第三章 囲いのなか
灰色の靄がかかっていた。
その村は深い谷の底に、瓦屋根をポツポツ散らせたような形であった。棚田のようなものもあったが、稲の緑は、それほど多くはない。谷川のきらめきもどこかナメクジの這い跡のようで、清流のあのサラサラ感がなかった。
つづら折りの砂利道を下らなければならなかったため、村は右に見え、左に見えを繰り返した。そんなときは、なんだか妙にイライラするものだ。
村に着いてまず、村長の家に寄った。その家の次男だという男が庭先に出ていて、
「車はここに入れておいてください。お貸しする家の庭は、木が少々邪魔しますんで……」
といい、帽子を取り、ペコリと頭を下げた。三十路ほどの男だった。
軽のトラックとバンが五台、それにフォルクスワーゲン・ゴルフが並んで停められている横に、千鶴が手際よくZを着けた。エンジンを切った直後、どちらがどちらといった覚えもなく、あのゴルフ、杉本さんのかな? 彼女免許、持ってるのかな? などといった話をした記憶がある。普段の彼女は助手席にチョコッと収まっているようなタイプだったが、それはおそらく、サークルの古い仲間たちから観ても、似たようなイメージだったのだろう。
村長は皺が深い頑固そうな男だったが、話し出すと思いのほか気さくな感じで、広い座敷に通され、麦茶などをご馳走になった。
美知は老人に気取られないよう嗅覚を働かせてみたのだが、千鶴の汗と綯い交ぜになったカーサワデーの匂いに邪魔され、愛菜の匂いを、はっきり嗅ぎ取ることはできなかった。ただ、彼女がよく食べていたブルボンのエリーゼの匂いがした。
先ほどの次男だという男に案内され、村の砂利道を一〇分ほど登った。陽は早くも山の端に隠れていたが、蒸していたし、ひどく汗を掻いた。男のニオイより自分たちのニオイが気になったのは、多分千鶴も同じだっただろう。ブラ紐が鬱陶しかった。
男がその道を登り切ったところでいった。
「ここです。これが鍵。水回りとかガス電気とかはちゃんとやっておきましたから……。掃除もはたきと箒ぐらいは……。じゃ、なんかあったら──」
意外と歓迎されている感じだった。不気味な老婆が突然現れ、帰れええっ、早く帰れえええっ、決してこの村に留まってはならぬうううっ、などと叫び出したりすることもなかった。
上がって右手がトイレ、その奥が浴室。さらにその奥がキッチンだった。左手に襖を取って一部屋にできる六畳ほどの和室が二部屋。千鶴はさっさと手前の部屋に入った。
「トイレの前だけど、男の子たちにここに居座られちゃうの、嫌でしょ?」
と、まだ廊下に立っていた美知に、一応確認だけはしてきたが、それ以後は彼女の眼など気にする風もなく、ジャケットを脱ぐなりウェットティッシュで頸すじや腋の下を処理し、続いて制汗剤をシューシューやっていた。そして頸すじ、肩、胸もとにシャネルの一九番らしい香水をつけ、すっかりその部屋を彼女の匂いにしてしまった。一ぽう美知は、気になる部分の処理はトイレで済ませた。
部屋へ戻るなり千鶴が聴いてくる。因みに彼女は座布団を敷いてはいたが、脚は前ぽうにだらしなく投げ出している。
「どんなトイレだった? なんかちょっと、ドキドキだなあっ」
「ペダル踏むと、底のシャッターがカシャっと開いて、同時に水がチョロチョロ流れるタイプ」
「やだーっ、最悪ううーっ」
要するに汲み取り式なのである。
クーラーボックスが持ち込まれていて、千鶴はペットボトルのレモンティーを飲んでいる。ハンカチの上に銀紙の包みがコロコロしているのは、お握りか何かなのだろう。そういうところは実に手際がいい。「どうぞ」と勧められ、もう一枚の座布団に膝を揃えて座った。千鶴はクーラーボックスとハンカチのほうにも手を延べ、「どうぞ」といった。
その他の荷物の持ち込み、雑巾がけ、卓袱台やポットなどのセッティング。千鶴は一往復、美知は二往復、村長の家までの坂を下って登った。またたっぷりと汗を掻いた。
一息入れながら千鶴がいう。
「これならお風呂、入れちゃったね」
夕飯はカレーにした。泊りがけのレジャーの定番メニューだし、ニオイ消しの意味もあった。
そして八時半過ぎ──。ようやく男たちがどやどや入ってきた。一瞬ののち、カレーの匂いに歓声が上がる。が、その日はミーティングも飲み会もなし……。谷間の村の静けさに、すぐに眠りに引き込まれ、翌朝目覚めたときにはすでに一〇時を回っていた。
千鶴はもう起き出していて、卓袱台の上に地図か何かを広げている。さらに、こちらを振り向きもしないのに、美知が起きたことを察したようだ。
「お早う。午前中はとにかくお風呂だね。ブランチは取り敢えず素麵か何かでいっか」
「ゴメン、それ私やる……」
「別にいいよ。ゆっくりしてて……」
などといっていたのだが……。
美知が千鶴より一〇分ほど遅れてキッチンに入ると、大皿の上に、すでにサンドウィッチが扇のように並べられている。
「そのお皿、持ってっちゃって……。私はもう一皿作っちゃうから……」
入浴の順番上どうしようもなかったのだが、油断だった。この女の手際のよさには、どこか底意地の悪さが感じられる。サンドウィッチの皿のほかにスープ、コーヒーなどをシャトルしながら、まだ着いていない愛菜の話になる。
「杉本さんは?」
「そうね。多分実家で可愛がられてるんでしょ。お母さんがいるだろうから、上げ膳据え膳だもん。こっちは私たちがあの三人のお母さん……」
とはいえ男たちは、まだ入浴を済ませていないのだった。
美知にとって意外だったのは、完全にこの場のイニシャティブを握っている千鶴が、吾一の横にその身を滑り込ませたことだ。そういえば美知のほうは、このサークルに入って以来、彼とはろくに話をしていない。
吾一は二つめのサンドウィッチを齧ったあと、コーヒーとスープを交互に飲むばかりで、一向に食を進めていない。千鶴がそのことに気づき、
「どうしたの、伊東君? 何か変なもの、入ってた?」
などと、彼の顔を覗き込んだ。
「いやその、キュウリのやつ、間違って取っちゃって……」
そして千鶴がプッと噴き出す。美知にはどこか、ワザとらしさが感じられる笑いだった。
「やだーっ、伊東君っ。キュウリが苦手だなんて、なんか子供みたいな好き嫌いだねっ」
吾一は本当に子供のように真っ赤になってしまった。
この女、一体どういうつもりなのだろう? 男のこういう反応を観て悦に入るゲス女は意外と多いものだが……。宇都宮と西森には、特に変わった様子は観られない。するとこの二人は、いつもこんな具合いなのか?
大皿二皿のサンドウィッチが大体片づいてしまうと、今度はさすがに、会長の宇都宮がイニシャティブを取り、ミーティングへと雪崩れ込んだ。
「それじゃ午後の調査の目標と班分けだけど、まず調査対象として、神社とお寺があるんだよね?」
だがしかし、情報は千鶴が握っているのだった。今朝卓袱台の上に広げていた地図のようなものを膝の上に広げ──。
「お寺は隣りの山の中腹辺りね。神社のほうは川の線と重なっちゃってて……。上流に滝か何かがあって、その滝壺の縁に鳥居か何かが立ってるような感じかな?」
千鶴への対抗意識というわけではないのだが、美知には昨日峠で感じた、境界を越えた感覚、結界のなかへ入った感覚が気になって仕方がなかった。
「あのっ、長谷さんっ、村に入るとき通った峠に、ケルンみたいなものがあったでしょう? あれについては、何か情報ない?」
「ケルン?」
「ええ。石を積み上げて小さな塔みたいにしたの、あったでしょう?」
「そう? お地蔵さんか何かが立ってたような気はするけど……。でもまさか、あそこまで歩いてって確かめるの? それとも、車出す?」
「大丈夫。つづら折りの道は大抵それを縫うように細い抜け道が通っているから……」
「そうなの……。じゃ、そっちは私たちで調べてみましょう」
「エッ?」
何やら美知は、千鶴が吐き出す蜘蛛の糸が、また一すじ自分の体に巻きついたような気がした。
女子と組みたがった西森がババを引き、川の遡行は彼一人でやる破目になった。会長と吾一は寺のほうを調べる。
つづら折りを縫っていく獣道のような細道で、千鶴の息が上がるだろうと意地悪な予想をしていたのだが、彼女もなかなかの健脚だった。無論美知が前に立つことが多かったが、ときに千鶴が前に出ると、パツパツに張ったデニムの尻が、ひどく卑猥だった。
なぜか一つ向こうの山頂に出てしまった。しかし、そこからは尾根歩きの要領で、割り合い楽に歩けた。千鶴にも余裕が出たのだろう。
「さっきさ、私たちのこと、視てたでしょう?」
などと聴いてくる。
「私たち?」と問い返す言葉に、思ったよりも険が籠もった。
「そう。私と、伊東君のこと。このサークルのこと彼から聞いたとかいってたようだけど、そんなこと、ほんとにあるかな? 彼ってさ、私程度の女相手でさえ、あんな風にグダグダになっちゃう奴だよ。真のクイーンだかなんだか識らないけどさ、あんたみたいな美人に話しかけられ、普通に受け答えし、なおかつサークルのことまでペラペラしゃべったりするかな?」
やはり嫌な女である。「私程度の女」という表現に、歪んだプライドがチラついている。
「あんたこそなんのつもり? そういう男の子からかって、なんか面白い?」
「ええ、面白いわ。だって彼、私の掌の上でコロコロ転がってくれるんだもの。自由自在にね。真のクイーンにはそんなこと当たり前で、特に面白いなんて思ったりもしないんだろうけど……」
言葉では誰にも負けない女のようだ。
そしてその瞬間美知には、さらに別のプレッシャーがのしかかってきた。というのが、例のケルンがすぐ眼の前に迫ってきていたのだ。
水子? いや。生まれてすぐに間引かれた、まだ臍の緒を引き摺っている赤ん坊が五人、あのケルンの下に埋められている。古い種族の一員である美知には分かることなのだが、近代化以前、間引きはそれほど珍しいことではなかった。市民革命期に宣言された生存権は、実は彼らの権利について、謳っているのだという話を聞いたこともある。とはいえ、その遺体までこうしてひと柱にされ、いつまでもこの土地に縛りつけられているだなんて!
臍の緒で絡み合った赤ん坊たちが、また別のイメージを手繰り寄せた。口いっぱいに酸っぱいものが広がる。
赤黒い染みだらけの簀の子が敷かれている。若い全裸の女。仰向けに転がされ、腹がパンパンに膨れ上がっている。そして脚がガバッと開いていて──。あるいは別のイメージでは、犬のような姿勢を取らされ……。母親たちの一人ではない。犬にされた女の肩に、ポニーテールがかかっている。敢えて項を晒されているわけは? 斧? 鉈? そう。新しい血が必要ってわけね……。
美知は彼女の顔から意識を逸らせたが、もうポニーテールを視てしまっている。それに、匂いも……。
千鶴の言葉が突然割り込んできた。
「……だからさ、あの馬鹿どものことは私と愛菜とに任せておいて、女王様はさっさと上流社会に帰っちゃって、青年実業家だとか、若手議員だとか、霞が関の高級官僚だとかとでもよろしくやっちゃってちょうだいよ」
もしも彼女がいなかったら、美知はおそらく、吐いてしまっていたことだろう。
女の腹が膨れていたのは、蓖麻子油をたっぷり飲まされていたからだ。浣腸などもされていたようだ。そして消化管のなかを綺麗にされたあと、彼女は一旦、あの村人たちの腹のなかに収まることになるのだ。さらに彼らの排泄物となった彼女は、あの谷の土とともに甕のなかに溜められ、分解され、その爪や髪や歯や骨までもが粉々にされて混ぜ込まれて……。植生には面白いものがあるらしいんだけど……。要するに肥やしだ。
またしても千鶴の割り込み──。
「なんだろう? あの川の辺りの靄。真っ黒よ」