いたフローレンスを見て、俺は空を見上げた。



 このたった一枚を作るために、フローレンスは一体どれだけの時間と労力を費やしたのだろう。


 更に続く頁には、出来事の詳細を知るための参考資料や文献などがまとめられていた。無作為に置いてある本を、何十、いや、何百冊も読み解き、年代順に並び替え、重要な出来事だけを拾い、それを簡潔にまとめあげる。考えただけでも嫌だ、俺には、できない。



 俺にはできない。俺にできていたら、フローレンスを巻き込まずに済んだだろう。



 俺は何故か不安そうな顔をしたフローレンスと、しっかりと目を合わせて話し始めた。


「これは、私が今までに読んだどの本よりも、聡明な本、ですね。」


 フローレンスが俺の言葉に、可愛らしく首を傾げた。


 フローレンス、俺は君に出会えたことを、神に感謝する。



「年代順に重要な出来事だけをまとめ、歴史の流れを一目で分かるようにして、且つ詳細の調べ方まで注釈を付けたのか。今まで個々人が自力で資料を集め解読していたのが、これを参考にすれば、大幅な時間と労力の削減になる。」


 何故か、フローレンスが、フフと笑っていた。


 何故だろう。ああ、いつの間にか、興奮して丁寧語で話すのを忘れていた。平民が、大貴族に対して丁寧語を使わないのは、不敬だ。


「と、いうことです。」


 俺は、慌てて丁寧語で最後をまとめた。



 真っ青な瞳がまっすぐ俺を捉え、瑞々しい唇が満面の笑みを作っていた。フローレンスは頭を振ると、照れながら、囁いた。いつものように、モジモジしながら、頬を真っ赤に染めて、俺を見上げて。


「って、こと。で、いいですよ、ジル。その話し方の方が、私は嬉しいし、好きですから。」


 この少女は、本当に可愛い。本当に可愛くて、俺が欲しい力まで、持っている。


「本の出来に、つい、興奮してしまいました。」


 つい癖で丁寧語を使ってから、俺は、いやと呟いた。もう演じるのは、やめだ。



 俺は、この少女を手に入れる。



「本が凄くて、驚いた。」



 フローレンス、君が嫌がっても、君は俺のものだ。何があっても、手に入れる。邪魔な奴がいれば、そうだな、殺そう。



 俺は、まず、何を、どうするべきか。


 俺は取りつかれたように、今後のことを考えはじめた。殿下とフローレンスの婚約をどうするか、お母様を説得できるか、そもそも、フローレンスは納得してくれるだろうか。

 



 その時急に、香ばしい匂いがしてきた。



「これ、良かったら、食べて。私が、作りました。チョコレートは、苦めです。」


 フローレンスが、たどたどしく、チョコレートクッキーを差し出してきた。見た目は普通だが、とても美味しそうな匂いがした。



 俺は息を飲んだ。


 手作りの食べ物を異性に贈る行為は、告白と同じ意味を持つ。フローレンスは、異性として俺が好きだと認めたということだ。俺にとっては、好都合。



 このまま、俺のものになってもらおう。



 だが、今は、ダメだ。



 殿下との婚約が曖昧な状態で、彼女の気持ちを受け入れることはできない。そもそも、王族は外で食べ物を口に入れることが禁じられている。フローレンスが、捕まる。


「申し訳ありません。私は、甘いものが、その、苦手で。」



 今はまだ、ダメだ。だが近いうちに必ず迎えに行く。



 どうか、待っていて欲しい。


 俺の、フローレンス。




 俺は、お母様が整えた空間の中で、お母様の駒として育てられた。


 お母様は愛するディミトリを完璧に育てるために、主人公であるディミトリのために、脇役を揃えていった。優秀な教師達を集め、地位があり見所のある若者達を友人や取り巻きに置き、美しい少女達を周りに侍らせた。そして実の弟である俺の役割は、恐らく、兄の引き立て役だ。


 俺は幼い頃から、兄より劣っていることを求められた。



 お母様は、朗らかな方だ。俺をいつも抱きしめて、頬ずりをして、キスをして、鼻をこすりつけて、愛情を伝えてくる。そして俺が、上手く演じれば、誉めてくれた。俺はもっと誉められたくて、愛されたくて、自ら馬鹿を演じるようになった。



 だが結局一度も、愛していると言われたことはない。だからお母様は、俺のことを愛していないのだと、ずっと思っていた。お母様に愛されるために、俺はもっと努力をしないと、そう、思っていた。


 だが子供でなくなった俺達兄弟は、兄は先へ進み、俺は子供のまま置いていかれた。大人になった兄には、俺は必要なく、俺は演じる場を失った。もう、頑張ることすらできない。


 永遠に、お母様から愛される機会が失われた。



 王族でありながら、何の期待もされず、何の公務も与えられず飼われている俺には、王宮にいる意味も、生きている意味も、なくなってしまった。


 そんな俺が、絶望の中で見つけたのが、あの一枚の手紙だった。



 あの手紙は、お母様が書いた物だ。



 あの手紙には、お母様が俺のことを、愛する息子、と、書いたかもしれない。愛している、その特徴ある文字が、兄か俺のどちらに向けられたものなのか、俺の力では確証が持てないでいる。



 フローレンス、俺は、君に賭ける。



 君なら、俺を、救えるかもしれない。



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