主人公は、私ではありませんよね。
もし今日、ジルが来なかったら、クッキーはどうしましょう、と私が考えていたら、彼が図書館の入口を開けました。
高すぎない身長と、スラッと伸びた手足。健康的な肌に、ミルクティの様に甘い髪と瞳。その瞳が私を見つけると細くなり、優しげな口元が少しあがり、私に合図のように手を振ってくれるのです。
私は荷物をまとめ、緩みに緩んだ口元でジルの元へと急ぎます。もう何度も繰り返されたこの行為が、今日はなんだかとても新鮮に感じられて、私は胸をよぎるざわめきに気がつかないふりをしました。
大丈夫。
ジルはきっと、気に入って、笑顔になってくれるはず。
私の告白に応えてくれなくても、優しく微笑んでくれるはずです。頑張れ、私。
私はベンチに腰掛けると、すぐに歴史早見表を取り出し、ジルに渡しました。渡す時に、ジルの意外と大きな手が、私の手に触れそうになり、私は慌てて早見表から手を離しました。只でさえ心臓が爆発しそうなのに、手なんか触れてしまったら、もう、きっと、私は、どうにかなってしまいます。危ない。危ない。
ジルは好奇心を隠しもせず、これはなんでしょうか、と呟きながら中をめくっていきました。ざっと目を通した後、彼は真剣な表情で私の瞳を覗き込むと、口を開きました。
「これは、ジェスス様が自ら作った物なのでしょうか。」
頷いた私を見て、ジルは空を見上げるとううんと唸りはじめました。予想とは違う彼の反応に、私は居たたまれなくなり体を縮めて、うつむいて、彼の次の言葉を待ちました。
「これは、私が今までに読んだどの本よりも、聡明な本、ですね。」
聡明な本。
どういう意味でしょうか、本が聡明とは。私が首を傾げると、ジルが考えながら、話しはじめました。
「年代順に重要な出来事だけをまとめ、歴史の流れを一目で分かるようにして、且つ詳細の調べ方まで注釈を付けたのか。今まで個々人が自力で資料を集め解読していた内容が、これを参考にすれば一瞬で分かる。大幅な時間と労力の削減になる。」
いつも穏やかで柔らかいジルから、丁寧語が消えた瞬間でした。私は彼のぞんざいな、けれどとても親しみやすい言葉たちに、歓喜しました。
嬉しくて、つい、ふふと笑ってしまいました。
家政婦のおばちゃん、ありがとうございます。いつも私に妄想の素晴らしさを教えてくれて。
塾の先生、ありがとうございます。貴方が受験生達に作れと強要した歴史早見表のおかげで、私は高い高い高い高い壁を、乗り越えることができました。
「と、いうことです。」
笑っている私に気がついて、ジルは真っ赤に頬を染めて、慌てて丁寧語で最後をまとめてきました。
私は、頭を振りました。
「って、こと。で、いいですよ、ジル。その話し方の方が、私は嬉しいし、好きですから。」
私の満面の笑みに、ジルが照れくさそうに笑いました。
「本の出来に、つい、興奮してしまいました。」
そう言ってから、いやと否定して、ジルは言い直してくれました。
「本が凄くて、驚いた。」
いつも柔らかいジルが、突然別人のように男らしく笑っていました。私はその姿にメロメロになり、心はとろけて、フニャフニャに舞い上がってしまいました。
フワフワと浮いているような不思議な感覚が、私を、後押ししてきます。今までの不安が嘘のように消えて期待だけが膨らんで、告白も成功するはず、と、私は、確信しました。
「これ、良かったら、食べて。私が、作りました。チョコレートは、苦めです。」
私は鞄の中から取り出したチョコレートクッキーを、ジルの前に差し出し、包装紙を広げました。見た目は普通のクッキーですが、試行錯誤を何度も重ね、料理人達に無理やり味見をさせ、太鼓判を押してもらった、逸品です。
手作りの食べ物を異性に贈ることには、この小説の中では、告白と同じ意味があります。
ジルが食べて、美味しいと言ってくれたら、私の気持ちをきちんと言葉にして伝えます。
断られてもいい。伝えるだけで、私は、満足なのです。
「申し訳ありません。私は、甘いものが、その、苦手で。」
少し前に見せていた無邪気な顔とは打って変わった、いつもの柔らかい表情で、柔らかい笑顔で、ジルは、断固、私の気持ちを拒否しました。
甘いものは大好きだけど、チョコレートだけは苦めが好きだと教えてくれたのは、貴方でした。私は頭が良すぎて、人との会話は一言一句、覚えています。
このまま私が好きだと伝えたら、きっとジルは困って、元に戻った表情で、笑って流すのでしょうか。
私は、ジルが困ることは、したくありません。
ジルと私は、歴史オタク仲間。
もうそれで、いいではありませんか。




