主人公は、bではなくもない。
第七図書館の中を見渡した俺は、立ち止まった。空いている席が、ない。
いや、存在はしている。
存在はしているが、そこは、フローレンス嬢の斜め前の席だった。
仕方がない。荷物を置いたら、すぐに資料を探すために立とう。俺は何食わぬ顔で、その席で王宮から持参した資料を広げはじめた。
フローレンス嬢が、俺を見つめてきた。俺は彼女に軽く会釈をすると、ちょっとした好奇心から、彼女の手元にある本を見てしまった。
政変特集。
は。
はぁ。
え。政変、特集。
俺は、つい、彼女の顔を覗き込んでしまった。可愛い。
政変特集。
プッ。俺は、あまりにも予想外だった本に、ついつい吹き出してしまった。
すると、彼女のふっくらとした頬が、バラ色から更に濃い色に変わっていった。俺は慌てて、彼女の愛読書達を指差した。
「以前、百面相をしていた時も、これを読んでいたのですか。」
フローレンス嬢が、大きく頷いた。
あの百面相を、この本で。
「ははっ。そうでしたか。これを。」
俺は、感心した。
これは難しい言葉遣いが有名な一冊で、内容も平坦で、俺では、とても楽しそうに読むことなどできない。案の定、彼女から渡された一冊は難解で、眠気が襲ってきた。
俺は、楽しくなってきた。こんな物を、笑いながら読む人間がいるとは。
だが同時に納得もした。フローレンス・ジェススは、天才だと言われている。正に、こういうことなのだろう。
俺は本から顔を上げ、彼女を真っ直ぐ見つめた。
「貴方様の表情がクルクルと変わるので、恋愛小説か何かを読んでいるのかと思っていました。まさか、我が国の政変特集を読みながら、あの百面相をしていたとは、思いもよらなかったものですから。」
フローレンス嬢は、首を傾げた。
「私は、ええと。なんと言ったらいいのでしょうか。」
控えめで、か細い声だった。まるで天使の囁きのようだ。掠れているからか、ついつい耳をそばだてて、彼女の次の言葉を、待ってしまう。
聞かずにはいられない、そんな、声音だった。
「このような場合、自分ならどうするかと考えながら読んでいたので、そういう表情に、なってしまったのかも、しれません。あの、多分、そうです。お恥ずかしいです。おかしいです、ね。」
フローレンス嬢は俯いたまま、膝の上にある両手を組んだり動かしたりしながら、それを見つめてモジモジしている。
何故彼女は先程から、俯いてモジモジしているのだろう。俺は、不思議に思った。天才と呼ばれるフローレンス・ジェススからは想像しづらい、たどたどしい雰囲気と、困ったような表情。
なんとも不思議な魅力を持つ少女だ。
俺は、社交術の授業を思い出した。女性の赤い顔とモジモジは、確か、恥ずかしいという意味のはずだ。
俺は、頭を下げた。するとフローレンス嬢が窺うように少し顔をあげ、彼女の視線と、俺の視線が、絡み合った。
「申し訳ありません。貴女様がおかしいと思ったのではありません。歴史書など、普通は仏頂面で読み解くもの。それを貴女様はとても楽しそうに読んでおられた。その事実に驚いて、感心していたのです。それに百面相が可愛らしかったので、政変特集とはとても結びつかなくて、つい笑ってしまいました。不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。」
俺が素直に謝ると、彼女は少し安心したように俺を見て、頭を振った。
「いえ、不愉快だなんてそんなことはありません。なぜ笑われているかのかが分からなかったので、驚いてしまっただけです。」
俺は頷いて、フローレンス嬢のことをじっくりと観察してみた。
噂通り、非常に美しい方だ。だが天才とも噂されていたので、俺は気の強そうな美女を想像していた。だが実際には、白い肌とモッチリとした頬が愛らしい、清純無垢な天使のような少女だ。話し方も可愛らしく、意外と、話しやすそうだ。
俺は、彼女に見いった。
彼女と、もっと、話してみたい。俺は、そう思ってしまった。
俺はおもむろに口を開くと、思い切って聞いてみた。
「面白いですか。政変特集は。」
すると、何となく不安そうだったフローレンス嬢が、急に、すっと伸びた大輪の花のように、笑った。
「はい、とても。私は、ここに出てくる方がたの気持ちや事情を想像しながら、いつも読んでいます。とても、面白いです。」
彼女の言葉が、俺の中で響いた。
気持ちや事情を想像しながら、読んでいる。
それが、面白い。
俺は、早鐘のようにドクドクと動きだした心臓を無視して、ゴクリと唾を飲み、彼女に、尋ねた。
「想像しながら、ですか。例えば、どの様に。」
俺達は図書館を出て外のベンチに腰掛けると、200年前の政変について話し合った。フローレンス嬢は、書かれている人物や出来事以外に、時代背景や家の事情等を参考に、論理的に、歴史について語ってくれた。
なるほど、天才とはこういうものなのだと、俺は知った。
俺は自分の不出来を実感しつつもそれが不快ではなく、むしろ純粋に彼女の才能を褒め称えたい、そんな、敗北だった。
だがその感情以上に、体中の血がドクドクとうるさく騒いで、喉が渇いて仕方がない。俺は息を吐いた。
俺は、この少女が、欲しい。
天使のように無垢な身体。
鮮やかな笑顔。
ジェスス公爵家の後ろ盾。
天才であること。
何一つ、いらない。
俺が欲しいのは、この推理力と、歴史への、情熱。
「なるほど。貴女様の考察は素晴らしいですね。」
俺はそう言いながら、フローレンス嬢を手に入れる方法を、考えはじめた。
欲しい。
欲しい。欲しい。あの手紙を解読するために、俺はこの少女が、欲しい。
「バーゼル。凄いわ。まさか、魔法が使えるなんて、貴方は天才ね。」
「はい。お母様。」
「バーゼル。お母様は、心配なの。貴方がもし、何か厄介な陰謀にでも巻き込まれたら、どうしましょう。その魔法のせいで皆から嫉妬されて、誰かに傷つけられたりしたら、どうしましょう。ああ、何かあったら、きっとお母様は、生きていけないわ。」
「はい。お母様。」
「だから魔法のことは、誰にも言ってはダメよ。貴方が騙されたり、拐かされたり、しないように。全て、貴方の為なのよ。貴方も、怖いでしょう。でも心配しなくていいのよ。お母様が、絶対に貴方を守るから、貴方は安心して。貴方の味方は、お母様だけよ。だから、絶対に、誰にも言ってはダメよ。ふふふ。貴方とお母様だけの、秘密ね。楽しいわね。ふふふ。」
「はい。お母様。」
お母様が言うことを、俺はすればいい。そうすれば、お母様は、優しく微笑んでくれる。




